刑事部屋に戻っても芹沢の苛立ちは収まらなかった。

 ガチャガチャと余分な音を立て、不快感をあからさまにしてデスクの上を片付けていると、向かいの島崎巡査部長が声を掛けてきた。

「──なあ、おい」

「俺のことですか?」芹沢はまだしかめ面のままで島崎を見た。

「そうや、おまえや」と島崎は頷いた。「気持ちは分かるけどな。もうちょっといたわってやれ」

「誰をです」

「相方をや。決まってるやろ」

「俺はナイチンゲールじゃないんでね」と芹沢は肩をすくめた。「こっちだってもう、身体がボロボロなんだ」

「それはおまえだけやない。ここにいるみんなが大なり小なり疲れてるし、精神的疲労はむしろピークに近い。けどあんな目に遭うたのはあいつだけや」

「それは分かってますけど──」

「分かってる? ほんまかな?」と島崎は厳しい眼差しで芹沢を見た。「二十歳かそこらの坊主にいきなり刃物で刺されて、腹から血がドクドク流れて気ィ失うて──死ぬかも知れん、でも死にとうないって思たときの怖さ。経験したことのない俺やおまえに分かると思うか?」

 芹沢は黙って先輩刑事を見つめていた。

「杉原さんがあんなことになって、次は鍋島や。もしもあいつが三週間の入院では済まへんようなことになってたら、おまえにとってかけがえのない人間はここには──」

「俺はここに友達を作りに来てるんじゃありません」

 と芹沢は島崎の言葉を遮った。「一社会人としての責任において、警察官の職務を遂行しに来てるんです。法律に則って、主任の言う、俺にとってかけがえのない連中とやらをひどい目に遭わせたやつを探してる。てめえの身体と時間を犠牲にしてでもね」

 今度は島崎が苦々しく芹沢を見つめた。

「その邪魔をして欲しくないってだけです。それが被害にあった当の本人だろうと誰だろうと、大目に見る気はありませんね」

「そうか」

「ええ」

 芹沢は口の端だけで小さく笑うと、ゆっくりと立ち上がってブルゾンに車のキーを突っ込んだ。諦め顔で自分を見上げている島崎を見下ろして短く溜め息をつき、それから面白くなさそうに言った。

「──あいつが戻って来たら、車で待ってるって伝えて下さい」

「……分かった」

 島崎は苦笑して頷いた。


 芹沢が出て行った直後、鍋島が戻ってきた。右足をかばいながら席に着き、上着のポケットからミントタブレットを取り出したとき、島崎に声を掛けられた。

「鍋島、もうやめとけ」

 鍋島は顔を上げて。「はい?」

「ここで休憩するのはやめとけ。足がきついのは分かるけど、もうええやろ。早よ行け」

「ええ、いや、その──」

「おまえ、仕事しに出て来たんやろ?」

「……もちろんです」

 鍋島にはこの先輩が何を言いたいのか分からなかった。普段から後輩に対しては極めて友好的な態度で接してくれている人物だったので、今のこの厳しい口調が理解できなかった。

「あの、俺何か、主任にまずいこと──」

「芹沢が車で待ってるんや」

 島崎は言って鍋島を見た。「腹刺されてヤバかったのはおまえや。足かてそうやってまだ完全やない。けど、あいつの気持ちも分かってやれ。 ここ三週間相当無理してきたんや。あいつは仕事と言い張ってるが、おまえや杉原さんのために決まってる」

「……ええ」

「なのにそのおまえが、まだ完治してないとは言え出て来てのんびり振る舞ってる──つもりはおまえにはないのかも知れんが、あいつにはそう映るんやろ。それが悔しいんや。自分がしんどい思いをしたからやない。おまえに早ようもとの自分を取り戻してもらいたいんや」

「あいつがそう言うてたんですか」

 島崎は首を振った。「言うわけない。けど態度見てたら分かる。そこがまだあいつのガキっぽいとこやが」

「分かりました」と鍋島は頭を下げた。「心配掛けてすいませんでした」

「俺に謝る暇があったら、さっさと行け。また下まで降りるのに時間が掛かるんやろ? 俺は手を貸さへんからな」

「分かってますよ」

 鍋島は笑って言うとぎこちなく立ち上がり、上着を羽織ると杖を使って廊下へと向かった。

 島崎もにやにやしながら頬杖を突いてその様子を見送った。

 そこへ高野警部補が戻ってきた。それまでの様子をどこからか見ていたのか、席に着くなり島崎に言った。

「若いもんには世話焼かされるなぁ」

「ええ。ここ三週間はの一人だけで済んでたんやけど、今日からまたと二人ですよ」

 島崎は言って、嬉しそうに笑った。





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