夕方になって、鍋島は杉原奈津代の自宅に向かった。

 右足のせいで車の運転が不可能な彼にとって、単独で張り込みをするのは無謀と言えた。

 しかし、奈津代がこの事件に何らかの関与をしている可能性があることについて、彼らはまだ上司には報告していない。

 したがって二人揃って隠密行動をとることはまず無理だということになり、退院したばかりでまだ本調子ではなく、即戦力としての数には入れられていないであろう鍋島が行くことにしたのだ。

 昼食を済ませたあと、鍋島はまず、薬を横流ししていた土橋の供述の裏付けに島崎と出掛けていった芹沢を見送り、しばらくは刑事部屋で休んでいた間に溜めていた書類仕事に精を出した。

 そのあと、行きたくはないが病院がどうしてもリハビリに来いと言ってうるさいのだと課長に嘘をつき、早退届けを出して署を出たのだった。

 すべて芹沢との打ち合わせ通りだった。

 それから彼はタツを呼び出した。情報収集以外の用件で彼の協力を仰ぐのは初めてだった。

 そしてもちろん、最後にするつもりだった。


 四十分後、タツは知人に借りたと言う車でやって来た。彼も捜査協力のようなことをさせられるのはとても迷惑そうだった。しかし、その現場がいわゆる普段の自分の縄張りとは離れた郊外だと聞いてしぶしぶ承諾したのだ。

「──どこ行くん」

 鍋島が後部座席に乗り込むなり、タツは訊いてきた。

「とりあえず新御堂しんみどうを北へ走ってくれ。道案内はその都度するから」

 タツは黙って車を発進させた。


 杉原夫妻のマンションの前までやってくると、鍋島はタツに言ってマンションの出入口が見える一番遠い場所の舗道脇に車を停めさせ、張り込みの体制に入った。

 タツは居心地悪そうに運転席でもじもじしていたが、やがて腹をくくったのか、自分もシートを倒してスポーツ新聞を読み出した。

 半時間以上が過ぎた頃、杉原奈津代がマンションから出てきた。

 明らかに変装と分かる派手な格好をしていたが、二度会って話をしたことのある鍋島には判別できた。

 ショルダー・バッグの他に大きなボストンバッグを抱えていた。

「出て来た」

 鍋島が言うと、タツは読んでいた新聞をがさりと下ろしてマンションの玄関を見た。グリーンのコートに黒いブーツを履いた女の後ろ姿が遠ざかって行くところだった。

「尾けるんか」

「うん。頼むわ」

 タツはシートを起こし、これだけ離れていては聞こえないと分かっていても静かにエンジンを掛けてゆっくりとサイド・ブレーキを下ろした。

 そして、歩いている奈津代とは二十メートルほどの間隔を開けてゆるゆると車を進めた。

 国道からの脇道に出た奈津代はタクシーを拾い、国道を北へと向かった。 

 しかしまたすぐに脇に逸れ、今度は西に進路を変えた。

「空港ちゃうか」とタツが言った。

 ああ、と鍋島は答えてタクシーを見つめた。


 杉原刑事が瀕死の状態にあってなお同僚に頼み込んだひとこと。

 ──これは警官襲撃やない。事件にせんといてくれ。

 それはこういうことだったのだ。もちろん、鍋島には前を行く彼女が今から何をしようとしているのかは分からない。しかし杉原が刑事としての立場を放棄し、山口と一緒に河村のところへ乗り込もうとしたのも、すべては彼女を守るために違いない。

 それは確信があった。

 山口姉弟を救うためだけなら、杉原は絶対に刑事であり続けたはずだ。

 しかしその一方で、今日になって杉原に援助交際の疑惑も浮かび上がってきた。それを知っていたかどうかは分からないが、奈津代は一日も欠かさず杉原の病室を訪れて看病を続けている。

 この事実だ。

「──なあ自分、結婚してるんか」

 気がつくと、鍋島はタツにそう訊いていた。

「何でまたそんなこと訊くん」

 タツはルームミラーの鍋島を見た。

「そういや訊いたこと無かったなぁと思て」

「してたことはあるけど」

「別れたんか」

「うん」

 ふうん、と頷いて鍋島はまた奈津代の乗ったタクシーを見た。

 後部座席の彼女の後頭部が、気のせいか少し項垂れているように見えた。

「窮屈そうやな。夫婦でいる言うのんは」

 鍋島は溜め息混じりに呟いた。

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