『しつこい客引きについていったらサヨウナラだ。 by 風呂仙人』
突然だが、僕は煙草を吸わない。
中学生の時に好奇心にかられて吸ってみたが、濃厚な煙にむせて悶え、そしてその後口内にへばりつく苦さに懲りて二度と吸うことはなかった。
酒も好きではない。
生まれつきアルコールを分解する能力が低いため、少しでも飲みすぎれば吐き気と強烈な頭痛に悩まされるのだ。
よって飲み会の席でも僕が口をつけるのはビールの泡とウーロン茶オンリー。
なぜこんなことを言うか?
それは県内有数の盛り場で僕が楽しめるものがないということだ。
女の子のいる店も、赤ちょうちんの店も僕にとっては縁が遠い場所である。
それでは女の子自身はどうか?
もちろん夫である前に男として生まれた以上は嫌いではない。
いやむしろ大好きの範疇に入る。
「お兄さん……良い子がいっぱい居るんだよ」
病的なまでに白く、前髪を直線的に切りそろえたその老婆は無表情で僕に声をかけてきた。
ああ……希望が少し見えたからといって裏路地になんて踏み込まなければよかった。
「……え、遠慮しておきます」
足早に通り過ぎる僕に絶妙なポジショニングで老婆は立ちふさぐ。
「……良い子、たくさんたくさん……いるよ」
なぜ急に片言になったんですか?
心の中で突っ込みを入れて反対側に体移動する僕を、老婆はまるでダンスをするように足を軸に回転してさらに通せんぼする。
「……良い子がいるんだよ!」
相変わらずの無表情で、しかし怒気を少し込めた声が小さな裏通りに木霊する。
こいつはやばい……デンジャラス信号が頭内で鳴り響く。
通称風呂仙人という渾名を持つ風俗好きな先輩がかつて僕に教授した格言を思い出した。
しつこい客引きについていったらサヨウナラだ。
現在の諭吉も未来の諭吉も剥ぎ取られてしまうから……。
その間も老婆は腰をやや落として全身を左右に揺れ、こちらの出方を伺っている。
その無駄に俊敏な動きとつま先に重心を置いたその姿から相手が歴戦の勇士だということがわかった。
油断は……できない。
迷っている振りをしながら呼吸を整える。
老婆の指差す方向に身体をひねり腰の筋肉を伸ばす。
そして老婆の剣幕に気圧されたように右足を一歩後ろへ下げる。
対して老婆は一歩踏み出す。 そのまま一気に攻めこもうと思っているようだ。
だがそのときこそが僕の狙った瞬間だった。
営業で鍛えた張りつき笑顔のまま、彼女の左側面を十分に縮めた筋肉を爆発させて一気に駆け抜ける。
完全に虚を突いた行動も、数え切れないほどの経験がそうさせるのか?
相手は信じられないことに右足一本で左斜め後方へと跳ね上がりターゲットの進行を遮断しようとする……が、しかしそうはさせない!
右腕を伸ばして彼女の身体を空中で抑え、そのまま半回転しながら爆速(のつもりで)で走り抜ける。
さすがの老婆もそれには反応することはできず、やや後ろで彼女が着地する音を背中で感じながら僕は路地を逃走するのだった。
駆けて駆け抜けて、いい加減見慣れてしまったネオン街へたどりついた。
そこではじめて足を止めることができる。
衰えた上に疲労物質が充満した下肢は痙攣し始めていて、もう少し辿りつくのが遅ければ力尽きていただろう。
「ま、まあ……たまにはこんなトラブルもありだよね」
わずかでもすがりつくものがあるのなら人間は意外に希望を捨てないものだ。
さて……それじゃ気を取り直して『希望』を取りに行くとしよう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます