第五章 初陣

1 サントルム到着

 シエルは大アマカシ河の上をたゆたう小舟の中で考えていた。

 シエルは結局、自分はこのウルグルドの血から逃れられないのだろうと観念したのである。確かにこの血の恩恵おんけいとしてひもじい思いをせずにここまでこれた。が、それとは別に自分のあずかり知らぬところでうらみを買い、命を狙われた。

 つまりこれは帳尻合わせなのだ、とシエルは気づいたのだ。幸せと不幸せの等価交換。それでもまだ自分は幸せな方に傾いているのだろうなとシエルは考え直す。


 自分は出会うひとには恵まれているとシエルは思った。メレドス公爵一家、ラランシラー伯爵、爺と婆や、ブルクハルトとアリューシャ――あのふたりからは思わず逃げてしまったが、自分が第一皇女だとしても、彼らは態度を変えることはなかっただろうと思い直した。われが神経過敏すぎたのだ、と逃げ出した後でシエルは悔やんだのである。


 そうはいっても、たとえ今から引き返したとしても、そう遠からず見つかってしまうのではないかとシエルは思ったのだ。一介の宿の主人に自分のことを見破られたくらいだから(この点についてはシエルは見誤っていた。ブルクハルトには特別な人脈があったのだ)、もう包囲の輪はせばまっていたと考えるべきだった。

 そうして、シエルが生涯で最も気楽に過ごしたであろう、アルペルンでの二ヶ月余りの日々は終わりを告げたのである。


 イェーナのことについては――いずれ時間が経てば心がいやされるのか、忘れさせて貰えるのか――分からないが、シエルにしてみれば終わったこととして割り切るべきなのだろう。

 ……割り切れるのだろうか、本当に。シエルは半信半疑だった。


 これから先、どんな苦難を与えられれば天秤が均衡きんこうするのかシエルには分からないが、その苦難とは、勇者によってもたらされるものなのだろうか。

 ちらと耳にはさんだ噂によれば、パラスナ以東の占領地では、王国の抵抗勢力が活発に動き始めたらしいのである。

 ただ、いまだ【勇者】の情報はシエルの耳には入って来てなかったが、それがどうか表に出てくるのは時間の問題だろうと思われた。

 (爺に頼んだ情報収集は上手くいっているのだろうか?)


 レメン侯爵軍は各地――特に地方――で、敵の襲撃を受け続けているが、そもそもいち諸侯の兵力で、リフトレーア王国全土を網羅もうらするには少なすぎるのだ。兵力は少なすぎ、治めるべき領土は広すぎる。メレドス公爵のような軍才のない者には、荷が重すぎるのだ。

 レメン侯爵軍はあり地獄の罠に落ちたようなものである。


 王国各地に細かく分遣ぶんけんされたレメン侯爵軍の各部隊は、横の連絡を取るのもままならず、王国軍の解放部隊に各個撃破される運命にある。まさにゲーム『イーゼスト戦記』の序盤の展開そのままである。

 レメン侯爵軍の兵士たちは王国の民衆から憎まれているが、あまりにもレメン侯爵は好き放題にやりすぎたのだ。王国の解放部隊に地元の住民が積極的に協力していて、それがレメン侯爵軍の占領地域のすみやかな解放の原因なのだろう。


 今は冬であるから、大規模な軍事行動は双方共にひかえられている。が、暖かくなった春先には首都パラスナ近郊で両軍が激突するのは、もはや決定事項のことのように思われた。


 「そんなこと、どうでもいいんだわれには」

 と、全く興味を示さないていのシエルは、ポーズではなく本気でそう思っていた。まあシエルがで雲隠れするつもりならば、今すぐ小舟から降りてリフトレーア王国の東部を目指せば良い。

 そして紅竜海コウリュウカイに面した港町ゲイブに一旦腰をえ、そこからオーリシア国なりダウアートてつ国なりシガー帝国なりに行けばよい。シガー帝国の東にはさらなる国々があるそうだし、おだやかな船旅を東に向かって進めていけば、やがてはぐるりとこの世界を一周して、かつての帝国猟師がたどり着いたとされる国に、西から到達するかもしれないのだ。


 それをシエルがしなかったのは――怖かったからだ。自分が慣れ親しんだゲームの世界から、すっかり外れる場所に行くことに恐怖を感じたからだった。

 それで止む無くブルセボ兄の下へ行くことにしたわけである。シエル本人にしてみれば忸怩じくじたる思いであろうが、ヴェルラードが知れば、やっと収まるところに収まってくれたとほっとしただろう。


 そんなわけで現在、シエルは小舟の底に横たわって、どんよりとした空をぼおっとして眺めていた。シエルの今の心情を表したかのような色合いだが、ブルセボ第三皇子のサントルム地方には二日とかからずに着く予定である。


 ゼカ歴四九九年一月十一日。転生して百三十一日目。曇り時々雪。

 ブルセボ第三皇子の居城であるカンデラ城は、大アマカシ河の支流と黒瞳海コクトウカイはさまれた狭い崖の上に建っていた。その城の一室でこの城のでっぷりとした主はやきもきしていた。 


 「妹ちゃん、いつ来るんだろう……無事なのかなあ」

 シエルの家宰であるヴェルラードから、 「諸々の事情により、うちの姫様を預かって欲しい」という手紙が来たのはもう二ヶ月以上も前のことであった。それからずっと妹の来訪を待っているわけだが、一向に姿を現さない。

 なのでブルセボは、こちらから問い合わせの便たよりをヴェルラードに出そうと思いかけたそのときに、「第一皇女殿下様がお着きになられました」という到着の報を聞いて、浮き浮きとした足取りで異母妹シエルを出迎えに行ったのである。


 帝都で別れたときから数えると、四か月ぶりに会うシエルはかなり憔悴しょうすいした様子で、供も連れずにひとりで来た。そして着ている服は街娘のそれであり(指輪は外している)、ブルセボが目をまんまるにして突っ立っている間に「お世話になる、兄上」と一言だけ口にして、城の奥へすたすたと入って行ってしまった。


 シエルを割り当てた部屋に案内した後、ブルセボの下へ戻ってきた侍従のシェアラは、シエルのことを評して、

 「まるでいじめられて、ひとを信用しなくなった犬や猫みたいです……」

 と言った。

 シェアラはかなり昔からブルセボの御付おつきをしている二本角の魔人族女性であるが、ブルセボがこの異母妹を本気で心配しているのを知っていた。愛情表現には色々と問題があったのだが。


 「侍女はいらないって言ってましたけど」とシェアラがシエルの様子を報告する。

 「年頃の帝族の娘が侍女なしって問題じゃないの?」とブルセボが疑問をていした。

 「問題ですけど?」

 としれっと言うシェアラは、第一皇女が自分のことは自分でやる、と言うのならそれを尊重しようと思った。宮廷に出るなら大問題だが、何分なにぶんここは辺鄙へんぴな片田舎である。こんなところを訪れる物好きなんてそうはいないのだ。

 しかもそれに加えて今は戦争中である。第一皇女が部屋を出る前に、自分が一度チェックすれば、それで良いとシェアラは考えたのだった。


 それに対してブルセボは、貴族の子女は常に侍従をかしずかせ、その美しさを保ち際立たせるべきだと思っていた。しかもシエルレーネは帝族である。そんなシエルをひとりに放っておいたら、帝族の権威もへったくれも無くなる。

 加えて世話をしている自分の体面とか甲斐性とかが地に落ちるとシェアラに力説したのだが、そんなもの貴方あなた様のどちらにあるのですか、そのぽこんとふくらんだお腹の中にあるんですか、と言われて黙らされてしまった。


 そうして。

 シエルのサントルムでの生活は始まった、のだが。

 彼女は今、出された料理を半ば機械的に口に運んでいた。料理人の腕も食材も悪いものではないと思うのだが、いかんせん毒消しの工程が良くないようであった。

(生命活動を維持するだけの食事だ。そこに美味しく食べてもらうという感動はない)

 ほとんど味のしないものを食べるうちに、それに合わせるかのように、シエルも段々と無表情になっていった。

 それとともにイェーナの「姫様、早く死んで」という幻聴の聞こえる回数が増していったが、シエルは「ああ、その方が良さそうだ」と以前のように取り乱すことは無くなっていた。


 シエルはこの城に来てからは、本を手に取ることが無くなっていた。また、散歩するなど、色々なところを見て回るようなこともしなかった。ではシエルが一日の間、一体何をしているのかというと、寝台に横になってただぼーっと天井を見ているだけである。昼寝もするが体勢はそのままで、ただ単に目を開いているか、つむっているかの違いだけであった。

 この城では、窓を開けてもアルペルンのときのような、わーんという活気のある喧騒けんそうなど全く無く、ただ石壁の武骨なたたずまいに静謐せいひつさが漂うばかりであった。


 シエルはたった二ヶ月であるアルペルンでの生活をなつかしく感じていた。皇女シエルレーネ姫ではなく人族ラーニャでの生活。露店での冷やかしや買い食い。本屋の髭の店員と若い門番、そしてブルクハルトとアリューシャの暖かい料理とやりとりなど。この世界にきて初めてひとりのひとらしい生活を営んだ実感があった。が、ここにそれはない。


 シエルの様子はまるで一度自由を謳歌おうかした小鳥が、再びかごの中に戻されたときのような姿であった。朝と晩に二回の食事があり、昼になると例の貴族の慣習であるお茶会がここでも開かれた。

 ブルセボの私室で行われるそれにシエルは毎回まねかれるのであるが、ブルセボが色々とシエルに話しかけても、ぼんやりとした表情で「ああ、そうですか」「そうですね」としか答えなかった。

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