林檎ジュースと果物ナイフ
明たい子
第1話
夕方の5時になると必ず決まって鳴る放送。
どこから流れているのかをずっと子どもの頃友達と話し合って、音が近いと感じてはこちらでも近く感じると、謎が深まるばかりだった夕焼け小焼けの音楽。
大人になった今、市が流しているものだと知った。きらきらして見えるものは、知らない方が光り輝く。
真実なんて、世界を醜くするだけだ。
5時の音楽を聞き流しながら、入社3年目の私も仕上げの作業に入る。
社内でも、先程の音楽を皮切りに少しざわめきが大きくなった。
アフターファイブなんて、守られるのは重役のみだと思っていた私だが、ついに新人(新人とは言い難いが)にもチャンスが巡ってきたのだ。
そう、世間でゆう花金というものだろう。
何故、私がこの度花金を実現できたかというと、まあ醜い真実というものが関係しているわけだが、詳しくは部長の沽券に関わるため、契約成立の情けということで明記することは避けておく。
こんなことをつらつら考えながら、私は颯爽と荷物をまとめ、帰路に着く。
何かもの言いたげな同僚を横目にして。
スマホでラインを確認すると、まだ連絡は来ていない。
忘れていることはないと思うが、念のために連絡を入れておくことにする。
——仕事終わったよ。もうすぐ集合場所に着くよ。ちゃんと覚えてる?
送信。
ふぅと溜息をつくと、周りを見渡す。
どこも仲睦まじそうなカップルでいっぱいだ。
何故なら今日はバレンタインデーという、チョコレート会社の策略にまんまと引っかかった現代の日本人の間抜けさが目の当たりにできる日だ。この真実を知っていながらも、知らないふりをするのも日本人の良い所だと言われればそれまでだが。
かくゆう私もその策略にまんまと乗っかっているわけだが、肝心の彼氏が来ない。
私は自分で言うのもなんだが、彼氏のことはとても大切にしているつもりだ。
彼氏は小説家のため、生活リズムが一介のOLの私とは全く合わない。そこを彼氏の体調管理も怠らず、手料理をふるまい、彼の家も掃除し、自分の仕事もこなす。
我ながら頑張っているのではないだろうか。
そんな私に彼氏も応えてくれる。
私の甘えは大概聞いてくれるし、私がかまってほしい時はかまってくれる。
こんな感じだ。
今日は私が部長をゆすり、勝ち取ったアフターファイブを有効活用するため彼氏を食事にでも、と誘ったわけだが、肝心の彼氏が来ない。
おあいにく様、今日の天気は良くないらしく、どんより曇り空で風も強い。どうせ降るなら雪にしてほしいと思うが、世の中はそんなに甘くはないのだろう。
雨が降り出した。
今日に限って折りたたみ傘を忘れた私は、舌打ちを隠すことなく盛大に打ち鳴らし、近くの屋根の下に走る。
ふと、スマホのロック画面に目をやるが、一切返信は来ない。
私の心模様もこの空のようだなと自嘲気味に何とか笑う。自分の口の筋肉を吊り上げてみる。うまく吊り上がらない。スマホの電源をつけず、黒い画面で確認すると、口の周りの筋肉がけいれんしているようだった。
ひどく滑稽に思いながら、空を眺める。
いっこうに雨は止む気配を見せない。
私は苛立ちを隠せないまま、その場に立ち尽くし続けた。
20分、30分、40分、60分、1時間、2時間・・・・・・・・・・・・・・
どれほどそうしていたのか、私の体が少しほてってきた。
震えも止まらず、手足の感覚が薄い。頭もぼーっとしてきた。
私は何をやっているのだ。
もう、19時だ。
いつもなら、早い日なら仕事を終えてその足で彼氏の家にご飯を作りに行っている時間だ。
あぁ、違う違う。いつもなら私が行っているが、今日は彼がこっちに来てくれるんだった。
なんでだろうな。いつもなら何があっても、私が必ず行くのに。
約束したのに。忘れているのか。また私が行くのか。なんでだ。なんでまた私が行くの。
なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで
カチッ
もう、いいか。雨もやまないし、私の気が変わらないうちに全て終わらせようか。
分かった、これは試されているんだ。神様っているんだな。
これはゲームだ。私と彼の。
雨が止んだら彼の勝ち。雨が降り続いたら私の勝ち。
でも、雨が止んでも最期まで勝ち越し出来ると思ったら、大間違い。
私は何だか頭がすっきりしたような、そんな愉快な気分になったのでとりあえずコンビニによって、果物ナイフでも買おうと思い立つ。
こんな爽快な気分は久しぶりだ、高揚する。
コンビニに足を踏み入れ、迷わず果物ナイフを手に取ると、カモフラージュに林檎も買っておく。
私が一番好きな果物。
コンビニを出ると、雨が小降りになっていた。
私はなぜか少し焦って、急ぎ足で彼のマンションへ向かう。もうLINEの返信は見ない。
通いなれたマンションの前に来ると、雨はまだ小降りだが降っていた。
私の勝利を確信しつつ、エレベーターの階数ボタンを押す。
そして、彼の部屋の前まで来るとインターフォンを押した。
いつもならインターフォンと同時に物があちらこちらでぶつかる音がするのだが、今日は一切しない。不審に思いながら、合鍵で中に入る。
「どうしたの。待ち合わせに来ないから来ちゃったよーっと」
様子を窺いながら作業部屋を開けると、彼が椅子から落ちたのか、青白い顔で転がっていた。
カチッ
「どうしたの!? え、ねぇしっかりして!!!」
私が彼を揺さぶると、彼は目を覚ました。
「あ、あれ、いま、なんじ……」
「よかった。もう、しっかりご飯食べてよね。こんな薄着でご飯も食べずに原稿してたんでしょう。ちょっと待って、今飲むもの作るから」
「ごめんね、いつも迷惑かけて……」
「気にしないでいいから、とりあえず大人しくしてて」
私はそう言い切ると台所へ行き、すりおろし器を棚から出す。
そして、ずっと腕にかけていたビニール袋から果物包丁と林檎を取り出すと、林檎の皮を慣れた手つきできれいに剥き上げ、慣れた手つきですりおろす。
じっくりじっくり時間をかけて、手間をかけて、林檎をまるまる一つすり終える。
「ごめんね、時間かかっちゃって。果肉入りだから、少しずつ飲んで食べてね。味わって」
「ごめんね、だいぶ落ち着いたよ。いつも僕がしんどい時に林檎ジュースを作ってくれて、どんな薬よりも効く気がするんだ」
「そう? そういってもらえると、本当に嬉しい」
私はいつも自分がしんどい時は、林檎を買う。自分に対するご褒美なのだろうか。
それがこの男と付き合うようになってから、自分に対するご褒美でなく、彼に対するご褒美になった。
私は使い慣れた台所に行くと、包丁入れを開ける。
彼は知らないのだろう、自分の家の台所にこんなにも大量の果物ナイフが収納されていることを。
彼は知らないのだろう。果物ナイフの数とあなたが飲んだ林檎ジュースの回数はあるものと同じ数だということを。
彼は知らないのだろう。よく効くと信じ込んでいるジュースの中に詰まっている私の主要成分を。
そう。知らないままでいい。
誰が作ったのだろう、愛と憎悪は表裏一体。
これほどまでに的確な言葉はない。
今日もまた、一本果物ナイフが増えた。
林檎ジュースと果物ナイフ 明たい子 @nessy
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