第十三話 防空識別圏

 防空識別圏とは、自国の防衛上の理由から設定されている空域のことである。この空域は、二十四時間、レーダーサイトによって監視されており、侵入してきた領空侵犯の危険がある航空機に対しては軍事的予防措置、いわゆるスクランブル発進がおこなわれる。



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「後ろから、ずいぶんと賑やかな気配が伝わってきますね。なにか貨物で変わった物って、積んでいましたっけ?」


 小牧こまき基地を離陸してから十分ほどして、シートベルト着用のランプが消えたとたんに、後ろの貨物室からワイワイガヤガヤと賑やかな気配が伝わってきた。


 体験飛行をするために搭乗した民間人が乗っていれば、外の景色を見たり写真を撮ったりで、後ろが騒がしくなるのは理解できる。だけど、今この輸送機に乗っているのは全員が自衛官。そこまで騒ぐようなことなんて、あったかなと首をかしげた。


「今回は空自だけじゃなく、陸自の人間もいるからな。連中が今日は女性パイロットだと聞いて、なぜか大いに盛り上がっているらしい」


 花山はなやま三佐が苦笑い気味に教えてくれる。つまりは変わった物ではなく、変わった人達が乗っているということみたいだ。


「女性パイロットって私のことですよね? もしかして女の訓練生だから、不満で大騒ぎってことなんでしょうか?」

「いや、どちらかといえば喜んでいるみたいだぞ?」


 それを聞いて、微妙な気持ちになった。


「なんていうか、言っちゃ悪いですけど、ちょっと変な人が多いですよね……陸自の人達って」


 そう言ったしたんに、なにやら歓声のような雄叫びのような声が後ろでした。コックピットまで聞こえてくる雄叫びって、一体なにごと?


「……ちょっとどころか、かなり変かも」


 そうぼやくと、山瀬やませ一尉がチラリとこっちに目を向けて笑った。


「あんなのいつものことだ、珍しくもなんともない。この程度で驚いていたら、陸自との共同演習なんてできないぞ?」

「あまりお近づきになりたくない気がしてきました」


 わりかし本気で。


「そう言えば天音あまねは、陸自の空挺部隊の降下訓練はまだ未経験だったよな?」

「はい。あれには奈良から戻ってきてからつれていってやるって、緋村ひむら三佐が言ってました」


 そう言いながら、アイマスクと耳栓、そして自分専用のネックピローまで持ち込んでお昼寝中の教官を顎でさす。


「ああ、なるほど。さすがにあれは、訓練生の段階では参加させられないか。花山三佐はなにか聞いておられますか?」

「三佐は訓練期間中にやらせたいと考えていたようだが、陸自あちらから、訓練課程を受けているパイロットに降下訓練の操縦を任せるなんて、とんでもないと言われて諦めたらしい」


 花山三佐が笑った。


「緋村三佐が、天音の腕を買っているのはわかっていましたが、どこまで教官の裁量を行使する気だったのか、知りたいものですね」

「さてはて、機長の考えていることは私にもさっぱりだ」

「それで、騒いでいる後ろのお兄さん達はどうするんですか? まさかここに押し掛けてくるってことは、ないですよね?」


 後ろを指でさしながら質問する。あの騒ぎっぷりからして、いきなり押し寄せてくる可能性も、無きにしもあらずなのでは?と心配になってきた。


「女性パイロットは珍しいから、コックピットに押し掛けてくるかもしれないって、心配してるのか?」

「やめてくださいよ、シャレになりません」

「ま、連中の子守りは、谷口たにぐち一曹と井原いはら一尉に任せておけば問題ないだろう。そのうち俺達は幼稚園の保父じゃないんだぞって、怒り出しそうだけどな」


 そう言って、一尉は呑気そうに笑う。


「なんだか山瀬一尉、緋村三佐の物言いに似てきましたよ?」

「そうか? 長いこと一緒に飛んでいたからなあ。ん? ってことは、天音もそのうち三佐に似てくるってことなのか?」

「ええええ、それだけは勘弁してほしいです」


 そんな私達の会話なんて、夢の中の三佐殿にはまったく聞こえていない様子だった。



+++++



 輸送機は順調に飛行を続け、そろそろ奄美あまみの島々が見えてくるだろうと下に広がる海原を見ていたら、いきなり警告音がして、レーダーに二つの光点が現れた。それは南から北上してきており、真っ直ぐこちらに向かってくる進路をとっている。


「山瀬一尉、こちらに接近してくる機影が

「花山三佐、この周囲を飛行する民間機の予定は、どうなっていましたか?」


 一尉がそれを見て、花山三佐に声をかける。


「このあたりは国際線も国内線もかなりの数が飛んでいるが、この進路とスピードからすると、どう考えても民間機ではないだろうな」

「軍用機ということですか?」

「……識別コードは? うっかり名札をつけ忘れた名無しの権兵衛ごんべえさんか?」


 それまで爆睡していると思っていた緋村三佐が、いきなりアイマスクと耳栓を取った。そしてネックピローを首からはずしてヘッドセットをつけると、こちらに体を乗り出してきてレーダーを覗き込む。


「こりゃまた珍しいコースを飛んでいるな。花山?」

「お察しの通り、飛行計画書の届け出はされていないようですね。いわゆる所属不明機です」

「ってことはとどのつまりはアレか、想定外のルートを飛行しているマトリョーシカの定期便か、四千年のお友達ってやつか。花山、このあたりを連中が飛んだことは、以前にもあったか?」


 つまりレーダーに映っているのは、どこぞの国から飛んできたであろう、招かざる客人ということらしい。彼等が、こちらの防空識別圏内に入って、領空をかすめるようにして通り抜けていくことはよくあることだ。そのたびに空自の戦闘機が、スクランブルで対処している。そしてその飛行ルートは、相手国によってだいたい飛行パターンが決まっていた。


「このあたりの空域だと、南下して列島を周回する、北からの戦略爆撃機が飛来することが何度かありましたが、いきなり北上してくるとは、いつもの侵入パターンとは違いますね。早さからして戦闘機のようにも思えますが、目一杯増槽ぞうそうしているにしても、一体どこから飛んできたのやら」


 しかも二機も。


「アメリカさんはなんと言っている?」

「いつものようにだんまりです」

「まあここは日本だからな」


 恐らく私達が気づいた時点で、あちらもレーダーで捕捉して、追尾はしているだろう。だけどこういう場合は、余程のことがない限り、空自にお任せというのがあちらのスタンスだった。


「まさか迷子とか言いませんよね?」

「それはないだろ。今時の航空機で、知らない間に他国の防空識別圏内にうっかり侵入するなんてことは、ありえない」

「計器が故障して、自分達の現在位置を見失ったとか?」

「二機そろって?」


 一尉はその可能性はないと、踏んでいるようだ。


「ふむ。南からレーダー網に引っ掛からないように、大きく迂回してきたのかもな。連中の考えることは、まったくもってわからん。意外と天音の言う通り、計器の故障で自分の位置を見失っているのかもしれないしな、都合よく二機そろって」


 緋村三佐が顎に手をやりながら言った。意図的なのかそうでないのかはともかく、二機の得体の知れない航空機が、真っ直ぐこっちに向かっているのはまぎれもない事実だ。


「花山?」

那覇なはの管制に問い合わせました。那覇基地のイーグルがスクランブルで上がって、こちらに向かっています」

「ってことは、軍用機で間違いないってことだな」

「そのようです」

「どうしますか三佐、回避行動に入りますか?」


 山瀬一尉がチラリと私を見ながら、三佐に問いかける。


「いや。明らかにこちらが追尾されているならともかく、この距離ではまだ早い。連中がこっちに入って、どれぐらいだ?」

「この速度からして、五分足らずといったところでしょうか」

「山瀬、全員に安全ベルト着用の指示を出せ。花山、井原にビデオを回せるように準備しろと伝えろ。目視できる距離にまで接近してきたら、可能な限り記録を残しておくようにとな。それと後ろの血の気の多い陸自の連中には、なにがあっても静かにしろと厳命しろ。騒ぐとうちのパイロット様の気が散って、海に落ちるぞってな」

「わかりました」


 三佐も体を起こすと、シートの安全ベルトに手をのばした。


「三佐、操縦を変わりますか?」


 さすがに今回のこれは、訓練生の私には荷が重い事態だ。山瀬一尉が機長を務めているとは言え、やはりここは三佐に交替したほうが良いのではと声をかける。


「いや、山瀬とお前で問題ない。どちらにしろ、あっちはまだ日本の領空に入ったわけじゃないからな。山瀬、コースは現状を維持。那覇の連中がバカンス気分でだらけていなければ、こっちが相手の射程に入る前にイーグルが到着する」


 三佐は私を見てニヤリと笑った。


「とんだチキンレースだな。緊急回避に備えて肩の力を抜いておけよ、天音」

「笑ってる場合じゃありませんよ。あっちに落とす気があって接近しているなら、下手すりゃ皆そろって海の藻屑もくずです」


 三佐なりに、軽口を叩いて私のことを気遣ってくれいるのはわかるけど。


「なんだ。学んだ戦略飛行がどう役に立つか、試したくないのか?」

「できることなら、そういうものとは無縁のまま、退官したいです」

「えらく消極的だな」

「そういう問題じゃありません」


 三佐は笑いながら「じゃあ二人に任せたぞ」と言って、シートに落ち着いた。


「心配するな。戦略核でも搭載した爆撃機ならともかく、こっちは人員を乗せたただの輸送機だ。それをこっちの防空識別圏内で撃ち落とせば、どういうことになるかわからないほど、相手も馬鹿じゃないだろう。肝心なのは、こっちから相手に、攻撃するきっかけを与えないことだ。あとのことは後から来るイーグルに任せろ。客のあしらいは、連中のほうが手慣れている」


 それから五分もしないうちに、那覇基地所属のF-15が三機、飛来した。こちらと北上してくる機影の間に割り込むと、相手に対して、ここは日本の防空識別圏内でこのまま飛ぶと日本の領空だ、さっさと引き返せと、英語、ロシア語、中国語という三か国語で繰り返しながら通信を送る。しかし相手はなんの反応も示さず、こちらに向けての進路を取り続けていた。


「なんでこっちを目指して飛んでくるんでしょう。なにがしたいんですかね、あれ。不気味すぎます」

「さあな。まさか天音に会いたいとかじゃないよなあ?」


 相変わらず、三佐は呑気な口調のままだ。


「やめてくださいよ、縁起でもない」

「わからんぞ? なにせお前さんは、アメリカ空軍のアグレッサーにまで気に入られているんだから」

「だからやめてくださいって、縁起でもないんだから」

「そろそろ来るぞ。あちらは戦闘機だ、擦れ違いざまの衝撃と気流の乱れには気をつけろ」


 そうこうしているうちに、接近する機影が肉眼でも見えてきた。そして擦れ違うかと思っていたところで、急に左に機体を傾けて旋回をした。


「どうやら、こっちの警告を受け入れて、引き返す気になったようだ」


 遠ざかっていく機影を見つめながら、山瀬一尉が呟く。


「やれやれだな。花山、井原に映像は撮れたか確認してくれ」

「わかりました」


 離れていく二機の後ろを、今度は空自のイーグル二機が追いかけていくのが見えた。


「井原から伝達。メイドインジャパンのズーム機能と手振れ補正を舐めるな、だそうです」

「バッチリ撮ったってことだな、よしよし上出来じょうできだ」


 そして残ったイーグルが一機、こちらの横に並ぶ。


『こちらジャガー01。キャメル06、これより貴殿を那覇基地までエスコートする』

『こちらキャメル06、エスコート感謝する』

「おう、わざわざのお出迎え御苦労だな、長門ながと

「緋村三佐、お久し振りです。遅くなって申し訳ありません」


 相手も三佐のことを知っているようで、日本語に切り替えて返事をしてきた。


「この距離だ、十分に早かっただろ。こっちは、後ろに血の気の多いお客さんを乗せていたんでな。モタモタしていたら、勝手にハッチを開けて武器を手に飛びかかっていきそうな連中だ。お前達が早々に来てくれて助かった」


 三佐の言葉に、相手のパイロットが笑い声を漏らしたのがわかった。


「そう言っていただけるとありがたいです。本日は訓練飛行での来訪でしたね。今回のことで、三佐の教え子殿が怖がっていなければ良いのですが」

「その点は心配無用だ、一尉。うちのお嬢さんは、最近の若いモンにしては珍しく肝っ玉も据わっているからな。それで? あの客は何処まで送っていくつもりだ」


 そう言いながら、三佐は私の肩をポンポンと叩く。


「少なくともアディズを出るまでは、追わせます」

「なるほど。しかし今回は意外なルートで来やがったな。まさかあの方角から、お客さんが来るとは思っていなかったから驚いたよ。そちらで映像は撮ったか?」

「部下の機にカメラを搭載していますので、問題ありません」

「そうか。こっちでも撮ったので、後でそちらに渡すようにしよう」

「ありがとうございます」


『ではジャガー、那覇までのエスコートを頼む』

『了解しました、キャメル』


 通信が終わると、三佐はよっこらせと言いながらシートにもたれかかった。


「やれやれだな。こういうことに遭遇せず、パイロット人生を終える人間のほうが多いんだが、天音、お前はなかなか運が良いのかもしれないぞ」

「それって逆では? さっきも言いましたけど、私はこういうことには遭遇したくありませんから。物騒なフライトは、悪天候だけで十分ですよ」


 できることなら、お客さんとの鉢合わせはこれっきりにしてもらいたい。


「そうなのか? こういう経験は、しておいたほうが後々のためになると思うんだがな。さて、もう少し昼寝はできる距離だよな?」

「「まだ寝るつもりですか?!」」


 三佐の言葉に、私と山瀬一尉は思わず声をあげてしまった。二人に同じことを言われて、三佐は顔をしかめる。


「なんだよ、途中で無理やり起こされたんだ、あと少しぐらい寝てても良いだろうが」


 ブツブツと文句を言う三佐の様子に、溜め息が漏れてしまった。さっきまで三佐のことをちょっとカッコイイなんて思ったのは、きっと一時的な気の迷いに違いない。


「……もう好きにしてください、誰も止めやしませんから」

「そうだろ? そうだろ? だったらお休み。着陸して機体が止まってから起こしてくれ」


 足元に転がっていたネックピローを拾い上げると、アイマスクと耳栓をいそいそとつけて三佐は昼寝を再開した。まったくなんという図太さ。さすがベテランパイロット、と言っても良いのだろうか?



■補足■


増槽ぞうそう … この場合は機体の外につけた追加の燃料タンクのこと。航空機だけではなく戦車などでも増槽することがあります。長期・長距離作戦の時など内蔵されている燃料タンクだけでは足りない時に装備します。

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