独特の匂いが染みついたエレべーターの壁に背をもたせかけ、表示板の数字が小さい順に点灯していく様子を眺めながら、芹沢は自分がここ数週間の間に病院ばかりを訪ねていることの憂鬱さを考えていた。

 息子に刺された生島則夫と妻の美代子が手当を受けた西天満署管内の総合病院に始まって、杉原刑事の収容された同じく管内の救急病院、京橋きょうばしの楠田病院、鍋島が担ぎ込まれたのは天王寺てんのうじにある警察病院だった。

 そしてここ、山口紫乃の入院している城東区の病院で実に五箇所。強行班に身を置く刑事である以上、病院とは何かと縁のあるものと自覚していたが、ここまで短期間の間にこんなにも多くの病院を──しかも楠田病院以外ではすべて患者の立場の人間に用があって──訪ねたのは初めてだった。

 別に構やしないさ、と芹沢は結局は自分にそう言い聞かせた。

 怪我をした連中には気の毒だが、俺にはどれほどの意味もない。痛いだろうし、辛いだろうし、悔しいだろう。だけどこっちは仕事をするまでだ。だってほら、あんたらはそうやって生きているんだから。生きて、どんな形だろうと生きて、つまりは医者の診療行為を受けるチャンスを与えられてるんだ。同じ建物のどっか隅っこにある、霊安室ってとこに入れられてるよりましだろ。あそこにはもう、決して医者は来てくれないんだぜ──。

 山口紫乃の病室の前に立ったとき、中から女の話し声が聞こえてきた。『元今飯店』の原田の妻が来てるのだろうと思った。

 紫乃が担ぎ込まれて以来、身よりのない彼女の看病をするために食堂の営業時間の空きを利用して毎日のように訪ねてきているらしい。

 芹沢は廊下で待つことにした。紫乃が襲われて約三週間、今日の午後になってようやく許可が下りた事情聴取の機会だったから、すぐにでも部屋に入って先客に引き取ってもらっても良かったのだが、湿っぽい空気に巻き込まれたくなかった。ドアのすぐ横にある長椅子に座って腕を組み、壁に背をつけると目を閉じた。

 そのまま眠れそうなくらい疲れは溜まっていた。だとしても、おとなしくここで座り込んでしまって立ち上がれないでいるなんて、ついさっき考えていたことは早くもどこへ追いやってしまったというのか。

 つまり俺は──ヤキがまわっちまったってことか?

 そんな愚にもつかないことを考えながらも、刑事としての聴覚は確かに働いていたのだろう。病室から漏れてくるその話し声を彼は聞き逃さなかった。途切れ途切れの言葉は暗く沈み、そして悲しく震えている。激しい懺悔、未来なき明日への絶望、そして紛れもない恐怖。他には何もないまったくの静寂の中で、ただひたすらにそれらが語られていく。芹沢はゆっくりと薄目を開け、組んだままの腕で時間を刻む時計を見つめた。午後六時半だった。

 なるほど、食堂は今がかき入れ時だ。ここに来られるはずもない。

 やがてその話し声は嗚咽の中に埋もれ、涙とともに彼女たちの中に消えていった。壁一枚隔てたこちら側で、やり場のないエネルギーを抱え込んだまま岩の中に閉じこめられた孫悟空のように、その意志に反してただじっと押し黙っている一人の刑事がいることも知らずに。

 芹沢は立ち上がった。そして廊下をエレベーターへと戻りながら、鍋島の野郎、腹の傷と引き替えにずいぶん厄介なことを俺一人に押しつけてくれるもんだぜと心の中で相棒に毒づいていた。



 その夜遅く、鍋島がベッドの上で眠れずにぼんやりしていると、すぐそばに置いた電話が鳴った。

「はい、鍋島です」

《──勝也、あたしよ》

 麗子だった。

「……ああ」

《今さっき、真澄を京都まで送って戻ってきたの》

「ゆっくりやったんやな。道、混んでたんか」

《違う。おばさまたちに引き留められたから》

「そうか」

《あんた、どうしてあの子の気持ちに答えてあげないの?》

 麗子は怒っているようだった。

「どうしてって……俺もよう分からへんのや」鍋島は咄嗟に答えた。「おまえ、あいつから聞いたんか?」

《聞いたわよ》

「そうか、ほな、聞いての通りや」

 鍋島は少し投げやりに答えた。そんな彼をなだめるように、麗子は静かに言った。

《──ねえ、勝也》

「なんや」

《あたしが今まで、あんたの女関係でここまで口を出したことがあった?》

「いいや」

《でしょ。こんなこと、人にとやかく言われてどうなるものでもないからね。でも、今度だけは違うわよ。あたし、しっかり言わせてもらうからね》

「ああ、そう」

《……分かるでしょ。彼女はあたしの従妹なのよ》

「ああ」

《ねえ。真面目に考えてくれてる?》

「大真面目やて。俺かて、真澄は大事な友達やと思てるし、ええ加減なことはしとうないんや」

《友達ねえ……》と麗子は溜め息をついた。

「しゃあないやろ。実際友達なんやから」

《あんた、彼女から何も聞いてないの?》

「何を」

《──やっぱり》

 麗子は考え込んでいるようだった。

「なんや、何かあるんか」

《……彼女ね、親に見合いしろってせっつかれてるのよ》

「見合い── 」

《知らなかったのね。真澄はね、あんたにそれを言って追い詰めるようなことしたくなかったのよ》

「そうか」

《勝也。と今は違うのよ》

「……分かってる」

《今度はもう、学生じゃないんだからね。いつ結婚したっておかしくない、もうすぐ二十九歳の立派な大人なのよ》

「そうやな」

《あんたの答えがイエスかノーか、あたしもそこまでは指図するつもりはないわ。ただ、誠実な返事をして欲しいだけ》

「俺もそのつもりや。せやから、時間がかかっても待っててもらいたいと思てたんや」

 鍋島は言ったあと、溜め息をついて声の調子を落とした。

「けど見合い話があるんやったら、待ってられへんな」

《あんたにとっては、ちょっとハンディが大きいとは思うけど──せめて、七年前みたいなことをするのだけはやめて欲しいの》

「ああ、それは分かってる」

《悪いわね、病みあがりなのに余計なこと言って》

「俺の性格知ってるから、腹立つんやろ」

《ほんと。優柔不断にもほとほと困ったもんだわ》

 麗子は笑いながら言い、やがて電話を切っていった。

 受話器を戻した鍋島は、そのまま電話をベッドのそばのテーブルに置き、代わりにやっぱり飲んでしまったビールの缶を取って口に運んだ。

 麗子にああ言ったものの、鍋島は本当のところは真澄をどう思っているのかまだ分からなかった。ただ、自分が彼女のようなお嬢様育ちの女性を受け止めるだけの甲斐性があるとは、どうしても思えなかった。

 ふうっと長い息を吐き、ゆっくりと身体を倒した。足の傷が微かに痛んだ。

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