五日後

 暖かな湯船は名も知らぬ花の良い香りがして、眼前を濁す湯気さえも芳醇な匂いがする。それは眠くなるほどで、けれども湯船の中で眠るのは危ないのは知っているから、なんとか眠らないように目を開く。少し油断すれば目は閉じて、そのまま気持ちの良い湯の中に身を任せたならばきっととても心地良く、だからこそ眠りたくなる気持ちをだますことはできず、ほらまた瞼が重く……。



「……起きないと……」



 両手に暖かな湯を溜め、思いっきり顔にぶつける。これで四回目。こうすれば少しの間だけ眠くはなくなる。その間に湯船から出なければ、


 ああでも、気持ちが良いからこのまま……。



「落ち着いてきた?」



 白く濁る木の扉の向こうから、声がした。私を拾ったという女性の声。命の恩人、ということになるのだろうか。おかげで、ひとまず凍える心配はなくなった。もちろん色々と不安はある。まず、私は誰なのだろうか、その記憶も全て抜け落ちている。

 

 このまま、ここにおいてくれるのだろうか。同棲している男はあまり良い気はしていない様子だったが。



「はい。ありがとうございます」



 不安と眠気はさておき、とにかくお礼は言う。声が響き、湯気の中に木霊する。



「……少し、話があるの。良いかしら?」



 少しくぐもった声。それは扉越しばかりが理由ではないようだった。私がこの方に拾われて二日目。少なくとも、昨日よりはだいぶ落ち着いた気分ではある。



「なんでしょうか」



 尋ねられることはおおよそわかっていた。けれどもやはり言い出しにくいらしく、

女性は言葉を詰まらせてしまう。酷く静かな時間。天井から落ちる雫が静かな湯面に滴り、音が跳ねる。



「……ゴメンなさい。本当に、何も覚えていないのです」



 その沈黙に耐えきれず、私から、恐らくその女性が尋ねようとしたことに対して、

返事をすることにした。自分の名前さえもわからない。ただ何か、思い出したくない何かがあったことだけは、なんとなくではあるがわかっている。


 でもそのことを思い出そうとすると、すごく嫌な感じになる。だから、思い出したくはない。



「違うのよ」



 そんな私の気持ちを知ってか知らずか、女性はとても落ち着いた声をしていた。



「……お友達がきてるわよ」



 お友達? 誰だろうか。記憶を失う前の私のことを知る人なのは、おおよそ間違いはないだろう。そしてきっと、私を探していた。だから会うべきなのだろう。けれども、私は。



「……ゴメンなさい……知らない人です」



 逃げた。



 会えばきっと、私のなにかがわかる。私になにが起こったのか知ることができる。そのことが怖かった。なにがあり、どのようなことで私が記憶を失ったのか、その原因を知ることにとてつもなく恐怖した。



「そうよね」



女性はそれだけ残し、扉から離れたようだった。その友達に会いたくない。なぜか強く、自分でも怖いぐらいの感情が沸き起こっていた。



 -----



「会いたくない、だそうよ」



 あの方は予言通り、ここに来ていた。そして予言通り、門前払いを食らわされる。振り返る。私の後ろにいた、手を繋いだ二人の少年は同時に首をかしげた。なにをしてるの? そう言われた気がした。予言は覆すことができるものなのだ。



「会いたくないとは言っていないはず、です」



 根拠はない。もしかすると、あの方は私とは本当に会いたくないのかもしれない。でも、私は会いたい。会って、たった一言だけでも謝りたい。それだけで良いから、そしてもう少し出会えるのだから、会わしてほしい。


 たぶん、冷静さは失っていただろう。それでも女性は、首を左右に振り続けた。



「ええ、そうね。嘘を言ったわ」



 女性の目が細くなる。



「知らない人。あの子は貴女のことをそう言ったわよ」



 知らない人。本当に、あの人は私のことを忘れてしまったのだろうか。そんなの、そんなこと、あり得ない。あの人は私に……。



 本当に、会いたくなくなってしまったのだろうか。



 あの人は私のせいで不幸になった。私が、愚かにも反乱なんかしでかしたから、本当に私を嫌ってしまって……しょうがのないことだと、納得してしまいそうになる。心の中で否定をしても、会いたくない、その言葉が突き刺さる。


 次第に恐怖が侵食する。あのときのように、身体が強張るのを感じる。もう後悔はしないと決めた。未来のことだけを考えるようにした。それなのに、考えることはあの出来事ばかり。私が反乱さえ起こさなければ、きっと私もあの方も不幸になることだなんて……。



「……寒いでしょう、お入りなさい? そして詳しい話を聞かせて頂戴」



 予想外の言葉に顔を上げる。目の前の女は、とても優しく笑っていた。



 -----



 目の前の女を、私は知っている。名前も、その声も、そして私に何をしたのかさえも。私を裏切った。信じていたのに。いつも、友達だって思っていたのに!


 大きな声を出したかった。酷い言葉でこき下ろし、聞くに堪えぬ罵詈を浴びせかけ、どうしようもない雑言を繰り返し、ただただ恨みを言い放ちたかった。その子も、私を見て身をすくめた。その表情は、恐怖で塗りつぶされているようだった。

当たり前だ。何もかもを思い出した。思い出してしまった。思い出したくなかった。



 ……大事なことを思い出させてくれた。



「……俺はやめろと忠告したぞ」



 私を拾ってくれた女性を守るように立つ、男の言葉。



「そうかも知れないわね」



 そんな軽い言動とは裏腹に、女性の口調は暗く、表情は硬かった。様々な気持ちが渦巻いているのだろう。本当に会わせるべきではなかったと、思ってしまっているのだろう。



「いえ、ありがとうございます」



 だから、それは違うという必要があった。



「その子は大事な友達です。私の」



 いつの間にかうつむいてしまっていたあの子の顔が上がる。驚きと、安堵と、しかし消えぬ恐怖が混ざり合った、恐らく忘れることはできないであろう複雑な表情。何か言おうと口を開け、しかし何も言えぬと口をつぐみ、やはりうつむいてしまう。


 ……今のうちにめいっぱい反省していなさい。私の愛しい友達よ。



「私を想うが故に私を裏切り、私を不幸にした……」



 でも、私を救おうとしたんだよね。いつか必ず起こる反乱から、私を遠ざけようとしたんだよね。その手段は、きっと正解ではない。強硬すぎるし、なにより私に苦痛と心痛を与えた。


 でも、感謝している。でも、許しはしない。だから、ずっと一緒にいて頂戴。



「それは……できません……」



うつむいたまま左右に首を振る。不明瞭な言葉で、なんとか聞き取れるぐらいの声で、蚊の鳴くよりもか細い声で、ほぼつぶやくようにその子は言った。


 ええ、できないでしょう。あなたは優しい人だから。知っている。覚えている。



「命令されたほうが気は楽?」



あの時のように、奴隷のように命令されたいの? 語気も強くそう尋ねると、その子は強く左右に首を振る。泣いているのは、わかっている。



「違います!」



 その子のそんな声を聞いたのは初めてだった。でも私は知っている。この子はいつも妙に活動的だから、むしろ私の前ではいつも猫をかぶっていたってことに。きっと今も不安で押しつぶされそうなのだろう。私に顔向けなんかできないのだろう。私はもう前を向いているってのに、その子はずっと後ろを見たままなのだろう。


 だから、またいつかのように私が指し示してやらねばならない。



「でも!」



 でもじゃない。そう、その子の言葉を遮る。



「責任ぐらい取りなさい。貴女は私を不幸にしたと思い込んでいるのでしょう?

だったら、何をすべきかわかるでしょう?」


 

 誰が逃がすものか。もう私には行く場所がない、その責任を取ってもらうのだから。一生、あのときに味わった苦痛と心痛を聞いてもらう。嫌だとしても聞かせてやる。それがきっと、この子にとっては贖罪になる。



「私はもう許してるよ」



 だから顔を上げなさい。そう言うとようやく、その子は顔を上げた。涙で汚れたその表情は……きっと、永遠に忘れることのできないだろう。

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