第16話 アドバイスくれた写真家の話 3


 俺は、すでにこの中で、自分が一枚の写真になった気がしました。俺はこの作家の中で、純粋に世界を構成するための一要素でしかない。生身の人間じゃなく、単なる要素でしかない。


 俺は、自分の住んでいる世界を創造している「創造主」と喋っているような錯覚に何度も頭を振りました。俺はまるで、この作家の作品の中に住んでいる人形のようだ。そして、その世界にいる限り、俺は安心して俺のままでいい。全てを預けて、俺は俺らしくいて、何も問題がない。俺はしあわせに、ただただ、終わることのない夏休みを生きる。その作品の中で、閉じ込められたように永遠を繰り返す。



 俺が写真家の世界にすっかり飲み込まれて、舞い上がっているのか、何を喋ったのか、ほとんど覚えていない中で、隣にいた女の子を連れてきておいて、本当に良かった、と後から思いました。


 俺が自分の作品DVDや写真を見せた時に、写真家がくれたアドバイス。


 君の作品はせっかく細かく、いろんなファクターが手が込んでいるのに、いまひとつ、作り込みが足りない。規模が大きすぎるのかもしれない。大きすぎて無理が出るなら、少し小さくして、もっと完璧に作り込んではどうなのか。


 俺は、自分の作品が全く完璧でないことをよく知っていて、完璧なものを常に100パーセントで作り込んで撮ってきた写真家を心から尊敬しているために、その言葉をとても重く受け止め、胸にしまって帰ってきました。


 いつでも相談してくれたらいい、と作家は自分のメールアドレスをくれて、俺は、連絡することはないけれど、今も最も大事なこととして、自分の胸にこの出会いを収めています。俺は、本当に尊敬している人を必ず雲の上に置くのです。そうやって下から、まるで空を見上げるように、時々、眺めては満足するのです。


 実はそれ以外にも、本当に俺が感動する場面がたくさんありました。

 そのことを書かないのは、俺が実名でこれを書いていないから。


 もしも俺が実名で何か書くチャンスに恵まれたら、写真家の名前も明かして、もっと詳しく書きたいと思うものの、おそらくそういう機会はないだろうと思います。また、勝手に人のプライバシーを外に晒すということについて、俺はいつも書く上での構造的なに悩みます。書く以上、そういう悩みはいつもセットでやってきて、だから俺は、いつも本当に大事なことというのは、何も書けないと感じるのです。もちろん、本当に大事なことは、教えてももらえませんが。


 俺は、この写真家が、本当におとぎの国のような場所に普段から生きていることについて、ものすごく感動して帰ってきました。それは、こんなふうに生きられるなら、世界というものとの折り合いが上手につけられる、と「俺自身の救い」になりました。


 この写真家は、もう写真をやめてしまっていますが、こっちとアジアを行き来して、アジアの国で普段は生活している、と言っていました。物価が安い国だから、そういうことができるのか。それとも、そういう発展途上国は、住んでいて癒されるから長く住んでいるのか。


 写真家が、その国で一年の半分を過ごす理由は、その国の発展に何か寄与する活動をしているから、というような気配があったのですが、それ以上に、どこかギスギスした感じのあるこの国よりも、そっちの国の方が落ち着く、というのもよくわかります。


 その写真家の持っている雰囲気が、限りなく優しく、俺は、こんなに清らかというか、細かい優しい波長の人であれば、この国に生きているのは厳しい、とその部屋を出る時に痛感しました。俺はまるで、催眠術にかかったように、部屋からドアを開けて、外の世界に出るのが怖いような錯覚に陥っていました。


 だから、一緒にいた女の子に「早く」とせっつかれるように言われてなかったら、帰る道がわからなくなった迷子の子供のように、そこに居ついてしまいそうでした。


 今は写真の世界も、簡単にコンピューターで画像を触れるようになってしまい、この写真家のような手法は、コンピューターが一瞬で、適当にやってしまうものが多くて、それが、すっかり写真をやめようと思った理由だと、その写真家は話していました。自分のやりたいことは全てやった。もう作品を作ることはないだろう、と。早い引退でした。


 

 俺はこの時に、ある意味、テクノロジーの進歩を呪いました。薄っぺらい簡単な作業で、この写真家がコツコツ積み上げてきた美しさが奪われたような気がして。


 この写真家の作品の中で、俺が大好きな一連の作品も、今やフォトショップで、簡単にやってしまえるようなものがあります。それと、この作家の苦労と比較すると、正直言って、俺は「過去に戻って生きていたい」錯覚に陥るような、時間の流れの別流を感じます。俺は、昔からよく「同じ世界に生きてる人のような気がしない」と、一緒にいる人からは言われたものですが、それはある意味、事実で、俺は自分が自分らしく生きるために、俺自身の現実をまるっきり他の人とは違う場所に置かないと、時に存在することができないで来ました。


 結構、作品制作というのは大変で、というようなことをその作家は言い、この展示で、過去、撮影に使った全ての持ち物を持って行ってもらった、と。俺も参加しましたが、それはまるで、写真世界との訣別のためのお葬式の行事のようで、実家にはまだ、その作家が美術館のイベントで参加者の俺たちにくれた写真撮影の小道具があります。


 実は俺は、美術館で三度、その作家に会いました。長い会期の中で、俺が駆けつけた時、その作家が会場にいて、会期の最終日の数日間にこの部屋にあるもの全て、来場者に一つずつプレゼントする、と言い、俺はバカンスで次に来ることができるのが、本当に終わりの方に近く、とても悔しく思いました。何も残っていないかもしれないと。そんなことはなく、俺は、子供用の砂漠の、手書きのようなイラストの古い大きなポスターを手に入れたのですが。


 何から何まで、その作家は俺の夢の中の創造主のようでした。俺が大好きなものを詰め込んだような人でした。



 俺の住んでいる世界というのは、実のところ、ある意味、おとぎ話的で、俺の書く他の現実の殺伐とした感じだけを知っていたら、おそらくピンとこないだろうと思うのですが、実際の俺というのは、聖俗、両極端な世界を常に併せ持っているのです。そうすることで、何とか精神的なバランスを取っているのかもしれず、骨だけで中身のなくなった死体を踏み越えて歩くような、感覚的で子供っぽい乾いた装飾のない文章の俺の世界が、天使が何でもお手伝い的なふわふわした実態のない理想世界と同時に存在しているような奇妙さは、おそらく現実で俺と出会った人に「何らかの違和感」を与えてしまう気がします。そういうことは、言葉にせずとも、まるでチョロチョロとダムから水が少しずつ溢れているように、相手に伝わってしまう。その違和感が「なんだか普通じゃない気がする」と言われる所以なのだと思います。俺は黙って笑っていればいいんですが、そんな大人しくできずに、気分によっては、相手を突き放したくなるのです。その攻撃性は、誰も中に入れたくないというような、まるで大きくて厳格なゲートの前に立つ見張り番のようで。


 俺はそのことを気にして、出来るだけ殺伐とした現実に身を置いて、すでに息ができないでいます。できるだけ誰も近づいてこないように。俺が現実に存在するために、出来るだけ手触りの残る世界を選んで存在すると「生死の瀬戸際」のような場所ばかりになり、そのことが余計に俺の住む世界をにしてしまう。何でいつも、そんなに大変そうなのか。よく聞かれました。世界はこんなにも平和なのに、と。


 いつも、、と言われてしまう所以がここにあって、俺に取って「ごく普通の現実」とは何なのか。俺は学校にいた頃は、外側からの枠組みがあり助かる、とは思っていたけれど、どうしても普通にしていると感じに苦労して、周りの人たちに必死の思いで合わせていました。


 それは、自分がはみ出すんでなく、俺の持っている世界が他の人の持っている世界とまるっきり異質なために、自分が世界にきちんと存在しようとしたら、勝手にはみ出していく。


 他の人の住んでいる現実と、出来るだけ合わせたいのに、自分の現実はどこか勝手に広がっていく。共有できるところが少ない。自分の住んでる現実を上手に共有できる人がいないということが苦しい。それで、世界を自分が勝手に作っていくしかない、自分だけはそこに住もう、と思い始め、今に至っているのかもしれないこと。


 コンピューターの画面でちょちょっといじって作ったものと、計算して長い時間をかけて、作ったものとの違い。俺は、画面を見ていて、その長い時間を読み取る方なので、その作家の作品を愛しているんだと思います。絶対に結果が同じなんていうのはあり得ないことですが、ごく普通の人から見たら、そんな違いはきっとわからない。だから作家は、ここまでという潮時を自分できちんと計算し、この世界を去ったんだ、と。俺は逆に、そうさせた世界を憎みました。


 いくつかテクニカルな話もしましたが、ここでは割愛します。話が尽きなくて、隣にいた女の子が、俺をつつきました。


「初めてのお宅に、あんまり長居しない方が」


 彼女がいてくれて、本当に良かったと思いました。俺、そこに住み着きそうな勢いだったので。


 二人でアパートを出て、ちょうど時計を見るとおそらく、きっちり2時間くらいだった気がしました。それでも、二人で思わず大きな息をついてしまうくらい、さっきまでの世界は別世界で。


 俺も、いつかこの写真家のように、自由でいながら、おとぎの国の住人になりたい、と実は思っているのです。俺は、普通の世界にうまく順応することができなくて、すごくサバイバルな世界に生きているけれど、Jさんの奥さんに、昨日言われて気づいたのですが「あなたの住んでいる世界は、まるで小説の中みたい。普通の生活じゃないのよ、もっと地に足をつけて、毎日電車に乗って、通勤する、そういう『退屈な世界かもしれない世界』が、本当の世界というものなのよ」と、Jさんの奥さんは言って。


 「ちゃんと本当の世界に住まなきゃ」


 あなたの世界って、本当の世界じゃないのよ。世界は、もっと現実的に動いているのよ。ご飯を食べて、寝て、会社行って。


 Jさんの奥さんにそういうごく普通のことを言われると、変な感じがします。

Jさんの奥さんは普通の人ですが、住んでた世界は普通じゃなかったと思うから。普通じゃない世界に住んで、普通の世界の感覚を失わない強靭さ。Jさんの奥さんは、違う、わたしはそんな世界にはいなかった、とアルバムを持ってきて、見せてくれました。それでも俺は、を嗅ぎ取って。


 奥さんの中では、そういう異質なものは、が凌駕して、消えている。それで、消すことができる。俺はそうじゃない。Jさんは長椅子に座り、寝たふりをしてました。見たら本当に寝ていた。


 Jさんの奥さんというのは、できるだけまともな人を、まともなように存在させてあげようという、善意と根気を持ち合わせた本当に優しい人で、俺とのことも、何とかして助けてあげたい、と思っているような感じが伝わってきます。


 Jさんに「あなた、それではダメよ」と言うことができるというのは、そういうことで、Jさんは息苦しい、だから時々俺は、一人になる時間が必要なんだ、と言い、リタイヤしてからは、実際に一年のうち、半分は一人になってましたが、俺とJさんと二人だけだと、世界はとんでもない方に回っていく。俺はJさんといると楽ですが、Jさんは「岬、せめてお前、金だけは稼がないとダメだぞ」と言ってました。「それだけは早く何とかしろ」と。


 Bは「大事なことは金を稼ぐことじゃない」と言ったけれど、Bのそれは、「単なる建前」だから。俺は本当に馬鹿だから、「食うために稼がねばならない」と言われると、本当に食べなくなってしまう。その結果、今があって、俺自身、すごく単純なのに、他の人が選ばないような選択を自然にしてしまう。


 俺がいつも思うのは、俺は生身の人間でなくて、どこか架空のキャラクターのようだ、ということ。それは、なぜかわからないけれど、いつもその考えが、俺を苦しめることが多かった。自分が本当に生きている生身の人でないような気がして、どんなふうにご飯を食べ、寝て、普通に生きたらいいのかが、よくわからない。それはずっと昔からそうだった。


 お腹も空かない。眠くない。


 俺はコンピューターの中のキャラや、写真の中の小道具みたいに、使われてない時は、箱に仕舞われている人形のような存在であることが、ぴったりする。


 Bが「お前、下僕げぼくで人形だもんな。本当にそういうキャラだから仕方ないな」と言っていたが、俺は自分が普通の存在として住める「おとぎ世界」を追っているのかもしれない。だから、何か自分が作って、その中になんとか自分が住めるようにしよう、とするのかもしれない。


 写真家の友人は、まるでアシスタントのようだったが、あんなふうに完全世界の中の一つのファクターとしてなら、俺は、自分が何もしなくとも、存在していて許される気がしました。


 人形に命が吹き込まれた時、その人形はどう生きようとするのだろうか。


 俺は「生」をもらっても、どんなふうに生きたらいいのか、戸惑う。


 戸惑って、戸惑って、今があります。皆から心配されても、どうやっても普通に順応できなくて、今があります。


 社交的であっても、人から好かれても、そんなのは本当の俺ではない。サラリーマンとして普通に働いても、どこか、勝手に浮き上がる。


 嘘を突き通して生きるには、俺は根っから正直過ぎて、それができない。


俺は生きるエネルギーが枯渇して、まるで死んだ人形のように、箱に保管されています。誰か、「主」が見つけてくれるまで。長い長い夢、本当の俺はどこか箱の中で、パリパリと音を立てる白い薄紙の下、いつまでも眠り続けています。いつか、箱が開けられ、外に出る時が来るんだろうか、と思いながら。

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