1:恋愛結婚がしたいんです
長い冬も終わり、春のあたたかさをようやく感じるようになった日のことだった。
父であるシュタルク公爵に呼ばれたエミーリアは、書斎へとやって来た。それがほんの、数分前の話だ。
エミーリアはぱちぱちと瞬きを繰り返し、父の言葉を頭の中で反芻した上で、胸に詰まった息を細く長く吐き出した。
(……わたくしったら、ぼぅっとしていたのかしら)
空耳。聞き間違い。勘違い。
その可能性は大いにありえる。なんと言っても公爵の低い声は威厳があるが聞き取りにくいことがあるから、確認は大事なことだった。
「……申し訳ございません。お父様、もう一度おっしゃっていただけますか」
けれど、いつものエミーリアなら聞き返したりはしないはずだ。彼女は頭の回転も早く、一度言われたことは絶対に忘れなかったし、特に父の声は聞き間違えないようにと神経を尖らせている。
今だって、きっと、おそらく、聞き間違えてなどいないのだと思う。ただ、信じられなかったのだ。
そう、自分の耳を疑うとはよく言うが、エミーリアは生まれて初めて自分の耳を疑った。
「婚約が決まった。おまえは陛下のもとへ嫁ぐことになる」
珍しく聞き返してきた娘に、公爵はきっぱりと先ほどと全く変わらない内容を告げた。
「わた、わたくしが、ですか?」
「何を驚くことがある。おまえ以上にふさわしい令嬢などいないだろう?」
シュタルク公爵家の次女、エミーリア・シュタルクといえば社交界でも完璧なご令嬢だともっぱらの評判だ。他人にも自分にも厳しい公爵さえ、エミーリアはどこに出しても恥ずかしくない娘だと思っている。
「およそ一年は婚約期間となるが、国をあげての慶事だ。これから準備に忙しくなるぞ」
まだ一年あるともいえるし、一年しかないともいえる。
国主の婚姻ともなれば簡単に質素になんていうわけにはいかない。国の威信にも関わる。
そんな王の花嫁のドレスを、既製品などですませるわけにはいかない。もちろんドレスも靴も何もかもがオーダーメイドだ。最高級の品を揃えるとなれば、一年で間に合うかどうか。
いや、それよりも。
「……一年」
神妙な顔つきで呟いた娘に、公爵は眉を寄せた。まさかとは思うが、エミーリアがこの婚姻を拒否しているのかと思ったのだ。
「たとえおまえに不服があろうと、もう決まったことだ、覆らないぞ」
「ふ、不服などありません」
あるはずがない。
即位してから七年、二十七歳となったアイゼンシュタットの国王マティアスには、今まで婚約者がいなかった。
貴族の娘ならば誰もが王妃の座を目指して淑女となるべく厳しいレッスンにも耐えた。それはもちろん、エミーリアも例外ではない。
「一週間後には婚約者としてはじめて陛下と顔を合わせることになる。しっかりと準備しておきなさい」
「はい」
エミーリアはうつくしく淑女の礼をすると、書斎から退出した。
完璧な令嬢たるエミーリアは浮かれて走り出したりはしない。そんなことは淑女としてはもってのほかだ。
けれどほんの少し足が浮き立つのは、エミーリア自身にもどうしようもなかった。
*
アイゼンシュタットの王城では、ようやく国王の婚約者が決まったことで重鎮たちは胸を撫で下ろした。
なんといっても相手はあのエミーリア・シュタルクなのだ。自分の娘を王妃にと狙っていた者には悔しい話だろうが、彼女ほどふさわしい令嬢がいないというのもまた事実だった。
「……めんどくさい」
渋い顔をしていたのは、当本人であるアイゼンシュタット国王、マティアスくらいなものだ。
この一時間後に、婚約が決まってはじめてエミーリアとの顔合わせが予定されていた。だからこそマティアスは渋い顔をしていたのだ。そんなことに時間を割くならいっこうに片付かない書類の山と向き合うほうがよほど有意義な時間を過ごせるのでは、と。
「そう言うなよ、おまえだってもう二十七歳だろ? 周りにしてみりゃそろそろ嫁さんもらって跡継ぎのこと考えてほしいわけ」
おわかり? とマティアスを宥めたのは護衛騎士であるヘンリックだった。マティアスが友人と認めていることもあり、人目がないとかなり気安い。
肩をすくめる友人に、マティアスは憮然としながら答える。
「跡継ぎの必要性は理解している」
「必要性っておまえなぁ……」
なんとも色気のない回答だ。
ヘンリックとしても愛だの恋だのと夢を見るわけではないが、国王であるマティアスがここまで自分の結婚相手に興味が無いというのも問題である。
「俺に寄ってくる女なんて、王妃の地位が欲しいだけだろう? シュタルク嬢は見事それを勝ち取ったわけだ」
は、と乾いた笑みを零すマティアスに、ヘンリックはため息を吐き出した。
マティアスは少し、いやかなり、女嫌いの節がある。
「いやいやそんな肉食な令嬢ばかりじゃないって。それにシュタルク嬢はもうちょいこう、淑やかで謙虚な感じだろ?」
ヘンリックもエミーリアと親しいわけではないが、何度か面識がある。とてもそんなにガッツのある女性には見えなかった。どちらかというと男性をたてる淑女の手本のような女性だ。だからこそ重鎮たちの誰もがこの決定に異を唱えることがなかったのだ。
しかしマティアスはヘンリックの言葉を疑うように眉を寄せた。
「……社交界の花と有名だっただろう?」
「それは姉のほう。おまえと婚約したのは妹のほう。姉は一昨年くらいにとっくに嫁いだって」
妹、と言われてマティアスは考えた。
そういえばシュタルク公爵には十六、七歳頃の娘がいた気がする。どうりで年が少し離れておりますが、と周りが言うわけだ。マティアスより十歳近く年下ということになる。
「マティアス、おまえいくらなんでも興味なさすぎだろ。自分の婚約者だぞ?」
「俺が決めたわけじゃない」
だから興味がわかないのも無理もない、と言いたげにマティアスは書類に目を落とした。
エミーリアが自分が考えるような令嬢ではないなどと、このときのマティアスは露ほども思っていなかったのだ。
エミーリア・シュタルクは薄茶の髪を丁寧に結い上げ、白いレースと淡い黄色のドレスを着ていた。
「お会いできて光栄です、陛下」
ふわりと微笑みながら流れるような動作でお辞儀をする。その自然で洗練された仕草は一朝一夕で身につくものではない。
興味がないとはいえ、エミーリアと顔を合わせると記憶が蘇ってくる。何度か顔を合わせたことがあるはずだ。その記憶のなかで彼女は前に出て自己主張することはなく、そっと親や兄姉の傍に控えていた。
「お忙しいなかありがとうございます。けれど、よろしいのでしょうか。陛下は政務がおありでしたよね?」
「いや、それは……」
これも言うなれば国王としての仕事のひとつだ、と頭に浮かんだものの、さすがに口にするのははばかられた。
「……あなたとの時間を作るのも、必要なことだろう。婚約者なのだから」
悩んだ末に慎重に言葉を選んでそう告げると、エミーリアは一瞬目を丸くしたあとで、うれしそうに笑った。
「ありがとうございます」
婚約者との逢瀬には応接室が使われた。マティアスの私室に呼ぶことなどできるはずもないし、かといって執務室では色気がなさすぎる。ヘンリックならば温室にテーブルを運び入れてロマンチックなひとときを演出しただろうが、生憎マティアスにはそこまでする理由がない。
テーブルに並べられた甘い菓子に手を伸ばしながら、マティアスはエミーリアを観察した。思えばこの少女とこうして二人で話すことなど今までなかった。
マティアスの記憶にあるとおり、エミーリアは誰かのそばにいて微笑んでいるばかりで、会話の主役になることはあまりない。何度か一緒に踊ったことがあるだろうか? 残念ながら記憶になかった。
エミーリアは静かに紅茶を飲んでいた。濃く淹れたアッサムティーにミルクと砂糖をひとつ。どうやら彼女は甘党のようだ。
「陛下は甘いものはお好きですか?」
しっとりとした沈黙の中、エミーリアが口を開く。マティアスが菓子をつまんでいたので聞いたのだろう。
「……嫌いではないな。疲れた時の栄養補給にちょうどいい」
そうなのですね、とエミーリアは微笑みながら続けた。
「つい近頃、チョコレートというお菓子が流行っているのはご存知でしょうか? 先日頂く機会があったのですけど、食べたこともないような不思議なお菓子でしたの」
「話に聞いたことはあるが、食べたことはまだないな」
「でしたら、今度お会いするときにお持ちいたします」
断る気も起きないような穏やかな微笑みにマティアスは困惑した。
今まで近づいてくる女性がこちらに恩を売ろうとするときは、吐き気がするほど嫌な気分になったものだが、エミーリア相手には今のところそれが起きない。
予想よりもずっと、マシな婚約かもしれない、とマティアスは思った。
そろそろ時間だ、とマティアスは護衛に控えていたヘンリックに目配せする。そのわずかな仕草に気づいたエミーリアはそっとティーカップを置いた。
「陛下、どうしてもお話しておきたいことがあるんです」
真剣な眼差しに、マティアスはどうしたのだろう、と思った。始終穏やかな微笑みを浮かべていたエミーリアから想像できない表情だ。
「なんだ」
話してみろ、とマティアスはエミーリアに向き合う。このわずかな時間でも、エミーリアに悪い印象は抱かなかった。話を聞かなければ、と思うくらいには好意的だ。
「陛下。わたくし、恋愛結婚がしたいんです」
真面目な話なのだろう。そう考えていたマティアスは完全に虚をつかれた。
「……は?」
自分の耳を疑うのも無理ない。ヘンリックでさえ目を丸くしている。
恋愛結婚。
どういうつもりだろうか。
マティアスとエミーリアの婚約は、政略によるものだ。国王の花嫁に最もふさわしい家柄と人柄、挙げられた候補のなかからエミーリアが選ばれたに過ぎず、そこに愛し愛されなどという甘い関係はない。
なるほど、とマティアスは自嘲気味に笑った。
つまりエミーリアには恋人でもいるのだろう。その男と結婚したいというわけだ。マティアスに媚を売らないのは、そういうことか、と。
「……恋人がいるのか。婚約破棄して、その男と結婚したいと?」
とんだ茶番だ。それならば初めからそう言えばいい。何も婚約が決まったあとの顔合わせでわざわざ宣言することもないだろう。
失望した。エミーリア・シュタルクはマティアスの嫌う女と何一つ変わらなかった、と。
しかしエミーリアは真剣な表情を崩さず、いいえ、と答えた。
「わたくしに恋人なんておりません。もちろん、陛下との婚約を破棄するつもりもございません」
淀みない返答には、嘘偽りは感じられない。
「……わたくしはずっと、物語のように素敵な方と恋をしてその果てに結ばれることに憧れておりました」
子どもっぽい夢だとはわかっているのですが、と少し言いにくそうにエミーリアは続けた。恥ずかしげに頬を赤く染める様子は、年相応の少女らしい。
しかしそれも一瞬、一度目を伏せて、そして再びマティアスを見たときには完璧な令嬢に戻っていた。
「ですが、わたくしは公爵家の娘です。自分の将来とはいえ、わたくしの一存で決められることではないと理解しております」
昨今では貴族同士であっても恋愛結婚もおかしな話ではなくなってきている。しかし依然として身分差には厳しい目があるのも事実だし、娘の結婚相手は父親が決めるものだという認識のほうが強い。
もちろん、マティアスとエミーリアの婚姻は政略によるものだ。
「つまり? あなたはどういう意図でこんな話を?」
先ほどからマティアスはイライラして仕方なかった。女の話は無駄に長くて困る。
「わたくし、思ったのです。はじまりはたとえ決められた関係であったとしても、その方と恋をすれば……それは恋愛結婚と呼んでも良いのではないかと」
エミーリアは笑った。
花咲くような、愛らしい笑顔だった。
「ですから陛下。わたくしと、恋をしてください」
何をどう考えたらそんな結論になるのだろう、とマティアスは眩暈がした。
……正直、めんどくさい。
やはり婚約なんてろくなことがない。
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