鍋島の住むアパートは、外観の愛想のなさとは逆に1LDKの部屋は六畳の和室と十二畳ほどのリビング・ダイニング、それに三畳ばかりのキッチンのついた、単身者には充分すぎるほどの広さがあった。それでも家賃は駅から徒歩十分という立地条件の良いこのあたりの賃貸住宅の中では比較的良心的な金額で、すぐ近所に住む資産家の大家が所有する土地をただ遊ばせておくのも利口ではないという理由でアパートを建てたらしいからそれも納得できた。

 ただ、仲介の不動産屋が言うには今どきめずらしく大家の希望する入居条件があれこれ細かくあるらしく、堅い職業に就いていることがその第一のチェックポイントであるらしい。そう言えば、鍋島以外の入居者も教師や銀行のOL、大企業の研究員と、古い頭の人間なら喜びそうな仕事を持つ連中ばかりだった。


 フローリングのリビングは中央の三畳分ほどが一段低くなっていて、鍋島はそこに天然木のロー・テーブルを置いて掘り炬燵のように使っていた。今はテーブルの中央に大きめの土鍋が置かれ、周囲に鍋物用の食材が用意されていた。ビールやウィスキーのボトルは肩身が狭そうに隅に寄せられている。鍋島の退院を祝おうと麗子が言い出したのだが、彼の足の具合を考えるとどこかの店では何かと不便だろうと、結局はこの部屋でやることになったのだ。

 真澄と萩原もそれに賛同した。しかしこういうときはいつも料理番を担当している鍋島がいないので麗子も真澄もずいぶん手こずったようだ。それでも純子の助けがあって、なんとか鍋島の注文通りの(彼も自分以外の連中の料理のレベルを熟知していて、あえて手の込んだものは要求しなかった)鍋料理を用意することができたのだった。

「──相方にも寄ってけって言うたらよかったのに。ここまで送ってくれたんやろ?」

 持参したワインのボトルを開けながら、萩原は向かいに座っている鍋島に言った。

「あいつはええねん。こういうの嫌がる」と鍋島は首を振った。「だいいち、仕事でそれどころやあらへん」

「かえって迷惑掛けるか」

「ああ。俺がいてなかったから、相当無理してるみたいやし」

「だったら余計に、ちょっとここで息抜きしてけばよかったのに」

 隣の麗子が言った。

「……そう言うタイプやないんや」

 麗子はふうん、と言うと鍋島の格好をまじまじと眺めた。

「それであんた、その大袈裟な杖はいつ手放せるの?」

「大袈裟って、おまえなぁ、痛いんやぞ、これでも」

「見たところ、腹の方は完治してるみたいやけど」

「まだちょっと引きつるけどな」

 鍋島は左脇腹のあたりに手を当てて顔をしかめた。

「仕事は?」

「明日から行く」

「刺したやつは捕まえたのか?」

「まだや。ナイフ持ってそこらウロウロしてるんと違うか」

「気味の悪いこと言わないでよ。ヤクザか何か?」と麗子が訊いた。

「いいや。未成年ではないけど、まだ子供や」

 萩原は溜め息をついた。「……どうかしてるな」

「とにかく、しばらくはおとなしくしてなくちゃ。ねえ?」

「……まあな」

 鍋島は面白くなさそうに言い、ビールをグラスに注いだ。

「あっ、ちょっと、何してんのよ」と麗子はそのグラスを取り上げた。

「駄目じゃないの。お酒なんか飲んじゃ」

「ええやないか、ちょっとぐらい」

「駄目よ」

 麗子は言ってグラスを脇に置くと、自分の飲んでいた烏龍茶のグラスを鍋島の前に置いた。

「ほら、あんたはこれよ」

「鍋島。麗子の言うこときいとけ」と萩原は笑った。

「おまえらみんな、俺の怪我を面白がってるやろ」

「そんなことないって。おまえから一時はヤバかったって聞いて、マジで心配したんやぞ。なぁ真澄ちゃん?」

「えっ、う、うん──」

 真澄は鍋島をちらりと見て、すぐに俯いた。

「どうしたん、今日はずいぶんおとなしいのと違うか?」

 萩原は真澄の顔を覗き込んだ。

「そんなことないけど……」

 真澄は部屋に鍋島が帰ってきて以来、ずっとこの調子だった。鍋島の退院を一番心待ちにしていたのは彼女で、今日も朝から上機嫌だったのに、彼が戻ってきた途端になぜか急に静かになってしまったのだ。自分でもまさかこんな風になるとは思っていなかった。

 だが、どうしても彼の顔をまともに見ることができないでいた。

 さらに、たった今鍋島が麗子に差し出された飲み差しの烏龍茶を渋々ながらも平気で口にしているのを見て、真澄の心はひどく沈んでいった。そんなことくらいでいちいち落ち込む自分が情けなかったが、彼女にはどうしても、その行為が相手を異性として意識していないがゆえに取られたものだと受け取ることができなかった。

 さらには、行為そのものよりも、今やそれが自然となっている鍋島と麗子の関係の方がショックだったのだ。

 彼女のそんな様子を感じたらしく、麗子はさりげなく鍋島からグラスを取り上げると、真澄をかばうように言った。

「慣れない大仕事してちょっと疲れちゃったのよね。ほら、真澄はこの料理を用意するのに一番頑張ってくれたから」

「おまえが何の役にも立たへんからやな」

 萩原が大真面目に言った。

「……そんなツッコミは要らないわよ」

 鍋島は黙って新しいグラスに烏龍茶を注いでいた。実は彼の方も、さっきから真澄と一言も話してはいなかった。

 見舞いに来てもらって以来逢うのは今日が初めてで、顔を見た瞬間からなぜか無意識に彼女を避けてしまっていたのだ。あのときは彼女の頬に触れただけで、それ以上は何もなかった。しかし彼には真澄の気持ちがはっきりと伝わったし、真澄も鍋島が自分の気持ちを知ったのだと分かっていたようだ。

 つまり、そのときから二人は、お互いの存在を確実に意識し始めていることに気づいたのだった。


 やがて宴会は退院したばかりの鍋島を気遣って、早い時間にお開きとなった。

 萩原は電車で帰っていった。体調を崩して以来飲酒を控えている麗子は完全に素面で、自分の車で真澄を京都まで送っていくことにした。

「ここで待ってて。車を回してくるから」

 アパートの玄関前で、麗子は赤い顔の真澄に言った。

「うん、待ってる」真澄は嬉しそうに笑った。

「あんた、大丈夫なの? 何だか危なっかしいわよ」

 訝しげに自分を見つめる麗子に対し、真澄は急に真顔で答えた。

「大丈夫よ。ほんまはあたし、ほとんど酔ってないの」

「え、じゃ、どうして──」

「なんかあたし、勝ちゃんと話しづらくて」

「よく分かんないけど、とにかく話は車の中で聞くわ」

 麗子は首を傾げながら言い、車へと向かった。

 その後ろ姿を見送って、真澄はやがて溜め息をついた。

 結局、今日はほとんど鍋島と話すことはなかった。それどころか、まともに目を合わせることさえできなかった。頬に触れられたくらいでこんなになるとは、彼女は自分の純情ぶりに呆れていた。中学生でもあるまいし。いや、最近は中学生の方がずっと進んでるわ──。

「真澄」

 真澄はびっくりして肩をすくめた。鍋島に後ろから声をかけられたのだ。そして自分の鼓動が聞かれてしまうのではないかと心配しながら、ゆっくりと振り返った。

 鍋島はちょうど階段を下りてきたところで、少しバランスが悪そうに立っていた。

「うん、なに?」

 真澄は引きつった笑顔を見せた。

「や、あの──今日はありがとうな」

「ううん。変な料理しか作れへんかってごめんね」

「いや、美味かったよ」

 そのまましばらく、二人は黙ったままだった。鍋島は右手に持った補助杖で地面を突っついていた。

「勝ちゃん、もう部屋に入って。日も暮れて寒くなってきたし、傷が痛むとあかんから」

「いや、大丈夫や」

「そんなことないって。ほんとに」

「あの、俺──」

「勝ちゃん、言わなくてええよ」

「え?」

「ええの、あたし、無理に答えてもらおうなんて思てないから」

「でも……」

「あたしの気持ちははっきりしてるわ。それを勝ちゃんが分かってくれてたら、それでええの」

「ごめん」と鍋島はまた俯いた。「自分でも、あんまりええ加減な態度でいたらあかんと思てるんやけど、正直なとこ、まだよう分からへんのや」

 真澄は黙って鍋島を見つめた。今にも泣き出しそうになっている自分がよく分かった。

「ええ加減なヤツやて思てるやろ。けどもうちょっと待ってくれたら、ちゃんと答えが──」

「無理にそんなことしてくれなくてもええよ」

「けど──」

「ただ、一つ教えて」

「え?」

「勝ちゃんは──」真澄は鍋島から顔を背けた。「あたしとは、今の関係が一番ええと思てるんと違う?」

「それは……」

 鍋島は口ごもった。真澄のこういう言い方が意外だった。

「そうなんやね?」

「そんなこと、考えたこともなかったし──」

「そう。ほなええの」

 真澄はやっとにっこり微笑んだ。何かが吹っ切れたような、いや何かを吹っ切ろうとしているような笑顔だった。

 そこへ麗子の車がやってきた。真澄は名残惜しそうに、鍋島を見たまま後ろ向きにゆっくりと歩き出した。

「……じゃあ、またね」

「うん、気をつけてな」

 真澄がドアを開けて乗り込んだ。小さくクラクションが鳴り、車は滑らかに走り出した。


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