【読切】クラーケの骨格
村雨廣一
短編
ナイアシ
「ここはどこだ」
彼は目覚めた瞬間、そう呟いた。
あたかもここが彼の知らない所だとでもいうように。
この部屋は彼が今まで育ってきた場所だ。何度も見たことがあるであろう天上を見てそんなことを言うなんて、一体どうしたのだろうか。私は彼の額に触れ、熱を出していないことを確かめる。
大丈夫、むしろ冷たいぐらいだ。確か低体温だったから、この冷たさは彼にとって日常的な温度なのだろう。きっと気が動転しているのだ。
彼は私を強く払いのけ、だるそうな体を起こした。彼は今まで眠っていたのだ。それはもう三年寝太郎なんて目じゃないくらい。かといって三年以上寝ていたわけではない。一週間かそこらだろう。まあ彼にしてみたら、一ヶ月分の睡眠をとってしまったようなものか。
彼は力が入らないであろう腕で体を支えつつ、清潔なシーツから抜け出した。
床に足を置いたところで、ようやく気付いたらしい。
「どうして」
そう言われても私にはどうしようもない。彼は猫がスイカを美味そうに食べるのを見たような顔をして、自分の右足を見ていた。
かつて彼の体を支えていたはずの右足を。
そこにはあるべきはずのふくらみはなく、ただだらんとズボンの裾がぶら下がっていた。
「どうしてなんだ」
彼はまた同じ言葉を繰り返した。
そして私の首を掴み、どうしてなんだと悲痛の叫びを上げた。私としては彼の足がどうなろうと知ったこっちゃない。むしろありがたいくらいだ。
彼は右足を失った。
膝下辺りからすっぱりと。
そのせいで二度と走り回れなくなってしまったが、それはそれで構わない。何度も繰り返すようだが、私は彼が走れなくなったことに喜びを隠せないでいる。
「くそう、くそぉ……」
彼は震える手で右膝を摩り、溢れる涙をそのままに、何度も何度もそう言った。彼にとっては走ることが人生だった、と言っても過言ではない。いや、走るわけではないか。とりあえず左足だけでは、今までどおり忙しく動き回ることも、週末に地域クラブのバスケに参加することもできないだろう。
――義足という手もある。
そう、医者は言っていた。
だが自分の足でない義足に慣れるには相当の時間を要するだろうし、きっと苦痛を伴うに違いない。彼は右足を補うように壁に手を付き、窓の近くに寄った。そこには彼が眠りに落ちてしまう前と同じ光景が広がっているのだろう。私はそこから外を見ることができないため、彼の近くに寄って、倒れてきても大丈夫なように座った。彼は私の存在などには気付かず、ただ呆然と窓の外を見ていた。
何がそんなに楽しいのだろう。
私は彼の表情を伺ったが、目の悪い私では、彼の微妙かつ複雑な心境は理解することができなかった。
彼は唇を動かさずに何かを呟いているらしかった。小さすぎて聞き取れない。息が漏れているような音が、私の耳にひゅうひゅうと聞こえてきた。
窓の外を、一台の車が通った。
真昼間の静かな住宅街を、一つのエンジン音が乱した。
その瞬間、彼は目を見開いた。
窓を叩き、通りすぎる車を睨みつけた。
振り返り、体勢を崩して倒れこんだ。
右足で、体を支えようとして顔を歪めた。
這いながら、彼は必死で部屋を飛び出そうとした。
伸ばした手が、ドアノブに届いた。
そして、彼は乱暴に部屋を出ていった。
私はそんな彼の後ろを、ゆっくりと歩きながら付いていった。何度か止めようとしたのだが、彼の耳には届かなかったらしい。彼は廊下を両手左足で躍起になって這いながら、階段を目指していた。
下の階に行きたいのだろうか。
トイレなら二階にもある。
喉が乾いたのだろうか。
確か水と薬が、部屋には置いてあったはずだ。
では何がしたいのだろうか。右足に力を入れる度に眉を潜めているのに、そんなにも痛そうにしているのに、何が彼を突き動かすのだろうか。私は考えた。だが、そんなモノは思いつかなかった。
彼は階段にたどり着き、頭から降りようとしていた。いつもは両足を無意識のままに使って降りている階段も、いざ這いながら降りようとすると少しばかりの恐怖心が襲ったらしい。彼は私が何を言おうと止めなかった手を止め、足を止め、方法を考えているようだった。
「くそっ」
これで何度目だろうか。彼は飽きることなくその言葉を使う。それが自分に対してなのか、それとも違う何かに対してなのか、私にはもうとう理解できない。
彼は何かを決めたように前を睨み、止めた手を動かした。だがやはり無理だったらしい。彼の体は荷物か何かのように階段を滑り落ち、痛々しい音を立てながら一階に落ちてしまった。
その音に気付いた母親が、居間の扉を開けて、階段から落ちた彼を見つけた。そして耳に痛い金切り声を上げて、彼の肩を揺すり始めた。
「ちょっと、何してるの!」
母親の声に、軽く意識を失っていた彼が気付いたらしい。その心配する手を振り払い、まるで前世から決められている運命に惹かれるように、彼は外へと続く扉に向かって、再び這い出した。
「何やってるのよ! あんたにはもう足はないの。一番分かってるでしょう? 外には出れないのよ!」
「うるさい! お前なんかに分かるかよ!」
「親に向かってお前とは何よ!」
私は階段に座りながら、二人のやり取りを眺めていた。
そう、これでいいのだ。
彼は二度と外へ遊びに行けなくなればいい。そうすれば夜遅くに帰ってくることもない。学校やら部活なんかに現を抜かして、私に構わなくなることもない。彼が足を失えば、私は彼ともっとたくさんの時間を共有することができるのだ。
「大体、あんたがそうやって飛び出すのが悪いんでしょう! 少しは反省しなさい! どれだけ心配したと思ってるの!」
「俺のせいだって言うのかよ! あいつが……あいつが飛び出すのが悪いんだろうが!」
彼は私を指して言った。
「あんたがちゃんとリードを持たなかったんでしょう!」
いいや、彼はちゃんと持っていた。
持っていたからこそ、だ。
「知るかよ! あいつが急に引っ張ったんだ!」
いいや、急にではない。
もともとそのつもりだったのだ。
「それを止めなかったあんたの責任でもあるでしょう!」
いいや、彼に責任はない。
あるとすれば、それは私を構ってくれなかったことだ。
彼は目尻に涙を浮かべながら、床を力いっぱい殴りつけた。母親も涙を隠しながら、彼を部屋へ連れ戻すために、様子を覗っていた父親を呼びに戻ってしまった。
私は彼の背中を見つめながら、我ながらたいしたことをしたものだと思った。
散歩の途中で彼を事故にあわせ、体の一部を奪う。
それが、彼を私の傍に置いておく、ただ唯一の方法だったから。
ない足よ、私は君に、礼を言おう。
/了
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