第2話俺の屍を超えていけ

 空を厚い曇天が覆っていた。天から地に雨が降り続いている。数多の怒号が響き渡るこの戦場において、この雨が人間に味方しているのか、それとも人ならざる者に味方しているのかは誰にもわからなかった。

 織田木瓜の旗が揺れる陣中に一人の武士が息を荒げながらやってきた。


「伝令! 竜馬(りょうま)殿が先行して前線をかき回しています! それによって中央の連携は分断、バラバラの戦いを強いられています!」


 甲冑に身を包んだ槍兵の言葉に殿と呼ばれた男が頭を抱え溜息をついた。見れば、奇抜な見た目の甲冑の右肩部分に織田木瓜が描かれている。この男こそが、織田の頭領織田信長その人だった。


「まーたあの馬鹿は一人で突っ込んでるの? もういいよ、竜馬はほっといて左翼と右翼の守りを固めて。中央は竜馬の援護に徹して。鉄砲隊と弓兵、槍兵は三人で一組だからね。絶対に忘れないように」

「はっ!」

 槍兵は駆け足でその場を後にした。信長の指示を部隊長に連絡するためだ。


「近衛(このえ)殿にも困ったものですね」

 そう苦笑しつつ言ったのは女性だった。艶やかな黒髪は後ろに緩く一纏めにされ白い紐で結ばれている。切れ長の目からは強い知性を感じさせると共に右目下にある泣きぼくろが妙に淫猥な雰囲気を醸し出している。豊満な乳房は服の上からでも十分に自己主張をしていて、剥き出しになっている太腿は牝鹿を思い出させる健康的な肉体美を誇っていた。


 その美貌もさることながら、何より驚くべきはその女性が現代から考えて、およそこの時代らしからぬ、素材さえそれならば革ジャンに見えない事もない羽織りらしきものを身に着けている事だった。その羽織りには、水色桔梗紋が描かれている。


「あいつ協調性ない上に強いんだもん。ほっといた方が戦果挙げるし、もういいよ」

「ですな」と言いつつ、女性は手を口元に持っていき思考する。「しかし、妙ですね」

「あ、やっぱみっちーもそう思う?」


「はい。鬼達の士気がいつにも増して高い。それに、この数。今まででは考えられない事です」

「だよねー。鬼にとってなんか重要な拠点だったりすんのかな? なんかわしすげー面白い事が起きる気がするんだけど」


「さようで。しかしながら此度の遠征は徳川殿との共同戦線でもありますから、失敗は避けたい所です。その予感が良いものである事を祈るばかりです」

「ま、なるようになるさ」


 その時、一際大きな雷が落ちた。速いが、目視出来る程度にはゆっくりに、しかし確かに極太の雷の束が天から地に落ちた。

 それを見た信長はニヤリと笑った。


「わしの勘ってよく当たるんだよね」

「近衛殿が来られた時も、あのような雷が落ちましたなぁ。たしかあの時もこのような天気でした」


「これは荒れるぞー。楽しみ楽しみ」

 不思議な事に、雷が落ちた場所を中心に急に雲が割れて霧散し始めた。天からのまばゆい光が地を照らす。雨があがり始めた。


   ○


 目に付くのは人の死体と鬼と表される異形の死体。硝煙の匂いと血の臭いが鼻につく。中心地から離れているとはいえ、ここも戦場である事は疑いようもなかった。

 慶一郎は刀に触れた途端意識がズレ、気が付くと見覚えのない山奥の地に伏していた。


 意識がはっきりしだすと、慶一郎はまず自分が置かれた状況を把握しようと努めた。指差し確認ではないが、声に出して順を追って状況を探る。


「俺は父さんに付き合わされて遺跡の発掘をしていた。この刀を見つけて触った。そしたらここにいた。周囲には死体。まず間違いなく危機的状況に陥っている」


 言葉に出して状況を確認すると、不意に冷や汗が背を伝ったのがわかった。

 この場に居続けるのはマズイ。気のせいか怒号や銃声が近づいてきている気がする。そう判断した慶一郎は、行く宛もないまま聞こえてくる怒号とは逆の方向に向かって歩きだす。荷物になる刀をその場に置いていくか迷ったが、なんとなくそのまま持っていく事にした。


 刀を杖代わりに歩く。鞘の先端が地に打ち付けられる度にカチャカチャと音が鳴る。


(歩いてどうかなるのか? そもそもここはどこだ?)

 考えた所で望む答えを出してくれる者はいなかった。しかし、ただ黙ってその場にいると焦燥感で頭がおかしくなりそうだった。だから、歩く。


 そうして十分程緩やかな坂になっている山道を歩き続けた頃だろうか、不意に、茂みがガサリと音を立てた。


「だ、誰だ!」

 現れた血に塗れた甲冑を着た人間だった。慶一郎はその格好に見覚えがあった。

(たしか、父さんの書斎にあった足軽だかの格好に似てる?)


 考えもそこそこに、いきなり現れた重傷者に駆け寄り、慶一郎は男を地べたに座らせ、容態を確認する。そこかしこに目立つ裂傷があった。そのどれもから多量の出血が見られ、素人目にも彼が危険な状況に置かれているのがわかった。むしろ、この状態で立って歩いている事に驚く。


「だ、大丈夫か?」

「……まだ生きている奴がいたのか」

 存外、男の声には未だ覇気が感じられた。


「あ、ああ。俺はピンピンしてるけど……その、あんた、その傷は誰にやられたんだ?」

「なんだお前、ここいらの村人の生き残りか? まだ逃げてない奴がいたのか……。鬼だよ。この辺はもう駄目だ。そこら中に鬼共がうようよしてる」

「鬼って、あの鬼か?」

「そうだ」


 常であれば冗談だと言い切るが、道中それらしきものの死体を見てきた慶一郎はそんな馬鹿なと一蹴する事は出来なかった。あれらが放っていた死臭はリアルそのものだった。


「……何か俺に出来る事は?」

「本陣だ。本陣に連れて行ってくれ……。祠を見つけたんだ。信長様に報告せねば」

「信長!? 待て、待ってくれ! 今って何年だ?」

 男は慶一郎の質問に訝しげな表情をしつつも「天文二十一年だ」と言った。

「……タイムスリップだ。俺、タイムスリップしちゃったんだ……信じらんねえ……」


 天文二一年といえば戦国時代が佳境に差し掛かる寸前の時期、具体的には翌年一五五三年には武田と上杉が有名な「川中島の戦い」を起こし、八年後の一五六〇年には「桶狭間の戦い」が起こる。現代まで語り継がれる有名武将達が総出で戦い始める時期だった。しかし、歴史書のどれを紐解いてもそこに鬼などという単語は出てこない。それが慶一郎をより不安にさせた。


「たいむすりっぷ? なんの事を言ってる?」

「この時代の人に言ってもわからないよな……いや、いいんだ。それより本陣? だっけ? それはどっちにあるんだ?」


 男が「あっちだ」と言って指差した方向は、先程慶一郎が歩いてきた方角だった。つまり、怒号や銃声が響いていた方向だ。

「なるほどね。なるほど、わかった。行こうか」


 慶一郎は男に肩を貸し、立ち上がらせる。傷に気を使いながらゆっくりとした歩みで、尚且つ周囲に気を配りながら本陣に向かって歩きだす。

「なあ、今は信長軍が鬼の軍勢と戦ってるのか?」


 慶一郎は男に話しかける。この世界の情報を得たいという気持ちも多分にあったが、それ以上に男の意識を繋ぎ止めておく意図があった。時が経つに連れ、流れ出た血が男の意識を刈り取ろうとしているのは明白だった。


「……そうだ。ちょっと前に草がこの辺に鬼が集結してるとの情報を持って帰ってきてな。家康殿と共にこれを撃退しようとしたんだ」

「いえやっ……! いや、なんでもない。でも、事前に見つけたって事はある程度準備は出来たんだろ? 勝ってるんだよな?」


「わからん。が、事前に聞かされていた話よりも鬼の数が多いんだ。そのせいで俺達の隊は皆やられちまった。今は竜馬殿が戦線を維持してるはずだが、それもいつまでもつか」

「全滅って、あんた以外皆死んじまったのか?」


「そうだ。祠を見つけたんだが、どういう訳かその周辺には鬼が多くてな、囲まれてしまってこのザマだ」男は何を思ったか急に笑いだした。「笑えよ。俺は仲間を犠牲にして逃げたんだ。俺が逃げるために蹴飛ばしたあいつの顔が忘れられないよ……」

「それは……でも」

 自分が生きるためにはしょうがない、そう言って男の行動を正当化するのは簡単だった。だが、何も知らない慶一郎が無責任にその言葉を口にするのははばかられた。


「俺はたぶん助からないから先に言っておく」

「そんな事は――」

「いいから聞け! この道を真っ直ぐ戻った所にさっき話した祠がある。厳重な封印がほどこされていたから、きっと鬼共にとって大事なものがあるんだと思う。万が一本陣にたどり着けなかった時は、お前が信長様に伝えてくれ。頼んだぞ」


 それきり男は口をつぐんでしまった。ただ苦しそうな荒い息遣いが聞こえるだけだ。先程まで覇気が感じられたのは、最後の力を振り絞っていたからなのだろう。果たすべき思いを慶一郎に伝えた今、男の身体には見た目通りの痛みが走っていた。


 死を目前とした男の想いを無碍には出来ない。慶一郎は一層その歩みに力を込めた。しかし、歩けども歩けども山道を抜けられる気配が感じられなかった。男の息遣いも一層激しいものになってきた。焦りだけが募っていく。そんな時だった。再び茂みがガサリと音を立てたのは。


 慶一郎は助かったと思った。自分以外の人間が現れてくれるのだと考えた。しかし、その考えは一瞬にして霧散した。姿を現したのは三体の鬼だった。

 二〇〇センチ程度の巨躯は緑色をしていた。並外れた筋肉に、威嚇するように開かれた口からはみ出す鋭利な牙。そして何よりも、額に生えた角。その存在こそがこれが鬼であると強く主張していた。


「は?」


 理解の範疇外の存在に対して出たのはその一言だけだった。腹の底に響く鬼の唸り声。未知の存在に対する恐怖で思考が停止してしまった。思考だけではない。呼吸すらも止まってしまった。


「に、げろ」

 男の言葉でやっと息が出来た。慶一郎は長い間息を止めていたかのように肺に必死に酸素を取り入れる。緊張で手が手汗でびっしょりとなっているのがわかった。

「逃げろって言ってもどうやって……」


 鬼共は道を塞ぐように慶一郎達の前に立ちふさがっている。鬼の移動速度がどの程度かわからないが、少なくとも傷病人に肩を貸しながら走って振り切れる速度でない事だけは確かだ。それに、逃げ道といっても来た道を戻るか、一寸先の足元が見えない草むらに行くかしかない。


 そうこう考えている内にも鬼は獲物を前に舌なめずりをしながら、まるで品定めでもするかのようにゆったりとした足取りでこちらににじみ寄って来ていた。


「俺に構わず、逃げるんだ」

「で、でも……」

「いいから逃げろ!」


 男はどこにそんな力があったのか、肩を貸していた慶一郎を突き飛ばし、腰に差していた日本刀を抜き、鬼に向かっていった。男は覚束ないながらも必死に刀を振り回している。 途端に活きが良くなった獲物に喜びを感じたのか、鬼は一際大きなうめき声をあげ、刀をわざと鋭く伸びた爪で受け止めてみたりしていた。


 遊ばれている事を察した男は気力を振り絞って「フッ」気合と共に、人生最高の一太刀を鬼に浴びせた。


 傷をつけられた鬼が声にならない声を叫び怒り狂う。

「俺の屍を越えていけええええッ!」

「く、クソォ!」


 慶一郎はどうしようもない現実に悪態をつき、逃げた。情けない走り方だった。それでも、必死に逃げた。


 遊びすぎた事で一匹獲物を逃してしまった事に苛立ちを感じた鬼の動きは途端に機敏なものになった。男の振る刀を弾き飛ばし、尋常ではない膂力で男を地面に押し倒した。


 振り返った慶一郎が見たのは、地に伏した男の身体をクチャクチャと音を立てながら咀嚼する鬼共の姿だった。


   

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