みせのはなし

安良巻祐介

酔笑軒





 病人の哂ふに似たり夜半やはの月




          * * *






 その晩、私は腹が減って、どうしようもなくなって、道を歩いていた。

 空腹感。そうは言ってもそれはしかし何かしっかりした形のあるものを求めるような飢えではなく、自分の中心部にくろぐろとした投げ遣りな穴ができてしまって自分ではどうしようもないからとりあえず悲しくぽかんと口を開けている、そういう風な状態だった。

 頭の上にはお定まりのように月が出ていた。

 それはちょうど後頭部の辺りを撫でるように、じわじわぬるぬると輪郭をゆるませてつめたくあおじろく揺れていた。

 なぜ見もせずにわかるかといって、足元にのびる影のかたちのせいだ。歩いて行く私の姿とおそらく無関係に、月に照らされた私の影は、やわらかく首をねじ曲げたりそっと頭をなくしたりねらねらと手を増やしたりしている。まったく気味が悪い。私は苛々していた。

 向こうの方から人が来て、道の端の辺りで行き遭った。

 その人は行き遭うなりすうと私の背中越しに月を指して、あのようなのは確かみず行燈あんどんとか偽月ニセヅキとかいうのです……と教えてくれた。そして背中の向こうへふらんと行き過ぎて消えていった。ひどく目深に帽子をかむっていたような気がするが、まあいい。私にとって大事なのは、とにかく腹が空いているということだけだった。これをどうにかしなければ。どうせあの、水母くらげの亡霊みたいな月は食えやしないのだ。

 私は悪態をつきながら、妙に柔らかい道の上を一生懸命に歩いて行った。

 町は犬の寝ているような格好で黒くうずくまっていた。灯の消えた通りはしんとしていた。

 時計がないから今何時だかよくわからないが、店の殆どはもう閉めてしまっているようだった。

 とりあえず近くの路地に入ってみる。

 真っ暗な窓が、両側に狭苦しく続いている。民家の並びらしかった。

 と、向こうの方に煙草の火のようなものがぽつ、ぽつとちらついたかと思うとすぐに消えた。

 私はそちらへ歩いて行った。人だったならどこかに空いている店がないか尋ねるつもりだった。

 ところが、口を開けたまま路地をどこまで行っても、誰もいない。さっき見えた火を探したが、濁った暗やみには、もはや、ほんの小さな灯りをも見出だせなかった。

 突き当たりには他の民家と比べて大きな家があった。

 どうやら廃屋らしく、戸が打ちつけられ、壁は剥がれかけている。

 顔を上げたところに、二階の窓があった。

 汚れた窓硝子の向こうに、何か白いものが見える。服でもかかっているのだろうか。硝子の粗い粒子に滲むように浮かび上がって、闇の中にそこだけどこか異様である。

 よく見てみようとしたが、暗いせいで良くわからない。生憎と火を持っていないので、明るくして確かめるというわけにもいかなかった。

 何となく気になりながらも、空きっ腹を抱えて、私は路地を引き返した。

 数歩歩いたところで、服だったとして暗い中あんなにはっきりと白く見えるものだろうか、と思い至り、振り返ったが、その時にはもう窓に白いものは見えなくなっていた。

 ますますわからなくなったが、よく考えてみれば廃屋に服という時点ですでにおかしな話なのである。あまり考えぬようにして、私は再び歩きだした。

 とにかく空腹感は耐え難かった。

 路地の入口あたりまで戻ってきて、今度は大通りに沿って歩くことにした。

 私は前かがみになって冷たいアスファルトを踏んで行った。

 なまぬるい風はいつの間にか止んで、色の濃くなった静けさの中に、キーンという金属音のような音が響いている。

 なんだこれは、と思ってよくよく聞いてみると、どうもそれは、私の耳の奥でだけ鳴っているようだった。周りがあまりに静かすぎると耳が耐えられなくなって何か音を拾おうと躍起になり、贋の音を作り出すのだとか、どこかで聞いたことがある。そうだとすると、足元で勝手に形を変えたり手を増やしたりする影と同じようなものだ。

 やめろやめろ……と誰にともなく言いながら、闇の中を歩いた。

 すると、向こうの方に看板のネオン・サインらしい黄色い光が見えた。私ははっとして、誘蛾灯に誘われるように急いで近づいて行った。

 近くまで来てみると、それはまさしく安っぽい光を瞬かす据え置き型の可変ネオンで、店の前でぐねぐねとした文字パタンを闇の中に賑やかに踊らせていた。

「青火焼酎五百円。店主のおすすめ。合法合成酒多数。にちようびはバンド・ステージ。カラオケ完備、おふたり様よう。ありがとうございます。青火焼酎五百円。……」

 けれど、肝心の店の方は完全にシャッターを下ろして「営業終了」の札を出していた。窓にも灯が消えている。真っ黒く押し黙った店の前でネオン・サインだけが陽気に点滅しているのは間抜けにもほどがある光景だった。

「ばかやろう」

 いよいよひどくなってきた空腹を抱えて、私は思わず悪態をついた。

「ありがとうございます」

 ネオン・サインは嬉しげにぐねぐねと光りたてた。

 私はどうしようもなく空しい気持ちになって、逃げるようにその店の前を離れた。

 そして、向かい側の路地の中に入りこんだ。

 入るなり、発酵した食物の匂いがぷんとして、壁際で、何かがゴミを漁っているのを見つけた。

 そいつはずらしたゴミ箱の蓋の隙間に深く深く頭を突っ込んで、ずるずるぺちゃぺちゃと音を立てている。

 なんだろう……犬かと思ったが、毛もないし、何より四肢らしきものが見当たらないので、どうも違うらしい。すぐそばの薄ぼんやりとした蛍光灯に、そいつの灰色のからだがぬらりぬらりと光っている。

 普段ならば気分を悪くするところだが、何ぶん空腹がひどいのでそっちに気を取られ過ぎていて、さほど気にならなかった。むしろ、こういうものがいるという事はこの辺りは恐らく飲食店の並びに違いない、と考えて、私はくくくと笑った。笑いながら、用心してそいつの後ろを行き過ぎた。

 案の定、この路地は飲食街のようだった。消えているとはいえ、提灯の下がった軒や食品サンプルの並ぶ壁が続く。これだけあるのだから一軒ぐらいはまだ開いているところがあってもいい筈だ……と私は血マナコになてそこらに眼を泳がせた。

 けれど、期待に反してほとんどの店は暖簾を下ろし、無慈悲な黒い窓を延々と並べているだけのようだった。

 私の気持ちは空腹感と反比例してすぐにしぼんでしまった。

 すぐに元通りふらふらした力ない足取りに戻り、私は半ばあきらめて、いわば惰性のような感じで路地のどん詰まりに突っ込んで行った。

 そこは塀になっていて、何かの液体の入った桶が置いてあった。

 私はだらしなく口を開けて、桶の中を、井戸を覗くように覗きこんでみたが、この暗い路地の何を反射しているのか、青白い光がぬるぬると揺れるのが見えるばかりで、何だかよくわからなかった。

 うあああ……と陰気な鳴き声がした。

 驚いて顔を上げると、左手へだらだらと続く塀の、湿った暗やみの縁あたり、まっ黒いかたまりのようなものがうずくまって、光る目でこちらを見ている。

 よく見ようとしてそちらへ近づいたら、それは、ああ……と一声鳴いて逃げてしまった。じっとりした闇の中を、点のような瞬きがちらちらしたかと思うとすぐ消えていった。

 私はそれを見ながら、唐突に、さっき見かけた煙草の火はもしかしたらあの目だったかもしれない、と思った。

 そのまま塀沿いに歩いた。

 向こうに灯りが見えたのだ。ネオンの光とも、煙草の火とも違う、根拠はないが、今度こそ店の灯りだという気がした。

 はたして、塀の途切れる辺りに、背の低い家が一軒、まだ灯をつけていた。

 擦り硝子のはまった引き戸の向こうから、ぼんやりと青っぽい光が洩れている。入口には擦り切れた暖簾もかかっており、褪せた花紺青の布地に白抜きの字は「酔笑軒」と読めた。

 私は口を開けて、硝子そのものに灯っているような淡い光をすこし呆然と眺めた後、引き戸に手をかけた。外に看板や品書きの類は出ていなかったが、暖簾を掲げている以上、なにか食いものを出すだろう。

 立てつけの悪そうな戸はしかし軋むこともなく、するりと開いた。

 店の中は、思ったよりも暗かった。

 いわゆる大衆食堂のような感じで、狭い空間に二、三の席が作ってある。

 向こうに調理場が見え、主人がそこで何か仕込みだか片付けだかをしているようだった。

「御免下さい」と私は声をかけた。

 暫く押し黙って歩き回っていたからなのか、自分でも思っていなかったような変な声が出た。

 きゅうと蛇口を閉める音がして、主人が顔を出す。頭に毛のない、やたらと丸い顔の男だった。

 主人は前掛けで手を拭きながらこちらへ出てきて、まだ営業しているかと私が尋ねるより先に、「なんをらあで、くつか」と言った。酷い訛りだが、何にするのか、と言っているようだった。

 私は少し慌てて、周りを見回した。そばの席にも、壁にも、品書きらしきものはなかった。

「いまんなやな、つぐらめし、なたなしらか、くつか」

 主人は逡巡する私を腫れぼったい眼で見ながら、聞き取りにくい言葉で、聞いたこともないような単語を並べた。どうやら、料理の名前らしい。

「ようふけたたら、よけえは、こさえでえ」

 時間が遅いから多くは作れない、ということのようだ。よく見れば、主人の顔には眉もないのだった。ひげもないから本当に毛がなくて、だからやたらすべすべとしている。

 時間が遅いから……と主人はもう一回同じ台詞を言った。

 迷ったが、空腹感には耐えかねた。

 何でもいいから、今できるものを適当に頼む、と告げて、席に着く。

 出された水はぬるかった。

 私はそれをゆっくりと飲みながら、店内を眺めた。

 まるで見るものがない。置物やら、貼り紙の類は全く見当たらず、雑誌類なども置いてないようだった。

 視線はだらだらと壁の上を動いたあげく、どこへ行くこともできずにもとのところへ戻ってきてしまう。

 私は仕方なく、水音のまた流れ出した調理場の方をぼんやり見やった。

 調理場も暖簾で仕切られているから、あの向こうで、主人が何をどのように料理しているのかは、よくわからなかった。ただ、水音に混じって、包丁の音や、火をつけるらしい音、何かをちぎっているような音などが時々聞こえてくる。

 そういえばここにも時計はないのだ……と、私は、調理場の音を聞きながら考えた。今何時くらいなのだろう。店内の暗い、青い色が、気持ちをどことなく茫然とさせる。まるで水底に居るようだ。

 私は席に着いたまま、しばし胡乱にただ口を開けていた。

「おまうとう」

 声にはっと気付くと、主人が何かの膳を持ってこちらに出てくるところだった。

「こらが、につなえしわちらし。つぐらめしに、しゃろか。つけたらしゃ、ひずらよ」

 食卓に置いた膳を指しながら、いちいち説明してくれたが、なんのことだかさっぱりわからなかった。

 しかしまあとにかく食えればいいや何だって……と、主人の言葉にてきとうに相槌を打ちつつ、私は箸を取って、膳を覗き込んだ。

 えらく大きな何かの切り身のようなものに、だし汁。それから、味の濃そうな煮付けが添えられている。小鉢もある。どれがつぐらめしでどれがひずらだか。

 まあとにかく……と、私は切り身のようなものの端っこに箸をつけた。

 赤らんだ肌色の、のたっとしたそれは思っていたよりも柔らかく、箸の先でほぐすようにするとすぐにくじりとれた。口に運ぶとじわりと冷たく、しかし、噛みしめればダシがしっかりと沁み込んでいるのがわかる。うまい。続けて箸を動かした。

 正直、まるで期待はしていなかったのだが、料理の味は上等だった。あまり温かくないのが不思議だったが、汁も煮付けもうまい。切り身の大きな腹をつつきながら、汁をすすり、煮付けをほじった。うまい。

 機嫌を良くした私は、途中で主人に冷やを注文した。酒が来たところで、小鉢を手元へ引き寄せてみた。

 中には、濁った目玉のようなものが二つほど入っていた。それは互い違いにあらぬ方向を向きながら、じとっと私を見つめていた。

 私はなんだこれはと気味悪がるより先に、なんだこのやろう、とその目玉に箸を突き入れた。弾力のある目玉は瞳らしき辺りをぐにゃぐにゃに歪めてすごい目つきになったが、かまわずぐいぐいと力を込めるとやがてしくんと割れてどろりとした汁と黒い実のようなものが出てきた。

 黒い実はえらく辛かった。一緒に出てきたのったりした味の汁と絡めると丁度いいようだった。

 これもうまい。私は舌を鳴らしながら食い続けた。

 まったく、なんとも予想外の味だった。こんなところにある店が、こんなにうまいとは。

 酒を傾け、切り身をつつき、煮付けをつつき、目玉をつつく。汁を吸う。膳はあっという間に減って行った。

 しかし、気分良く食いながら私は、そのうちになんだかおかしなことに気づきだした。

 これだけ食っているのに、一向に空腹がおさまらない。

 初めは、あれだけ腹が減っていたのだから、まあすぐには腹いっぱいにならなくても当然だと思っていたのだが、どれだけ食っても、飲んでも、腹のうちにぽっかり空いた穴が埋まらない。あの、どうしようもない倦怠に似た空腹感がまるで満たされない。

 なんだかしらないが、私は焦った。

 腹が減っている。おれはまだ腹が減っているのだ。

 焦って、主人に追加で注文を入れた。主人はまたうずらだかひずらだかどうのこうの言っていたが、何でもいいからとどやしたて、酒も追加させた。

 料理はすぐに来て、私はがつがつと食い続けた。けれど、二膳分ほどを喰い尽くす頃になっても、空腹感は全く満たされることなく、むしろさらにひどくなりだしていた。

 そして、およそ四膳分をたいらげたあたりで、主人が、そろそろおしまいだと言ってきた。材料がもうないらしい。私はそれを、絶望的な気持ちで聞いた。

 酒の最後の一滴まで名残惜しく嘗めつくすと、私は箸を置き、ゆらりと立ち上がった。腹の中では空腹感が、ぎりぎりと、痛いくらいに広がり続けていた。

 小鉢の中から私を見つめていた目玉のように、私は口を開けてどろりと天井を見つめた。

 店の仄暗い天井は、水族館の硝子窓じみて、青い澱んだ光をゆらゆらと踊らせている。そういえば照明はどこに付いているのか、と今更ながら思った。

 それから私は勘定をした。

 帳場に立った主人が、ぽっかりと金を払う私にまいだらがたう、と言って、すこし笑う。

 開いた口の中は真っ黒で、歯が一本もなかった。

 私は逃げるように店を出た。

 外には相も変わらず、湿った闇が蟠っていた。

 じっとりした路地の中をあてどもなく再び歩きだす。腹が減っていた。私はそばの角を曲がった。

 おさまるはずだった空腹感が、いよいよひどい。くろぐろと口を開けた穴が、一足ごとに大きくなっていく。

 私は角を幾度も曲がった。建物のつくる薄闇の上に、さらに濃い闇色の影が――中心に穴の開いた、手のうじゃうじゃとした私の影がすうすうと映った。

 だらしなく口を開けたまま、私は腹の中の虚空が膨れ、広がる黒い穴がいよいよ大きくなって、体の内側をどんどん呑み込んで行くのを感じた。悲しかった。どうしようもなく悲しかった。

 やがて私の中身は、薄皮一枚残して、全て胃袋の虚空に呑みこまれた。

 そうして私は夜の町を、もはや皮ばかりで歩き続けた。

 心に何を思う事もなく。

 中身のない皮だけが町を歩く。

 皮だけになった耳には、キーンというあの贋物の音が聞こえていた。

 そして、空っぽの頭のすぐ後ろには、あおじろい、冷たい色の、輪郭の曖昧な月がゆるゆるじわじわと浮かんでいた。


 それはどうもこの町に来る前、最初からずっと私の後ろについてきていたらしいが、皮だけの私がもはやそんなことを気にする筈もなかった。

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