勇者の対抗者

高山良康

プロローグ

プロローグ

 「ひどい夢をみた」

 ○○のみた夢は暗闇の中を落ちるというものだ。どんどん落ちる。際限がない。

 たいていは底に着く前に目が覚めるものであるが、今回は最後まで落ちたかもしれない。

 (汗をかいてしまった)

 ○○は寝台から身体を起こして深く息をする。胸の動悸どうきが収まるまでそのままでいた。部屋の中は薄暗い。どうやら今は夜のようだった。 

 ほのかな明かりがともっている。その明かりを供与きょうよしているのは燭台しょくだいに乗った蝋燭ろうそくの火だ。

(蝋燭? 停電でもしてるのか?)

 ○○はそこではっと思い出した。自分は足を滑らせて、駅の階段から落ちたのだ。

 その瞬間、階段の下に激突する寸前までは覚えていた。視界が暗転して……そして今、目覚めてここにいる。ここはどこなのか。少なくとも病院でないことは確実だった。

 蝋燭。った装飾の化粧台と小物入れ。床には幾何学模様きかがくもようの見事な絨毯じゅうたん。そして――○○が寝ていたのは、日本では映画でしか見られないような天蓋てんがい付きの寝台ベッドだった。


 (ふう)

 ○○はしばらくじっとしていた。目をつむり、もう一度寝直して朝になれば、自分の知る見慣れた光景の元へ戻れるんじゃないかという淡い期待をいだいた。現実逃避である。

 (本当にどこなんだ?)

 もう何度か頬をさすったり、つねったりしていた。痛覚はちゃんと機能していた。夢ではないらしい。視覚、触覚、痛覚、聴覚あり。ぺろっと口のまわりをなめてみる。味覚あり。

 指先を動かしてみる。手足の指先まで感覚あり。○○は自分の身体が不随ふずいになってないことでほっとした。

 (あの世じゃないよね)

 なきにしもあらずだが、可能性としては低い。○○は視界の中で知覚できる情報を並べてみた。夜。屋敷と呼ばれるような豪華な部屋に家具。家電のたぐいは見当たらず。静か。人影なし。

 (朝になればひとが来るだろう。そのひとに説明してもらおう。それから色々考えると。よし、寝る)

 思い切りの良い方ではあった。○○は羊の数え歌の代わりに、明日実行するべきことを頭の中で列挙れっきょしていった。

 (まず実家に電話しないと。心配かけているだろうな。次に会社――、学校――、あれ?)

 あれ、と○○は首を傾げた。自分は会社員――、学生? あれ。親父、お袋、先生――、社長? 

 一瞬心臓が止まったような気がした。住んでる場所。氏名。年齢。職業。家族構成。

 ○○は、がばとね起きる。顔から変な汗が出てきた。学校名。会社名。県名。町村名。あれ?


 (……思い出せない。そんな馬鹿な……)

 記憶喪失きおくそうしつ。そんな単語が彼の脳裏のうりをよぎった。

 日本。日本国。日本人。民主主義。議員内閣制。二院制。地球。アジア。太平洋。日本海。

 (あ、ああ、一般知識は覚えているのか)

 地球温暖化。二酸化炭素。漁業協定。経済援助。移民。難民。テロ。テロリスト。核開発。

 (ん、間違いない。思い出せないのは自分の個人的情報だけだ)

 健忘症けんぼうしょう? 物忘れ? 一時的なものならじきに回復するはず。○○は身体を見下ろしたが、免許証とか学生証とかの身分を証明するものは見当たらない。取り上げられたとしたら明日、交渉して返して貰わねば。それを見れば自分のことを思い出すかもしれない。


 再び○○は寝台に寝転んだ。記憶喪失か。記憶喪失なんて、それこそドラマのなかの出来事だと思っていたのに。それにしても記憶喪失とは、自分のことだけすぱっと切り抜かれたようにくなるものなのか。そういうものなのか。

 ふうと○○は深くため息をつく。ふと見ると、壁に鏡が立て掛けてあるのが見えた。

 (鏡。鏡か。そういえば自分の顔も思い出せないな)

 ○○は毛布をはねのけて、寝台を下りた。足取りが少しあやしい。ふらふらする。

 (顔を見れば思い出せるかな?)

 年齢。身長。体重。性別――男。男だよね? と○○は思った。性別すら思い出せないと?

 鏡に近づく。あと三歩、二歩、一歩。見た。

 そこには腰まで届く長い銀髪のくせっ毛を持った少女が、眠たげな青緑あおみどり色のひとみをこちらに向けていた。年のころは中学生くらい? その姿はどう見ても日本人ではなかった。

 (俺、私、アタイ、ワタクシ、は女だった⁉ で、ありんすか? かしら? しら?)

 彼、もとい彼女は、じいと鏡をにらんでいたが、自分の重大な間違いに気がついた。

 (鏡かと思ったら人物画だったでござる)

 そう判断したのには理由がある。人物画の彼女の両耳の上には、羊のようにくるっとひと巻きした角があったからだ。

 (日本人かと思っていたら、地球人ですらなかったっちゃ)

 ○○は頭をいた。すると手のひらに何か当たった。そう、目の前にある人物画の角のようなモノが――

 「は⁉」

 素で頓狂とんきょうな声が出た。恐る恐るさわる。る。確かに在る。在ってしまった。

 ふと人物画を見ると、その少女と目が合ってしまった。彼女もを触っていた。


 突然、○○の頭ににもつのにもという単語が思い浮かんだ。意味は不明。二人はにらみ合になった。剣豪同士のつばぜり合いである。力を抜いたほうが、負ける。

 ○○は視線を外したら駄目だと思った。彼女もそう思ったらしい。しばらく二人はそうしていたが、○○の方がれてきた。お互いにぴくりとも動かず、一向にらちかないのだ。

 唐突とうとつに○○は両手で自分の角をつかんだ。予備動作のない奇襲はしかし、彼女の寸毫すんごうも違わぬ追従ついじゅうによって、完璧にされた。○○は悔し気に目を見開いた。完全に出し抜いたと思ったのだ。彼女は得意気に目を見開いた――ように見えた。

 いで○○は腕を交差させて、右手で左の角を、左手で右の角をこれまた予備動作なく素早く掴んだ。だが、彼女は苦もなくついてきた。交差させた腕の隙間からあやしい目がのぞいた。

 その次は両手を開いて腕を離す。力士が張り手をする前の動作だ。○○はこの速さでは振り切れないと思ったが、やはり彼女はなんなくついてきた。○○の心の中にはじわじわと焦燥感しょうそうかんが広がり始めた。そして心の声が聞こえてくる。

 (もう、いい加減あきらめて、認めてしまえ)

 という声が聞こえてきた。こんなを、認めろというのか。

 ○○が片目を閉じたら、彼女はウィンクしてくれた。

 ○○がベロを出したら、彼女にアカンベーされた。

 おたがいにサムズアップした。

 ムンクの叫びで、にらめっこした。


 「あーーーっはっはっはははははっ」

 いきなり部屋の中に大爆笑の声がひびいた。それは唐突に背後から起こったので、○○はびっくりしてび上がってしまった。心臓をどきどきさせながら、○○が振り返ると、メイド服らしきものを着ているふたりの少女がいた。

 ひとりは、大爆笑とはくあるべしと、両手で腹をかかえて床を転げ回っている、あかい短い髪の女の子。背中に翼が生えている。もうひとりは、藍色あいいろあざやかな長髪をまとめてアップしている眼鏡めがねを掛けた女の子で、うつむいてたたずんでいる。笑いをこらえているのか、身体がこまやかに震えている。頭の上にぴんと立った耳と、ゆらゆらと動いているふさふさの尻尾しっぽが特徴的だ。どちらも高校生ほどの年頃と見受けられるが、着ている服は露出部分のない、長袖裾長ながそですそながのものである。ふたりは○○の寝台のちょうど上側にいたので、気づけなかったようだ。

 「大丈夫ですか!」

 ばあんと扉が開き、ふたりの兵士が入ってきた。その姿を見て、○○はまた目をいた。兵士は金属製の胴鎧に籠手こてかぶと、首鎧、長靴そして腰には長剣をいていた。

 「いや、よい。何でもない、戻って下さい」

 狐耳眼鏡のりんとした声に兵士は「はっ」と答えて出て行った。扉が閉まる。部屋がしん、とした。有翼紅髪は笑い過ぎて過呼吸かこきゅうおちいったらしい。床に横になったままびくん、びくんと痙攣けいれんしている。いい様だ。狐耳眼鏡がしゃべろうとした。が、○○が一歩先んじて言葉を発した。それは○○が目が覚めてから、言いたくて言いたくて仕方がなかった言葉であった。

 「ここはどこ! わたしはだれ!」

 「マジかよ……」

 有翼紅髪が寝転がったまま、真顔になってそうつぶやいた。

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