26:愛を乞う騎士

 はぁ、というため息がやけに大きく聞こえた。リーグル伯爵のため息だ。

「……察するに、オリヴァー殿はそちらの女性と懇意にしておられるようだが」

 冷えた目がオリヴァーとパウラを見る。懇意というやわらかな言葉に隠されているだけで、それは紛れもなく容赦のない追求だった。

「それは……」

「私は庶民です、もとから彼の妻になれるなんて思っておりません。ゼクレス伯爵領からも王都からも離れて、もう二度と姿は見せません。ですから……!」

「パウラ!」

 言葉を濁すオリヴァーを押しのけてパウラは主張する。オリヴァーは何を止めたいのか、ただその発言を遮りたいだけなのか、鋭い声で彼女の名を叫ぶ。

(……パウラさんはもともと身を引くつもりでハインツェルに来たのね)

 オリヴァーには迷いがあった。それに気づいていたから、パウラはその迷いを消し去るために彼を追いかけてきたのだ。

 家のため、領地のために結婚するというのなら自分を捨てろと。そう告げるために。

 はぁ、というため息がまた響く。

「……この婚約はなかったことに」

 はっきりと、リーグル伯爵はそう告げた。

「そんな……!」

「え、お父様……?」

「その女性との関係を清算するつもりであったのなら、この場に来る前に済ませておくべきだ。それができなかったということはオリヴァー殿には未練があったということだろう」

 リーグル伯爵の言葉に、オリヴァーはぐっと言葉を詰まらせた。

「捨てきれない未練を抱えたまま政略結婚などするものではない。……経験者の言葉は素直に受け取っておきなさい」

(経験者……)

 その言葉をエミーリアは心の中で繰り返す。オリヴァーもまるで予想外のところを刺されたみたいな顔をして言葉を飲み込んだ。

「お父様、どうして……」

「リーグル伯爵」

 困惑するデリアの前にヘンリックが立ち、そのままリーグル伯爵の傍らで膝をつく。

「デリア嬢への求婚の許可をいただきたい」

 真摯なその声は一瞬にしてその場を支配するかのようだった。

 騎士が主以外の前で片膝をつくことの意味をリーグル伯爵も知らないわけではないだろう。

「こちらの答えは以前と変わらない」

 しかしリーグル伯爵は答えを変えなかった。

 爵位のない男に娘を嫁がせるつもりはない、と。

 その返答を予想していたのだろうか、ヘンリックはまっすぐにリーグル伯爵を見る。

「今はまだ公表できませんが、来春までにレーヴェンタール侯爵家の養子入りする予定です」

 それは最後の切り札だったのだろう。

 リーグル伯爵がこれまで爵位がないことを理由にヘンリックとの婚約を視野に入れなかったのだから、それを覆すための策を用意していたのだ。

「えっ……」

(えぇ!?)

 デリアが思わず声をあげている。エミーリアも初耳だ。マティアスをちらりと見ると、視線に気づいたマティアスは苦笑いを零す。どうやらマティアスは知っていたらしい。

(し、知っていたなら教えてくださっても良かったのでは……!?)

 心臓に悪い。この場ではエミーリアは部外者なのに、先ほどから驚いて声をあげてしまいそうになるのだ。

「養子縁組するまで大人しく待とうと思っていたんですけど、その前に他の男に持っていかれちゃ困るんで」

 けろりとした顔でヘンリックが続けるので、重大なことを言われたはずなのに気が抜けてしまう。

 リーグル伯爵はそんなヘンリックを見下ろし、ため息を吐いた。

「……ならば、来春までにしかるべき準備を整えて求婚に来なさい」

 それは、遠回しに求婚を認めるという言葉だと受け取っていいだろう。

「……ありがとうございます」

 必ず、とヘンリックが噛み締めるように告げる。

 そのやり取りにエミーリアはほっと胸をなでおろした。




 明日、デリアはリーグル伯爵と共に王都に戻ることになった。もともとリーグル伯爵は嵐で足止めされていたデリアを心配して迎えに来たのだ。

 リーグル伯爵はひとまず退室した。今夜は伯爵もフェルザー城に泊まることになる。

 さらにオリヴァーとパウラも部屋を出た。デリアとの婚約がなくなったことはゼクレス伯爵家にとっては痛手だ。困惑と動揺で肩を落とすオリヴァーをパウラが支えていた。

 二人にはとりあえず別室で落ち着いてもらおうとハンナにお茶を出しておいてほしいと頼んである。

「……待って、何が一体どうなってるの……」

 父がいなくなった部屋の中で、デリアは頭を押さえながら呟く。突然の出来事に頭の整理ができないのだろう。

「助けに行くって言っただろ」

 しれっとヘンリックが言う。

 その表情があまりに能天気に見えたのか、デリアが顔をあげてキッと睨みつけた。

「遅いのよ!」

「無茶言うなよ、これでもめちゃくちゃ大変だったんだよ」

「知ってるわよ!」

 反射で怒鳴りながら答えたあとで、……知ってるわよ、とデリアはもう一度小さく繰り返した。

 どれだけ大変だったかなんて、考えなくてもわかる。片手間で出来るようなことではないことも。

 だからデリアには理解できなかった。できるはずがない。

 だってずっと、主人公にはなれないと。救い出されるお姫様なんてなれないんだと、そう思ってきたのに。


「あー……順番がめちゃくちゃになったな……」


 黙り込んだデリアを見下ろしながら、ヘンリックは照れ臭そうに頭を掻く。

「おまえさ、頑固でひねくれてて意地っ張りで、そのくせ実は泣き虫だけど」

「何よ、喧嘩売ってるつもり?」

「残念。これでもプロポーズしてるんだわ」

 睨みつけてきたデリアにヘンリックが笑う。

 プロポーズという単語にデリアはその目を丸くして言葉を飲み込んだ。

「……俺にとってはどうしようもなく目が離せなくて大事な幼なじみだったんだよ」

 だから、とヘンリックが恭しく跪く。驚いて声を出せなくなったらしいデリアの手をそっと握りしめて。

 まるで、愛を乞う騎士みたいに。


「俺と結婚してください」


 それはエミーリアの目から見ても、いいやきっと誰が見ても、胸がいっぱいに満たされるような、そんなうつくしくロマンチックな物語のワンシーンのようだった。


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