しろくまかき氷
「マジか…」
扉の内側から貼られたお知らせの紙を眺めながら、小さくため息をついた。
そこは、こじんまりとしたカフェだった。
京都の主要スポットから離れたところにあり、住宅の一階を改装してつくられたいわゆる隠れ家的カフェだ。
おしゃべりな店主が作るプディングとブレンドコーヒーがおいしいとカフェ通の間では評判で、僕は春休みに貯めまくったバイト代を握りしめて新幹線と在来線とバスを乗り継いで意気揚々とやって来たのだが――、どうやら臨時休業らしい。
丸っこいくせ字で書かれた「またいらしてください」の文章が、やけに悲しく僕の瞳に映りこむ。
ここまで来るのにかかる旅費を計算しだした頭を振りながら、スマホを取り出してどこか近くにカフェはないかと検索する。朝からここのカフェでブレンドコーヒーを飲むことしか想像していなかったので、朝食はおろか水さえ飲んでいない。せめてコンビニか自動販売機でも……と、じっとりと照りつける太陽から裏路地の軒先に逃げこんだところで目の前にくらりとノイズが走る。
ああせめてペットボトルのお茶くらいは買っておくべきだったな……と座り込む僕のすぐ隣で、アルミサッシの内扉が開いた。
「大丈夫かい」
顔を上げるとそこには、色白で大柄の男が心配そうに立っていた。
僕の太ももほどはありそうな二の腕にくぎ付けになっていると、君もしかして具合でも悪いのかいと目線を合わせてくる。男の履いている便所サンダルに油性ペンで書かれた「しろ」と「くま」の文字を交互に見ながら、朝からなにも飲んでおらず、少しめまいがしたのでここに座らせてもらっている。よくなったらすぐ離れるのでとしどろもどろに伝えると、男はそれはいけないと立ち上がる。
「それはきっと熱中症だ。来なさい、ここより家の中のがずっといい」
僕を右手で引っぱり起こし、もう片方の手で左脇を抱えるように持たれると、すっかり男に主導権を握られてしまった。
思ったよりもずっとふら付いていた体を彼に運ばれながら、もしかしてやばい人に見つかってしまったのではないだろうか、どうしてこの通りの民家は誰も出てこないのだろうかと喉が小さく鳴る。
「君は運がいいね。私が気付かなかったら危なかったかもしれない」
今日は確実に厄日だと悟ったうしろで、アルミサッシが小さく音を立てて閉まった。
男に靴を脱がされ、鞄も降ろされ、固く絞った濡れタオルを渡され、氷嚢を渡され……レトロな調度品で統一されたリビングの一角に座らされた僕は、それほど厄日でもないかもしれないと考え直していた。
「麦茶でいいかい」
「あ、ありがとうございます」
部屋はひんやりとした空気で満たされていて、火照っていた体が少しずつ冷えていくのが分かる。出された麦茶も、塩を少し入れてくれたのだろう、ほどよいしょっぱさで渇いた体にすぐに消えていった。
男にもう少しゆっくり飲んだほうがいいと笑われながら二、三杯ごちそうになった頃には、すっかりめまいは収まっていた。
余裕が出てきた僕は、部屋をぐるりと見回してみる。
今じゃすっかり見なくなった刷りガラスのはめ込まれた食器棚に引出箪笥、テレビ台、水屋箪笥……。昔から大切に使い続けているような雰囲気すら感じるレトロな家具たちが、まるでモデルハウスかなにかのように整然と配置されている。
「素敵なお家ですね、カフェみたいだ」
ふいに出てしまった言葉に失礼だったかなと男を見ると、彼はにっこりと笑って、ありがとう、これは友人の趣味なんだと続けた。
調子をよくした僕は、普段は東京の大学に通う学生であること、カフェ巡りが趣味で、バイト代が貯まると休日を利用して遠方にも足を延ばすこと、そうしていった店で食べたり感じたりしたことをトラベラーズノートに書きとめて、後から見返したりするのが楽しいのだということを話した。
彼は終始おだやかな笑顔で、時おり頷きながら僕の話を聞いていた。
まるで熊のような体格だけど、とても親切で優しい人なのだなと勝手にほっこりしながら、そういえば、とまだ名前すら訊ねていないことに気づく。
「シロクマでいいよ。よくそう呼ばれているから」
「ああ、サンダルにも書いてありましたね」
「そうそう、左右が分かりやすいだろう」
シロクマさん。色白で大柄で、彼にぴったりな名前だと思った。
名前ついでに京都訛りでないことをつっついてみると、ここは別荘のようなもので普段は別の場所で暮らしていること、出身は北のほうだから京の夏は体に堪えること、ここの調度品は友人の趣味だということを大まかに教えてくれた。とても趣味のいい友人なんだよ、と言うシロクマさんの瞳がやさしく細められる。
家具でふと気になったのが、部屋の隅に置かれている一風変わった棚のようなものだ。
「あれはなんですか?」
それは木製で、上下二枚の扉には金属製の留め具が付いている。アンティークの電話機台かとも思ったが、そもそもこの部屋に電話の類が見当たらない。手入れがほどこされていないのか、そのボロボロさが調度品の中で目立ってしまっていた。
「ああ。あれは冷蔵庫だよ」
もうずいぶん古いものだけどね、と、もう何杯目かの塩麦茶を注ぎながら教えてくれた。僕はなるほどと頷いて、家具として置いてもなかなかいいものですねと続ける。
「いや、あれはまだ使ってるんだ」
僕は一瞬言葉に迷った。そして扉が少し開いていることに気が付いて、あれはちゃんと閉めなくてもいいんですかと聞いてみた。
「あれくらいがちょうどいいんだよ」
今度こそ言葉が詰まってしまって、僕はそうなんですねなんて当たりさわりのない相打ちしかできなかった。手の中で、コップの氷が解けてからんと大きな音を立てた。
ちょうど玄関先から郵便ですと大きな声が聞こえてきて、僕は心臓が飛び出てしまうところだった。シロクマさんがはいはいとリビングから出ていく。どうやら見知った郵便屋さんらしく、談笑しているのが聞こえる。
途端に部屋の静けさが気になってしまって、僕はごくりとつばを飲み込む。すくりと立ち上がり、冷蔵庫の前で片ひざを折ると、少し開いているその扉に手をかけた。くぐもった音とともに身を刺すような冷気が零れてきて、箱いっぱいに押し込められた氷が僕の目の前に現れた。
二段式だと思っていた中はどうやらくり抜かれているようで、暗くてよく見えないが氷の中にはなにかが入っている。
おそるおそる上の扉も開けてみた僕は、すぐに後悔した。
「彼が僕の友人だよ」
「ひ、」
いつの間にか戻ってきていたシロクマさんが、耳元で囁いた。動転して尻から倒れそうになる僕を左手で支えながら、右手で扉を元のように閉め直した。
「あんまり開けちゃダメじゃないか。寒くてしかたない」
あまりのことに腰が抜け、声すら出なくなってしまった僕を横目で見ながら、シロクマさんはぽりぽりと顎を掻いた。
「そんなに怖がることはない。彼は……ちょっとした事故で氷漬けになってしまっただけで、僕に誰彼かまわずこうする趣味があるわけじゃない。いつもと同じように、こうやって傍にいるだけなんだ」
シロクマさんは、できるだけやさしい声でしゃべろうとしているようだった。泣きじゃくる子供をあやすように、大きな手が背中をなでる。それでも僕は、小さく震える体を止めることができずにいた。こんなものを部屋に置いて平然としていられるなんて普通じゃない。異常だ。友人だって? そんな冗談があってたまるか。
むりくり作った笑顔で事故、ですかと繰り返すと、そうそうとシロクマさんは頷く。
「私が暑いのが苦手だから、こうしてエアコン代わりに使わせてもらっているのは内緒だけどね」
そう、にっこりと笑った。
この部屋に来てからずっと心地いいと感じていたのが氷漬けになった人間から出る冷気だったことにようやく頭が気が付いて、僕はもう変な笑い声しか出せなくなっていた。
***
気が付くと、僕は裏路地の日陰で鞄を枕にして倒れていた。
近くの家の住人だろうか、気難しそうな顔の老婆がぴしゃりと打掛け水を僕の顔にかけてくる。
「あんたそないなとこで寝てられるとね、困るんよ」
「あ、はい……すみません」
むくりと起き上がって辺りを見渡すと、近くに行けなかったカフェがある。けれどあのシロクマさんが出てきたアルミサッシのある玄関は、どこにもなかった。僕は狐につままれたような気分で、リュックを背に歩きはじめる。
「あんたあれ! 忘れてるよ」
スプリンクラーのように打掛け水をまいていた老婆が、ひしゃくで僕が倒れていたすぐ隅を指す。そこには白いタオルが落ちていて、有無を言わせず拾わされる。僕のではないことを伝えるのも、近くにはやにえのようにかけておくのもやめておいたほうがよさそうだ。角を曲がった先にでも置いておこうとタオルを広げると、油性ペンで「シロクマ」と書かれていた。とたんに背筋がぞくりとして、早くここから離れようと帰路を急ぐ。
さっきまでふらついていたはずなのに、エアコンのよく効いた部屋で麦茶を何杯か飲んだような体の軽さだった。
それから何度か京都に足を運び、行けなかった隠れ家的カフェにも行き、近くの路地をうろうろとしてみたものの、彼に会うことはなかった。年を追うごとに彼がどんな顔だったのか、どんな調度品があったのかの記憶が薄らいでいく。
それでも毎年、むせ返るような夏が来て、コンビニでしろくまかき氷を見つけるたびに――、あの氷の詰まった木製の冷蔵庫を思い出してしまう。
今でも彼は、あの大柄で色白の「シロクマ」と呼ばれる男は、冷蔵庫に入った氷漬けの友人とともに、どこかでバカンスを楽しんでいるのだろうか。
/end
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