10 父と娘の密会(1)

 祝賀会から引き上げてきたシエルは、部屋に戻って衣服を着替え、タタロナとイェーナを下がらせた。一人になると、部屋の静寂さは夜のとばりが下りるほどに厚みを増し、シエルの耳にはいまだに続いている祝賀会の喧騒がわずかに届くのだった。


 胸がちくりと痛んだが、所詮しょせんは借り物の身である、一人の少女がたとえ弁を尽くしても、誰も耳を傾けまい、私は異物だろうからなとシエルは自嘲じちょうの笑みを浮かべた。

 これに関しては、英邁との評判で、かつ帝族といえども、わずか十四歳の小娘である。軍に属したこともなく、軍を率いたこともない少女の、語る言葉を誰が真面目に聞くだろうか。酒の席の余興程度にしか思われなくても当然であった。メレドス公爵とは違うのである。


 シエルはいまだにここが単にゲームの世界である、という認識をあらためることが出来ていなかった。今日の晩餐会だって魔人族以外の種族は、実は着ぐるみを着ているんじゃないのかという考えを最後まで払拭ふっしょく出来なかったのだ。

 最も人間の容姿に近い魔人族だって、角が一本か二本生えていて、自分が常にコスプレイヤー(何かのキャラクターに似せるように衣装や容姿をととのえるひと)相手に喋っている印象はぬぐえなかったのだ――勿論自分も含めて。


 これは危険な兆候ちょうこうだといえた。現実との認識が乖離かいりすればするほど、シエルの行動は周りのひとからみれば、突拍子とっぴょうしのないものになっていくのである。ここでの安定した生活を望みつつも、どこかこの世界の全てを信用できないシエルは、はたして自分は最後まで破綻はたんせずに生をまっとう出来るのだろうかと疑念にさいなまれるのだった。


 シエルは南側の窓越しに帝都スラミヤの夜景を眺めた。人口二十万。この世界の都市としては、最大規模の大きさである。現代日本を知るシエルにしてみれば、一地方都市程度に過ぎないと思うのだが、物資の流通手段が、おもに馬と人力に頼るばかりの貧弱なこの世界では、破格の人口をようする都市であった。


 とりあえず転生してから三日間が過ぎた。今日も色々とあったが、何とかしのいだということが出来るだろう。だが、今後はこの世界での自分の身がどうなるのかはまったく予測ができなかった。記憶喪失とはいっても、以前と違い過ぎる行動を知らず知らずのうちにとってしまい、別人だと露見ろけんしないだろうか。自分が今ここにこうしていられるのは帝族だからである。庶民として街の中に放り出されたら、はたして生きていけるのだろうかと、シエルは不安になるのだった。


 また、ある日突然日本に戻るかもしれない、という可能性も捨てることが出来なかった。その際に自分の記憶はどうなるのだろうか、とシエルは考えた。思い出すのか失ったままなのか、失ったままであれば身元不明の人物が一人、日本に生み出されるだけである。

 正直今の状態で日本に帰りたいかと問われれば、シエルにはわからない、と答えるしかないのである。


 外の景色を眺めるのに飽きてきたシエルが、寝台に入ろうとしたちょうどその時に、皇帝陛下がお呼びですとタタロナが告げてきた。こんな時刻に? とシエルは思ったが、タタロナに衣服を整えてもらい、皇帝の部屋まで先導させた。皇帝の私室の前で、タタロナが扉に向かってシエル皇女殿下様をお連れ致しました、と言い放つと扉が音も立てずに開いて入れ、と声を掛けられた。

 シエルだけが部屋の中に入り、中を見回すと椅子に座った皇帝と目が合った。「お前たちは席を外せ」と皇帝に言われた侍従と護衛が外に出ていく。静かに扉が閉まり、部屋の中に二人きりになったとたんに、皇帝がため息を大きくついた。


 皇帝の私室はシエルが想像していたものより全然小さかった。一面の壁には書架、もう一面には長剣、曲刀、短剣、短槍、棍棒、斧などの武器がかざってあった。「座れ」と言われたので、皇帝が使っている机とは別に置いてある円卓の椅子に「失礼します」と言ってちょこんと座った。円卓の上には黄色い飲み物の入った杯と水差し、丸い菓子が置いてあった。皇帝は深く背もたれに寄りかかって右手を額に当てていたが、顔を上げてシエルを見つめて言った。

 「おまえは誰だ」


 シエルとしてはいつかはされるであろう質問であったから、それほど驚きはないと思っていた。だが会食を一度しただけでこの質問が出るとは、よほど自分は”やらかした”のだと思った。

 シエルは皇帝ムルニッタのことを見つめていた。皇帝もシエルのことを見つめていた。シエルはゆっくりと、

 「分かりません」

 と答えた。皇帝は目をつむり「そうか」とつぶやいた。期待にこたえられなかったとシエルは感じた。


 「記憶を失っていると、侍従長から聞いた」

 やっと侍従長が仕事をしたらしい。皇帝は続ける。

 「どのくらい覚えている?」

 と皇帝は自分を指して言った。シエルは少し考えてから皇帝に向けて言った。

 「皇帝陛下」皇帝の顔が大きくゆがんだ。

 「父上」皇帝の顔は多少和らいだ。シエルはためらいつつ次の言葉を言った。

 「……お父様」皇帝の顔が微笑ほほえんだ。だがすぐに真顔になった。「お父様」が正解らしい。 

 「そこからだと、かなり重症だな。われの典医には既にせた。お前が意識を失っているときにな。今度は魔術医官に診せてみるか」

 やめてください。魔術で脳みそをかき混ぜられたら、になってしまいますとシエルは丁重にお断りした。


 「家族には話した。お前は記憶を失った。皆は言葉を失った。どうだ、面白かろう」

 皇帝は声の調子を変えておどけてみせた。シエルは目の前の男がゲームの時のような筋肉だけの野郎やろうとは違うということを実感した。また皇帝は声を戻して言った。

 「記憶を失ったとしても、お前はわれの可愛かわいい娘だよ」

 そう言って皇帝は両手を広げてこちらを見つめてくる。何かを期待したまなざしだ。シエルはあえてそれを無視し、じっと皇帝を見つめるだけにとどめた。

 しばらく時間が経っても、自分の希望に答えてくれそうもない娘にがっかりした皇帝は、渋々と両手を下ろした。シエルは尋ねた。

 「以前の私であれば、お父様の胸に飛び込んでいましたか」

 「われ」

 「はい?」 

 今度は皇帝がシエルのことをじっと見つめてきた。シエルはどういうことかといぶかしげに首をかしげていたが、ふと自分を指さして「われ?」と問うと、皇帝はうなずいた。

 (シエルレーネ姫は自分のことを”われ”と呼んでいたのか!)


 盲点だった。私、ワタクシ、僕、俺、わらわ、儂、朕、余、あっし、あちき、自分。シエルはぽそっと「われ」と言ってみた。もう一度噛みしめるように「われ」と言ってみる。

 何かがはまったような気がした。皇帝が「われ」と言う。シエルも「われ」と言う。皇帝が寂しげに笑った。シエルは心の中が何かで満たされるように感じ、かつ痛んだ。

 シエルは唐突に理解した。シエルレーネ姫はこの父親を真似て「われ」と言うようになったのだと。多分、多分だが、シエルレーネ姫が「われ」と言うたびに、目の前のこの男は目尻めじりを下げたのではあるまいか。


 「先ほどの質問の答えだが、娘は飛び込んでこなかったと思う」

 (記憶を失ってるのを良いことに、自分の願望を果たそうとしたのか)

 シエルは知らず知らずのうちに、半眼をさらに細めて皇帝を見た。皇帝は、

 「それでこそ我が娘だ……」と、身を縮こませて小さくつぶやいた。


 「ではこれはどうだ」

 といって皇帝は机の引き出しから四つの物を取り出した。シエルはそれらを見た。

 草で作った王冠(すでに枯れている)、石、人型の土くれ、紙切れ一枚。

 「これらは子供たちが、われの誕生日に贈り物としてわれにくれたものだ」

 シエルは一通りそれらを眺めてから王冠を指さした。

 「それはジャリカが作ってくれたものだ。今もこうして時々被る」

 と、皇帝はちょこんとそれを頭の上に乗せた。随分と昔に作った物なのにしっかりしているものだなとシエルは思った。さすが完璧超人。小さい頃からこうだったのか。


 次に皇帝は石を取り上げて、言った。

 「これはシャカルだ。秘蔵の宝物をわれにくれた」

 シエルが見る限りただの石ころであったが、皇帝にとっては違うのだろう。笑みを浮かべながら色々な角度でそれを眺めている。

 「その、土くれはなんです」シエルが尋ねてみた。

 「われだそうだ。ブルセボが本当は等身大で作りたかったそうだが」

 ブルセボ兄には顔も覚えていない友人の臭いがするとシエルはふと思った。


 皇帝は最後に残った紙切れをシエルに差し出してきた。

 「これがお前が、シエルレーネがわれにくれた贈り物だよ」

 シエルはその紙を受け取り、書かれている文字を読んだ。つたない字だった。


 『かたたたきけん――いっかいげんてい――ゆうこうきげん○△○△――シエルレーネ』


 なるほど、定番だが微笑ましい贈り物だとシエルは思った。が、皇帝はと見ると何やら沈痛な表情をしている。シエルが疑問に思っていると皇帝が説明してくれた。

 「券を貰ってすぐに外遊する用事が出来てしまってな。帰って来た時は期限切れだったよ」

 はははと力なく肩を落とす皇帝。シエルはまあ、そういうこともあるよねと慰めた。つもりだったのだが、皇帝にはまだ言いたいことがあったらしい。

 「われは帰ってきてシエルレーネにお願いした。懇願こんがんした! 何とかそこを負けてくれと。だが、シエルレーネの返事は非情だった。『さいはっこうは、できません』」


 シエルは前でうなだれている男に対し、なんともいたたまれない気持ちになった。何とか別な話題にしようと考えていると、「さらに」と皇帝の言葉が続く。(まだあるのか)とシエルはうんざりとした。

 「その有効期限はそもそも三日間しかなかったのだ……」

 (みじかっ。クーリングオフですらもっと長いぞ)シエルは皇帝に同情した。

 「あー以前のわた、われはひとの気持ちに無関心だった?」とシエルは聞いた。

 「そういう面はあったな」と皇帝は答えた。

 「それでもわれはシエルレーネを愛しているのだ」


 シエルは段々と故人をしのんでいるような気分になってきた。

 もし。もし、どうだろう。目の前の男に、実は自分は別人です、あなたのシエルレーネ姫はどこかに行ってしまいました、もういません、などと言ったら。

 壁にかかった斧で斬りかかってくるのではあるまいか、とシエルは思った。もしくは自刃じじんするとか。

 身震いしたシエルは、絶対に真実を知られるわけにはいかないと固く誓うのであった。


 「ところで、勇者が現れると聞いたが?」

 突然の皇帝の言葉にシエルの息が止まった。

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