第一章

覚醒


 ずいぶんと眠っていたような気がする。

 その空間は、ゲル状の透明な物質で満たされていた。

 人肌よりすこしあたたかく、ほのかに甘い味がする。

 不思議と呼吸に支障はなく、全身を包み込まれている感覚は、揺りかごの中にいるような安心をもたらしてくれる。


(どこ……? ここ……)


 遠くに見える緑色の光が、すこしぼやけて見えた。

 あれはおそらく天井だろう。ならば、ここは建物の中か。

 腕を持ちあげると、肘が伸びきる前に指先が硬いものにあたった。

 首を左右に動かし、自分がカプセルのようなものに入っていることを知る。


『やあ、おはよう』


 頭の中で、男の声が響いた。

 思わず悲鳴をあげそうになったが、吐息は音声のていをなさず、カプセル内のゲルをわずかにかき混ぜただけだった。

 おそらく肺の中までゲルで満たされているのだろう。息を吐いても、気泡が口から出てくることさえない。


(だ、誰? ここはどこなの?)


 どうやら頭で考えるだけで会話が成り立つらしい。

 すぐに要領を飲み込み、彼女は男に問いかけた。


「ここは〈妖精の檻フェアリー・ケイジ〉のラボさ――そして、僕はボガート。キミを創った器獣縫合師きじゅうほうごうしだよ』


(きじゅう……ほうごうし?)


 眩暈にも似た、軽い混乱を覚えた。

 知っている単語のような気もするが、どういう意味なのかはわからない。


『ふむ。やはり、まだ頭がはっきりしていないようだね。とりあえず、そこから出してあげよう』


 プシッ、という音がして排出がはじまった。

 カプセルの上部に縦線が入り、ゆっくりと左右にひらいてゆく。

 ゲルの量が減って、顔、胸、お腹、と順番に空気にさらされる。

 上体を起こす。

 ちょっと身体を動かすだけで、ゲルはするりとすべり落ち、肌にはまるで残らない。

 深く息を吸い込むと、空気がえらく美味しかった。


「んっ……」


 いったいどれほどの時間、カプセルの中にいたのだろう。

 全身が糊で固められたようにこわばっており、あちこちつっぱるような感覚があった。


「あらためておはよう。我が愛しの砂糖菓子ちゃん」

「ひゃあっ」


 脳内で響いていた声が、今度は傍らから聞こえた。

 ぬぼーっ、とカプセルの横に立つ男の影をみとめ、同時に自分が全裸であることを認識。反射的に身体を丸めつつ、平手で男の顔面をはたいた。


「うぶぉっ!?」


 軽い手ごたえ。ゴムまりのような身体が軽々と宙を舞い、二度ほどバウンドして向こう側の壁に激突した。


「え? え……っ?」


 そんなに力を込めたつもりはなかったのに、予想外の威力が出てしまったことに、少女は戸惑った。


「うそ。い、生きてる?」


 男はピクピクと痙攣しながら、少女の声に応えるように片手をあげた。

 よろよろと鈍重な仕草で立ちあがり、片方のレンズが粉砕されたメガネを拾って鼻の上に乗せた。

 年の頃は、三十~五十歳のあいだならどのあたりにも見える。

 太ってパンパンになった顔に薄くなった頭。ひげは生やしておらず、首のない体形のせいで、シルエットはまるで雪だるまのようだ。


「いてて……気をつけてくれたまえよ。いまのキミの筋力でも、僕程度を捻り殺すくらい簡単なんだからね」

「そ、そうなんだ。ごめんなさい……って、そうじゃなくて! 服はどこよ、この変態!」


 少女が牙を剥いて唸ると、男はデスクに置かれた検査着を指さした。


「えー……なにこれ」


 はっきり言ってデザインは気に入らなかったが、他に着るものもなさそうだったので、ひとまず袖を通す。まともな服は、あとで要求すればいいだろう。


「で。あんたがボガートなの?」

「そうだよ、マイ・スウィート・ハート」

「気持ち悪い呼び方やめて。あたしを造ったとか言ってたけど、なに? つまり、あんたがあたしのパパってこと?」

「そう呼んでくれるなら、これ以上嬉しいことはない。生み出したという意味なら、ママでもあながち間違いではないけどね!」

「うわー、無駄にいい笑顔」


 飛び込んでおいでと言わんばかりに両手を広げるボガートに、少女は心底げんなりした。

 生まれてはじめて出会った相手が気持ちの悪いことばかり言うおっさんで、しかもそれが自分の親であるらしいというのは、ちょっとした地獄ではあるまいか?


「いちおう、嘘をつかれてるわけではないという前提で話すけど、そもそもあたしって何者?」

「う~ん……やはり、そこからなんだねえ」


 ボガートは困ったように、たるんだあごをかいた。


「おそらくキミの頭の中は疑問符でいっぱいだろう。自分が何者で、どうしてここにいるのか。きっと不安もあるだろう。だが大丈夫。僕はキミの味方だし、ここにキミを傷つける者はいない」

「前置きはいいから」


 いらいらして、少女は言った。


「まず、怪人ノワールとは何か、わかるかな?」


 首を横に振る。


怪人ノワールとは、人と獣と器物、三種の異なる特性を備えた生体兵器だ。三位一体の奇跡を叡知によって再現した、至高の芸術品と言ってもいい。そして、キミの個体名はシュガー。怪人ノワールとしての名はアルタンユーズ。我がボガート・ラボの誇る傑作のひとりというわけさ」

「あたしが、怪人ノワール


 人間ではなく、人工的に生み出された兵器。ありえないほどの怪力も、戦うためのものだというのか?


「そして、怪人ノワールを創り出す技術者を器獣縫合師という」

「おじさんが、そうなんだ」

「そう。これでキミと僕の関係は理解できたね?」


 少女――シュガーはうなずいた。


「じゃあ、ここは兵器を作る工場ってこと?」

「それだと三十点くらいかな。僕らの所属する〈妖精の檻フェアリー・ケイジ〉は、怪人ノワールを生み出す研究機関であると同時に、戦力として怪人ノワールを派遣する傭兵組織でもある」

「派遣って、どこに?」

「各地の戦場から非合法組織の抗争まで、暴力が必要とされる場所ならどこへでも」


 ついさっきパパだのママだのとのたまった口で、こともなげに言う。自分の子供を戦場に送ることに、なんの葛藤もないのだろうか。


「じゃあ、あたしは、これから……」

「そうだね。僕としても、キミが大いに働いてくれることを期待しているよ。でも、その前に――」


 ぐぎゅうぅぅぅぅぅ


 ボガートの言葉をさえぎるように、シュガーの胃袋が悲鳴をあげた。

 手で押さえると、刺激を加えられたことにより、よけいに空腹感が強まってしまう。

 さすがに恥ずかしくなり、上目遣いに顔色を窺うと、ボガートはにっこりと微笑んだ。


「ともあれ、まずは食事だね。怪人ノワール専用の食堂があるから、そこへいくといい。キミの仲間たちにも会えると思うよ」


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