第4節

 意識が混沌の淵より抜け出る。

 ――朝か。いつもと同じ静かな……。

「あれー、置いてないのかなあ?」

 ――静かな……。

「んー、まいっか。他のでなんとかしよ」

 バタバタと駆け回る足音。

 ――静か……な。

「やー、入りすぎたあ!」

 ガタガタと騒がしいフライパンの音に、油の弾ける音。

 ――静……か……な……。

「ふえー、やっぱり辛い~」

 しょぼくれた声。何度も開け閉めされる冷蔵庫の戸の音。

 ――静かな……。

「なぁんだ、いいものがあるのに気付かなかった。失敗失敗」

 再びフライパンの音。炊きあがったことを知らせる炊飯器の電子音。

 ――朝の……。

「あ、やっとご飯炊けた」

 続いてトーストが焼けた合図の甲高いベル。

 ――はずなんだが……。

 しかし、なんで飯を炊いておいてトーストまで焼く必要があるんだ?

 常識的な事を色々考える。が、あまりの不可解さに答えが出ず、俺は瞼を上げて上半身を起こした。テーブルの前に座って何かしている乎夜梨が居る。

「おい」

「あ、クゥリィさんおはよう」

 振り返り平然と聞き慣れない名前で俺の事を呼んだ。昨晩悩みに悩んだ末、今の呼び方に決まったらしい。

 ――悩んだのはいいが、どこからそんな名前になってるんだ。

 深く詮索するのはよそう。きっとまともな答えなど返ってくるはずもない。出ても頭の痛くなるような理由に違いない。

「何をしてるんだ?」

 ベッドから起きあがり、乎夜梨へ近寄る。手には焼いた食パンで作ったサンドウィッチらしきものがのっかっていた。

「朝御飯食べるトコ」

「そうか。起きて早々、質問ばかりだが、飯を炊いておきながら何故パンを焼いた? 色々作っていたような音も聞こえたが」

 そのはずだが、テーブルには皿と紅茶、ヨーグルトの三つしかない。

「それはね――」

 尋ねた事に得意げに彼女は手に持っていたサンドウィッチを、具がこぼれない程度に見せびらかす。

「乎夜梨特製・ライスサンドウィッチを作ったからです!」

 かと思えば、そのサンドウィッチをバクバクと幸せそうに頬張り始めた。

 ――ライスバーガーの親戚か?

 主食の炭水化物に主食の炭水化物を挟んでどうするんだ。

 しかし、美味そうに食べる姿を目の前にすると、食べてみたくなるのが人というもの。自信たっぷりに言われ、どんなものかとても気になった。

「なるほど。それで、俺の分は?」

 咀嚼を止めずに、俺をジッと眺めてくる。良く噛み砕かれた物を喉へ送ると、

「ううん。ない」

 などとフルフルと首を振った。

 ――いい根性をしてる。

 他人の家の冷蔵庫を勝手に漁り、主の分の飯を用意するわけでもなく自分だけが食事を摂る。並大抵の奴に出来る事じゃない。寧ろしないだろう。

「そうか。だったら、それを少しよこせ」

「やだ。だってこれ乎夜梨の分だもん」

 独り占めと言う代わりにまたかぶりついた。

「……そんなことを言うのなら、力尽くでも貰う」

「うーっ!!」

 かぶりついたままの乎夜梨は犬の如く呻るが、気にせずに彼女の左肩から抱き込み、放そうとしないサンドウィッチをちょっと押し込んでやる。

「@≠¥☆£!!△※〒!?」

 叫びにならない叫びを上げると、放そうとしなかったサンドウィッチを噛み千切った。そして、慌てて紅茶へ手を伸ばす。その間に、俺は奪い取った物を口へ運んだ。

 ――ふむ。なかなか美味いな。

「はぁ……苦しかった。もうっ、それ乎夜梨の分なのに!」

 名残惜しそうにしているが、諦めたのかヨーグルトの蓋を開け、スプーンを突っ込んだ。

「いいじゃないか、少しぐらい。それに材料は俺の買ったものだ」

「作ったのは乎夜梨だもん」

「そうかそうか――んぐっ!?」

 適当に受け流していると、喉にサンドウィッチが詰まってしまった。眼を白黒させる俺がどういう状況に陥ったのか理解したらしく、

「あー、もしかして喉に詰まった? 意地悪するからバチが当たったんだよ」

 勝ち誇った表情で紅茶をちらつかせる乎夜梨。

「この紅茶欲しい? ちゃんと謝ってくれるんならあげるよ?」

 ――く、くそ……。

 胸を叩き、胃に押しやろうと喉を上下させるが、自力の解決は困難。蛇口或いは冷蔵庫までの距離はおよそ四メートル。辿りつけない距離ではない。

 乎夜梨は俺を覗き見ながら紅茶を啜る。

 しかし、最初の判断を誤ったせいで一刻の猶予もない。こんなくだらないことで窒息死などしたら、殺し屋として末代までの恥だ。

 一生の屈辱より一時の屈辱を取らざるなく、苦しみながら頷いた。すると、仕方なさそうに紅茶を差し出す。その紅茶を掴むと熱いのも構わず喉へ流し込んだ。紅茶に押し込まれ、漸く呼吸を遮っていた物体は胃へ向かい始める。

「くはー」

 ため息と深呼吸が混じる。

「さ、紅茶飲んだんだから、謝って」

「……悪かった」

 と、宥める風に頭を撫でた。

「何で撫でるの?」

「特別意味はない」

「もしかして乎夜梨を犬か何かと思ってない?」

「野良だしな」

「あーっ、やっぱり思ってるんだ! もう許してあげない!!」

 手をはね除けると、乎夜梨は怒って顔を背けた。

 ガキのくせに一人前にプライドを持っているらしい。しかし、機嫌を損ねたまま出かけて、いない間に余計な事を仕出かされても困る。となれば、ここは機嫌を取っておくしかない。

「そう怒るな。街で何か好きな物を買ってやる」

 すると、へそを曲げた彼女は眼をキラキラ輝かせながら振り返った。

 ――まったく、現金なガキだ。

「ほんとに?」

「ああ」

「やったぁ! じゃあ、すぐ準備するね!」

 ――今すぐ出る気なのか……。

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