たとえ仕事でも

 彼女はシートが濡れることを申し訳なさそうにしながら、ゆっくりとシートベルトをしめた。濡れたブラウスのうえに、シートベルトが食い込んで、胸が強調されてドキリとする。

「はい。大丈夫です」

 俺は大丈夫じゃないな、と思いながら頷き、エンジンをスタートさせた。

 ピリピリと首筋が傷む。その痛みが、俺を現実に引き戻す。

「……あの、鬼頭さん?」

 車の向かう方角に疑念を抱いたのだろう、優樹菜が問いかけた。

「なんか、ついてきているから、とりあえず俺の家に行く。この前の、電車の時は、そんな感じはなかったけれど、今回の影追いは、使役されていたみたいだ」

「使役?」

 少なくとも、この前は『払った』あとは気配を消したのに、今日はずっとついてきている。間違いなく、彼女を狙っている。

 このままひとりにするのは、危険だ。

「心あたり、ない?」

「たぶん……あります」

 彼女は頷きながら、駅で見た眼光の鋭い男のことを話す。

「どうしてその時点で、電話をしなかった?」

「えっと。気のせいかな、と思ったから……」

「まあ、今回は無事だったからいいとして。変な遠慮はかえって、迷惑だから」

 今まで、ふつうの生活を送っていた彼女である。そういったことに自信がないのはやむを得ないことではあるが、もっと気楽に頼ってもらいたかった。

 俺は、そのまま自分のマンションへと車をむけた。

 下手に彼女の家に行くより、俺の家のほうが、いざという時に守りやすい。

「降りて」

 あたりを不思議そうに眺める優樹菜をつれて、俺はエレベータに乗り込んだ。

 何も言わないのに、優樹菜の指がすぅっとのびて、七階のボタンを押した。

 あれ? と、思う。

 優樹菜は、エレベータの扉が開くと、そのまま迷うことなく歩き出し、七○五と書かれたドアの前に、彼女は当たり前のように立った。

「……俺の家、知っていたのか?」

「さっき、聞きませんでしたっけ?」

「言ってないと思う」

「そうでしたっけ?」

 どういうことだろう。

 彼女は、少なくとも予知夢で俺の家に来たことがある、ということだろうか。

 では、その予知夢の内容は、いったいどういう夢なのか。すべてをそっちのけで、問い正したい気持ちをぐっとこらえる。

「とりあえず、入って、シャワーを浴びてきて。ちょっと準備をしておくから」

 俺は、彼女にそう言うと、深呼吸する。

 影追いの気配は、かなり色濃かった。うちは結界が張ってあるから、そう簡単に入っては来られないが、保護しているだけではだめだ。

 ついてきている奴の正体を見極めなければ、彼女の安全は確保できない。

 警戒心のかけらもなく、浴室に入っていった彼女に複雑な思いを抱きながら、俺は彼女の濡れた服を洗濯機に入れた。

 滴るしずくは塩味だ。相手はおそらく『渦潮使い』だ。

 俺は、彼女の着替え用に、自分のシャツを置く。彼女ときたら、曇りガラスにシルエットが映っていることに気づいていないのか、無防備にシャワーを使っている。

 ここまで無警戒だと、セイが俺だと信じていい気もしなくもないが、単に、事件のショックで感覚が鈍くなっているだけかもしれない。

 なんにしても、仕事だ。しかも、相手はかなりデキる奴だ。

 俺は、部屋に結界を張り、明かりを消して、ろうそくで陣を描く。

 気持ちを仕事に集中するために、白い狩衣を着た。

「あの」

 風呂から出てきた優樹菜に、俺は目を奪われた。

 シャツを置いてきた時点で、そうなることは、予想済みではあったのだが、思わず喉がなりそうになる。

 大きくあいた襟は鎖骨のあたりまで白い肌を見せている。全体にダボダボなのだが、白いシャツのため、ノーブラの胸が透けている。

 太ももの半分の着丈も、ぞわりとした。下着をつけていないことを知っているから余計に、想像力が豊かになりすぎる。

「鬼頭さん?」

「……ヤバい。仕事を忘れそうだ」

 俺は、慌てて首を振る。影追いを放置するわけにはいかない。

「えっと、その円の中に入って座って。今から、君を追っている奴に術を返して、相手を突き止めるから、いざとなったら、さっきの呪言を唱えて」

「我は龍ってやつですか?」

「そうだ」

 俺は彼女を座らせると、三玄紫府真神指活切法さんげんしふしんしんしかつせっぽうをはじめた。

 呪にあわせ、優樹菜の身体から燐光がこぼれはじめ、光が龍となる。

 目の前の空間が、鏡面のようにきらめき、大きな護摩壇が映った。

 護摩壇の前に、一人の男が立っていた。

「行けっ!」

 男が反応する前に、俺は龍に命じた。

 ジャリン!

 男を貫こうとした瞬間、男の手から錫杖がのびて、龍とぶつかり、辺りが真っ白になるほどの光を放った。

 強い。力はほぼ、拮抗している。

 簡単には返せそうにない。


 我は龍。いかになくとも妖魔はいぬ。龍の逆鱗、おそれざらめや


 優樹菜の声がして、俺の龍に彼女の力が注ぎ込まれて、影追いが焼かれる。予想以上の『力』だ。

 慣れていない力の放出で、彼女はそのまま意識を失って倒れたのを見て、俺は、追跡をあきらめ、結界を張りなおした。

 あれだけのダメージを負えば、そう簡単に『次』はないだろうし、渦潮使いの使い手はそれほど多くはない。無理をして追わずとも、相手はすぐにわかるだろう。

 それより、優樹菜だ。力の放出によって、体温が低下していた。俺は、あわてて、倒れた彼女の額に手を当てる。彼女は急激な霊力増加をしたことで、力が不安定で、生気まで放出してしまったようだ。

 ゆっくりと優樹菜に俺の力を流し込む。幸い、俺と彼女の気の相性はよい。しかも、何度も夢渡りをしただけあって、なじみが良く、ゆっくりと彼女は生気を取り戻した。

 体温を確かめるために、握った腕は白くやわらかで、意識のない彼女の吐く息に甘いものを感じそうになる。

 俺は、大きく深呼吸して、彼女をベッドに運んだ。

 ごめん。

 俺は、呟いて。彼女の額にキスを落とす。

 ともすれば目に入る、太ももから目をそらし、俺は寝室から出て、報告書を書き始めた。

 仕事でもしなければ、自分が持たない。そんな気分だった。


「鬼頭、この調書、渦潮使いとあるけど」

 防魔調査室の精鋭のいわばエースたちをまとめている課長の真田が、紙束を目にしながらそう言った。

 俺の所属は普段は後方担当のため、真田は俺の直属の上司ではないが、優樹菜の事件の調書は、彼あてなのだ。

「空か?」

 真田の言葉に俺は首を振る。

 磯田空というのは、渦潮つかいで、もっとも有名で強力な術者だ。

「違いますね。空に匹敵はしていましたが、空ではありません」

 空とは、面識がある。少なくとも、あの霊波が空でないことは間違いない。

「……と、なると、こっちかな」

 真田が、俺に書類を渡してきた。

 磯田隼人、とある。

「空のいとこだ。ふだんはまっとうなサラリーマンをしていて、呪術とは関わりのない人生を送っているが、力は、空に匹敵するかもしれない」

「――かたぎですか?」

 俺は驚く。空と匹敵する力を持つ男が、こっちの世界と無縁の仕事で生計をたてる——なかなかできることではない。

 まず第一に、力のある人間は、妖魔の類に狙われやすく、そういった意味でまず、ふつうの生活がしにくいのだ。

 第二に、魔物と対抗できる力ある人間は貴重ゆえ、官民問わず、実は霊能力系の仕事というのは人材需要があるものである。

「隼人の親は、もともとは防魔調査室の前身の組織の役人だったみたいでね」

 真田はふうっとため息をついた。

「……それに対する反発があったと思われる」

「なるほど」

 霊能力は、遺伝することも多く、多くの流派は、血脈で作られていることが多いが、決められた人生に反発する人間も多い。

「最近、闇の仕事をする、渦潮使いが有名なのだが」

「ああ、知っています。空の仕事ではないかと言われている」

 俺の言葉に真田は渋い顔をした。

「そいつの資料を見て……俺は、空ではない気がしてな」

 経歴を見ると、磯田隼人の家族は既に死んでおり、妻帯もしていない。

 顔はよくみると、空に似ている。背格好が似ていれば、空と間違われても不思議はない。

 不意に、仕事用の俺の携帯が鳴った。

「お姫様から、ご指名のお電話よ」

 茶化した受付の同僚の声がとんできて――俺はあわてて電話をとる。

 優樹菜が渦潮使いと接触したと聞き、俺は焦る。

「ま。お前は本来、こっちにいてもおかしくない奴だからな」

 真田は首をすくめて、苦笑いをした。

「お姫様を、守ってやんな。お前の上司には連絡入れておく」

「ありがとうございます」

 俺は真田に頭を下げた。

 彼女の担当を、ほかの人間に渡したくない。たとえ、その間、彼女と恋愛的な接触が一切できないとしても、彼女を守るのは、俺でありたい——そう思った。

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