22:二人の恋を始めましょう


 ――どうか、陛下のおそばに、わたくしの居場所をいただきたいのです。


 いつもより少し震えた筆跡が、その言葉の重みを確かに伝えてきている。

 エミーリアからの手紙は、なぜ突然こなくなったのだろう。彼女がマティアスを避けていたのはなぜか?

 答えは明白だった。この手紙を送ったあとにマティアスから返信がなければ、誰だってそれ以上に手紙を送り続けることはできないだろう。

 手紙を読み終えると、マティアスは丁寧にたたみ直して封筒にしまう。そして先ほどまでそうしていたように、上着のなかにしまった。

「……懐かしいな」

 ぽつり、とマティアスが口を開く。

 エミーリアはしゃがみこんで、ぎゅっと目をつむっている。マティアスの返事を聞くのが怖いのか、それとも目の前で手紙を読まれるのが恥ずかしいのか。

 きっと両方だろうな、とマティアスは笑う。


「君の髪は、やさしいミルクティー色をしている」


 マティアスは膝をつき、エミーリアの目線に合わせ、ミルクティー色の髪を飾る白い薔薇の造花にそっと触れる。

 何度も何度も夢に見た十年前と同じ言葉に、エミーリアは目を見開いた。

 ――ああ、と吐息とともに声が零れる。

 迷路の中をさまよって、ようやく出口へ向かう光を見つけたような。なくしてしまった宝物を見つけたような、そんな気持ちでいっぱいになった。

 やはりエミーリアの恋は何ひとつ間違ってはいなかったのだと、満たされていく。

 嬉しくて嬉しくて、胸がいっぱいで、溢れ出す感情を涙で表現するほかなかった。

「……十年前、同じ言葉を下さった方がいらっしゃいました」

 静かにエミーリアの頬を伝う涙を、マティアスはじっと見つめた。

「わたくし、それまで本当に自分の髪の色が嫌いで。お母様やお姉様みたいにうつくしくない自分が嫌いで。けれど、その言葉のおかげで、わたくしは自分を好きになれたんです」

 またひとつ、涙が落ちる。

 それが悲しいものでないことくらい、マティアスにもわかっていた。

「やっぱり、あの時の、あの人は。……陛下だったんですね」

 ふわりと微笑むエミーリアの頬を、マティアスの手がそっと拭う。そのぬくもりこそがマティアスからの返事だった。

「……君は勘違いしていたみたいだが、十年前に君と会ったのはこの庭だ」

 マティアスは微笑みながらエミーリアがすっかり忘れてしまっていた事実を告げる。

 七歳の頃の記憶は当てにならないな、とエミーリアはふふ、と笑みを零した。

「どうりで似ていると思いました」

 すり、とエミーリアは甘えるようにマティアスの手に頬を擦り寄せる。その様子にマティアスは一瞬息を飲み込んで、涙の名残をまたやさしく拭った。

 そしておずおずと、エミーリアはマティアスの手に自分の手を重ねる。エミーリアの小さな手は、マティアスのそれと重ねると小ささがより際立った。

「わたくし、あまり綺麗ではありませんし、取り繕ってはおりますけどけっこうお転婆ですし……きっと、わたくしよりも陛下に相応しい方はいらっしゃると思います」

 エミーリアは真っ直ぐにマティアスを見つめながら、迷いなくそう告げた。

 いずれもエミーリアの本心で、事実だった。国王陛下の婚約者は、エミーリアでなくても務まるはずなのだ。

 ただただ真摯に見つめ返してくるマティアスに、エミーリアはふわりと花咲くように、けれど蝶のように艶やかに微笑む。


「……それでも、おそばにいていいですか」


 他の誰かでも務まる、その場所に。

 他でもないエミーリアが、マティアスに選ばれてもよいだろうか。

「そばにいてもらわなくては困る。君は、私の婚約者なんだから」

 婚約者。

 その言葉ひとつだけなら、エミーリアも文字通りの意味だけを受け取っただろう。

 けれどマティアスの声はとてもやさしく、どこか甘く、包み込まれるような心地良さがあって。

 それだけで十分だった。

「……はい」

 噛み締めるようにエミーリアは答え、またマティアスの手に頬を擦り寄せる。――あたたかい。

「でしたら陛下。……どうぞわたくしと、恋をしてくださいね?」

 くすりと笑ってエミーリアはマティアスを見上げる。

 それは、初めて婚約者として顔を合わせたあの日に告げたセリフにも似ていて、しかし込められた意味も、二人の関係も違っている。

 だからマティアスは、以前のように妙なことを言うものだなんて思わないし、めんどくさいなんて、露ほども考えない。


「もうとっくの昔に、君に恋しているよ」


 潔いほどはっきりとそう告げるマティアスに、エミーリアはほんのりと頬を赤らめ、けれど確かに見つめ返して、その言葉を噛み締める。

 慣れない空気に居心地が悪いのは、むしろマティアスのほうだったのかもしれない。照れたように目をそらし、エミーリアに触れていた手が離れていく。

 そして、その手はそっとエミーリアの前に差し出された。

「……戻るか」

「はい、そうですね」

 マティアスの手をかりて立ち上がり、エミーリアはドレスについた草や土を払う。パーティー会場に戻ったときに草なんてついていたら笑い者になってしまう。

「手紙のことなんだが」

「はい?」

 ひとまず東屋へと戻りながら、マティアスが思い出したように口を開いたので、エミーリアは首を傾げて彼を見上げた。

「……これからは、返事を書く。だから、きちんと手紙のやり取りをしよう」

 それはつまり、これからはエミーリアの一方通行ではなく、マティアスが返事をくれるということだ。

 事務的な手紙ではない、マティアス自身の言葉が綴られた手紙が届くなんて夢にだって見なかったのに!

「……はい。はい……!」

 噛み締めるように頷きながらエミーリアは目を輝かせた。

「わたくし、陛下にお聞きしたいことがたくさんあるんです!」

 今までの、一方的に手紙を受け取ってばかりだったことを、マティアスは少し反省した。

 こんな簡単なことで喜ぶのなら、もっと早くにすればよかった、と。

「まずは、そう、陛下の好みの女性とか」

「……は?」

 しかし可愛らしい婚約者の口から飛び出した言葉に、マティアスの思考は停止した。

 なぜそんなことを知る必要があるんだ、と問い詰めかけたが、それよりも先にエミーリアが楽しそうに笑いながらマティアスを見上げた。

「陛下にもっとわたくしのことを好きになっていただきたいので!」

 その曇りない緑の瞳に、マティアスは否定の言葉を飲み込んだ。

 そして、ふと悪戯心が湧いてくる。

「……そうか。好み……そうだな。賢く、真面目で、マメで、時々突拍子もないことをやるので一緒にいてまったく飽きない」

 まさか直接答えてもらえるとは、とエミーリアは一言一句聞き逃さないように集中しながら相槌を打った。

「小柄なほうで、瞳は緑、髪はミルクティー色。……ああ、そうだな、それでいてけっこう鈍感だ。ようやく自分のことだとわかったらしい」

 身体的な特徴のあたりで「あれ?」と思い始め、マティアスが意地悪げに微笑みかけた時には、エミーリアの顔は真っ赤になっていた。

「か、からかっていらっしゃるでしょう!」

「からかってはいるが嘘はついていない」

 真顔のマティアスに、エミーリアはそれ以上の文句など言えるはずもない。耳まで赤くなって、あまりの恥ずかしさに唇を噛んだ。

 けれど恥ずかしくてたまらなくなっても、逃げ出したいとは思わなくなった。むぅ、とエミーリアが赤く染めたままの頬を膨らませるとマティアスは楽しそうに笑うので、つい許してしまう。


「――それにしても、君はすごいな。あの叔母上に気に入られるとは」

 あれは気に入られたのだろうか、とエミーリアは首を傾げる。リンハルト公爵夫人の出した試験には合格したと言えるが、彼女に気に入られるほどのことはしていない。しかしマティアスが言うのだからそうなのだろう。

「それにあの人数の女性に囲まれて、きっちり応対するとは。私はとてもじゃないがやりたくないし、出来ないだろう」

 マティアスに手放しに褒められ、エミーリアはくすぐったい気分になりながら「ふふ」と笑った。

「それは、当然のことですよ。陛下」

 エミーリアにとってはなんてことない、当たり前のことだ。

 取り立ててうつくしいわけではないし、実はけっこうお転婆なエミーリアではあるけれど、それでも完璧な令嬢と呼ばれるのは周囲から過剰評価ではない。

 重ねたままのマティアスの手をそっと握り、エミーリアはいとしい婚約者を見上げて微笑んだ。


「だってわたくし、陛下のお嫁さんになりたくてここまでがんばったんですもの!」


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