猫幸

葵 一

猫幸

 刑務官から餞別である薄っぺらい茶封筒を手渡され、おざなりな「もう戻ってくるなよ」と声を掛けられたので、深く頭を下げてから刑務所の門をくぐってシャバに出た。

 15年ぶりに自由の身となったが、誰も迎えに来ていない。

 罪を被って勤めに入る前に交わした約束ではロールスロイスで迎えに来て幹部に取り立てる話だった。もちろん、こっちとしてもハナっからそんな約束信じちゃいなかった。組と体よく縁を切るための身代わりでもあったわけだ。体のどっかを失ったりコンクリートを抱きかかえて水泳することに比べりゃ、規律に縛られた場所で数年過ごし、経歴に傷つけて生きていく方が遥かにマシってものだ。

 封筒の口を開いて息を吹き込み、いくら入ってるのか中身を確認した。

(ガキの小遣いかよ。)

 話には聞いていたがあまりに酷い額だ。帰る場所がある人間にゃ関係ないが、裸一貫の輩が心機一転図るにゃ雀の涙だ。

(せっかくシャバに出たんだ、旨いもんでも食って後から考えよう。)

 封筒をポケットに押し詰めるように捻じ込んだ。

 しかし、気にしていなかったがさっきから耳鳴りのようなものがずっとしていた。ニーニーと断続的に。耳を指でほじったりすると、それが耳鳴りではなくどこか一方向から聞こえるものだと判った。どうやら草むらかららしく、徐にススキやらヨモギやらが伸び放題の辺りを覗き込むと、パンダみたいな白と黒の柄をした片手程度のサイズの子猫が一匹よたよたとしながら必死に鳴いていやがった。

 母親を探して鳴いているようだが、周囲にそれらしい猫や仲間はいそうにない。親を探しているだろうに、俺の足音が聞こえたのか、こっちに顔を向けて鳴き声を一層強くしやがった。

「俺は親も探さんし助けんぞ。自分でなんとかしろ。それが野良の動物としてのルールだろ」

 聞く耳を持たず俺の言葉を遮るように自分勝手に猫は鳴き続ける。

(あほくさ、なんで猫に説教してんだ。)

 無視して草むらを後にした。何を食うか思案しながら歩くが、猫の鳴き声は止まず、耳に届く。あんな小さい体でよくこれだけの距離まで届く鳴き声が出せるものだと感心してしまう。思わず振り返ると、草むらからフラフラ抜け出し道路にまで体が出ていた。

「あほが、轢かれて死ぬぞ」

 来た道を戻り、猫を片手で掴んで草むらの中へ置く。手を放して再び歩こうとすると、こちらを目指して猫も動き出す。

 足で押しやりながらあっちに行けと邪険に扱うが、じゃれるのかなんなのか、靴にまとわりついて逆に離れない。頭にきて猫を掴んだ。

「いいか、今日は飯だけは食わせてやる。その後はどっかに放り捨てるから自分で親でも仲間でも探せ」

 弱々しくしくニーニーと鳴いて返事なのかなんなのか判らないが納得したようだ。

 刑務所の近くに物を買ったり食ったりできる店がなく、ブラブラと体を丸くして寝る猫を片腕に抱いて歩く。しばらくすると駐車場を広く取ったコンビニエンスストアがあり、そこで猫の食うものを見繕うことにした。入口で松葉杖の老人とすれ違う。

「おい兄さん」

 周囲には俺のほかはいない。爺さんは俺に声をかけたようだ。立ち止まって振り返る。

「その子猫は兄さんが飼ってるのか?」

「違う。草むらでさっき拾った」

「親猫がどっかにいたんじゃないのか、親猫から離していい時期の子猫じゃない」

「そんなのは知らん。いたら拾って飯を食わそうなどしない」

「だから親から離していい時期じゃないと言っとろうが。何を食わせる気だった。来い、ウチで診察しちゃる」

「爺さん、俺は――」

「ええから来い!」

 怒鳴って勝手にせかせかと歩く老人に溜息を洩らし、仕方なくついていくことにした。

 一体どこから不自由な片足であのコンビニエンスストアまでやってきたのか。数十分歩いてようやく爺さんの家とおぼしき建物に到着した。二階建ての一階が動物病院で、二階が主に住居となっているようだ。

 動物病院の入口から入ると受付の人間に先生と呼ばれたので、ここの獣医なのだろう。待合室に飼い主と数匹の診察待ちの動物がいることから、他にも獣医がいるのかもしれない。

 俺は別室に通され、そこで猫の診察が行われた。生後半月くらいであり、餌はミルクしかダメ。その上、視力がまだないようなもので哺乳瓶などから餌を与えてやらないとダメだと。どうやら靴にじゃれついてきたのは視力が弱く親と勘違いしたからなのだろう。

 爺さんいわく、稀に育てられない親猫が子猫を置き去りにすることがあるそうだ。

 じいさんの助手からミルクのやり方を強引に教えられ、俺の手の中で猫は食らいついている。

「じいさん、俺は刑務所から出たばかりで金もなけりゃ住む場所も持ってない。飼うつもりもないから引き取ってくれ」

「なんじゃい、お勤め上がりかい。そんなんで子猫なんぞよぅ拾う気になったな。仕事と住む場所は知り合いに頼んでみるから、一度拾った以上、最後まで責任持て」

「おい爺さん――」

「そこで待っとれ」

 逃げ出そうにも助手に見張られ手には無邪気な荷物を抱えてしまっている。

(なんてぇザマだ……。)


 結局、じいさんの友人がやってる工場と入居者が俺だけの築云十年の古い木造アパートを紹介され、そこで押し付けられた猫と生活基盤を持つことになった。四六時中目が離せない時期だと口やかましく説教され、工場までそのことを告げ口されているようなので毎日くそ猫と同伴出勤だ。厳つい男が毎朝猫を抱いて出勤なんざ、シュール過ぎる。

 仕事してる間は事務の女が面倒を見てるが、まあ見事に工場の連中、十数人全員が猫に骨抜きにされちまってやがる。休憩時間やら昼飯時は取り巻くように群がっていく。

 それのおかげで知らぬ間に馴染んで色々と物を貰ったりできてるんで、文句ばかり言えたものじゃないが。

 そんなある日、社長が俺を呼び出した。

「ありがとう、キミのおかげで大口の契約が取れたよ!」

 満面の笑みと力強い握手でいきなりそう言われた。

 部品だのなんだのの些細な発注に来ていた業者が三匹飼うほどの猫好きらしく、よたよた歩きまわる猫を見て気に入り、口実を作っては何度も足を運ぶ内に仲良くなり、私欲にまみれた理由で大手企業の発注を持ってきたそうだ。

 工場にとっては大手を振って歓迎することだが、もはや個人とかのレベルでこの猫を飼う捨てるの話はできそうもない。


 数か月経ち、すっかり大きくなった猫は外出を覚えた。壁に穴が空いてるから出入りはそこから勝手にさせている。いっそいなくなればいいんだが、夜出かけても朝方にはちゃんと戻ってきて一緒に出勤する。

 そんなのが続きながら工場が休みのくそ暑い夏の日、室内は完全サウナ状態で茹だっていた。エアコンどころか扇風機も旧式の風量が弱いやつしかない。いつもは寝ている猫だが、今日は玄関の辺りをうろうろしている。気にしていなかったが、扉を引っ掻いたり鳴いたりして俺に何かアピールしているようだ。

「あー出たけりゃ出ろ」

 玄関を開けてやったが、足の周りをうろうろしたり前足で引き寄せるような仕草をする。

「くそ暑いのに出ろってのかよ」

 財布だの持って仕方なく外へ出ると猫は同じ仕草を繰り返しながらどこかへ案内しているようだった。ほんの数分歩くと、小さい公園のような空地があった。家に囲まれているが葉の覆い茂った木で日陰が出来ており、風通しもよく涼しい場所だ。

「こいつぁいい。ここなら涼めそうだ」

 ゴミ箱から新聞紙を拾い上げるとゴザ代わりに伸び放題の雑草の上に敷いて横になった。熱帯夜などの疲れからか、意識はすぐ遠のいた。

 どのくらい時間が経ったかはわからない。心地よい振動から変化した激しい揺れによって急に現実へ呼び戻された。一瞬なにが起こったか寝ぼけた頭で分からなかったが、それは地震だった。

 周囲の家の中で家具でも倒れたのか大きな音がどこからか聞こえたが、揺れはすぐに収まり元の静寂が戻る。気を取り直してもう一度目を閉じた。

 次に目が覚めた時は夕方どころか薄暗くなっていた。

「こりゃいかん、寝過ぎた」

 スーパーの値引き商品が無くなってしまうと慌てて起きて空地を出る。しかし、どういうわけか周囲が妙にざわついており、赤色灯が回っているのが見えた。空き巣でも出たかと思ったものの、理由はすぐに納得した。

 無い。俺の寝床にしていたアパートがぺしゃんこに潰れ、見るも無残な残骸に成り果てていた。消防やら警察やら大家、工場の連中までアパートの周囲に集まっていやがる。

 この事を予知して猫は俺を連れ出したのかと想像したが、ただの偶然だろう。

 下敷きになっていると騒がれていた俺が現れたので皆驚いていたが、とりあえず一番安心していたのは大家なのは間違いない。その晩は工場に泊まり、次の日、大家と話をすると驚くことを言われた。

「キミが住んでくれたおかげでアパートを潰す費用が浮いたよ、ありがとう」

 元々、築年数的にも潰して駐車場にしようかと考えていたところに俺が住むことになったので保留していたそうだ。ただ、俺が帰ってくるまでは生き埋めになったものだとばかり思っていたので、後悔やら最悪も覚悟したそうだが。

 ともかく廃材の撤去費用だけでよくなったので引っ越しと新居、家財道具の弁済を行ってくれることになった。ただ、部屋に入れていたものは大半が貰い物だったわけだが。


 大家の伝手で給料に見合ったアパートを見つけ、他人の金なので遠慮なくエアコンを始め新品の家財道具を放り込んだ。一応は命の恩猫ということで無下に扱うわけにもいかず、猫が飼えるアパートにしている。ただ、ここも築年数はだいぶ経っているが、他にも住人はいるようなので大丈夫だろう。

 新居での生活を始めてすぐ、猫が帰ってくるともう一匹猫を連れ立っていた。うちの猫に用意していた餌を分けて食うようになり、気づけばいなくなっている。首輪をしているので飼い猫なのだろう。最初はなんとも思っていなかったが、よくよく考えてみればうちの猫の食う量が減って腹を空かしているかもしれない。渋々餌の量を増やすが、どうにも納得がいかない。

(飼い猫のくせによそ様の家に上がり込んでわざわざ飯を集るとは、どういう了見だ。)

 毎日ともなればいい加減に鬱陶しくなるが、命の恩猫のダチともなれば邪険に扱えない。そこで首輪の所に冗談がてらチラシの切れ端に『エサ代一回百円也』と書いて括り付けてやった。

 次の日、晩酌をしていると、いつものようにうちの猫とダチ猫が今日も飯を食いに上がってきた。しかし、よく見ればダチ猫の首に昨日までなかったスカーフが巻かれている。まさかと思い近寄ってそれを触ると硬い円状の感触がある。外して広げれば、請求した通りの百円が包まれていた。

(律儀なのか無責任なのか。)

 ともかく相手が請求を飲んでエサ代の負担も減ったのだから、これからはケチらずに餌をやるしかない。


 まだ暑さの残る初秋を迎え、今日もまたうちの猫とダチ猫は仲良く餌を食いに戻ってきた。習慣化した請求用の裏紙を探しているとチャイムが鳴った。

 訪ねてくるような人間などいない。チェーンロックを掛けたまま警戒してドアを開ける。すると見たことのない女が立っていた。

「なんの御用でしょう」

 宗教勧誘や営業にしちゃ身軽でラフな格好だ。それでも威嚇するように応対する。

「あ、あの……サバトラ柄の猫がお邪魔してないでしょうか……?」

「サバトラってのがどんな柄なのか分からんが、あの猫のことか?」

 隙間から体を避けて中を覗かせた。

「あ、そうです、あの子です。もしかして、いつも餌をやってくれている方ですか……?」

「じゃあ、あんたが飼い主かい」

 この幸薄そうな女は隣に住んでいるらしく、今日はたまたま飼っている猫が出ていくのを見送ったら、うちに入ったのでもしかしたらと思ったそうだ。うちの猫もこの女の所でたまに馳走になっていたようだが、逆に礼を言われた。引っ越してきて一年ちょっと経つものの、飼っている猫がその間ずっと元気がなく落ち込んでいたらしい。しかし俺が引っ越してきて、うちの猫が遊びに行くようになってから元気になったので嬉しかったと。

 飯を食い終えたダチ猫を女は連れて帰った。その日以来、女は俺の所へ飯をお裾分けにやってきたりダチ猫と一緒に頻繁に訪れるようになった。

 ある時、女がこう切り出してきた。

「一緒に住みませんか?」

 だが俺は断った。

「俺は世間に胸を張って生きていけるような人生を歩んじゃいない。堅気のあんたにそんな辛さを味あわせるわけにはいかん」

 女は俺の手を握ってきた。

「私も……世間からすれば後ろ指を指されてもおかしくない人間です。もし、慎ましやかな生活が嫌じゃければ……」


 あれから十数年経った。

 工場へ向かおうとすると妻が神妙な面持ちで二匹の猫の様子が変だと言ってきた。

 今でも時々世話になっている獣医のじいさんのところへ連れて行くと、

「残念ながら寿命だ」

 そう告げられた。もはや出来ることはない。家族のところで残りの時間を過ごすのが最良だそうだ。

 日に日に食べる量も減り、起き上がるどころか寝転がって息をしているだけのような状態となっていった。

 数日後の朝、俺が出勤したあとにサバトラ柄が先に逝ったそうだ。仕事から帰ってくると、妻が泣きながらもう一匹の猫を撫でている。朝よりも呼吸は弱くなっている。

「ただいま」

 そう言って妻の肩と猫を撫でた。すると、安心したように猫の息が止み、サバトラの後を追って旅立つのを感じた。

(俺が帰ってくるまで待ってたのか。)

 最後がいつだったかも覚えていないほど流さなかった涙が、自然に両目から頬へ伝い落ちた。

 二匹を丁重に弔い、猫と過ごしてきた日々を思いながら俺は長い時間手を合わせたまま動かなかった。


 次の日、仕事の帰り道にある細い路地で、一匹だけはぐれたらしい子猫が必死に声を上げて鳴いていた。

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猫幸 葵 一 @aoihajime

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