21:逃げる者と追う者

 走り去ったエミーリアを、マティアスはすぐに追いかけて行った。誰もいなくなった東屋に、こつりと一人の令嬢が足を踏み入れる。


「……まっさかこのタイミングで使うと思わなかったわ……」


 しかも自分で飲むなんて、とデリアは地面に転がった小瓶を拾い上げる。中身はほとんどなくなっていた。

 エミーリアが東屋に案内された後、デリアもこっそりその様子を覗いていたのだ。マティアスが来た途端に騒ぎになったようで、その原因にデリアは心当たりがあった。

「一体何をした? デリア・リーグル」

「何もしておりませんわ、ヘンリック・アドラー」

 東屋をこっそりと覗いていたのはデリアだけではなかった。ヘンリックにしてみればマティアスの護衛なのだから仕事だと主張するだろう。

 一見、他人行儀すぎるデリアとヘンリックだが、実際、普通の貴族ならまったく見知らぬ人をフルネームで呼んだりはしない。

 少なくとも顔見知り。

 それどころか、女性には丁寧な対応をするはずのヘンリックの口調が少々粗いので、単なる顔見知りではないのだろう。

「それは?」

 デリアが持つ小瓶を睨みながらヘンリックが問う。

「ただの蜂蜜よ」

 そう言いながらデリアは指先についた蜂蜜をぺろりと舐める。甘いだけで、もちろん舐めたところで誰かに惚れるわけでもないし、動悸が激しくなるわけでもない。

「ただの蜂蜜で、なーんでシュタルク嬢は飛び出してうちの陛下は追いかけて行ったのかね」

 もちろんヘンリックも一部始終見ていたのだから、原因がこの小瓶に入っていた蜂蜜なのではと予想できる。

 じとりとデリアを見るが、デリアは素知らぬ顔で倒れたティーカップを元に戻した。これは公爵家の使用人を読んで片付けてもらわねばならないだろう。

「エミーリアはこれが惚れ薬だと思っているので」

「……惚れ薬ぃ?」

 ヘンリックの素っ頓狂な声にデリアは少し眉を顰め、そしてにっこりと微笑んだ。

「国王陛下におかれましては、あなたと違って随分と女性の扱いに慣れていらっしゃらないようだったので? 荒療治も必要かと思いまして?」

「それでこれか……」

 はー、とヘンリックがため息を吐き出す。デリアの嫌味がまったく効果を発揮していないらしい。

「大体、ここまで進展しないのがおかしいくらいなんですからね。あなた、余計なこと言っていないでしょうね?」

「少なくともシュタルク嬢には言ってないけど?」

 それはつまり、マティアスには余計なことを言っていたということではないだろうか。その助言かどうかわからないものが、どう作用したかデリアにはわからないが、むっつりと顔を顰める。

「……ほんっと! いい性格してるわ!」

「今更。それより、被ってる猫がどっかに行ってるけど?」

「あなた相手に猫被ることのほうが今更でしょう!」

 ふいっとデリアがそっぽを向いた。そんな様子を見つめながら、ヘンリックはやさしく微笑んでいた。



 ああ、なんてことをしてしまったんだろう。


 これでマティアスがエミーリアを不審に思って調べたりしたら、きっと惚れ薬のこともすぐにバレてしまう。

 そうなったら、今度こそ婚約破棄されるかもしれない。

 せっかく、婚約者としてしっかり務めを果たそうと思ったのに。それくらいなら自分でも出来るはずだと、思っていたのに。

(絶対に、絶対に、今度こそ嫌われた……!)

 妙な女だと思われただろう。飲み物に怪しいもの入れて、マティアスを害するつもりだったと思われても仕方ない。

 どうであれ、そんな者は王妃に相応しくない。

(陛下のそばに、いられなくなる……)


 好きなのに。

 好きで好きでたまらないのに。


 パーティー会場に戻るわけにはいかず、エミーリアは子どものように植え込みの影に隠れた。

 涙を滲ませてエミーリアは庭園を見回した。

 白い薔薇が目に入る。公爵夫人自慢の、特別な薔薇だ。

(ここ……あの時の庭園に似てる……)

 エミーリアが十年前の庭だと覚える鍵となった特別な薔薇は、この庭と王城の庭にしかない。だからきっと、似ているように感じるのだろう。

 けれど、今は薔薇を見ても元気になんてなれない。

 自分のミルクティー色の髪だって、目に入れたくないほど憎たらしい。飲み干した甘いミルクティーを思い出しては苦々しい気分になる。

(どうして惚れ薬の蓋なんて開けたの、エミーリア)

 だって、好奇心に負けてしまったから。

(どうしてもっとうまく誤魔化せなかったの)

 だって、混乱して言葉が出てこなかったから。

(……どうしてわたくしは、いつもこうなの)

 いつだってエミーリア・シュタルクは、頑張って頑張って重ねた仮面で、理想的な淑女を演じているだけだから。

 本当のエミーリアは、周囲が見えなくなってばかりで、ときどき迂闊で、けっこうお転婆だ。けれどそれでは。

 それでは、王妃になどなれないから。

 だから、必死にいい子になろうとしたのだ。


「……君はつくづく、庭園に逃げ込むのが好きだな」


 少し呆れたような、けれどあたたかみのある声にエミーリアは顔をあげた。

「……へいか?」

 幻だろうか、とエミーリアは涙で濡れた目をこする。

(どうして)

 どうして追いかけてきたのだろう。

 愛想を尽かして、放っておかれると思ったのに。マティアスには、エミーリアにここまでする理由なんてないだろうに。

「体調に問題はないか? 妙なものを飲んで走り出したりして……」

「ど、どうして」

 マティアスの問いかけなどエミーリアの耳には入らなかった。驚きと疑問ばかりが浮かんで、とても平静ではいられなかった。

「何が?」

 しかしマティアスは冷静そのもので、怒っているような様子もない。

「どうして、来てくださったんですか」

「突然飛び出していった君を追いかけてきたんだが? 一体何を飲んだんだ」

「い、言えません」

「なぜ?」

「なぜって」

 じりじりとマティアスに詰め寄られ、エミーリアは後ずさりする。怒っているような雰囲気はないものの、見逃してはくれなさそうだ。

「エミーリア」

 トドメを刺すように、マティアスがエミーリアの名前を囁く。

「きょ、今日は名前を呼ばないでくださいと言ったじゃないですか……!」

 だから驚いて惚れ薬を紅茶に入れてしまったのだ。そうだ、マティアスが悪い。

「君が正直に話すならやめるが」

「そ、そんなのずるいです……!」

 このまま名前を呼ばれると心臓がもたないかもしれない。かといって、真実を話してしまったらマティアスに失望されるのは明らかだ。

 混乱している頭では、ぽろりと白状してしまいそうになるのも問題だ。

 ぎゅ、と目をつぶりエミーリアは口を閉ざした。せめて視覚からの情報をなくして呼吸を整えれば、突破口が見つかるかもしれない。

 けれどそんなものは、焼け石に水だった。

「エミーリア」

 低い声が、まるで耳元で囁いていると錯覚するほど近くで聞こえた気がした。視覚を制限した分、聴覚が敏感になってしまったのだ。

 全身をすぅっと撫でられるみたいだった。ぞくりと背筋が震えるのに、少し心地よくて。その感覚に囚われてしまうのが怖くてエミーリアはさらにぎゅぅっと強く目をつぶった。

 いっそ耳も塞いでしまえたらいいのに。

「何を言っても怒らない。軽蔑もしない。ただ心配だから教えてほしいんだ」

 やさしい声が、乞うように告げる。

 ひどい誘惑だ、とエミーリアは思う。こんな声で頼まれたら、つい話してしまいたくなる。

「そ、そんなわけありません。絶対陛下は怒りますし軽蔑します」

「しないと言っている」

「わ、わたくしをここまで案ずる必要も、ないではありませんか。陛下にとってわたくしは、ただ周りが決めただけの婚約者でしょう?」

 だから、婚約者として完璧に振る舞おうと思ったのだ。ただの役割としてだけでも必要とされたかったから。

「なぜそんなことを思う?」

「な、なぜって……」

 思わず目を開く。

 そしてすぐに息を飲んだ。目の前にマティアスがいる。手を伸ばす必要もないほど近くに、少し動くだけで触れ合ってしまいそうなほど近く彼は立っていた。

 まるで、恋人のようだ。

 けれどそれはエミーリアの幻想で、実際はそんな甘い感情はマティアスにはない。それが悲しくて、じわりと涙が滲んだ。

 麻痺したはずの胸が、ちくん、ちくん、と痛みを訴えてくる。

「……お、お返事をくださらなかったじゃないですか」

 エミーリアが考えて考えて、心臓が口から飛び出そうになったけれど、それでもがんばって書いた、生まれて初めての恋文。

 たとえ好きになってもらえなくても、マティアスにただのエミーリアとしてそばにいていいのだと言ってもらえたなら、エミーリアはそれだけで良かった。

「返事?」

「……ガーデンパーティーのお誘いの前に、わたくしが書いた手紙です。陛下からお返事はありませんでしたから、わたくしは、それが返事なのだと」

「まて、すまない。その手紙はまだ読んでいなくて」

「……え?」

「その、少し、色々あって……実は持ち歩いてはいるが読んでいない」

 マティアスが懐から一通の手紙を取り出して見せた。

 忘れるはずもない。それは紛れもなくエミーリアが書いた手紙だ。

「ま、まってください! も、持ち歩いて……!? それなら返してください、それはもう読まなくていいものです!」

「既に受け取ったものを返すわけがないだろう」

 マティアスの手から手紙を奪い取ろうとするが、小柄なエミーリアと背の高いマティアスでは勝負にもならない。

 ひょいと躱されてしまって、エミーリアの手はさっぱり手紙に届かなかった。

「君がそんなことを言うくらいだ、大事なことを書いていたんだろう?」

 そう言いながらマティアスは手紙の封を切ってしまった。

 あああ、とエミーリアは唸りながら顔を覆いしゃがみこむ。

(まさか目の前で読まれるなんて思うわけないじゃない……!)

 ロマンス小説のヒロインのように都合よく気を失えたらいいのに。

 手紙はほんの数行だ。気分を害してしまったかと謝罪したあとに、本題がある程度。何枚も便箋を犠牲にしたのに、出来上がった手紙はたった一枚ですんでしまった。

 ほんの数分。

 エミーリアにとっては一時間にも二時間にも感じるほど長い時間だった。


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