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今日の先客こそ、原田の妻だった。
原田郁子は食堂の昼間の営業が始まる二時間前にやってきた。カバン一杯に用意してきた着替えと汚れた洗濯物を交換し、ベッドの周りを片づけたあと、すっかり容態の落ち着いた紫乃の顔色を覗こうとしていたところへ刑事たちの訪問を受けた。
郁子は一瞬戸惑ったようだが、彼らとはすでに面識があったのですぐに要領をのみ込み、紫乃に一声だけ掛けて帰っていった。無論、彼女自身もそうのんびりしていられる立場になかったというのもある。何しろ、ただの家庭の主婦とは違うのだ。
「──具合はどうですか、山口さん」
ベッドのそばに並べた椅子の、紫乃に近い方に座っている鍋島が言った。
外した補助杖を背もたれのパイプに預け、右足をちょうど紫乃の視界に入るように伸ばしていた。あんたの弟にやられたんだと、無言の抗議をしているつもりらしい。
さっき、彼がわざとらしいほどぎこちなく腰を下ろした様子を見た芹沢は、こいつ、ようやくエンジンを掛けやがったんだなと心の中で苦笑した。きっと島崎に何か言われたのだろう。あの主任のお節介もこうして役に立つなら歓迎だ。
「……おかげさまで」
消え入りそうな細い声で紫乃は言って、薄目に開けた右目の眼差しを鍋島に向けた。頭部に何重にも巻かれた包帯の下から伸びる茶色のウェーヴヘアーは緩めのお下げ髪に結ってあり、先を透き通ったリンゴの付いたヘアゴムで括られていた。世話をする看護師がせめてものおしゃれにと結んでくれたものだろう。掛け布団と顎の間から少しだけ見える首もギプスらしきもので固定されている。額から左目にかけての顔面も包帯ですっぽりと覆われていて、その周囲の白い肌にはまだ青痣が残っている。布団の脇から伸びた、点滴の管のつながった右腕も、ほとんどが包帯に隠れていた。DVの被害に遭った女性は何人か見たことがあったが、加えられた暴力が破壊的にひどかったことをここまで容易に想像させる被害者は初めてだと鍋島は思った。
「早速ですけど、あの、お話しづらいのを承知でお訊きするんですが、あなたをこんな目に遭わせたのは誰です?」
「それは──警察の方でもう、お調べになってるんと違うんですか」
紫乃はゆっくりと答えた。
「山口さんの口からおっしゃっていただけると有り難いんですが」
紫乃は小さく頷くと、三週間前の十一月四日未明、数日ぶりに寮に戻ったところへ後を尾けてきたと思われる
「岸田と言うのは──岸田
「間違いありません」
「面識があるんですか」
「ええ」
「河村忠広との関連で?」
「……はい」
鍋島は自分の質問の仕方が誘導尋問と受け取られないように気を遣いながらも、紫乃にできるだけ長く話させないように心掛けた。
自分を含めて何人もの人間の命が危険にさらされた事件だし、その鍵を握っているはずの紫乃に対してもはや何の遠慮もしないつもりで彼女のそばに座ったものの、話の口火を切った途端にその決心は揺らぎ始めていた。そのくらい、間近に見る彼女の姿は痛々しかったのである。
「河村とはどういう関係なんですか?」
紫乃は探るような眼差しで鍋島を見た。「それは──その、私個人と、という意味で訊かれてるんでしょうか」
「そうです。あなたが弟さんを通じて河村と知り合ったのは分かっていますが、今はとりあえずご自身のことからお訊きします」
「……私が河村に薬を流す代わりに、河村からその──覚醒剤を──受け取っていました」
「流していた薬というのは?」
「睡眠薬とか、向精神薬です」
「入手先は?」
「私の勤めてた病院に出入りする、製薬会社の人からです」
「それは一人ですか? それとも複数の人物から?」
「一人でした」
「その人物の勤務先と名前を教えて下さい」
「……あの、刑事さん」
「はい」
「その人も河村から脅されてたんです」
「そうですか」と鍋島は頷いた。「それで、どこの会社の何という人です?」
「……阪神薬品の、
手帳を広げて紫乃の証言を書き留めていた芹沢が立ち上がって病室を出ていった。署に連絡して、土橋という新たなる捜査対象者の存在を知らせるためだ。紫乃が襲われてから三週間も経った今のこの時期となれば、そうのんびりもしていられない。
鍋島は話を続けた。
「代わりに手に入れた覚醒剤は、あなたが自分で使用する目的のものですね」
「はい」
紫乃はもう観念したかのように、しっかりと頷いた。
「最初にその取引話を持ちかけてきたのは河村ですか」
「はい、いえ……はい」
「それはいつ頃?」
「九月の初め頃です」
「具体的に、どう言う条件の話だったのか話していただけますか」
「もともと土橋がその手の薬を横流しをしてるという噂が、病院の同僚の間で囁かれたことがあったんですが、それを私が、その、河村に話したんです。そしたらあの男はすぐに土橋と接触を図ったようです」
話を持ちかけたのは河村かどうかという質問に口ごもった理由がこれで分かった。
「河村は土橋を脅迫したんですね」
「そうみたいです。病院で私に声を掛けてきたとき、土橋はひどく焦っていました。あんたが喋ったんやろとすごい剣幕で責められて……シラを切るのに苦労しました」
「それで、あなたが河村と土橋の仲介をすることになった」
「はい。運び屋のようなことをさせられました」
「その月の終わりにはあなたは宗右衛門町の『ドルジェル』で働き始めていますね。河村の愛人である川辺明美のいる店です。それも河村の指示ですか」
「ええ」
「何のために?」
「私にとっての理由は、その──お金が必要だったからです。はじめは土橋から受け取った薬をそのまま河村に渡してるだけで良かったんですけど、そのうち河村から覚醒剤を手に入れるために、より多くの薬が必要になって──ところが土橋は限度があると言って渋りました。せやから報酬を上乗せする必要があったんです」
「ときどき、閉店前に店にやってきてあなたと一緒に帰っていった男というのが土橋ですか」
「……はい」
鍋島は溜め息をついた。土橋は金だけでなく、紫乃の体も報酬の中に含めていたようだ。
「河村にとっても、私があの店で働くことは好ましかったようです。自分の手で覚醒剤を覚えさせた私を監視する上で」
「あなたが岸田にあんな目に遭ったのは、その取引に関して何かトラブルでも生じたからですか」
「いえ──あ、ええ、はい。そうだったと思います」
「山口さん」
と、鍋島は穏やかに紫乃に笑いかけた。紫乃は鍋島を見た。
「嘘は駄目です。正直に話して下さい」
「……すみません」
そう言って頷くと紫乃は鍋島の右足に視線を移した。
「あの……弟は、その── 」
「傷害容疑で指名手配されています」
紫乃は絶望的なため息を漏らし、そして弱々しく言った。
「岸田は泰典が自分たちを襲った、その報復だと言っていました」
「これまでのあなた方姉弟と河村の関係についてですが、できるだけ詳しく話していただけますか」
「──今年の春、弟の勤める食堂に河村と岸田が訪ねてきました。河村は昔の仲間を集めて、暴力団に対抗するための武装組織を作ろうとしてたんです。時期こそ違いましたが、弟は昔、河村と同じ暴走族グループに入ってたことがありました。その当時は河村はすでに幹部を辞めてましたが、弟と面識はあったようですし、それで少年院を出た弟を探し出して仲間に引き入れようとしたんです」
「去年、弟さんが少年院を出てすぐの頃にも河村の仲間が彼に近づいたことがあったそうですが」
「ええ。そのときのことは私は詳しく知らないんですが、弟がすぐにあの……杉原刑事に相談したようで──うまく話をつけて追い払って下さったようです」
「なのになぜ、一年以上も経った今こんなことになったんですか」
「河村が泰典のことを諦めてなかった、ということやと思います」
紫乃は暗い声で呟いた。唇から離れた途端、深い闇の淵に落ちていく。そんな感じの声だった。そろそろ限界だなと鍋島は感じ始めていた。
「そのためにあなたを陥れて、彼に仲間に入ることを承知させようとしたんですね」
「そうです。最初は、言うことを聞いたら弟を見逃してやると言うてたのに──だから土橋のことも教えたんです。でも、私にその、覚醒剤を覚えさせて──いつの間にか立場は逆になっていました」
「最後にもう一つお訊きします。昨日、杉原奈津代さんがここへ訪ねて来られたようですが、彼女とはどんな話をなさったんです?」
はっ、という表情で紫乃は鍋島を見た。直後に頬が微かに震え、彼女は何か言おうとしたが、しかしすぐにその瞳は堅く閉ざされ、同時にまだ血色の良くない唇も真一文字に結ばれた。話したくない、喋るもんかと強く決心したようだ。
「山口さん?」
「……ただお見舞いにきて下さっただけです。杉原刑事があんなことになったことも、私たち姉弟のことと無関係やとは思われてないみたいでしたし」
「どう無関係ではないとおっしゃってました?」
「あの、すいません、少し疲れたんで、もうお帰り下さい」
「お話しいただけませんか」
「話すことは──何もありません」
「この春にまた河村たちが近づいてきたときも、泰典くんは去年と同じ様に杉原刑事に相談したんじゃないんですか? 河村は二度までも邪魔をしてくる杉原刑事を疎ましく思ったはずです。しかもその頃、河村は杉原夫妻とあの食堂で顔を合わせたことがあるようです。それで河村はあなたと同じようなことを杉原刑事の奥さんにもやろうとした、そうじゃありませんか?」
「何も知りません。何も」
紫乃の唇が震えていた。
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