小石の記録
ナナシイ
一隅の画鋲
或る寺に、照信という住職と、その弟子専信がいた。照信は既に齢七十を超え、仏門に入ってから六十年余の年月が流れていたが、しかし、彼は未だ煩悩から解脱するに至らず、女人を追うことを一つの趣味としていた。しかし、照信が時折示す智慧は、未だ若き青年たる専信の尊敬を得るに十分なものがあった。専信は己が師、照信のことを外面では馬鹿にしながらも、内面では信じ切っていた。
さて、冬の日のことである。照信は寒いからと言って、炬燵に入って本を読んでいた。しかし、その本は全く真面目なものではない。所謂官能小説の類である。その表紙には、女の裸体が描かれている。そこへ専信がやってきた。
「師匠、尋ねたいことがあるのですが……む、また何を読んでいるのですか!」
「うむ、これはな、男女の肉のつながりから生まれる絆を描いた作品でな。男女の関係構築という面においては文学上非常に興味深いものがあってだな。」
「どうせエロ目的でしょう。難しく言っても無駄ですよ。全く、世間の人々にこんな姿を見られたら何と言われるか。」
専信は照信を白い目で見る。照信は気にせずのんびりとした調子で尋ねる。
「専信よ、何か聞きたいことがあったのでは?」
「ああ、そうでした。真面目な話なのですが。」
「うむ、なんじゃ。わしは何時だって真面目じゃぞ。」
「ご冗談を。まあそれはよいとして、今日尋ねに参ったのは、善悪とは何かということです。」
「ふむ、難しい問題じゃな。」
「はい。私が仏門に入る前にも、また入った後にも、私の頭をもたげてきたのはこの問題なのです。私はこの問題を解こうと、様々な文献に当たり、そして己でも必死になって考えて参りました。しかし、己の足りぬ頭では、その欠片をすら掴むことはできませんでした。そしてまた、この善悪の二字を、明快に語りたる者に出会ってもおりません。私はこのままでは、懐疑の底に落ちてしまいそうなのです。一体、どうすればよいのでしょうか。」
「わしも、善悪の総体を知りはせぬ。彼の親鸞上人も、その晩年において、『善悪の二字総じもて存知せざるなり』と仰られている。聖人の晩年ですらそうなのだ。わしのような煩悩に塗れた者や、未だ若いお前さんにどうしてその全てが解ろうか。」
「しかし師よ! それでは我々は何を頼りに生きればよいのでしょうか! 何が善で、何が悪か、それが解らなければ我々はいかようにも判断できないでしょう。」
「まあそう慌てるでない。わしも無駄に歳を重ねた訳ではない。確かに、わしは善悪その全てはわからん。しかし、その一部程度ならば、お前に教えてやることもできよう。少し、付いてきなさい。」
照信はそう言って炬燵から這い出し、部屋からも出て行った。専信は黙ってその後に続いた。
やがて二人が到着したるは、照信が寝室であった。
「専信よ、お前はこれから暇がある時、この部屋の、この壁をじっと見つめていなさい。やがてこの壁に悪が現れ、お前はすぐに善を為すことになるだろう。」
そう言って照信は己が寝室の、一面の壁を示した。それは何変哲の無いただの壁であった。色は赤茶色。模様はない。何かの汚れがあるとか、そのような事も一切ない。唯一目を引くものは、その壁の中央にあるポスターだけであった。
ポスターの四隅はそれぞれ画鋲によって、壁に留められている。ポスターに映し出されているのは、小麦色に日焼けした、砂浜に立つ青いビキニの女。口元から白い歯が覗いている。笑顔であった。何時の時代のアイドルであろうか。ポスターの端は黄色く変色している。
「専信よ、わかったね。」
「はぁ。」
照信は去って行った。専信は師が言った壁の前に正座し、その壁をじっくりと眺め始めた。
やはり、変な箇所など何処にもない。ただその中央にアイドルのポスターがあるだけの壁である。
専信は思った。
(師匠は何故こんな物を見せるのだろうか。まさかこのような昔のアイドルが、善なる物であるとでもいうつもりであろうか……。)
しかし専信は師を信頼している。師の言った通りそのまま壁を見続けた。
やがて、専信の内にある情欲が起こり、下腹部に血液が集まった。専信は女に飢えた若き修行僧なのである。長い間女人の肉体を見続ければ、こうなることも已むをを得ぬことであろう。
また専信は思った。
(この情欲こそが、悪なのであろうか――。しかし、このような性の欲が悪だというのも、あまりにありきたりである。一応、性欲というものは、生物の繁栄ために役立つものである。)
専信はぶつぶつと言いながらも、やはり壁に向かい続けた。
一日経ち、二日経ち、そして一週間が経った。専信は日課である寺の掃除や読経の合間に、壁に向かい続けた。しかし、専信の前に未だ悪と断言できるものは現れなかった。専信は悩み続けた。答えが出ない。己は愚者なのではないか。師の言う一部すら悟ることが出来ないのか。そのような己への問い掛けが、専信を苦しめた。
また照信の寝室は、照信の節約志向と忍耐力向上のために暖房器具が一つも設置されていない。冷気を入れぬために襖を全て閉め切っていたが、しかしそれでも専信には寒かった。その寒さが、尚専信を苦しめた。専信の手はかじかみ、正座を続けるその足は幾度も幾度も痺れた。
専信はこれらの苦しみを前にし、やがて師を疑うに至った。もしや師は己を欺いているのではないかと。善悪など実は存在しないのではないのかと。堪り兼ねた専信は照信の元へ行き、再び尋ねた
「師匠! 何時になったら悪は現れるのでしょうか!」
「待つのじゃ。やがて現れる。」
「しかし師匠!」
「辛抱じゃ、専信よ。このわしを信じよ。所で専信よ、わしの寝室は寒くはないか。」
「確かに、寒いですが……」
「ガスストーブが倉庫にあったじゃろ。あれを使いなさい。」
「よいのですか。」
「構わん、我慢は身体に毒じゃ。」
専信は倉庫から取り出してきたガスストーブを照信の寝室に据え、再び壁に向かい始めた。
師は結局待てとしか言わなかった。専信はそれが不満であったが、ガスストーブの温もりと、師の弟子への思いやりが、その不満を和らげた。
更に三日が経った。専信は壁に向かっている。壁に変化はなく、やはりただポスターがあるだけである。変わったのは、専信の隣にガスストーブが据えられたということだけである。
ふと、専信は息苦しさを覚えた。ガスストーブのためであろう。専信はすぐに襖を開け、部屋の換気を行おうとした。すると、室外から、冷気を帯びた風が部屋の中へと吹き込んだ。専信はぶるりと体を震わせた。
二、三分程経ち、専信は十分な換気が行われたことを確認し、襖を閉めて行った。
襖を閉め終えると、再び専信は壁の前に座った。すると、すぐにある事に気が付いた。ポスターを留めていた画鋲が一つ取れ、ポスターがだらりと垂れていたのである。吹き込んだ風で画鋲が取れたのであろう。
専信は床の上を見渡した。すると専信は、画鋲が床の上に転がっているのを見つけた。画鋲は、天上に向かって、その鋭い針を向けている。その画鋲はまさしく危険な存在であった。
そして、専信は再びだらりと垂れたポスターを見た。あの、小麦色に日焼けしたアイドルの姿は見えなかった。専信はその状態を間違った状態だと思った。
専信は床から画鋲を拾い、それを元のあった場所へと戻し、きっちりとポスターを貼り直した。
再び壁の中央に、輝かしいばかりの笑みを見せる女の姿が現れた。先人はその姿を見る。すると、専信は確信した。今、己は善を為したのだと。
一陣の風が悪を生み、人がそれを正したのだ。専信はこれが正義なのだと、そう思った。
専信はすぐさま師の下へ駆けて行った。
「師匠! わかりました! 悪が現れたのです。そして私は確かに善を為しました。風によって抜け落ちた画鋲を元に戻したのです!」
「うむ、そうか。大山に至るは難く、小石を積むは易し。小石を積みゆけば、やがて大山に至ろう。いや、否。大山に至らずとも良い。例え小山であろうと、己が丈に合わば即ち足れり。精進せい。」
「はい!」
2016/10/13
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます