ストレンジ

葵 一

第1節

 ――街は死んでいる――

 果たして、誰がそんなこと言ったのか。今の街には適切すぎる言葉だ。

 その死んだ街に俺は住み着いている。そして、俺は更に街を殺していた。

 激しく降り続ける雨。ダークグレーで包まれた空。亀裂が目立つ汚れたマンションの壁。遠ざかる足音。地面を打ち続ける落水。踏み散らされる泥水。波紋を止めない水たまり。背中から抜けていく風。絶望めいた声。道を遮る高くそびえる金網。

 よじ登ろうと必死に手をかけ足を繰り出すが、男の靴には網目は小さすぎて登るために支えようとする足は濡れたフェンスを何度も滑り落ち、乗り越えることは叶わない。狼狽えて金網を叩く男。

 一歩、また一歩と男との距離を詰める。俺の足音に気付き、奴は振り返った。

「た、頼む、助けてくれ! まだ死にたくない!!」

 跪き、両手を合わせて祈りの姿勢をとる。俺は足を止め、表情を変えぬままゆっくりと持っていた銃を突き付けた。

「か、金はいくらでも出す!! そ、そうだ、あんたいくらで雇われたんだ? 二倍、いや、三倍出す、だから見逃してくれ!!」

 ――いくら貰っても、一度見逃せば仕事にならなくなる。

 俺は無慈悲に引き金を絞り、額へ一発撃ち込んだ。銃声が木霊し、男は手を合わせたまま前へ倒れ、地面に敷かれた水を舐めた。開いた穴から黒い血が広がる。

 苦しみを与えない事がせめてもの情けだ。いや、一瞬で殺せなければプロフェッショナルは務まらないな。その時、左から人の気配を感じた。道と言えないほど狭い路地。影になっていて判りづらいが、そこには足が見えている。

「出てこい」

 銃口をそちらへ向け、そう言った。逃げるかと思われたが、素直に足は前進し、足から膝、膝から腰、腰から胸、そして顔をようやく見せた。

 路地から出てきたのは、ずぶ濡れになった少女だった。歳の頃は十四~十五だろうか。短髪とは言えないが、そう長いわけでもない髪が顔に張り付き、輪郭がはっきりと現れている。

「見たな?」

 そう問うと、

「うん」

 迷うことなく頷いた。

 ――気は進まないが、仕方ない。

「悪く思うな。お前を殺さないと、仕事に支障が出るかもしれん」

 引き金を少し強く絞る。しかし、少女は自分が殺される事に何の疑問を抱かないかのように、じっと俺を見つめる。虚ろな眼だ。澱んだ沼のような眼。冷たい雨に長く打たれていたのか、暖かみのある色が浮いていない青白い顔色。

 ――何なんだ、このガキは……?

 普通なら迷うことなく殺している。だが、普通じゃなかった。俺も、目の前にいる少女も。

 脅えていたり恐ろしさで竦んでいるわけでもない。逃げようと様子を伺っているわけでもない。まったく恐怖を感じている素振りがないのだ。それにもし、逃げる気があるのなら、俺が男を殺した瞬間に逃げているだろう。

 不思議だった。仕事を始めてから、こんな奴に出会ったことなど一度もない。俺が銃を突きつけるより先に、すでに心が死んでいたのだ。

「……判っているのか、お前は殺されるんだぞ」

「うん。人、殺すところ見ちゃったからね」

 虚勢を張っているわけでもない。声が掠れも震えもしていない。自分の現状を受け入れている。

「なら、何故お前は怖がらない?」

「怖くないから」

 ――怖くない……だと?

「死ぬの……怖くないの」

 暫し、動きを止めた。そして、俺は指に力を入れた。再び、雨音に混じって銃声が響く。

 弾は少女の頭上を通り過ぎ、路地の奥へと消えた。銃を撃った瞬間、少女は身体を竦ませるどころか、瞬きさえもしなかった。

 ――嘘じゃないのか。

 しかし、どちらでも俺はこの少女を始末しなければならない。結局、無駄弾を使ったに過ぎないのだ。再度照準を額に合わせ、今度は当てるつもりでもう一度指に力を込める。が、絞りきることが出来ない。ジッ、と銃口に少女の眼が打ち付けられる。螺旋の奥に潜む鉛を待ち望むように。

 銃身の先から滴が何度も垂れ、その姿勢でいることの長さを物語る。

「殺さないの?」

 いつまで経っても訪れない死に少女は痺れを切らしたのか、そう洩らした。何故か、その一言で俺の決心が揺らいだ。徐々に引き金を絞る指から力が抜けていく。そしてついに、指は引き金から外れた。

 ――どういうわけだ、ガキ一人殺せないとは……。

 あまりの情けなさにため息が洩れる。始末の合図である発信機を男の死体に投げ、銃を吊ってあるホルスターへ収めてそこから立ち去ろうとした。

「殺してくれないの?」

 背中を向けた俺に、悲しそうに呟かれた。振り向くと、さっきと同じ姿勢のまま首を傾げている。

「気が乗らん。運が良かったな」

 そう言い残し、俺は元来た道を歩き出す。

 あの様子ならば、殺しの事や俺の事を誰かに喋る事もないだろう。死にたがってもいる。他の奴に殺されるか、そのうち勝手に野垂れ死にするだろう。

 が、後ろに自分以外のもう一つの足音が聞こえる。軽い小さな足音だ。

 ――さっきのガキか。

 ずっとついてきている。勿論、俺が歩き出してから。

 立ち止まると、後ろの足音も止まり、また歩き出すと同じように後ろの足音も歩き出す。

 ――鬱陶しいな……。

 とは言え、どうせ殺すことは出来ないのだろう。一度目の結果がそう変わるとは思えない。

 立ち止まり、振り返った。やはり後ろには先程の少女がおり、振り返った俺の顔を見上げた。

「何故ついてくる?」

 苛立った低い声で脅すように問う。遠まわしな威嚇だ。

「ついて行きたいから」

 だが、鈍感なのかあっさりそう口が動く。遠まわしでは意味がないようだ。

「来るな。鬱陶しい」

 更に強く不機嫌な声で突き放す言い方をしたのだが、

「ついて行く。占いに、運命を左右する人に出会うって書いてあったから。きっと貴方だから」

 気にした風もなく返事をした。さっきのような虚ろさを含んだ眼とは違う、無垢な瞳で見つめられ、俺は軽く首を左右に振って嘆息する他無かった。

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