17:夢見る女の子ではいられなかった
しんっと部屋が静まり返る。
雷が落ちたあとの一瞬の静寂のようだった。そしてすぐに、次の雷が光って落ちる。
「……おまえは昔っからそうだよな。聞き分けのいいふりして我慢してあとからびーびー泣くくせに、なんで引き返せる段階で素直に周りを頼らないんだよこの大馬鹿!」
ビリビリと空気を裂くような怒声に、エミーリアは身を縮める。これまでの人生でこんな怒声を聞いたことは一度もなかった。
エミーリアはそっとマティアスのそばに歩み寄る。マティアスもそんなエミーリアを庇うように背に隠した。青い瞳がまるで大丈夫かと問うようにエミーリアを見つめてきて、そのことにほっとした。
(大きな声にはびっくりしたけど……)
ヘンリックが怒っているのは、デリアのことを思っているからだ。正直、エミーリアの言いたかったことも含まれていたから、ヘンリックの気持ちがとてもよくわかる。
「馬鹿呼ばわりされるのは心外だわ。こんなもんでしょ貴族の結婚は」
デリアはヘンリックの怒声に怯える様子もなく、真正面から向き合っていた。その目は呆れたような色合いを残したままだ。
「こんなもんだなんて諦めてこれからも生きていく気かよ。だったら貴族なんてやめちまえ」
ヘンリックは吐き捨てるように言い返す。
エミーリアはマティアスの影から二人をそっと見つめていたが、互いに一歩も譲る気はないという雰囲気だった。
もともと言い合いになると止まらなくなる二人だ。どちらかが負けを認めることも謝罪することもないかもしれない。
「……やめられるものなんかじゃないでしょう」
初めから諦めている、そんなふうに言っているようなデリアの言葉に、エミーリアは胸が痛くなる。
(……まただわ)
デリアの言葉には端々に諦念が滲んでいて、それはたいてい、彼女自身の未来についてのことなのだ。
「元は庶民だろうが。引き取られたときは跡取りもいなかったからおまえが必要だったかもしれないけど、今は弟がいるんだろ? なんの問題がある?」
デリアには、十歳下の弟がいる。デリアが伯爵家に引き取られたあとに生まれた、異母弟だ。
リーグル伯爵家におけるデリアの役割は、政略結婚のための駒であることだけ。だからデリアはずっと、家のためになる相手と結婚するのだと言っていた。
しかしその役割は、なくなったところで問題ないと。ヘンリックはそう告げている。実際、政略結婚という手段でなくても家を繁栄させることはできるし、娘がいない家は別の手段をとっている。
ヘンリックの声が責め立てるように大きくなってきた。デリアがぐっと拳を握りしめる。
「帰れるならとっくの昔に帰っていたわよ! でもそんな簡単な話じゃないでしょう!?」
キッとヘンリックを睨みつけてデリアが声を上げる。
「簡単なことだろ!? おまえがどうしたいかだよ!」
「そんなのっ……あなたには関係ない!」
「関係ないわけあるか! 助けに行くって言っただろうが!」
ヘンリックの言葉に、デリアはきゅっと唇を噛み締めて言葉を飲み込んだようだった。まるで不意打ちで胸の弱いところを刺されたみたいな、そんな複雑な表情を浮かべている。
――助けに行く。
その一言だったのだと思う。
デリアの紫色の瞳が揺れる。どうして、と言うようにゆらゆらと。
それはどうして今さら、なのかもしれないし、どうして今なの、かもしれない。
「……夢見る女の子じゃないんだからあんな約束なんて守られるとは思ってないし、とっくの昔にあんたのことなんて割り切ってるのよ……!」
その声は震えていた。
エミーリアには、もうやめて、と叫んでいるようにも聞こえた。
「悪いがこっちはちっとも割り切っちゃいないし諦めるつもりもないんだよ!」
そして容赦なくヘンリックは逃がさないというように追いかける。
(――ダメ)
止めに入ろうとエミーリアがマティアスの背から出ようとする。しかしそれはマティアスの手にそっと阻まれた。
(……陛下?)
どうして止めるのかとマティアスを見上げると、彼は極めて冷静な目でヘンリックをみていた。
「ヘンリック」
さほど大きくもない、しかしよく通る声が発せられると、ヘンリックは弾かれたように声の主を――マティアスを見た。
「そろそろ落ち着いたらどうだ」
「……すみません」
ここがどこであるのかをようやく思い出したかのように、ヘンリックが気まずそうな顔になる。おそらく他の騎士たちが退室していることにも今気づいたんだろう。
(……すごい。たった一声なのに)
友人である前に主従なのだと見せつけられるようだった。ヘンリックの耳には誰よりもマティアスの声が届くらしい。
「デリア、少し休みましょうか」
張り詰めていた空気が若干緩和する。
今はデリアとヘンリックを引き離すべきだろうとエミーリアはデリアにそっと歩み寄った。
*
別室でハンナとテレーゼが用意してくれたお茶はハーブティーだった。デリアの気分を落ち着かせるためだろう。
(ハンナが選んだんでしょうね)
デリアはシュタルク公爵家にもよく遊びに来ていたから、ハンナはデリアの好みもある程度把握していたはずだ。
「……少しは落ち着いたかしら?」
「そうね……ごめんなさい、取り乱したわ」
疲れたように息を吐きながらデリアが謝罪する。 目を伏せ、ティーカップを両手で包み込むように持って指先を温めているようだった。
「デリアがあそこまで怒るのは珍しいわね」
ヘンリック様もだけど、とエミーリアは小さな声で付け加える。ヘンリックの名前に、デリアの肩がピクッと揺れた。
「……デリアとヘンリック様のことを、聞いてもいいかしら」
今までなんとなく察してはいたけれど、深くは聞かなかった。いつもデリアは触れてほしくないという反応をしていたから、エミーリアはあえて触れずにきたのだ。
「つまらない話よ」
「大事な友人のことでつまらない話なんてないわ」
やさしく微笑みながら、しかし口調ははっきりと迷いなく告げる。するとデリアは「あなたらしいわね」と苦笑いを零した。
「……庶民の頃からの知り合いだってことは知っているわよね」
「ええ」
「母と住んでいた家がね、育児院のそばだったのよ。日中、母が働いている間はよく私は育児院にいたの。あそこで育ったようなものね」
住んでいたのは古くて小さな家だった、とデリアは笑った。今はもう別の人の手に渡ってしまって、帰ることもないらしい。
「だからあいつとは物心ついたときには知り合いだったのよ。育児院でも年長だったから、子守りとか……よくしていたし」
ずっと一緒だった。
帰る家は違っていたけど、家族のようなものだった。
けれどデリアは『兄妹のようなもの』だとは言わなかった。そのことにエミーリアは気づいたけれど、そっと口を噤んだ。
「母が死んで、一時は育児院で暮らしたんだけどすぐに私は伯爵家に引き取られた。跡継ぎがいないから、いずれ婿養子を迎えるために」
デリアが八歳のときだ。
リーグル伯爵家は遠縁にもちょうどいい年頃の子どもがいなかった。まったく血の繋がりもない他人を養子にするくらいなら、たとえ庶民育ちであろうと実の娘を迎えたほうがいいと判断したのだろう。
デリアにとっては驚きもいいところだった。母からは確かに父は偉い人だ、貴族様だと聞かされていたけど、それを信じたことはなかった。冗談だと思っていた。
でもデリアは行きたくないと叫んだ。その日、ヘンリックはいなくて、知らない大人がデリアを囲んだ。いつも穏やかな院長先生が「無理強いはやめてください」と怒っていた。
梃子でも動かないという雰囲気のデリアに、知らない大人は言ったのだ。
――君のせいでこの育児院の皆が苦しい思いをしてもいいのか、と。
「リーグル伯爵家って、お金だけはあるでしょ? あの育児院にもね、それなりの支援をしているのよ」
「……それ、は」
エミーリアが言葉を濁す。
それは育児院の人々を人質にして脅されたようなものだ。
「私が伯爵家に行かなかったら、その支援ってどうなるのかしら。もう嫌だってあの家から逃げ出したら? ……あそこ、いくらお金があっても足りないじゃない? 今でも苦しいのに、もっと苦しくなったら? あそこにいる子たちはどうなるの?」
だから行かなければならなかったし、逃げるわけにはいかなかった。
これまで通りに育児院が伯爵家からの支援を受けるためには、デリアは伯爵の不興を買う訳にはいかなかったのだ。
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