僕が彼女にしてあげられること

石野二番

僕が彼女にしてあげられること

 貴女には誰よりも幸せになってほしいんだ。その「幸せ」の形の中に、僕はいなくてもかまわないから。

 *

 僕が探していた少女、ヒナコは自宅の近くにある砂浜にいた。しゃがみこんで泣いているようだった。僕はその隣に座る。

また髪の色のことで何か言われたの?

「……迎えに来てくれたの?」

 そうだよ。お父さんが心配しているから一緒に帰ろう。

「皆、私が髪を染めてると思ってる。きっと先生も同じ」

 そんなやつらの言うことなんて気にしなくていい。その髪の色は、君がお母さんの子どもだっていう、何よりの証なのだから。

「慰めてくれるの?ありがとう」

 礼なんていらない。僕は君に笑顔でいてほしいだけなんだから。

「よし!じゃぁ、帰ろうかな」

 少女は涙をぬぐうと勢いよく立ち上がり、自宅の方向へ歩きだした。

「行くよー!ルイー!」

 分かってる。今行くよ。

 僕は彼女を追って駆けていった。

 *

 夕食を終えた後ののんびりした時間。それを僕らはビデオを見ることで過ごしていた。ビデオは僕たちの若い頃の記録だった。ヒナコが生まれる前に撮られたものだ。

 ヒナコと同じ、茶色い髪をした女性がこちらに向かって微笑みながら手を振っている。ヒナコのお母さん、ヨウコだ。膝の上に子猫を乗せている。そして画面の中にもう一人、眼鏡をかけた男性が入ってきた。それが僕……と言いたいところだけど、実際はそうじゃない。ヒナコのお父さん、シゲルだ。

 じゃぁ、僕はどこにいるのかというと、実は最初から画面の中にいる。そう、ヨウコの膝の上にいる子猫、それが僕、ルイだ。

 *

 聞いたことはないだろうか。『猫には九つの命がある』という伝承を。海の向こう、主に人間たちがヨーロッパと呼ぶ地域で伝わっているこの伝承、実は事実だったりする。

 一つ目や二つ目の猫はまだまだ未熟な、それこそ他の獣と変わらない。しかし、命を重ねていくにつれて、だんだんと知恵をつけていく。僕たち猫は、そういう生き物だ。

 ちなみに今の僕は六つ目だ。そして生まれ変わってすぐにヨウコに拾われた。ルイという名前もヨウコが付けてくれた。彼女はジャズという音楽が好きで、特にお気に入りだった歌手から名前をもらったのだといつかシゲルに話していた。僕はその自分の名前がとても気に入っていた。

 僕はヨウコのことが大好きだった。僕の毛並みと彼女の髪の色が同じことが誇らしかった。ずっと一緒にいたかった。でも、そうできないことも分かっていた。

 六つ目にもなれば、世界のいろいろなことが見えるようになってくる。人間と猫の寿命の違いなんかもその一つだ。

 僕たちは人間に比べて短命だ。だから、いつかはヨウコとはお別れしないといけない。死は喪失でもある。そんなことも理解できるようになったからこそ、僕はその時までヨウコのそばにいたかった。

 *

「このビデオ、いつ撮ったの?」

 ヒナコがシゲルに尋ねる。

「ヒナコがお母さんのお腹にいるのが分かってすぐだから、十二年ぐらい前だね」

 へぇ~、なんて言いながらテレビに視線を戻すヒナコ。

「これはビデオレターなんだ。お母さんがヒナコのために残しておきたいって撮ったんだよ」

 お母さんはヒナコに会えるのを本当に楽しみにしていたよ。シゲルが続ける。

 それを聞いたヒナコの目に涙が浮かぶ。

「私も会いたかったな、お母さん……」

 そう、ヨウコはもういない。彼女との別れは、僕が覚悟していたものとは違う形で不意に訪れた。

 *

 ヨウコが身ごもっていることが分かってから、夫婦は本当に、前にも増して幸せそうだった。二人で産まれてくる子どもの名前を考えたりして。でもしばらくして、ヨウコの姿が家から消えた。家の中のどこを探してもいない。そんな日が続いた。

 そんなある日、シゲルが誰かに電話しているのを聞いた。彼の口からは「ニュウイン」や「キケン」といった単語が聞き取れた。とても切羽詰まっているように見えた。

 それでなんとなく分かったのは、ヨウコはどうやら危ない状態で、それで今別の場所にいるということだった。

 ヨウコに会いたかった。ヨウコが心配だった。でもどこにいるのか分からなかった。僕にできることは、何もなかった。

 *

 それから二ヶ月が経とうとしていた頃、ヨウコは家に帰ってきた。でも、僕は彼女に会わせてもらえなかった。たくさんの黒い服を着た人間たちがやってきて、その中の一人の老人がシゲルに言っていた。

「猫をご遺体に近付けちゃいけないよ。猫は死んだ人に憑くものだから」

 シゲルは老人の言う通りにして、僕を二階の一室に閉じ込めてしまった。僕は納得がいかなくて、出してほしい、ヨウコに会いたいと鳴き続けた。

 黒い服の人間たちが帰ってから、僕は部屋から出してもらえた。でも、その時にはもうヨウコの姿はなかった。あったのは、僕の身体と同じぐらいの大きさの、ヨウコの写真だけだった。シゲルが、その前でずっと泣いていた。それでやっと分かった。ヨウコはもう、この世にはいないのだと。

 *

 いつかヨウコとはお別れしないといけない。でも、それは僕が死ぬ時だと思っていた。だって、人間は猫よりも長命な生き物だと知っていたから。だから、穏やかな生活を送りながら、ずっと考えてきた。ヨウコを悲しませずにお別れする方法を。結局いい方法は思い付かなかったけど、もう考える必要はなくなった。ヨウコが先に逝くなんて、僕は想像すらしていなかった。

 *

 それから、僕とシゲルしかいなくなった家に多くの人間が訪ねてきた。それはヨウコの友人だったり親戚だったりした。その中でもヨウコのお父さんは何度もシゲルに会いに来た。

 ヨウコの血筋の女性はまるで何かに呪われているかのように何故だか短命な者が多く、ヨウコのお母さんも彼女が小さい頃に病気で亡くなっていた。だから、ヨウコのことも心配していた。いつだったか、ヨウコのお父さんはシゲルにそんな話をしていた。僕はそれをずっと覚えていた。

 *

 そんなある日、シゲルが一人の赤ちゃんを抱いて戻ってきた。ヨウコとシゲルの娘、ヒナコだった。

「ルイ、見てごらん。君の妹だ」

 そう言いながら僕に赤ちゃんの顔を見せるシゲル。その髪は、ヨウコと同じ色をしていた。

 シゲルは当初一人でヒナコを育てる気だったらしい。いろいろな本を読んだりしながら頑張っていた。しかしすぐに限界が来た。倒れてしまったのだ。部屋に響くヒナコの泣き声。動かないシゲル。僕はどうしていいか分からずにただシゲルの顔の前で鳴くことしかできなかった。その後、たまたまヨウコのお父さんが訪ねてこなかったら、二人は今頃どうなっていたか分からなかった。

 *

 自分一人の力の限界というものを思い知ったのだろう。シゲルはそれから誰かに頼ることを覚えた。ヨウコのお父さんに加え、シゲルの両親もヒナコの世話をするためによくうちに来るようになった。そんな風にドタバタしながら、僕たちはヨウコのいない日常に慣れていった。

 *

 月日は流れ、ヒナコは十一歳になった。彼女は活発な少女になっていた。ヨウコもシゲルも物静かな性格をしていたので、僕はそんな彼女の成長に少々驚いていた。

 ヒナコが小学校に行き、シゲルが仕事に出かけてから、僕も外に出ることにした。誰もいない家でただ二人の帰りを待つのは、退屈過ぎた。

 いつものように縄張りを確認して回る。本日も異常なし、と言いたいところだったが、夕暮れ時、僕はある人間を見つけた。

 その人間は、砂浜の波打ち際に倒れていた。全身が海水でびしょ濡れだった。

 僕は警戒しながらそうっとその男に近付いた。すると彼は、

「やぁ、そこの猫くん。悪いんだけど、誰か人を呼んではくれないかな。見ての通り、寒くて動けないんだ」

 倒れたまま、目も閉じたまま口だけ動かして言った。もしかして、僕に言っているのだろうか。

「そうだよ。君のことだ。君に頼んでるんだ」

 僕はドキッとした。僕らに声をかける人間はわりと多いが、僕らの声が分かる人間なんて、今まで見たことがなかった。

「……ダメかな?では仕方ない。たいへん名残惜しいが、僕の人生もここまでということで」

 男は残念そうに呟く。それを聞いて僕は思わず、

「人を呼んでくればいいんだね」

 と言って駆け出した。頼むよー、という彼の力のない声を背中で聞きながら。

 とりあえず駆け出したものの、人を呼ぶって、どうしたらいいんだ?僕は猫だから言葉は通じない。だいたいさっきの男はどうして僕の言ってることが分かったんだろう?

 そんなことを考えながら、足は自然と自宅の方を向いていた。すると、ちょうど玄関の扉を開けようとしているシゲルを見つけた。

「おや、ルイ。ただいま」

 こちらに声をかけてくるシゲルのズボンの裾に噛み付く。そして砂浜の方に引っ張った。

「どうしたんだい、ルイ。そっちに何かあるのかい?」

 そんな風に言いながらもついてきてくれるシゲル。そして砂浜の入り口にたどり着いたところで、倒れている男の姿が目に入ったらしい。「たいへんだ!」と言うや否や男の元へ駆け寄った。

「大丈夫ですか⁉今救急車を……」

 ズボンのポケットから携帯を取り出すシゲルを男が遮る。

「申し訳ないが、病院はまずい……。寒くて動けないだけだから、良ければ貴方の家に……」

 そう言うとまた男は動かなくなる。それを聞いたシゲルは一瞬迷った後、男の身体を担ぎ上げた。

 *

 いつも通り、シゲルが夕飯の準備をしている。しかし、今夜は少し様子が違った。

「いやぁ!本当に危ないところでした。ありがとうございます、シゲルさん!それにルイくんも」

 風呂から出てくるなり声を上げる男。律儀に僕にもお礼を述べる。彼はシゲルの服を着ていた。彼の服は海水まみれだったので洗濯中だった。

「申し遅れました、僕の名前はトウリと言います。以後、お見知りおきを」

 そう言ってシゲルに右手を差し出すトウリと名乗る男。その手を握り返しながらシゲルが尋ねる。

「しかし、どうしてまたあんな所に倒れていたんですか?まるで海から流れ着いたように見えましたが」

「それがですね、お恥ずかしい話、この辺りでしか見られない貴重な蝶を追いかけていて、うっかり足を滑らして海に……」

 タハハ、と笑いながら話すトウリ。シゲルはそれを信じられない、と言った顔で聞いていた。僕も同様だった。蝶を追いかけて海に落ちるなんて、今時猫の集会でもなかなか聞かない。

「蝶を追いかけて、ということは、トウリさんは学者か何かなのですか?」

 シゲルが問う。それにトウリは、

「そうですね。そのようなものです」

 と微妙な答えを返した。シゲルはそれ以上何も聞かなかったが、僕にはそれがなんだか気になった。

「ねぇ」

 僕は声を上げた。トウリがこちらを向く。

「僕の言ってることが本当に分かるなら、庭に出てきて」

 僕の言葉にトウリは頷き、シゲルに声をかけた。

「庭があるんですねぇ。少し見せてもらってもいいですか?」

 かまいませんよ、と言うシゲルの答えを聞いてから庭に出るトウリに僕はついていった。

 *

 庭に出て一人と一匹になってから先に口を開いたのは僕だった。

「本当に僕の言葉が分かるんだね。でもどうして?」

 僕の問いかけに、何でもないことのようにトウリが答える。

「分かるのは言葉だけじゃないよ、ルイくん。例えば君の命が六つ目だってこととかね」

 その言葉を聞いて僕は身構えた。

「あんたはいったい何者なんだ。何か目的があってうちに来たのか?」

「そんなに警戒しなくてもいいよ。今ここにいるのは偶然だよ。目的なんかない。だいたいこの家に入れてくれたのは、他ならぬシゲルさんとルイくんじゃないか」

 そう言われればそうだ。トウリはさらに続ける。

「まぁ、僕が何者なのかってのは気になるところだよねぇ。そうだな。君になら明かしてもいいか。どうせ君から他の人間にばれることはないだろうし」

 そして彼は重々しく、芝居がかった口調で言った。

「僕はね、魔法使いなんだ」

 それを聞いた僕は反応に困って何も言えなかった。

 *

 それからトウリは魔法使いが何なのか僕にも分かりやすいよう、かみ砕いて教えてくれた。

 彼が言うことには、魔法とは現在人間が主に使っている科学とは別の技術であり、ずっと昔から普通の人間に知られないように隠されてきたものらしい。

「それで、トウリは何ができるの?」

「僕の専門分野は『記憶』だね。偽物の幸せな記憶を付け足したり、本当の悲しい記憶に封をしたり」

 できるのはそれだけじゃないけどね、と彼は答えた。

「シゲルに蝶を追いかけてたって言ってたけど、あれも本当なの?」

「そうだよ。説明した通りだ。この辺りにしか生息してない蝶がいて、その鱗粉が今の研究に必要だったんだ」

 トウリの言葉に嘘はなさそうだった。信じても良さそうだ。

「分かった。トウリを信じるよ」

「ありがとう、ルイくん。君には助けてもらった恩もあるし、何か困ってることがあったらなんでも言ってくれよ」

 言いながら胸を張るトウリ。悪い奴じゃなさそうだ。その時、家の方から声がした。

「ただいまー」

 ヒナコが帰ってきた!僕はトウリに扉を開けてもらって急いで中に入った。

「ルイ、ただいま……。そっちの人は?」

 トウリに気付いたヒナコがシゲルに尋ねる。「あぁ、その人はトウリさんだよ。砂浜で倒れていたのをルイが見つけたんだ」

 その答えを聞きながらヒナコはまじまじとトウリを見ている。トウリは黙ったままその視線を受け止めていた。さっきまであんなにヘラヘラしていたのに。

「ふ~ん。私はヒナコと言います。初めまして」

「あ、あぁ。ヒナコちゃんね。僕はトウリです。よろしく」

 そこでトウリはおかしなことを聞いた。

「ところでヒナコちゃん。体調の方は大丈夫かい?」

「??別に、どこも悪くないですけど……」

「そうか。ならいいんだけど」

 僕もヒナコもトウリが何故そんなことを聞いたのか分からなかった。自分の部屋に戻るヒナコの後姿を目で追いかけながらトウリは「まさか……いや、おそらく間違いない……」なんてぶつぶつ言っていた。

 *

 トウリはうちに数日滞在した後、僕ら一家にお礼を言って去っていった。彼が駅に向かうのになんとなく僕はついていった。

「ルイくんも本当にありがとう。僕の命は君のおかげでつながったようなものだよ」

「大げさだよ。トウリを助けたのはシゲルじゃないか」

「君は謙虚な猫だねぇ。でも、いつか必ず恩返しに来るよ」

「猫の恩返しならぬ、魔法使いの恩返し?」

僕の言葉に彼は笑った。

「そうだよ!君は謙虚なだけじゃなく、ユーモアも持ち合わせているんだね」

 そんな会話をしているうちに駅に着いた。

「さて、ここでお別れだ。元気でねルイくん。」

「トウリも元気でね。もう海に落ちちゃダメだよ」

 彼はそれを聞いてまた笑った。しかし、不意にとても真剣な顔になって言った。

「今回僕は君たちに助けられた。それは事実だし、そのことに恩義を感じているのも本当だ。いつか必ず、その恩を返しに来る」

 それだけ伝えて、彼は電車に乗り込んだ。こちらに振り向いた時にはもう以前のへらっとした笑顔に戻っていて、こちらに手を振った。

 *

 それからまた月日が経った。その間、いろいろなことがあった。難しい年頃になったヒナコが何日もシゲルと口をきかなくなったこともあったと思えば、いつの間にか仲直りしていたり。シゲルに再婚の話が持ち上がったり。結局その話はヒナコの激しい抵抗にあって流れたけど。そんな風に過ごすうちに、ヒナコは大学を卒業し、社会人になった。

 *

 その日、シゲルはとてもそわそわしていた。落ち着かない様子で部屋の中を歩き回ったり、ソファに座ったかと思ったらまたすぐ立ち上がったり。でも、その気持ちは僕も同じだった。何故なら、その日はヒナコが初めて恋人をうちに連れてくる日だったからだ。

 前の日の夕飯時、ヒナコが突然切り出した。「結婚したい人がいるの」

 その言葉を聞いた途端、シゲルは固まってしまった。ヒナコは続ける。

「明日のお休みに、彼をうちに連れてきたいんだけど、いいかな」

 シゲルはぎこちなく、

「アァ。カマワナイヨ」

 とだけ返した。

 *

 ヒナコが連れてきた男はユキオと名乗った。シゲルと僕は最初、変な奴だったら追い返してやるぐらいのつもりでユキオを出迎えたが、すぐにそれが杞憂だったと知った。ユキオはどことなく物腰がシゲルに似た物静かな男だった。そして傍で見ていて心配になるほどに緊張していた。

 しばらく三人で話をしていたが、やがてユキオが意を決したようにシゲルの目をまっすぐに見て言った。

「お義父さん、僕はヒナコさんを愛しています。必ず幸せにします。だから、娘さんを僕に下さい!」

 言いながら勢いよく頭を下げるユキオ。最後の方は声が上ずっていた。それを聞いてシゲルは静かに言った。

「娘を、ヒナコをよろしくお願いします」

 ヒナコとユキオ、二人の表情がぱあっと明るくなった。

 *

 ヒナコとユキオはその日のうちに今度はユキオの実家に向かった。だから、夜にこの家にいるのは僕とシゲルだけだった

 シゲルは珍しくお酒を飲んでいた。

「ヨウコさん、今日、ヒナコが結婚相手を連れてきたよ。ちょっと前までまだ子どもだと思っていたのに」

 赤い顔をしながらヨウコの写真に語り掛けるシゲル。その表情は穏やかだった。

「優しくて真面目そうな男の子だったよ。彼なら、何も心配はいらないだろう」

 僕も同じ気持ちだった。ユキオなら、きっとヒナコを任せられる。そんな風に思っていた。

 *

 無事ユキオの両親にも結婚の許可をもらった二人は、結婚式の準備を始めた。とても幸せそうだった。ヒナコが倒れるまでは。

 *

 ヒナコはうちに帰ってこなくなった。僕はとても嫌な予感がした。ヨウコの時と同じだと思った。うちでシゲルとユキオが沈痛な面持ちで話していた。その中にあの「ニュウイン」という単語が聞こえたからだった。

 また失うのか。そう思った。僕は、また何もできないのか。最期を看取ることもできないのか。僕が猫だから。これほど自分が猫であるということを恨めしく思ったことはなかった。そんな時、あの男が、トウリが僕の前に再び現れた。

 *

 別れてから十年近く経っているのに、彼の容姿はあの時と変わらなかった。僕は彼に言った。

「ヒナコがどこかに行って、帰ってこないんだ。ねぇ、トウリなら、ヒナコがどこにいるか分かるんじゃないの?」

「分かるよ。ヒナコちゃんは今、ケガや病気を治すための施設にいる。僕もさっき行って様子を見てきたよ」

「ヒナコは病気なの?治るの?」

 僕の問いに、彼は辛そうに、しかしはっきりと言った。

「残念だけど、このままだと彼女は助からないだろう」

 その言葉を聞いてショックを受ける僕に、彼は続ける。

「彼女を蝕んでいるのは、病気なんかじゃない。あれは祟りの類だ」

 言っている意味が分からない。祟り?いったい誰があの心優しいヒナコを祟るというのか。

「祟られているのは彼女本人じゃない。彼女の血筋そのものに祟りは食い込んでいる。祟っているのはどうやら猫のようだけど、先祖の誰かが何か悪さをしたんだろう。聞いたことはないかな。『猫を殺せば七代祟る』という伝承を」

 僕だって猫の端くれだ。そういう言い伝えを聞いたことがあった。

「シゲルさんにも話を聞いたけど、ヒナコちゃんのお母さんも彼女を産んだ時に亡くなったらしいね。おそらくそれも祟りのせいだろう。そして、彼女たちの髪の色が茶色い原因も」

 僕は絶句した。祟りなんて、そんなもののために、ヨウコは死ななければならなかったのか。

 そんな僕に、トウリは言った。

「僕は君たちに一度命を救われた。今日ここに来たのはね、その恩を返すためなんだ」

 その言葉に僕は顔を上げる。

「僕はヒナコちゃんにとり憑いた祟りを浄化するために来た。解呪の魔法は専門外だったから一から勉強しなおすのに時間がかかってしまったけれど」

「ヒナコを、助けてくれるの?」

「そうだよ。でも、これは本当に申し訳ないことなんだけど、ヒナコちゃんを助けるのにはルイくん、君という代償が必要なんだ」

 彼は続ける。

「猫の祟りを解くには、その者と深い絆を持つ猫の命が必要だ。それも一つじゃない。残り全ての命を使わないといけない」

 トウリは僕に問うていた。ヒナコのために命を捨てる覚悟はあるか、と。そんなこと、考えるまでもなかった。

「トウリ、僕の命を使って。ヒナコを助けて」

「いいのかい?残り全ての命だよ?」

「かまわない。それでヒナコが助かるなら」

「分かった。じゃあ、今夜すぐに実行しよう」

 *

 夜を待って、僕らはヒナコのところに向かった。ヒナコは白い、とても大きな建物の一室で眠っていた。そのベッドの横でトウリが僕に問う。

「さて、準備はいいかい?もし要望があれば先に言っておいてほしい」

 僕は夜が来るまでに考えておいたことを伝えた。

「この魔法が成功したら、僕は死んじゃうんだよね?」

 トウリが頷く。

「なら、その後で、ヒナコとシゲルと、あとユキオから、僕の記憶を消してほしい。僕がいなくなったら、きっと皆悲しむから」

「分かった。そっちは専門分野だ。任せてほしい」

「それと、これはできるか分からないけど、もしできるなら、僕にも少し余命がほしい。ヒナコの結婚式が、見たいんだ」

「それも了解だ。他ならぬ君の頼みだ。なんとかしよう」

 彼の言葉を聞いて、僕は安堵した。

「良かった。じゃあ、始めて」

「あぁ、ヒナコちゃんは必ず助けてみせる。いや、君が助けるんだ」

 そして、トウリは何か唱えだした。異国の言葉のようなその言葉を聞いているうちに、僕は自分の命が別の何かに変わっていくのを感じていた。きっとその何かがヒナコを助けてくれる。そう信じて、僕は意識を手放した。

 *

 数ヶ月後、僕はトウリに抱かれてある丘の上にいた。丘のすぐそばに結婚式場が見える。そこでは、ヒナコとユキオの結婚式が行われていた。

「見えるかい?ルイくん」

トウリが僕に尋ねる。

「うん。よく見える。ヒナコ、きれいだ。あんなにたくさんの人たちに祝福されて……」

 ヒナコ、これからいっぱい、いっぱい幸せになってね。そう願いながら、僕はゆっくりと目を閉じた。

 *

 結婚式はつつがなく進み、ブーケトスが行われた。花嫁が後ろ向きにブーケを投げる。歓声が上がる。そして振り向いた彼女は、式場の敷地のそばにある丘の上に一人の男が立っていることに気が付いた。男は彼女の髪と同じ色の毛並みをした猫を抱いていた。その猫を見た時、不意に涙がこぼれたが、彼女自身には、その涙の意味は分からなった。


                  了

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