邪神はサイコロを振る

太平 洋

邪神はサイコロを振る ー 1

 時刻は午前二時。


 無数に並べられた蝋燭の灯りが、小汚いワンルームをぼんやりと照らし出している。脱ぎ散らかされた服、無造作に積まれた蔵書、書きかけの原稿用紙、そして怪しげな魔導書―――。


 床には奇妙な幾何学模様の魔法陣が描かれており、その中心でこの世のものとも思えない言語の呪文を唱えながら、全裸で踊り狂っている私。


 第三者の目からすれば、きっと異様な光景として映っているだろう。

 この男は小説を書くのではないのか? 一体何をとち狂っているのだと……。

 皆様もきっとそうお思いに違いない。

 誤解を解くために言っていくと、私は別に気が触れたわけでも、怪しげなクスリをキメて頭がハッピーになっているわけでも、暗黒舞踏の練習をしているわけでもない。


 私はただ、物語を書くために、必要な準備をしているに過ぎない。

 

 それはつまり、邪神を召喚するための儀式である。


 今から喚び出そうとしている邪神の名は『モルディギアン』。

 それは現代ではすでに忘れ去られた神の名。

 おそらく、博識な皆様の中でもその名に心当たりのある方はごく僅かであろう。


 私がモルディギアンの存在を知ったのは学生時代―――米国に留学していた頃だ。

 マサチューセッツ州のミスカトニック大学で神話生物学を学んでいた私は、奇妙なエジプト人に出会った。

 アブドゥル・アルハザード(おそらく偽名だろう)と名乗る彼は、私に対してさまざまな神秘的な話を語った。


 当初、唯物的無神論者だった私は、その胡散臭いエジプト人を詐欺師だと思っており、彼が口にする話をただの法螺話だと鼻で笑っていた。しかし、在学中にさまざまな超自然的な体験をし、幸か不幸か、世界が隠蔽してきた神秘の一端を垣間見てしまった。その結果、私はそれまでの自分の価値観を変えるとともに、彼の話を信じざるを得なくなった。


 学生時代の私の体験については、詳しく語ると長くなるし、本筋を外れるのでここでは割愛するが、『モルディギアン』も彼から伝え聞いた話のひとつだ。


 褐色の肌をした私の友人によると、はるか昔から社会には***を失った人間の屍を喰らう食屍鬼という恐るべき生物が隠れ潜んでいる。

 その食屍鬼達によって崇拝されている神こそがモルディギアンだ。


 食屍鬼と同様に、モルディギアンも基本的には屍を喰らう邪悪な存在だが、姿形を自由に変えられ、美しい存在にも醜い存在にもなれる。それゆえに、古今東西の闇に堕ちた芸術家達はインスピレーションを求めて、密かにモルディギアンと契約を交わし、富と名声を得てきた。


 小説のテーマ選びに行き詰まっていた私は、神秘的なエジプト人から聞いたその話と、日本に帰国する際に彼から選別として渡された魔導書の存在を思い出し、物語を書くのもそっちのけに魔導書の研究に没頭した。そして、長い時間と途方もない労力をかけて、難解な魔導書の解読に成功し、ついにモルディギアンを召喚するための秘術を知るに至った。


 ここまで語れば、すでに察しの良い方ならばお気づきだろう。


 そう。


 私は、


 面白い物語を書くのに必要な『斬新なテーマ』を手に入れるため、


 邪神と契約を交わそうとしていた。


 もちろん、皆様の言いたいことは分かる。

 仮にも小説家を志すというのにテーマひとつ自分で決められず、挙句の果てには邪神と取引しようとしている私を嘲笑っているのだろう?

 あるいは人類の裏切り者と後ろ指を差しているのかもしれない。


 しかし、私は声を大にして言いたい。

 どんな手段を使っても、面白い小説を描いた者が勝ちなのだ。


 そして、邪神と契約を交わしてまで小説を描こうとする覚悟のある者が果たしてどれくらいいるだろう。こんな途方もないリスクを背負うからには、どんな手段を使ってでも、誰も思いもよらない斬新な作品を書いてやる。


 そんな壮絶な覚悟を胸に、私は邪神に祈りを捧げた。

「邪神モルディギアンよ、来たりませ」

 最後の呪文を口にすると、窓を締め切って澱んだ空気が滞留している部屋に、どこからともなく冷たい風が吹き込んできた。


 蝋燭の火が消え、部屋は闇と静寂に支配される。

 固唾を飲んで事態の成り行きを見守る私の目の前で、不意に何か得体の知れない気配がした。私は叫びだしそうになるのをすんでのところで我慢した。

 しかし、心臓は狂ったように鼓動している。

 

 どれくらいの時間が経っただろう。

 やがて暗闇に目が慣れてきた私は、部屋の隅に何かがいることに気付いた。


 目を凝らすと、周囲の闇よりも濃い黒い物体が、確かに蠢いている。


 やがて消えていたはずの蝋燭の火が、ひとりでに灯り始め、青く幻想的な炎がワンルームの部屋を照らす。


 部屋の隅にいたのは『異形』としか言いようのない何かだった。


 大きさは二メートルくらいだろうか。真っ黒な芋虫のような円柱形の胴体で、頭部には不気味な仮面をつけている。白い仮面には目が二つと口が一つ―――顔のような不気味な模様が描かれている。


 モルディギアンの姿は見る者によって変わると聞いていたが、私にとっては謎めいた存在だった。


「我を眠りから醒ましたのはお主か」


 仮面の奥からくぐもった声が聞こえる。

 私は慌ててフローリングの床にひざまずいた。


「この度は私めの召喚に応じて頂き感謝の言葉もございません。お目にかかれ、恐悦至極に存じます。私の名は―――」


「なぜ我を呼び出した。お主は我に一体何を求める」


 本題を尋ねてくるモルディギアンに、私は事情を説明しようと声を震わす。

「私、詩人の真似事をしており、文筆で身を立てたいと志しているのですが、肝心の主題がまだ見つかっておりません」


「ほう」

 邪神は興味深そうに唸った。すると、驚くべきことに白い仮面に描かれている目が、すっと細まった。頭部についているアレは仮面ではなく、顔なのだろうか?


「かくなるうえは、どうか私にふさわしき主題をお与えいただきたく」

「よかろう」

 邪神は私の願いを聞き入れてくれた。しかし、努力が報われて、喜びにひたろうとする私に、邪神はつけ加えた。


「ただし、条件が一つある」


「条件―――ですか?」

「そうだ。お主に望みの主題を与える代わりに、対価として供物を貰い受ける」


 古今東西、悪魔と契約する際には対価を支払うと相場と決まっている。

 邪神もどうやら例外ではないらしい。

「供物とは一体、何でしょう」


「我の出題したテーマによって、お主が書いた物語だ」

「―――え? そんなもので良いのですか?」


 新鮮な屍を要求されたらどうしようと、戦々恐々としてた私に向かって邪神はそう言った。


「ああ。しかし、もし仮に我の出した主題で物語が書けなかった場合は、物語の代わりにお主のその***を貰う」

「―――***を?」

 それにはさすがの私も少し気圧された。まさかそこまでのものを求められるとは思ってなかった。


「それでも本当に我と契りを結ぶか?」

 邪神は再び問うてきた。


 しかし、もとより邪神を呼び出すと決めた時から多少のリスクは覚悟の上。

 最初から答えは決まっている。

「―――やります」

 私ははっきりとそう答えていた。


「よろしい、そこまでの覚悟があるのならば―――早速、お主の求めているテーマを授けて進ぜよう」

「嗚呼―――ありがたき幸せ!」


「必要なものがあるゆえ、まずはそれを用意せよ」

「何なりとお申し付けください」


 モルディギアンが私に対して要求したのは、辞書とサイコロだった。

「―――?」

 それは奇妙な組み合わせに思えた。一体何に使うのだろう? 

 私は一抹の不安を感じつつも、TRPGで遊ぶ時に買った10面ダイスと、愛用の辞書をテーブルに差し出した。

 するとモルディギアンの黒い胴部から細くて白い腕がにゅっと生え、サイコロを掴む。

 突然の出来事にぎょっとして固まっている私の目の前で、


 邪神は、サイコロを、振り始めた。


「―――三、―――一、―――四」

 邪神が三回サイコロを振って、出た目はそれぞれ、三、一、四。

 何か意味があるのだろうか? 円周率? などと考えている私の目の前で。

「三百十四頁か―――どれどれ」

 邪神は辞書をめくり始めた。

 そして、再びサイコロを振る。

 カランコロンと空虚な音が、薄暗い部屋に反響する。


「まさか」

 私ははっとした。

 まさかこいつは私に描かせる小説のテーマをサイコロで決めているのでは―――?

 いや、まさかそんなはずは……。


「察しが良いな、その通りだ」


「!?」

 私は絶句した。

 心を読まれたという事実。そして、何よりも人の運命をサイコロで決めようという、邪神のあまりにも冒涜的所業に寒気すら感じた。


「ククク」

 目をぐにゃりと三日月型に曲げ、笑みを浮かべる邪神。

 自分が召喚したという事実をすっかり忘れ、私はそのあまりの邪悪さに戦慄する。

 止めなければ―――! 私はモルディギアンを説得しようと声をあげた。


「も、モルディギアン様」


「何だ?」

 邪神は白々しく問い返してくる。

 心を読めるというのなら、私の言いたいことなどすでに分かっているだろうに。


「そんな適当に決めて良いのですか? 私は***を賭けているのですよ」

「お主が斬新なテーマが欲しいというから、それを授けてやろうとしているのだ。心配はいらんから、お主は黙って見ていれば良い」

「しかし、そのやり方はあまりにも……」

「面白い物語を書けるのならば、どんな手段でも使うのではなかったのか? それにまだ決まってもいないうちから文句を言っているお主の方こそ、おかしいとは思わないか?」

 邪神がサイコロを振ったら傑作小説を書けるテーマが生まれるのか?

 確かにどんな手段を使っても面白いものを書ければ良いと思っていた気がするが、だからといってそのやり方はどうなのだ?


「か、神はサイコロを振らない―――そう聞いたことがあるのですが」

「我は邪神だからサイコロを振る」

 モルディギアンはこともなげに言い放った。

 天才物理学者の言葉も、邪神には届かなかった。

「大体、詩人を目指しているのなら、借り物ではなく自分の言葉で語るべきであろう」

「……」


 ぐうの音も出ない私の目の前で、邪神は再びサイコロを振り始める。


 10面ダイスがころころと、机の上を転がる。


 まるで私自身が転がっているような気がして目眩がした。


 自分以外の存在によって、自分の未来が決まっていく。


 その光景を黙って眺めていることしか出来ない。


 虚無に支配されている私に向かって、やがて「よし、決まったぞ!」と意気揚々に邪神が告げた物語のテーマとは、



『解剖台上のミシンとこうもり傘の偶然の出会いのように美しい』



「―――は?」

 私は頭の中が真っ白になっていた。

 何だこのテーマは? 意味が分からない。

 ただ、サイコロで辞書を引いて抽出してきた単語を繋げただけではないか。

 完全に私の想像力を完全に超えており、どんな物語になるのかまったく予想がつかない。

 しかも無駄に長い! ランダムだろうと、一つ二つくらいの文節のテーマならどんな物語だって書ける程度の自信はあった。

 しかし、サイコロで決めた七文節のテーマで本当に小説が書けるのだろうか? 

 

 イヤ、無理だ、ムリムリムリ。

 私はすでに諦めかけていた。こんな難題を使って物語を書くなんて、私の実力では到底不可能だ、と。


「まさか最初からこんなにも美しいテーマを引き当てるとは。お主は運が良い。

 いや、サイコロを振ったのは我だから、我の運が良いのか?」

 上機嫌に語りかけてくる邪神。

 

 しかし、私には『解剖台上のミシンとこうもり傘の偶然の出会いのように美しい』の意味も、『解剖台上のミシンとこうもり傘の偶然の出会いのように美しい』を美しいと感じる感性も、目の前の邪神の考えも、何もかも理解出来なかった。


 さらにひとつ嫌な予感がする。

「さっき『最初の』テーマって言いませんでした? 聞き間違い……ですよね?」


「もちろんお題はこれからも続くぞ?」

「ぁ、あぁあ……」

 私は床に崩れ落ちた。もうダメだ。何もかもおしまいだ。


「何を落ち込んでいるのだ? お前の求めていた斬新なテーマではないか」

 確かに、こんなテーマで物語を描こうという愚か者は世界中を探してもおるまい。

 そういう意味では斬新なのかもしれない。


「新たな地平を切り開けるかもしれないな」

 新たな地平? 誰もやらなかったことと、誰もやろうとしなかったことは違う。

 こんなテーマで物語を書くことに何の意味があるというのだ? 

 新たな地平を切り開くどころか、私には自宅の庭にひたすら穴を掘り続けろと言われているような気がしてならない。


「地球は丸い。穴だって掘り続けていればそのうちブラジルあたりに辿り着く」

 邪神は当たり前のように、私の心を読んで返答してくる。

 私は、もはや口を開いて喋る気力すら失せていた。


 とはいえ、邪神と契約してしまったからには、何としても書ききらねばならない。


 私は***を失いたくはない。

 そうだ―――この気持ちがある限り、私はまだ負けていない!


 自分自身にそう言い聞かせながら、私はふらふらと立ち上がり、脱ぎ散らかされたフリーリングを横断し、床でくしゃくしゃになっていた原稿用紙を広げ、久しぶりにペンを執って机に向かう。

 

 そして、戦場に向かう兵士のような覚悟で、強大な敵―――「解剖台上のミシンとこうもり傘の偶然の出会いのように美しい」に戦いを挑んだのだ。



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次回は「解剖台上のミシンとこうもり傘の偶然の出会いのように美しい」の内容から始まります。本文「邪神はサイコロを振る」からは独立した物語となっておりますので、ご注意ください。(仮に読む人がいれば・・・)

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