ミサンガ
「宮内庁防魔調査室?」
もらった名刺に目を落とすと、見慣れない文字が飛び込んできた。
宮内庁、ということは、官庁ということなのだろうか?
「あ、一応、俺、国家公務員だから」
鬼頭は頷く。
「そんな組織、聞いたこともないですが」
「うん。トップシークレットだからね」
にこりと鬼頭が笑った。
「化け物とか退魔士を表面化させると、たぶん、呪術犯罪はさらに増えるからね」
私は頷きかけて。
「……そんな大事なこと、ペラペラ私に話して大丈夫なのですか?」
「うん。ふつーは話さないけど。影追いはしつこいから、『自衛』してもらわないとまずいから」
「自衛?!」
私は、あまりの言葉に目を丸くする。
「大丈夫。優樹菜さんは、霊力高いから」
何か確信しているかのように、鬼頭は断言する――妄想力の高さなら、自信あるケド、幽霊とか見たのだって、今回が初めてなんですけれど。
「俺の仕事は、実戦より、もともとは術具と呪符の研究だから、そういう面でも力になれると思う」
「はあ」
「それにしても。かなり安定している『場』の地域に住んでいるんだね。ここなら、めったなことでは、襲われそうもない」
鬼頭はきょろきょろと何かを確認する様に、私の横を歩いていく。
街灯は充分に明るいけど、住宅街だけに、人通りも車の通りも少ない。いつもと同じ景色で、いつもと同じ程度の静寂だけど、今日は闇が深く見える。
「ひゃっ」
建物のすきまから何かが銀色に目を光らせて、目の前を走った。
私は、思わず鬼頭の腕に抱き付いた。一瞬、ぴくりとした動きがその腕から伝わってきた。
シンとした静寂の中で、ニャッという鳴き声が響く。
「大丈夫。ネコだよ」
鬼頭の手が、ポンポンと、私の背をたたいた。
ほっとして、顔を上げると鬼頭の端正な顔が間近にあって、心臓が止まりそうになる。
顔がさあっと熱くなってきた。
「……ごめんなさい」
私はあわてて腕から離れた。
「謝ることないよ。化け物に襲われた直後なのだから……」
鬼頭は安心させるように、笑みを浮かべる。その笑みは、『セイ』のものと同じで、私はまた、白昼夢を見ている気分になった。
ふわふわと頭がぼうっとしそうになって、私はブルブルと頭を振る。
鬼頭は、セイではない。勘違いしてはいけない。
「どうする? 家まで送ったほうがいい?」
鬼頭が、私のマンションのエレベータホールに立って、そう言った。
「あ、いえ。ここで充分です。すみません。わざわざ送っていただきまして」
よく考えたら、鬼頭は私が乗るより、前に電車に乗っているわけだから、この周辺に住んでいるわけじゃない。まだそれほど、深夜というわけではないけれど、随分と遠回りになったに違いない。
「気にしなくていい。俺の家、次の駅だから。それにこれは俺の仕事だからね」
ニコリ、と鬼頭は笑う。仕事、という言葉に、ちょっと心が痛くなる。彼は、私のセイではないのだと、再度認識してしまう。
「それに、知らない人間でもない」
「……それを言ったら、鬼頭さん、知人の範囲が広すぎじゃないでしょうか」
思わず、そういうと、「うーん」と、鬼頭は苦笑いをした。
「まあ、そうだね。ちょっと腕だして」
鬼頭さんは細い紐を取り出して、私の腕につける。
「ミサンガですか?」
「似たようなものかな。何かあったら、これを切り落として。わかったね」
「はい」
私が頷くと、ちょうどエレベータの扉が開いた。
ニッコリと見送ってくれた鬼頭は、やっぱり素敵で、夢を見ている気分だった。
家に帰りつくと、空腹を覚え、冷凍庫を覗いて。
助けてもらったのに、お茶ひとつ入れずに、鬼頭を帰してしまった自分に気が付く。
もっとも。鬼頭はセイくんではないから、『ご飯いかがですか?』といっても、こないだろうなと、腕につけられたミサンガを見る。
色恋関係なくて、単にお礼をと言う意味でも、会っていきなり手料理は、きっと重い。
そもそもお振る舞いできるほどのものは、うちの冷蔵庫にない。残念な私、そのもののようである。
うん。あそこで、帰ってもらって正解だったのだ。
冷凍ご飯をレンジで温めながら、明日はいつもより三十分早い電車に乗らないといけないな、と、思い出す。
鬼頭に連絡すべきかな、とは思ったが、わざわざ『明日は、早い電車で行きますね』と、連絡するのも変だ。約束しているわけでもないし、『また明日』なんていう挨拶もなかった。
それに、次に会えば少しは知人として『会話』できるかもしれないけれど、なまじ人となりを知ってしまうと、妄想がリアルな願望になってしまいそうで怖い。
職業が超特殊とはいえ、鬼頭はとても素敵な男性である。外見だけでなく、話した印象も素敵なひとだというイメージは変わらなかった。
きっと恋人はいるだろう。ひょっとしたら結婚もしているかもしれない。
妄想の中だから恋人でいられたけれど、現実には全然釣り合わない。彼が、私を『同じ電車に乗っている人』と認識してくれていただけで、奇跡なのである。それ以上望んではばちが当たる。
それだって本当は、私が毎日こっそりチラチラ見ているから、ということかも……もっとも、彼をチラチラ見る女性なんて、私の他にもいるから、彼は視線をあびることに慣れているとは思うけれど。
妄想は妄想のままだから良いのである。恋は――したくない。辛いだけだから。
昔。好きだった人がいた。
そのひとは、私の親友が好きで。だから、私にも優しくて。ようするに、勘違いしていたところに、彼から、恋愛相談をされて気が付いた。親友も彼が好きで。私は、お邪魔虫だったのだ。
表面上は、応援していたけれど、二人が付き合い始めて、ずっと辛かった。
一番は、笑っていても、心から祝福できない自分が嫌いだった。
だから、私は地元を離れた。みんなには、父の再婚を理由にして、家を出たのだけど、別に義母と折り合いが悪いわけでは全然なくて。ただ、二人から離れたかった。
今はもう二人は結婚して子供もいる。もはや彼に対する恋心は思い出だ――でも、恋をするのは怖い。
嫉妬で醜くなる自分をもう、知りたくない。
ため息を一つついて。食事をおえると、風呂に入る。ベッドに入る前に、携帯電話をチェックした。
妄想彼氏のセイくんは、必ずお休みメールをくれることになっていたけれど――目の前の携帯は、何の着信もない。
だよね。セイくんじゃないから。
ひとりごちて、私は腕のミサンガに手に触れる。そして、夢見ることもなく眠りに落ちた。
電車に乗るのは少し怖かったけれど、何事もなく、会社につき、日程業務が過ぎていった。
昨日の夜のことが夢のようだ。実際、あまりにも非常識な出来事過ぎて、現実味がなかったから、ミサンガが腕になければ、私の妄想だったのかと思えるほどだ。
さすがに残業する気にはなれず、滞りなく業務をおえて、いそいそと定時に会社を出た。
黄昏時の道は、人通りも多い。街明かりはともされ始めたばかりで、まだそれほど明るくはなかった。
いつものF駅は、ターミナル駅なので、ひとでごった返している。
駅前の広場は、待ち合わせで人待ち顔のひとが、壁際に立っている前を、流れるように歩いていく。
そんな中、一人の男性と目が合った。
染めているのか、地毛なのかわからない、濃い目の茶色の髪。端正な顔立ちで、すらりと高いビジネスマン風の男だ。
とても鋭く、冷たさを感じる大きな瞳。
ゾクリ、とした。
彼の唇の端がすうっと上がる。彼の周りだけ影が濃いように見えた。
背筋がひりひりとしはじめた。
見られている、と思うのは、自意識過剰だ。そう思い直そうとする。視線をそらしても、肌がざらつく。
私は、咄嗟に踵を返して、パッと目に入った女子トイレに駆け込んだ。
個室に入り、胸の動悸がおさまるのを待ちながら、ミサンガに手を当てた。
心がすうっと落ち着いてくる。
携帯電話に手を伸ばす。教えてもらった電話番号にかけようとして――思いとどまった。
昨日の今日である。自分が過敏になっているだけなのかもしれない。
私は、洗面台で化粧がとれるのも構わずにビシャビシャと顔を洗った。
冷たい水で、頭がすっきりすると、鬼頭の言った『予知夢』という言葉がよぎる。
もし、私の妄想が『予知夢』とすれば。私は『電車』で襲われる。それなら、電車に乗らなければいいのではないだろうか。
幸い、F駅はターミナル駅だ。私の家からは遠くなるし、時間もかかるケド、バスでも帰ることは可能だ。
この期に及んで、タクシーで帰るという選択肢が出てこないのは、薄給社員の悲しさではある。
私は、びくびくしながら女子トイレを出て、バス乗り場へと向かうことにした。
相変わらず人の数は多く、ごった返しはしていたけれど、視線は感じず、先ほどの場所を盗み見るように見たが、男の姿はなかった。
そして。いつもの倍、時間のかかるバスに揺られているうちに、先ほどのことは私の杞憂だったのだろうと思い始めた。
いつもと違う車窓の景色を眺める。夜の帳はゆっくりと降り始めて、ライトの灯りがだんだんと輝きを増していく。
住宅街を走るバスを利用するのは、疲れた顔の勤め人や学生たち。バスは、電車より大回りをする形で、私の住む駅周辺へと向かった。
やがて。バス停についたころには、すっかりと辺りは暗くなっていた。
駅前よりは人通りの少ない道を、私は足早に歩く。
闇が、いつもよりねっとりと濃度を増しているように感じた。
あれ?
懐かしい、潮の香りがした。
街灯に照らし出されて伸びる、自分の影が突然、黒々と浮き上がり、赤い双眸を持った。
影追いだ。
私は咄嗟にバックから携帯を出そうとして、携帯を取り落とした。電話は、道路を滑るように私から離れていく。
自分の影から逃げようと、私は、走ろうとした。
ぴちゃり
水音がする。
――見ツケタ
そいつが、そう言った。私は、もつれる足を必死で動かしながら、腕のミサンガに手を伸ばす。
プチリと切れたそれは、青白い光を放ち、銀鱗を持った巨大な龍へと変わっていった。
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