造花

@kuroiinu2001

第1話

朝、外の気温を確かめようとして窓を開けると、思いのほか冷たい風が吹き込んできたので、芙美はあわててサッシを閉めた。四月の半はいつも着る物を選ぶのに困る。厚手のコートを着ると暑すぎるし、カーディガンでは寒くて我慢できない。

芙美はさんざん迷った末に、薄手のコートと黒いセーターを選んだ。でも、それを着て食卓へ降りていくと、父さんが学校の制服を着ていくように、といった。  

 彼女は休日にまで、肘のところにてかりのある学校のブレザーを着たくはなかった。それに、ブラウスの丸い襟やリボンネクタイが嫌いだった。とても子供じみたように思えたのだ。それよりタートルネックのセーターの方がすっきりして見栄えがいいのだと父さんに言ってはみたが、父さんは芙美にきっぱりと、学校のブレザーとブラウスを着ていきなさいと言い渡したのだった。

「今日は特別な日なのだから、ちゃんとした格好をしなさい。もう五年生なのだから、わがままはやめなさい」

 この頃お父さんは、よくこういう風に命令をする。表情の消えた顔で、薄い唇を結んだまま、言い渡すのだ。私には選ぶことが許されない。こんなときに言い返しても、いっそうお父さんの機嫌を損ねるだけだと、芙美はよく思い知らされていたので、彼女は黙って従うしかなかった。

 きっとお母さんがいれば、黒いセーターを着ることに賛成してくれたに違いない。そうして、芙美はセンスが良いのね、と褒めてくれただろう。


 ここのところ、お父さんはしばらく芙美のことに構ってこなかった。食事の時に授業や友だちのことを話してもあまり熱心に聞いてくれなかったし、休日には仕事だ、大人のつきあいだといっては家を空けていた。それなのに、十日くらい前に、急に今日のお出かけのことをいいだした。

 その日は友だちとの約束があった。その子の両親と一緒に、植物園に行くことにしていたのだ。そこでは、温室で育てられた早咲きの珍しい蘭が何種類も見られるという。また、そこに向かう道の両端はツツジがきれいだということだった。


 芙美は、その日別の予定があるのだと言った。それでもお父さんは、その約束は断りなさい、とても大切な用事なのだからと言った。植物園にならいつでもいける、と。その用事というのは、お父さんの仲のいい人とテーマパークに行くということだった。芙美は、その時期にしか見られない蘭があり、だいいちテーマパークに行くことが大切な用事には思えないそれに、私はテーマパークがあまり好きじゃない、と言った。人が多くて、とても待ち時間が長いのだから。ところがお父さんは顔をしかめて、どうしても友だちとの約束を断るようにと言ったのだ。断りにくかったら、お父さんが電話してやる、とも言った。


 次の日、芙美は友だちに約束を断らなければならなかった。でも、約束の日にテーマパークに行くとは言えなかったから、お父さんとの用事ができた、とだけ伝えた。友だちは、そう、残念、と答えて、それじゃあ次の機会があったら行こうねと言ってくれた。芙美は自分が、簡単に約束を破るような子だと思われたくなかった。

 でも今回はおそらく大丈夫だと思う。芙美はいつも約束を守ったし、予定を変更することはよっぽどのことだとみんな知っていた。それは、少しは陰で何か言われるかもしれない、でもそういうことを繰り返さなければいい。こういうのは借りを作った、とでも言うのだ。いつか必ず返せば、悪い印象はそのうち消えてしまう。


 今朝は父さんが卵焼きを作った。焦げたベーコンも添えてある。それからバターを塗ったトースト。普段は買ってきたフレンチトーストにハムとチーズを挟んで食べる。

「トーストにはちみつをかける?」

何か足りないと思ったのか、父さんは芙美に訊ねた。

「いらない」

と芙美は答えた。

 父さんたまに卵焼きを作ると、甘すぎるか味がないかのどちらか。今日は甘すぎた。それに、黒く焦げたところがあった。芙美は、いつもの方がましだと思った。そうして、出来ることなら、以前の、お母さんが作る朝食に戻して欲しかった。


 さいわい、黒の丸い革靴は履かなくてすんだ。お父さんは気づかなかったのだ。毎日学校に行くときに履いているのだが、左足の親指の付け根がすれて、痛い。そのおかげで長い間歩くのがゆううつになるし、走ることも出来ない。そうして舗装されていない所を歩くと、痛みは我慢できないくらいになるのだ。だから休みの日にはいつもはいている白いスニーカーで出かけられるのは、とても気持ちがいい。この靴なら、体が軽くなって、跳びはねるように走ることができる。


 車に乗ったときに、煙草の匂いがした。ただでさえ、新しいこの車の革シートは堪え難い匂いがするのに。絶対に気分が悪くなる。芙美のしかめ面に気が付かない父さんは笑いながら、

「今朝は何を食べたっけ?」

と聞いてくる。ついさっき食べたばかりなのに。

「卵焼きとベーコン」

と芙美は答えた。

「そう、お父さんが作った卵焼きとベーコンだ」

と満足そうだ。好きな食べ物を聞かれれば、芙美はお母さんの作ったスクランブルエッグ、

とすぐに答えるのに。あれこそが、本物の朝食だ。

 今日の父さんは落ち着かない。しょっちゅう表情を変える。さっきまで支度が遅いと怒っていたと思ったら無理に笑って見せる。信号待ちでもこちらを向いて、

「どうした、緊張している?」

と微笑みながら訊ねた。

芙美は首を振って、この車の匂いが気持ち悪いのだ、と言った。すると父さんの口元は

引き締まって、我慢しなさいという。そのかわり、少し助手席の窓が開いた。芙美は、ずっと息をしなかったかのように窓のすき間に鼻を向けて、冷たい外気を胸いっぱいに吸い込んだ。やっと本物の空気が吸えたかのように。


『やっぱりテーマパークはやめにしよう、芙美がいやがるなら仕方がない。日にちも変更することにした。友だちづきあいは大切だからな』

お父さんは、せっかく芙美が友だちとの約束を変更したその次の日、こんなことを言いだした。芙美はすっかりあきれて、また腹が立った。いまさらまた約束するなんてできない。

だいいち、大切な用事だからと無理に入れた予定を、そんなに簡単に変えられるものなのかと思った。でもそのまま口にすると怒られそうだったので、

『大切なお約束なのに、変更しても大丈夫なの?』

とだけ言った。そうするとお父さんは、すっかりうろたえてしまった。まるで勉強ができない子が先生に当てられたみたいに。いつもは何もかも自分で決めてしまって、芙美にはそれを押しつけるくせに。お父さんはそのあと、どこかに長いこと電話を掛けていた。時折受話器を押さえて、芙美に行き先と都合を確かめていた。そうして、郊外の大きな公園に行く、今日のお出かけが決まったのだった。


 父さんは公園の入り口まで車で送ってくれた。

「芙美はここから一人で行くんだ。藤田さんの顔は憶えているね。もう着いていると思うよ」

芙美はしっかり頷いた。父さんは、彼女の目を半ばおおう前髪を左右にかき上げると、逃げるように車に乗り込んだ。ドアは乱暴に閉まり、車はすぐに見えなくなった。

 出かけるときには晴れていたのに、今は薄い雲が空を覆っている。そよぐ風は少し冷たかった。芙美はゲートまで歩いていったが、待っているはずの人物は見当たらなかった。日曜日の午前中で公園前には人影はまばらだったが、芙美は何度か会ったことのある、眠たげな顔の女性の姿を見つけられない。まだ着いていないのか。寒い日の待ちぼうけは気が滅入る。芙美はゲートの周りを数度回ってから、長く待っても疲れないようにゲートの台石に腰掛け、ブレザーの前ポケットに両手を入れていた。


 十数分くらい経ったころだろうか、ひとりの背の低い女性が話かけてきた。

「芙美ちゃん、でしょう」

その声はたしかに藤田さんだった。だが芙美には、彼女が数ヶ月前に紹介された女性と同じ人とはにわかに信じられなかった。まず、目がぱっちりしている。芙美が憶えているのは、ぼんやりした眼差しと厚ぼったい瞼だ。それから肩まであった黒い髪は、耳まで見える短さで明るい茶色に染まっていた。空色のスーツときらきらしたネックレスの藤田さんは、父さんの作り笑いにどこか似た、ぎこちない表情だった。

「さあ、行きましょうか。芝生の方? それとも、池がいいかな?」

 落ち着きのない目をあちらこちらに投げかけ、首を前に突き出したその様子はどこか動物めいていた。藤田さんは遅れたことを謝りもせずに芙美の背に手を添えた。そうして、二人は並んで歩き始めた。


 沈黙を嫌うように、藤田さんは早口で話し出した。ほとんどが芙美への質問だ。

好きな科目は? スポーツはするの? 芸能人では、誰が好き?

芙美は、初めのうちこそ生真面目に答えていたが、次第にいい加減になっていった。うん、別に。嫌い。そのうち生返事になる。芙美は右手で前髪をくしゃ、とかき下ろした。


 その時だ、あの嫌な音がしたのは。

金属の棒どうしをぶつけたような、高い音。身体の中をぞっとする気配が駆け抜ける。芙美は右手の親指の、爪をかんだ。こうすると、音がやむまでの間、何とか我慢できるのだ。

「どうしたの」

芙美が立ち止まっていた間、少し先に進んでいた藤田さんが振り返っている。

「何でもない」

芙美は、小走りで藤田さんに追いついた。


 遊歩道を覆っていた木立がとぎれ、見渡しのいい広場に出た。太陽の光を浴びて輝く芝生のうえでは、球技に夢中になっている男の子たちが駆け回っている。木陰ではバーベキューをしているグループがいた。

「公園もいいものね。気分がすっきりするわ」

藤田さんの言葉に、芙美は頷く。

「わたしはテーマパークの方が良いと思っていたけれど、芙美ちゃんの選択の方がよかったわ。じつはね、わたし、あなたのお父さんとテーマパークに行ったことがあるのよ。あのまじめそうな人が、付け耳をつけてはしゃいでいたの。ねえ、ちょっと想像がつかないでしょう?」

 芙美には意外だった。あのお父さんがうれしそうにしているところなんか、しばらく見ていなかったから。


芝生の広場は、あずまやを頂点になだらかな丘になっていた。あの嫌な音を聞いてから気分がすぐれなかったが、次第に暖かさを増した陽光を浴びているうちに、すっきりとして、さっきよりずっと元気になってくる。芝生の大地は見た目よりずっとでこぼこしていて、おまけに固かったけれど、お気に入りのスニーカーを履いていれば跳ねるように走ることができる。あずまやまでは一息で駆け上がれた。


気がつくと、並んで歩いていたはず藤田さんはまだ丘の中腹あたりにいた。藤田さんが遅れるのは、きっとかかとの高い靴のせいだ、と芙美は思った。藤田さんは芙美と目が合うと、汗をぬぐいながら無理に笑顔を浮かべていた。

 

 吹き渡る風は少し冷たかったが、少し走ったせいで上気した首筋には心地よかった。遅れてきた藤田さんは靴を脱ぐと、ベンチに脚をあげて指をさすっていた。

「痛むの?」

芙美が尋ねると、ええ、少しと藤田さんは応えた。

「どうしてかかとの高い靴を履くの?」

「ヒールが高いとね、足の裏がすっとのびて細く見えるのよ」

「でも、そのせいで歩くと痛いんでしょう?」

「多少はね。でも、なれれば平気よ。そういうものよ」


あずまやからは公園のほぼ全域が一望できた。芙美は上ってきた方とは反対側に、ドッグランを見つけた。


「あそこにいきましょうよ」

返事を待たずに芙美は立ち上がった。すると、藤田さんは芙美の腕をつかみ、こう言った。

「いいわ。いいけれど、今度は走るのは無しね」

芙美は藤田さんを見た。顔には険しい表情が浮かんでいた。そうして、いっそう強い力で彼女の腕をつかむ手に力を入れた。

「わかった。歩いていきましょう」

するとようやく、腕をつかんでいた藤田さんの手が離れた。


 ドッグランは外側の高い鉄の網と、内側の木の枠で仕切られていた。どうやら飼い主と犬以外は中に入れないらしい。犬たちからはずいぶん離れていたけれど、それでも芙美は大好きな犬たちが見られることに満足だった。五、六頭の犬が楽しそうに駆け回っている。小型犬は興奮してその場で飛び上がり、数頭は追いかけっこをしている。芙美は犬を次々に指さし、犬種を挙げていった。図鑑で覚えたのだ。

藤田さんが、

「芙美ちゃんは犬が好きなのねえ」

と話しかけた。芙美は頷くが、

「でもうちでは飼えないの」

と言った。

「どうして? 芙美ちゃんの家は、問題ないでしょう?」

「お父さんが駄目だって」

「なぜ?」

「わたしでは世話ができないだろうって」

「お父さんと協力したら?」

芙美は首を横に振った。お父さんが、犬に愛情を注ぐ姿は想像できなかった。たいていの日は朝早く出勤してしまうし夜も帰りは遅い。散歩に連れて行くのは自分の気が向いたときだけ、機嫌が悪ければ犬にあたりかねないことは容易に想像がついた。だから、今は見るだけで我慢しなければならない。


「ねえ、犬が飼えるように、私からお父さんに頼んであげようか?」

藤田さんは、子供の頃に近所の犬とよく遊んだし、その家が外出をするときには預かっていたから、世話をするのだって慣れているのよ、といった。芙美は犬との生活を想像する。朝と夕方の散歩。時々は、一緒のベッドで寝る。そうして、うれしいときも悲しいときも、一緒に過ごすのだ。


 さまざまな犬を目で追いかけていると、ドッグランの真ん中にいるシベリアン・ハスキーが目に入ってきた。芙美の背丈に届くだろう高さまで頭を上げて、周りの犬をにらみつけている。ハスキーは大きな円を描いてゆっくり回っていた。その円の中に他の犬が入ろうとすると、歯をむき出してうなり声を上げ、追い出している。ときおり好奇心の塊のような子犬が何も知らずに近寄っていくと、ハスキーはしっぽを水平にして近寄り、前足で子犬の背中に乗り、服従させていた。近くに飼い主はいるはずなのに、止めに入りもしていなかった。それをいいことに、ハスキーはわがもの顔でその場を支配していた。


その時だった。例の嫌な音が再び聞こえてきた。

金属の棒どうしをぶつけたような、高い音。身体の中をぞっとする気配が駆け抜ける。芙美はまた、右手の親指の爪をかんだ。きんきんと、耳の奥を強く押す、気持ちの悪い音。


 シベリアン・ハスキーはますます図に乗っている。自分より小さい犬に、おどかすように吠え、自分に近づいてきた犬に乗ろうとする。芙美の耳の中は、例の金属音と、ハスキー犬の吠える声でいっぱいになってしまう。


 気をそらさなきゃ。お医者さんや、お母さんから教わったように。芙美は、自分がすばしこい犬、たとえば、イタリアン・グレィハウンドになる想像をしてみる。

イタリアン・グレィハウンドは軽やかにドッグランを横切る。そうして、シベリアン・ハスキーが描く円の前で歩みを止め、様子をうかがったあと、そこを大胆に走り抜ける。するとハスキーは自分を大きく見せるように首を伸ばす。そうしておどすように低く吠えながら近づくのだが、グレィハウンドはあと少しで追いつかれそうになると、さっと攻撃をかわして逃げ去るのだ。ハスキーは勢いづいたその走りをなかなか止められず、ずいぶん行き過ぎてからやっと方向転換をする。グレィハウンドはその様子を、しっぽを振りながら眺め、ふたたび迫るハスキーが前足を伸ばして押さえ込もうと構える下を、ひらりとくぐり抜けていく。

しなやかに伸びる脚を左右揃えてギャロップでかわすイタリアン・グレィハウンドに、シベリアン・ハスキーはあえぎながら突撃するけれど、グレィハウンドには決して追いつけない。でも、芙美の想像はそこで終わってしまう。


私が大きければ、と芙美は思った。大人なら、ドッグランに入っていって、ハスキーをおとなしくしてから飼い主を呼ぶ。私には力がないから、そうできないんだ。


あいかわらず調子に乗っているシベリアン・ハスキーの横に、姿勢のいい女の人が近づいていった。黄色い蛍光色の帯のついたベストや、革の手袋をしているところを見ると、どうやらドッグランの管理をしている人らしい。その人は大声も出さずに乱暴者の犬の耳のそばで手をたたいた。すると、威勢のよかったハスキーはたちまちのうちにおとなしくなり、お座りをしておとなしくなった。

やがてシベリアン・ハスキーの飼い主らしい人が戻ってきた。どうやら女の人に文句を言っているようだった。が、やがてふくれっ面をして、犬を連れてどこかに行ってしまった。


「芙美ちゃん、喉、乾いていない? ジュースを飲もうか」

飲料の自動販売機の前で、藤田さんが尋ねた。

芙美は、水筒を持ってきているからいい、と答えた。そうして肩から提げたカバンの中を見たが、水筒はなかった。いつもの通学カバンに入れっぱなしだったのだ。水筒には、いつも麦茶が入れてあった。ジュースは体に悪いから、とお母さんがいつも淹れてくれたのを、今は芙美が自分で淹れて持ち歩いているのだった。

「水筒、忘れちゃった? ジュースを飲みましょうよ」

芙美は藤田さんが小銭を入れてくれた自動販売機で、ペットボトルの緑茶を選んだ。麦茶はなかった。あら、ずいぶん渋い趣味なのねえ、と炭酸水の缶を持った藤田さんが、彼女を見下ろしながら言った。


 二人はベンチに並んで座った。目の前には池があり、柳の木が風に揺られてざわついていた。そのとき、ふたたび芙美の頭の中であの嫌な金属音が響きだした。今日はいつもより多く鳴っている。彼女は再び親指の爪をかんだ。

藤田さんが、爪をかむのはあまり良いことではないのよ、と言ったが、構わなかった。そんなことは知っている、お父さんにも、お母さんにも注意されたことがあったし、一度などは、そのことでお母さんに病院に連れて行かれたことがあったのだ。


病院では長い時間をかけて、紙に書かれた質問に答えを書き込んだり、絵を描かされたりした。その後でお医者さんは、深刻な症状ではではないので様子を見ましょう、と言った。

お母さんは、病院からの帰り道で、このことはお父さんには内緒にしておきましょう、と言った。

『芙美に嫌な音が聞こえているのは、芙美の中の一番大切なところがきしんでいる音だと思うわ。あなたは我慢強いから、なんでも飲み込んでしまう。でもその時にあなたの心がねじれて、苦しんでいる。その時に、あなたの大切なところが訴えるの。心が痛いって叫んでいるよって教えてくれているんだわ』

 そのあとで、ふたりはあるお店に立ち寄った。そこでお母さんは、ガラスでできた爪みがきを買ってくれた。爪をかんでしまったら、その爪みがきであとを消しなさい、お母さんはそういった。うすい青のきれいな爪みがきを、芙美はいつも机の一番上の引き出しにしまっている。


 ペットボトルのお茶を半分ほど飲み終えてから、ふたりは池のほとりをゆっくり歩いた。静かだった。人の声もどこか遠くから、小さく聞こえてくるだけだ。

「ねえ、知っている?この池でボートに乗ったカップルは、別れるという噂があるのよ」

 藤田さんはおかしそうに笑いながら言った。池には自動車の上半分を切って浮かべたような足こぎボートがいくつか、ゆっくり移動していた。

「芙美ちゃんには、好きな人はいるの?」

芙美は少し考えてから、いない、と答えた。藤田さんは、

「私が中学生の時にはねえ、ノートの最後のページに好きな人の名前を赤い字で書いておくと、両想いになるっていう噂があったわ。でもねえ、それをすると、他の人に見られてしまうでしょう? だからね、もう一つの方法、消しゴムの、ケースに隠れるところに書いておく方法を…」

 芙美は藤田さんの話をあんまり聞いていなかった。興味のない話だったから。それより藤田さんが、足場の悪い、所々板が渡してあるような水辺の小径を、膝を曲げ、腰を落とした格好で歩いていく姿が気になっていた。まるでやっと二本の足で歩きを覚えた、奇妙な動物のようだったから。

「…写真を枕カバーに入れるの。実はね、私、あなたのお父さんの写真を入れておいたのよ。そうしたらある日、お父さんは…」

芙美の頭の中では、あの音が再び大きく響きだした。彼女は、爪をかむのを懸命にこらえていた。


 やがて道は池を離れ、公園の端にある花壇にたどりついた。低い柵の中では春の花々が競うように咲き誇っていた。その一角に、まだ半開きのバラがあり、満開になっていないにも関わらず他を圧倒するような美しさだった。

「バラにも随分いろいろな種類があるのねえ」

藤田さんは品種と特徴が書かれたプレートを読み上げながら、そのひとつひとつに顔を近

づけていった。

「バラが好きなんですね」

「ええ、花の中では、バラが一番好き」

彼女は無邪気な顔で笑った。

「あなたのお父様はね、わたしの好きな赤いバラの花束をくれたことがあるのよ」

芙美は顔をしかめた。

「わたしは花束が嫌い」

「あら、どうして」

「だってすぐに枯れてしまうもの」

「花瓶に挿しておけば、少しは保つわよ」

「こうして地面に咲いている方が良いわ。花が枯れても生きていられるから。花束は枯れたら捨てられてしまうもの」

「それは仕方がないことでしょう? まあ、枯れない花があったら、それに越したことはないけれど」

「お母さんが言っていたのよ。枯れないのは、醜い造花だけだって」

藤田さんの顔色が変わったのを見て、芙美は少し彼女と距離をとりたいと思った。そこで生け垣のごく低いすき間から、その向こう側、さきほど通ってきた芝生の丘へと向かって歩き始めた。


「芙美ちゃんは随分足が速いのね。わたし、少し疲れてしまったわ」

木陰で追いついた藤田さんはハンカチで汗をぬぐった。ハンカチの花柄の模様は、拭ったところが落ちたお化粧で白く消えた。

「喉が渇いたわ。ねえ、ジュース飲もうよ?」

芙美は、さっきのお茶がまだあるからいらないと答えた。すると藤田さんはふたたび芙美の腕をつかんで、こわばった笑顔を浮かべた。

「そろそろお昼にしない、わたし今日は早起きをしてお弁当を作ってきたの」

と言った。芙美は自分の腕をつかんでいる藤田さんの手を見た。きれいな白い色だが、指は短く節くれ立っていた。つかむ力は前と同じで強く、有無をいわせないような感じがした。そこで芙美はあきらめて、言った。

「いいわ、お昼にしましょう」


 ふたりはベンチを探した。風を避けられて、日の当たる暖かいところ。

「芙美ちゃん、朝は何を食べてきたの?」

藤田さんは

「何だったかな」

「忘れちゃった? そんなに時間は経っていないでしょう」

芙美は藤田さんの目を眺めた。かがんで目を合わせようとする藤田さんに、芙美は目を伏せて言った。

「覚えていないわ」


 芙美が昼食の場所にと選んだのは、桜の樹の下だった。辺りには散ってしまった花びらが残っていた。芙美は樹の下にあるベンチに走っていった。近づいてくる藤田さんは、急に止まった。

「そこはだめよ、芙美ちゃん。その樹のそばには、毛虫がたくさんいるわ」

「わたし、ここがいい」

芙美はその木の下にあるベンチに座った。桜の花はすっかり落ちていて、緑の葉がまだらに日差しを遮っていた。

「ねえ、地面にいる虫が見えないの? 樹の幹にもついているじゃない」

藤田さんの笑顔は消えていた。

「毛虫も怖くない。そのうち、きれいな蝶になるのよ」

ベンチの空いている側を手で叩く芙美に、藤田さんは一歩も近付かなかった。

「お願い、そこはやめて」

「どうして」

「見えるでしょう、あちこちに。ほら、あなたの足下にも毛虫がいるわ」

芙美は動こうとせず、藤田さんの顔をじっと見つめた。藤田さんはというと、枝を見上げていつ毛虫が落ちてくるかと焦っていた。

「なれれば平気よ。そういうものよ」

芙美は声を出して笑った。そうして、藤田さんの顔をまっすぐに見据えた。

「この虫たちは、きれいな蝶になるのよ。だけどその前にサナギにならなければいけないの」

「芙美ちゃん、お願い、こっちに戻って」

 藤田さんは青い顔をして後ずさりした。すると、高いヒールが外側に倒れ、彼女はその場に座り込んでしまった。芙美はベンチを動かず、自分に言い聞かせるように話を続けた。

「サナギの中ではね、毛虫の体がいったん溶けるの。どろどろになってから、やっと蝶に

なるのよ」

藤田さんはもう虫も、芙美も見ていなかった。くじいた足を引きずりながらその場を離れようとしている。

「やめて」

「どろどろにならないとね、きれいにはなれないの」

藤田さんは両手で顔を覆っている。芙美はベンチで足をぶらぶらさせていた。

そのとき、冷たい風がどっと吹きぬけた。冷気がブレザーの胸元から、ブラウスを抜けたせいで、芙美は刺すような寒さを感じた。桜の花も散ったというのに、暖かくなるにはもう少しかかる。だから、やっぱり黒いタートルネックのセーターを着てくるべきだった、と思った。



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