18:遠い日の約束

 エミーリアは、デリアの境遇を知っているつもりでいた。

 けれどそれは、やはり知っている『つもり』だったのだと思い知らされる。庶民育ち。育児院出身。引き取られた先で、政略のための駒になる。それだけではなかったのだ。……それだけの話では、なかった。

(……ずっと、育児院のためにデリアは我慢してきたの……? これからも我慢するの……?)

 エミーリアはきゅっと唇を引き結ぶ。

 それは、あまりにも悲しい。

 悲しいとエミーリアは思ってしまう。

 エミーリアだって、家のために結婚することは仕方ないと思っていた。ただエミーリアはそれでも相手を愛したいと願っていたし、幸いにも婚約したのは初恋の人だった。

(だからわたくしは幸運だった……? そうかもしれない、でも、それだけじゃない気がする……)

 エミーリアとデリアは根本的に何か違う。そんな気がした。

 その何かがわからずにエミーリアはデリアを見つめる。そんなエミーリアの視線を感じたからだろうか、デリアはそっと口を開いた。

「『いばらの姫と聖銀の騎士』があまり好きじゃないって話したでしょ? 昔からそうだったのよ。だってあの本を読み終わると皆そろって言うのよ。私のところには騎士様が来てくれるかしら! って」

 デリアの言葉にエミーリアは育児院での読み聞かせのときのことを思い出した。物語を読み終えたあとの、女の子たちの明るい声をはっきりと覚えている。

「庶民のところに騎士様はやってこないし、まして王子様なんて迎えにこないわ。それなのに物語は夢を見るようにしあわせだけを見せつけてくる。だから嫌いだった」

 そんなやさしい現実ばかりではないと、幼い頃のデリアは既に知っていたのだ。

 エミーリアは俯いて、ティーカップの中で揺れるハーブティーを見つめた。カモミールの香りのするハーブティーは、紅茶よりもやさしい色をしている。

「それをヘンリックに言ったらね、可愛げないなって笑われたのよ」

 デリアの口からヘンリックの名前が出てきて、エミーリアは顔を上げた。デリアの表情には特に変化はなく、昔を懐かしむように続ける。

「でも笑いながら、約束してくれた。『もしもおまえが悪い人に捕まって捕らわれのお姫様になったら、俺が助けに行ってやる』って」

 懐かしむ横顔が、ほんの少しだけ、切なげに見えた。

(助けに行くって、このことだったのね……)

 デリアとヘンリックの約束のことだったのだ。二人にしかわからない、二人にしか通じない、かつて交わされた約束が『助けに行く』だったのだ。

「約束したときは、そんなこと起きるわけないじゃないって笑ったけど、伯爵家に引き取られてから何度も願ったわ。助けに来て。迎えに来て。ここから連れ出してって。……でもね、そんなことできるわけないってことも、最初から知っていたのよ」

 だって私は、お姫様じゃないもの。

 お姫様じゃないから、騎士様も王子様も助けには来ない。そんなこと、とっくの昔に知っていたじゃないか。

 デリアはずっと、そうやって自分に言い聞かせたのだ。

「……デリアにとっての特別は、ヘンリック様だったのね」

 エミーリアはぽつりと、そう呟いていた。

「ヘンリック様にとっても、きっとデリアは特別なんだわ」

 その『特別』がどんな感情か、エミーリアにはわからない。けれど誰も横槍を入れることができないくらい、大切なものだということは先ほどの二人のやり取りで察することができた。

 デリアもヘンリックも、互いが大切だと思うから譲れないのだ。

「……どうしてそう思うの?」

「だって、デリアが素で接しているのは、わたくし以外にはヘンリック様だけだったんだもの」

 フェルザー城で過ごしたこの数日間でそれははっきりと確信した。

 デリアは常に伯爵令嬢としての仮面をつけている。エミーリアが完璧な令嬢として振る舞うのと同じように。

 隙を見せないようにと気を張り続けているデリアにとって、それはとても珍しいことで、特別なことだった。それだけでも、十分すぎる理由になるほど。

「……特別だったのは、昔だけよ」

 デリアが懐かしむように、そっと目を伏せる。

「今は違うの?」

「だって私は、もう庶民のデリアじゃないもの」

 お姫様にもなれなくて、庶民にも戻れない。

 リーグル伯爵家のデリアは自分一人で立たなきゃいけないし、誰にも助けは求めない。そうやって歯を食いしばって前を向いて生きてきた。

(やっぱりわたくしとデリアは違う)

 時折感じていた、デリアの諦念。

 彼女は今以上のことを求めていないのだ。今あるもので十分だと手を伸ばすことすらしない。

(……今が心の底からしあわせだっていうわけでもないのに)

 デリアは、しあわせだと感じている人の顔をしていない。毎日がしあわせだと、今が何より幸福なのだと感じている人は、周りにもそれが伝わるほどしあわせそうに笑うのだ。

「……ねぇデリア。そうやってすべて決めつけて諦めてしまうのはやめて」

 エミーリアは手を伸ばし、デリアの手に触れる。

「未来はそんなに簡単に決まってしまうものではないし、何よりあなたがしあわせになることを諦めている姿を見ていると……わたくしは、とても悲しくなるわ」

 きっとそれは、エミーリアだけではない。

 雷のような声がエミーリアの脳裏に蘇る。きっと、ヘンリックはエミーリアよりも先に気づいていたから、あんなに怒ったのだ。

「一度、リーグル伯爵やオリヴァー様と話し合ってみましょう? このまま気づかなかったふりをするのはお互いの為にもならないわ」

 ね? とエミーリアが微笑む。

 諦めないでがんばりましょう? きっと素直に気持ちを話せばわかってもらえるわ、と。

 エミーリアはそう訴えた。

「……あなたにはきっとわからないわ」

 小さくて今にも掻き消えそうな声なのに、じわじわと肌を焼くような感情が滲んでいた。

 パシッと重ねていた手を振り払われて、エミーリアは首を傾げる。

「デリア?」

「あのね、エミーリア。誰もがあなたみたいになれるわけじゃないのよ。ハッピーエンドが待っているのは物語の主人公だけ。端役にそんな奇跡は訪れないの」

 手を振り払ったのはデリアなのに、デリアのほうが痛そうな顔をしている。今にも泣き出しそうに顔を歪め、それなのに泣いてたまるものかと堪えている。

 その顔が、とても痛々しかった。

「あなたは周りに愛されているけれど、私はそうじゃない。要らない厄介者のわがままに、誰が耳を傾けるっていうの?」

「そんな……」

 そんなこと言わないでほしい。

 そんな言い方しないでほしい。

 デリアは要らないものでも、厄介者でもない。エミーリアにとっては大切なかけがえのない友人だ。

 デリアが振り払った右手を隠すように、左手を重ねた。そのまま胸の前で自分の身を守るようにぎゅっと拳を作る。

「お願いだから、あなたの正しさを私に押しつけないで……!」

 喉の奥から絞り出されたような声に、エミーリアは何も言えなかった。



 ――やってしまった、と思った。

 エミーリアはデリアと別れて部屋に戻り、黙り込んで俯いた。自己嫌悪で頭がおかしくなりそうだった。

 デリアのことを、その境遇を、知ったつもりになっていたのだと思いながら、無遠慮に自分の考えを押しつけてしまった。エミーリアには簡単に思えても、デリアにとって同じように簡単なものかどうかなんてわからないのに。

(……最低なことをしてしまったわ……デリアにきっと嫌われてしまった)

 デリアはいつも、エミーリアの相談にのってくれていたのに。エミーリアはなんの力にもなれない。

「失礼いたします、エミーリア様」

 すっかり落ち込んで動かなくなっているエミーリアにお茶を出したのは、テレーゼだった。あたたかな湯気と、あまい香りがエミーリアの心をそっとくすぐる。

「……ミルクティー」

「ハンナさんから、こういうときはミルクティーを、と教わりましたので」

 エミーリアが落ち込んでいるときは、ということだろう。優秀な侍女はしっかり主の好みをテレーゼに教えているらしい。

 くすりとエミーリアは笑ってティーカップを持ち上げた。一口飲むと、テレーゼが用意してくれたミルクティーは砂糖がほんの少し多めにしてあるところまで完璧だった。

「ありがとう」

お礼を言いながら、エミーリアはデリアの言葉を思い出した。

 ――あなたは周りに愛されている。

(そうね、わたくしは愛されてきたし、とても大切にされてきたわ)

 ――けれど私はそうじゃない。

(それは違う)

 エミーリアはその言葉を明確に否定する。

 リーグル伯爵家でのことは、エミーリアにはわからない。エミーリアが見聞きした範囲でしか判断できない。

 けれど、デリアが愛されていないなんて、そんなわけがないのだ。

(それは違うわ、デリア)

 育児院の人々も、ヘンリックも、エミーリアも、彼女を大切だと思う気持ちに嘘なんてないのだから。

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