10.デタッチング・タンク

 ガラスの向こう側は、壁、床、天井、一面真っ白な実験室。

 二十畳ほどの室内の中央には、病院の大部屋のように、四つの間仕切りカーテンが天井に備え付けられたカーテンレールから垂れ下がっている。


 ただし、それぞれのカーテンで仕切られているのはベッドじゃない。

 高さ約百センチ、幅約百五十センチ、長さは二百五十センチほどあろうか。シングルベッドより一回り大きな、白い直方体。――それが四台。


 天板にはさらに、人一人が出入りできるほどのドア状の潜入口が付いていて、今は四台のうち三台のドアが上に開け放たれている。

 ドアには四角い覗き窓が付いていて、閉じられている左端の一台を見ると、さながら巨大な棺桶のよう。


 最終チェックでもしているのか、白衣を着た二人の男性職員が、周りでてきぱきと確認作業をこなしている。

 普段私たちは、簡単にタンク、タンクと呼んでいるが、正式名称は――


「デタッチング・タンクじゃ」


 佐枝子さえこさんの説明に手嶋さんも、detachingデタッチング……とオウム返しで呟いたあと、「分離、ですか?」と問い返す。


「分離、ってもしかして……あそこで幽体離脱でもするの!?」


 ガラスに顔を近づけながら、花音も隣室に目を凝らす。

 オカルト趣味なだけあって、花音も〝マインドリープ〟という単語からある程度のイメージは湧いているみたいね。


「当たらずといえど、遠からず、じゃな」


 幽体離脱という言葉に、佐枝子さんもわずかに笑みをこぼす。


「あれの発想の元になっておるのはフローティング・タンクという感覚遮断装置なんじゃが、中身はエプソムソルト塩水ではなく、AAAfluidで――」

「とりぷるえー……古井戸?」

「asukai artificial amniotic fluid――簡単に言えば、この研究所で独自開発された人工羊水のことじゃよ。被験者にはあの中で、まずは液体呼吸状態になってもらう」


 いわゆる、胎児と同じような状態になるわけだけど……肺に人工羊水AAAFが満ちていく感覚を思い出して思わず眉間に皺が寄る。

 あれ、何回やっても慣れないんだよなぁ。

 もっとも、肺に満たす時より排出する時の方がさらに苦しいんだけど。


「おしっことかはどうするの?」

「ほう、いい質問じゃ」


 花音の言葉に、またしても口元を緩める佐枝子さん。

 それって、いい質問なんだ!?


「人工羊水の中にはバンプレシン――いわゆる抗利尿ホルモンじゃな。その分泌を促す成分も含まれているので、入る前に用を足しておけば二十四時間は大丈夫じゃ」


 もっとも、万が一尿を漏らしたとしても、尿の成分の大部分はただの塩水。少量のクレアチンと尿素は含まれるが、一回の排尿で人体に影響を与えるほどのことはないらしい。


「じゃあ、大きい方・・・・は?」

「基本的に、意識を切り離された肉体は生体活動を著しく低下させるからの。排便活動もそれに準じるわけじゃが……緊急時は対応マニュアルがあるから大丈夫じゃ」


 そう、対応マニュアル。これが曲者だ。


「対応まにゅある……って、ちなみにどんなことするの?」

「というかお主、敬語は使えんのか!? ……まあ、そんな大変な話じゃない。要は、タンクから肉体を引っ張り出して、強制的に排便させるだけじゃ」

「は、はああ!? すんごい大変じゃん! 大事おおごとだよそれ!」


 さすがの花音も、そして、隣で話を聞いていた手嶋さんまで、目を見開いて佐枝子さんへ視線を向ける。


「たしかに、処理に時間が掛かると肺の人口羊水AAAFが漏れ出てしまうからの。意識が戻ったときに、一時的に呼吸困難に陥るのじゃが……」

「そこじゃなくて! 他人に強制的に排泄させられる、ってことよね!?」

「そうじゃ。でも、あそこにいるスタッフも含めて全員訓練は積んでおるからの。排泄の信号を受けてから処理が完了するまで、五分もかからんから大丈夫じゃ」

「大丈夫じゃないよ! 何人もの男の人に、無意識のうちにウ、ウ、ウ……ウンチを出されるとか! どんな変態集団よ!?」


 うん。この点に関しては花音に同意。

 だから私も、お腹の調子が悪いときには絶対にやらない、って誓ってる!


「なんじゃ、もしかして恥ずかしいのか? 誰でも、若い頃は経験あるじゃろ」

「赤ちゃんね? 赤ちゃんのときだよねそれ!?」

「そ、それで、その……」


 気を取り直すように眼鏡の位置を直しながら、手嶋さんが口を開く。


「意識の分離なんて……本当にそんなことができるんでしょうか?」

「それは問題ない」


 佐枝子さんの即答。


「瞑想状態の肉体の意識を電気信号に変え、このラボで独自開発したスーパーコンピューター〝Vanessaヴァネッサ〟とリンクさせることには、数年前から成功しておる」

「そんなことが……もう、現実に……」

「もちろん、世間には公表しとらんがな。このことを知っておるのはこの研究所内でもR棟に出入りできる人間と、JAXAや政府高官の一部くらいじゃろ」

「そんなことを私たちに話しちゃっていいの?」


 再び、花音が口を挟む。

 とにかく、数分と黙っていられないのが、花音だ。

 こんな落ち着きのないやつをオペレーションに参加させて、本当に大丈夫なの?


 ふと、すぐ後ろで話を聞いていた環さんの方を振り向くと、静かに微笑みながら花音たちの様子を眺めている。

 環さんには、私には見えていない何かが見えているんだろうけど……それにしても、こと花音に関しては不安しかない。


「大丈夫じゃろ」と、花音の質問にも、事も無げに答える佐枝子さん。

「もちろん口外を推奨はせんし、他言無用とは伝えておくが……」

「いや、言わないけどね? ゴ〇ゴに狙われても困るし」


 ゴ〇ゴ限定ですか。

 女子高生一人にゴ〇ゴが出てくるとも思えないけど……。


「まあ、あれじゃ。仮に宇宙人が現れたとして、報道したのが朝売新聞なら耳も傾けるが、西京スポーツなら誰も本気にせんじゃろ。それと同じじゃ」

「いやいや、こう見えてあたし、情報通で通ってるからね? 担任のゆいぴょんが歳を二つ誤魔化してたこと暴いたのも、あたしだし!」


 あんたは西スポだよ。間違いなく。

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