予想通り、タクシーは大阪空港に着いた。

 正面玄関で車を降りた奈津代は、まずその大きな荷物をコインロッカーに預け、それから航空会社のカウンターへと向かった。

 鍋島は少し遅れて、人混みに紛れながら彼女を追いかけた。遅れまいと必死だった。

 やがて彼女はカウンターを離れ、エスカレーターのそばでバッグから携帯電話を取り出した。鍋島は彼女から目を離さないように注意しながら、彼女が手続きをしていたカウンターへ行った。

「あの、ちょっと失礼」

 鍋島は低い声で言うと、まわりに気づかれないようにバッジをカウンターの中にいたグランドサービスの女性に提示した。

 係員は表情を変えることなく、たっぷりと時間を掛けてバッジを確認すると、美しい笑顔で言った。

「はい、何か」

「今、ここへ来た女性のことですけど」

「とおっしゃいますと?」

「ほら、あそこで携帯で喋ってる女の人のことです。グリーンのロングコートを着た」

 鍋島はエスカレーターに振り返りながら言った。

「ああ、はい」

「彼女がどの便に乗るか分かります?」

 係員はまた笑顔を見せると、手もとのパソコンのモニターに視線を落としてキーを打った。

「本日十九時十分発の羽田行き一三七便にお席のご予約を頂いております」

「乗り継ぎするかどうか、分かりますか」

「お待ちください」

 係員は手際よくキーを叩いた。そしてしばらくするとこれまでで最高の笑顔を見せて言った。

千歳ちとせ行きに搭乗されるご予定です」

「……ありがとう」

 係員は深々と頭を下げた。

 鍋島はここまで感情を出さずにいつも笑っていられる女の神経を疑った。

 プロ根性と言えばそれまでだが、こんな女とつき合うと、自分ならいったい何を考えているのだろうと終始疑心暗鬼に陥ってしまうだろうと考えた。

 同じ美人でも、麗子の方がもっと表情が豊かだ。

 それとも、麗子も学生たちの前ではあんな風に儀礼的に笑っているのだろうか。いや、まず絶対と言ってそれはないだろう。


 奈津代の方は電話を終えると、空港ビルを出てタクシー乗り場の列に並んだ。鍋島は彼女に気づかれないように別の出口から出て、タツの待つ車に戻った。

 それから奈津代はミナミにある、河村の店とは別のクラブにやってきた。時間がまだ早いとあって、広い店内は高校生くらいの客がほとんどだった。

 巨大なアンプを揺らしてフロアいっぱいに流れる大音響は、病み上がりの鍋島には最悪のサービスだった。

「くそ……殺す気か……」

 鍋島は頭を抱えるようにしてテーブルに突っ伏していた。よりによってこんなときにクラブとは、俺もついてない。

「──お兄さん、ひとり?」

 今しがたまでフロアで踊っていた少女が、鍋島の隣へ来て言った。

「ああ、ええから」鍋島はゆっくりと手を振った。

「何で。一緒に踊ろうさ」

 そう言うと少女は鍋島の顔を覗き込んだ。派手な化粧をして大人っぽい格好をしているが、口許にまだあどけなさが残っており、どう見ても十五、六歳のガキだった。

「おまえ、いくつや」

 鍋島は少女の顔をじっと見て言った。

「何よ。あんたサツの補導係?」

「俺がお巡りに見えるか?」と鍋島は笑った。

「ううん。どう見てもプーやわ」

「せやろ」

 ──このガキ、おまえかてどう転んでも大学生には見えへんぞ。

「ね、誰かと待ち合わせ?」

「ああ。もうすぐ連れが来るんや。悪いな」

 鍋島は早くこの少女を追い払いたかった。こうしている間にもフロアの隅のテーブルにいる奈津代が動き出すのではないかと気が気でなかったのだ。

「女と待ち合わせ?」

 少女はしつこく食い下がった。

「当たり前や」

「ほな、その女やめてあたしと、と言うのはどう?」

「さぁなぁ。女と相談してみんことにはな」

「その女とあたしと、どっちが若い?」

 そう言うと少女はぐっと身体を寄せてきた。意識して腕を組んだせいで、広く空いた胸元からは谷間がはっきりと見えた。

「なあ、お嬢さん。若けりゃええって思い込むのは子供の証拠や」

「あたし、ええモンもってるんよ」

「そのようやな」

 鍋島はちらりと少女の胸元を見ると笑った。「また今度試させてもらうわ」

「違うって。あんたなんか勘違いしてる?」少女は呆れた顔で鍋島を見た。「スケベ」

「あ、そう。ほなええモンって何や」

「……分かってるくせに」

 鍋島の表情が厳しくなった。「クスリか」

「そう」

 少女は上目使いで鍋島を見ると、このときだけ妙に大人っぽく笑った。

「今、持ってるんか?」

「うん。あんたも欲しかったらあげるけど。この店でも手に入るよ」

「ここで?」

 思いがけない話に、鍋島はすっかり夢中になっていた。

「買ってみる?」

「ああ」

「ほら、あれ見て」

 少女はカウンターに振り返った。「あそこの男が持ってるねん」

 鍋島が見ると、カウンターの隅に一人の従業員がおり、注文されたドリンクを作ろうとしていた。

 そして今まさに、さっきまでテーブル席にいた奈津代がカウンターに寄り掛かり、その男に話しかけたところだった。

「ほら、あの女もきっと買おうとしてるんやわ」

「え」

 鍋島は少女を見た。

「ええから、見ててみ」

 鍋島はもう一度カウンターを見た。ちょうど従業員がカウンターの中から出てきたところだった。

「裏口の方の人目につかへんとこで受け渡しや。それからきっと、あの女は戻ってきてトイレに行くはず──」

 少女が話している途中で、鍋島は立ち上がった。彼女の言うとおり、二人が店の奥へと歩き始めたからだ。

「ち、ちょっと……どこ行くの?」

 少女も慌てて立ち上がり、鍋島の背中の脇を掴んだ。

 すると、その手がブルゾンの上からホルスターの拳銃に触れた。

「あんた──」少女の顔色が変わった。

「近頃はお巡りのバリエーションも豊富でな」

 にやりと笑ってそう言うと鍋島は少女に詰め寄った。

 そして今度は凄みのある声で囁くように、

「けど俺の正体をばらすなよ。おまえのことは見逃してやるから」

 と言った。

「……分かった」

「分かったんやったら、クスリをそのテーブルに置いておとなしくおウチへ帰れ」

 そして鍋島は奈津代たちの後を追った。

「ねえ! 何する気?」

 大音響の中、少女は鍋島の背中に向かって叫んだ。

 鍋島はうんざりしたように振り返り、少女をじっと見た。

「……消えろって言うてるんや」


 引きずる足で急いで人混みをかき分け、店の奥へと進んだ鍋島は、さらにその先の「STAFF ONLY」と書かれたドアから奈津代と従業員が別々に出てくるのを見た。急いで引き返し、相変わらず気違いじみた音量が溢れ出てくるアンプの陰で様子を伺っていると、奈津代はこれもまた少女の言う通りに化粧室に入っていった。

 ドアの前まで来た鍋島は、静かに耳を寄せた。中でカチャカチャと音がした。

「イチかバチかや」

 そう呟いて、鍋島は勢いよくドアを開けた。

 目の前の洗面台で、奈津代は小さな注射器を持っていた。

 そばにピルケースのようなものが置いてあった。

 奈津代は驚いた様子で顔を上げると、鍋島を見て目をむいた。

 鍋島はドアに手を掛けたまま言った。

「……何でですか?」

 奈津代は悲しい眼差しを彼に返した。

「──寂しかったんです」

 鍋島は溜め息をついて首を振った。

 冗談やない。俺のおふくろかて寂しかった。けどひとことの文句も言わずに死んでいった──。

 やがて鍋島はゆっくりと奈津代の前まで行った。そして彼女の手からそっと注射器を取り上げると、粉の入ったケースと一緒に彼女のバッグの中に入れた。

「杉原は知ってたんですね」

「たぶんね」と鍋島は頷いた。「行きましょう。これ以上杉原さんの名前を傷つけることを俺たちは許さない」

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