第十七話 maiden flight な夜

「収納完了! 私、パイロットを首になっても、有能なロードマスターになれるかも」


 冷蔵庫にきちんと収まった食材を見て満足げにそう言った私に、後ろで眺めていた榎本えのもと一尉がおかしそうに笑った。


「笑いごとじゃありませんよ。せめて私がいる間ぐらいは、冷蔵庫の中を人間らしい食生活ができるようにしておかなくちゃ。そりゃあ私だって、今はなにもしなくて良い寮暮らしだから、偉そうなこと言えませんけどね」


 パタンと冷蔵庫を閉めて立ち上がった。


「これからは気をつけるようにする」

「だと良いんですけどね」


 油断していたら、あっという間に逆戻りな気がするのは気のせい?


「それより俺は明日も仕事なんだ。天音あまねがさっさと風呂に入ってくれないと、俺が入れないんだがな」

「わざわざ待ったりせずに、こっちは私に任せて先に入れば良かったじゃないですか」

「そんなことできるわけないだろ? あとの片づけは俺がしておくから、先に入ってこい」

「……」

「ちゃんとするから心配するなって。冷蔵庫になにもなかったからって、家事能力が皆無ってわけじゃないんだから。慌てなくても良いから、ゆっくり温まってこいよ」

「わかりましたー」


 大丈夫かなと半信半疑状態な私は、そのまま一尉に台所から押し出された。


 そしてお風呂を使わせてもらいながら、やっぱり官舎よりも、民間の賃貸業者で部屋を探して暮らそうと決心する。だってこんな風に足をのばせる湯船なんて、古い官舎にはまだなさそうだもの。多少の出費がかさんでも、絶対に民間の賃貸物件にしよう。



『それと遊びに来るってことは、さっきの続きもさせてもらえると期待して良いんだよな?』



「ぶへっ?!」


 お湯に沈み込んでプクプクして極楽気分を楽しんでいたら、以前に一尉が言った言葉がいきなり頭に浮かんで思わず噴き出した。続き? 続きってあの五分の続きってこと? 今回のお宅訪問で、やはり一尉はそれを期待しているってことなんだろうか? そんな態度はさっきまで微塵みじんも見せてなかったけど、頭の中ではあんなことやこんなことを期待してるってこと? 今までそんなことしたことないから、あんなことやこんなことが具体的にどんなことなのか、想像もつかないけど。


「…………」


 五年越しの告白になった小牧こまきでの「俺の女になってくれ」っていうのは、そういう意味ってことなんだろう。でもこっちが勝手に先走っているだけで、本人は慌てず騒がずでのんびりかまえているかもしれない。一尉からなにかアクションを仕掛けてくるまでは、素知らぬふりをしておこう。それが一番無難な気がする。


「なんだ、のぼせたのか? そんなに長くつかってないだろうに顔が赤いぞ」


 しばらくして、お風呂からあがって着替えた私の顔を、一尉が心配そうにのぞき込んできた。色々と考え込んでいたから、いつもより長い時間お湯に浸かっていて若干のぼせ気味なのは否定できない。


「大丈夫ですよ。普段はこんな長風呂はしないから。お酒も飲んだし、お風呂に入って血流が良くなりすぎただけです」


 そんなに飲んでないのに、お酒のせいするのは無理があったかも……。一尉はふーんと呟きながら、変な笑いを口元に浮かべた。


「本当ですよ!」

「そういうことにしておくか」


 ますますニヤニヤした笑いが浮かぶ。


「だからそうなんですってば」

「わかったわかった。そんなに毛を逆立ててうなることもないだろ」

「うなってなんていないです! それに髪の毛だって逆立ってないですよ!」


 髪はシャンプーしたばかりで濡れているんだから、逆立ちようがない。


「それでベッドか布団かどっちがいい?」

「はい?!」


 一尉の問い掛けに思わず引っ繰り返った声で返事をしたら、とうとう一尉がその場で爆笑した。


「そんなに笑うことないじゃないですかっ」

「今の天音の顔、ちょっとした見ものだったな。いったい俺がなにを尋ねたと思ったんだ?」

「え?! いや、べつに、なにも!」


 そんなに涙流してまで笑わなくても良いのに。なんだかムカついてきた。


「もう、いいかげんに笑うのやめませんか?」


 そう言いながら、居間に置かれていたお布団一式の一番上にあった枕を、一尉めがけて投げつける。一尉は笑いながらそれを難なく受け止めると、ブフフと笑いをこらえながら、枕とテレビのリモコンをこっちに投げ返してきた。


「あとでちゃんと相手をしてやるから、好きなほうでくつろいでろ」

「別に相手をしてもらわなくても良いですよ! 明日も仕事なんでしょ! さっさとお風呂に入って寝なさい!」

「おお、怖い怖い」


 一尉がお風呂に行ってしまうのを見届けると、プンスカしながら自分の寝床の準備を始めた。


「……なにがブフフなんだか!」


 枕に八つ当たりパンチを食らわせながら、髪が乾くまで、テレビをつけてニュースを見させてもらうことにする。寮生活だと、なかなかこんな風にバスタオルを引っ掛けたままテレビを見たりできないから、なんだか新鮮だ。テレビでは、ちょうど明日の天気予報が流れているところだった。


「明日も良い天気かあ。ってことは飛行日和ってことだよね、なのに一尉は飛ばないなんてもったいないなあ」


 だけどそれは私のせいでもあるのだ。せっかく今年最後の一日が飛行日和なのに、地上勤務だなんて申し訳ないことをしてしまったかもしれない。


「……」


 部屋の中はエアコンで暖かいし、お風呂から出たところでホカホカしているし、お布団は寝心地最高だし、こんな風にゴロゴロしていたら、腹を立てていてもあっと言う間に寝ちゃえるよねえ……と、テレビ画面のお天気図を見ていたら強烈な眠気が襲ってきた。半渇きだと明日の寝癖が怖いからもう少し頑張って起きておかないと……でも目をちょっと閉じるぐらいなら大丈夫だよ、ね?



+++++



 次に目を開けると部屋が暗かった。さっきまでテレビもついていたし、居間だって明るかったのにどうして?と、首をかしげながら寝返りを打とうとして、腰のあたりになにか巻きついているのに気がついた。


「?」


 触ってみると太いなにか。温かい……腕? ペタペタと触っていると、後ろから溜め息まじりの声がする。


「やっと起きたか、まったく。くつろげとは言ったがくつろぎすぎだ、機長。まさかそのまま寝ちまうとはな。しかも爆睡ときたもんだ」


 不機嫌そうな一尉の声に、ここが自分の寮の部屋じゃないことを思い出した。


「布団もかけずにテレビを前にごろ寝とか。エアコンで温かいとはいえ、風邪でもひいたらどうするんだ。最初は行き倒れているのかと思ったぞ」

「すみません、お手数をおかけして。だけど一尉はなんで隣で一緒に寝てるんですか? 私がお布団を選んだってことは、一尉はベッドでしょ?」

「後で相手をしてやるって言っただろ?」

「明日も仕事だから、さっさと寝なさいって言ったじゃないですか」


 とたんに一尉が不機嫌そうなうなり声をあげた。


「それ、本気で言ってるのか? こっちは自前の操縦桿がとんでもないことになっていて、最悪の気分だっていうのに」

「操縦桿?」

「これのことだよ」


 一尉が私の手を取って後ろに回させると「自前の操縦桿」に触らせた。布越しに感じられたのは熱くて硬いもの。これってもしかして……?


「ま、まあ操縦桿に似てなくもない、かな……?」

「それで? どうしてくれるんだ?」

「どうするって言われても、わあ……」


 一尉が私の手をそこに押しつけたので〝操縦桿〟を握るような状態になってしまった。そのせいでさらにはっきりと、その形が手に感じとれてしまって思わず声をあげる。


「なにがわあだ。無邪気なのも考えものだな、天音。女にはわからないかもしれないが、ちょっとした地獄だぞ?」

「すみません、ごめんなさい」

「どうしてくれるんだ」

「どうしてくれるって。ほら、私が操縦している輸送機の操縦桿はこう、両手で動かすやつですからね、その手の操縦桿の扱いはよくわかりません」


 つかんでいた手から逃れると、両手をお布団の中から出して、自分が輸送機を操縦する時のように動かしてみせる。一尉は笑いながらその手をつかむと、引っ張るようにして私をクルンとあおむけにした。


「だったら、こっちの操縦桿もきちんと扱えるように指導しないとな。心配するな、これでも俺は飛行教導隊のパイロットだ。指導するのは慣れている」

「今から?」

「今から」

「一尉、明日も仕事なんじゃ?」


 営外から基地に通っているってことは、そこそこ早い時間に起き出して自宅を出るはず。だったらそろそろ寝ないとまずいのでは?と期待しながら尋ねてみる。


「明日は飛行訓練は無しで、書類仕事ばかりを押しつけられているからな。多少は睡眠時間が足りてなくても大丈夫だろ。おそらく三佐もそのへんを織り込み済みで、俺に仕事を押し付けたんだろうから」

「え、それって日下部くさかべ三佐は、私と一尉がこういうことをしているって知ってるってこと?」

「三佐から無理して出てこなくても良いって言われていただろ? 遠回しに言われたとはいえ、まったく気がついていないんだからなあ」


 そう言えばそんなことを、一尉だけではなく三佐も言っていたなあと思い出した。ってことは、今夜はあんなことやこんなこと状態だろうってことが、モロバレってこと? 


「あの、それって恥ずかしすぎる事態では?」

「泊りがけで俺のところに来ておいて、いまさらなにを言ってるんだ。この前の続き。ここに来ると決めた時点で、する覚悟はあったんだろ?」

「実はさっきお風呂に入るまですっかり忘れてました」


 私の答えに一尉が苦笑いをしたのがわかった。


「そんな気はしてた。しかし思い出したのに、俺が風呂に入っている間に爆睡とは恐れ入る。まったくどうしたら良いんだろうな、この機長殿のことは」

「そのまま寝かせてくれたら良いと思いますよ?」

「なに言ってるんだ。こっちのことをなんとかしてくれないと困るぞ」


 そう言いながら自前の操縦桿とやらを押しつけてくる。


「そんなこと言ったって、むぅ」


 反論しようとしたら唇をふさがれた。


「こんなこと初めてだから、どうするかなんて私にわかるわけないじゃないですか」


 唇をふさがれつつもモゴモゴと反論を続けると、私の反論を封じるのを諦めたのか、一尉はそのままキスを中断して顔を上げると私のことを呆れたように見下ろす。


「なんですか」

「まだ喋り足りないんじゃないかと思って。こっちも我慢に我慢を重ねた状態を五年間も続けたせいで、いつまで天音のことを気遣ってやれるかわからない。だから今のうちに話したいことは全部話せ。今だったら、おとなしく聞いてやれるから」


 そう言われて、なにかないかなと首をかしげて考える。


「五年間も我慢できるものなんですか?」


 とたんに笑い出す一尉。なにかないかと考えて、真面目に疑問に感じたから質問したのに失礼な。


「私、それなりに真面目に質問したんですけど……」

「すまない。普通だったらどうなんだろうな。少なくとも俺は、他の手段の世話になることなくここに至っているんだから、まあその気になれば、なんとか我慢できるんじゃないのか?」

「なるほど」

「だからって他の男に同じ質問するなよ? 例えばれいの風間かざまなにがし君とか」

「聞きませんよ! もう! どうしてこんな時まで、風間君の名前が出てくるんですか!」


 風間君に、一尉のことを散々うるさく言われてウンザリした記憶がよみがえる。そのせいでちょっとムカついて、八つ当たり気味に一尉の肩を叩いた。


「年の近いイーグルドライバーが天音の近くにいることに、俺は警戒しているんだろうな」

「年下の男の子相手に大人げないんだから。それに今は私よりも一尉のほうがずっと近いじゃないですか、物理的に」

「大人げなくてけっこう。自分の女のことは自分で守らないと」

「あっちは一尉のこと、神様のごとくあがたてまつっているというのにほんとーに大人げない。そんなことを一尉が言っているなんて知ったら、風間君、泣いちゃいますよ」


 そう言いながらさらに一尉の肩を叩く。


「すまんすまん、これで勘弁してくれ」


 一尉は笑いながらキスをしてきた。


 この手のことに関してはまったく無知だったので、最初のうちは一体どのタイミングで服って脱ぐものなんだろうと心配していたけれど、まったくその必要はなかった。というのも、気がついたらお互いの身につけていたものは、きれいさっぱり何処かに消えてしまっていたから。


「なんだか初めて単独飛行する時より緊張するかも……」


 直接触れている一尉の肌の熱さに、ドキドキしながら呟いた。


「いきなり適性検査でバレルロールすることを考えたら、簡単なものだろ」

「そうかなあ。あっちの方がずっと簡単な気がするけどな……」

「怖いのはわかるが、できるだけ力を抜いてろよ、ちはる」


 いきなり名前を呼ばれて、一瞬自分達が今なにをしているのかを忘れてしまった。


「私の名前、知ってたんだ」

「当たり前だろ。そう言うちはるの方は俺の名前、知ってるのか?」

「知ってますよ、それぐらい。榎本雄介ゆうすけ一等空尉、雄介さん」

「よろしい。薄情な機長殿のことだから、知らないままなんじゃないかと思ってたよ」


 まあ訓練中に、耳タコなほど一尉の経歴を私の耳のそばで言い続けたなんとか君のお蔭ですけどね、とは今は言えないかな。


「で、覚悟は良いか? だらだらしているより思い切りが肝心だからな。痛いのは一瞬だ、多分」

「多分て」

「俺は女じゃないからわからないんだよ。You cleared for takeoff ?」


 そう尋ねられた。それはパイロットが離陸する時に必ず耳にするにする言葉だ。そしてその答えは決まっている。


「…… ア、I cleared for takeoff、多分……」


 この初飛行は空を飛ぶのとは違って、ちょっぴり怖くて痛かった。だけど一尉が一緒に飛んでくれたし、いざ離陸してみたら、信じられないぐらい素敵なものだった。

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