夜光虫が招く海

秋月忍

本編

妄想彼氏は退魔士でした。

 朝。毎日、同じ時間に、同じ車両に乗ると、いつも同じところに立っている男性がいる。

 目元が涼やかで、すらりと背が高い。いつも手元には、カバーのかかった文庫本。

 脇に抱えた黒いバックに、スーツ姿だから、おそらくビジネスマン。降車駅は、私と同じF駅で、そこから先はどこへ行くのか知らない。

 私、中島優樹菜なかじまゆきなは、一年半近く、彼を『妄想彼氏』として眺めている。

 妄想の中の彼は『セイ』という名である。年齢は私よりひとつ上の三十才。彼は、現代に生きる退魔士で、付き合いはじめて半年。共通の趣味は読書。週末は、お互いの家を行き来する、『大人』な、恋人関係。付き合ったきっかけは、満員電車で、私が影追いという魔物に襲われそうになったところを助けてもらったのがきっかけ。

……うん。無茶だ。誰が何に襲われるというのだ。しかも、どこの世界に、スーツで会社に行く退魔士がいるのだ。いったん落ち着こうか、私。

 ようするに、妄想世界の妄想彼氏、である。

 残念ながら、私は彼と会話をしたことすらない。たぶん、彼は私を認識してすらいないだろう。

 そもそも。そんな妄想をすることでわかると思うが、私は男性と付き合ったことがない。

 私の仕事は、小さな会社の事務員で、毎日地味に伝票と格闘するだけの毎日だ。当然、霊感などなくて、幽霊なんぞ見たこともない。

 職場に男性職員はいるにはいるが、既婚者が大半だし、そもそも、『若い、お綺麗どころ』という役どころの女性は他にいて、私はその舞台に立つことなく、いつの間にか引退をしていたというクチだ。

「中島君、後は明日にして帰りなさい」

「あ、は、はい」

 上司に言われて時計を見ると八時を回っている。

 私が帰らないと、上司の松本主任は家に帰れない。主任のお家は二人の小さなお子様がいて、早く帰らないと奥さまが大変なのである。

 私は大慌てで、仕事にキリをつけ、片づける。本当はもう少しやっておきたかったが、いつもより早い電車で出社すれば、なんとかなるだろう。

「失礼します」

 私は松本主任に頭を下げ、あわてて会社を出た。

『ごめん、セイくん。明日、いっしょに行けない』

 駅までの道すがら、私は脳内で妄想彼氏に電話を掛ける。

『……わかった。仕事なら仕方ないな。その代わり、週末は覚悟しろよ』

 脳内のセイは、甘く私にそう囁く。

『えっと。ハンバーグ作ってあげるから許して』

 出したこともない甘えた声で許しを請う、脳内の私。

 妄想彼氏は、私の作ったハンバーグが好きだという『設定』である。クールな大人なイメージの彼が、子供っぽいハンバーグを満面の笑みで食べたら、『萌え』そうという、それだけのことである。

 まあ、退魔士が土日休みとか定時に通勤するとか、設定の甘さは自分でも自覚している。

 街灯の光がまばゆい駅までの道は、飲食店が多いため、まだまだ賑やかで人通りが多い。

 一人歩きの女が、妄想でニヤニヤしながら歩くのは、相当に気持ち悪い光景かもしれないが、とりあえず他人に迷惑はかけていないので、許してほしい。

 私は、駅の改札を抜け、いつもの通りにホームに立つ。

 ラッシュアワーの時間は過ぎてしまったので、電車を待つひともまばらだ。

 ホームに立ちながら、鞄の中の文庫本を探るときに、チリンと、家の鍵が下に落ちた。

「落ちましたよ」

 甘い、テノールの声に驚いて。振り返ると、妄想彼氏の『セイ』が、優しい笑みを浮かべて、鍵を拾ってくれていた。

 一瞬、『妄想』が、ついに『白昼夢』になったかと思った。

「わ……ありがとうございます」

 私は慌てて鍵を受け取り、頭を下げる。

 妄想とほぼ変わらぬ『声』にビビる。凄すぎないか、私の妄想力!

 あまりのことに動悸が止まらないまま、私は彼に背を向け、タイミングよくホームに入ってきた電車に乗り込んだ。

 電車は、時間が時間だけに空いていたので、椅子に座った。偶然、隣りも空いていたため、私の隣に、彼が座る。

 心臓の音がますます大きくなり、私は鞄を抱えてうつむいた。

 たぶん、顔が赤いだろう。電車で隣に座っただけで、顔を真っ赤にする女って、変だ。

 文庫本を手にして、ちらりと隣に目をやると、彼はいつもと同じようにブックカバーのかかった文庫本を読んでいるようだった。ほっとしながらも、やっぱり、所詮『妄想』なんだな、と、頭が冷えた。

 はあ。と、私は小さくため息をつく。

 毎日会っているからといって、名前も知らない間柄である。隣に座ったところで、何の会話があるわけでもない。

 私は自分の開いた文庫本の活字に目を落としながら、現実を噛みしめる。そろそろ、この妄想彼氏も別れ時なのかもしれない。ほんのわずかでも会話して、せっかく隣に座ることができたのに、それを生かすこともできない。

 きっと、これ以上のチャンスはもうないだろう。結局。妄想でしか恋が出来ない自分に、嫌気がさす。

 カタコトと電車が揺れ、つり広告がフラフラと舞う。まるで、私の心のようだ。

 電車が、ゆっくりと次の停車駅のホームへと滑りこみ、たくさんの人が降りていく。乗り込んでくる乗客は僅かで、広い車内には、数えるほどの人間しかいなくなった。

 不意に。

 背筋がゾクリとする。扉の開閉で、空気の流れが起きたからなのだろうか。

──誰カガ、私ヲ、見テイル。

 まとわりつくような気配に、私は、顔を上げた。

 何もない――静かな車内だ。

 肌が泡立っているけれど……不思議なものは何もなくて。

 そうこうするうちに、電車は、降車駅へとたどり着いた。

 私は気を取り直して、ゆっくりと電車を降りる。

 なんとなく、首がヒリヒリする。しかも、気持ちが悪くなってきた。

 妄想彼氏と会話? したせいで、興奮しすぎたのであろうか。

 改札を出た私は、身体がぐらりと揺れるのを感じた。

――え?

 もともと人通りの少ない駅ではあるが、音がどんどん遠くなっていく。

 人の気配が遠のいて、街灯の灯りが細くなる。

 足が重い。濡れた何かが、絡みついたような感覚。

 息が苦しい。力がぬけていく。ずぶずぶと身体がまるで大地に沈みこんでいく。

 

 ぴちゃり。


 水音がする。ツン、とする懐かしい香り。

 この香りは、潮の香りだ。

 黒々とした影の中に、禍々しい紅い二つの双眸。

――誰か……

 声にならない声で、私は助けを求める。

 意識が遠のいていく……。


 臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前


 テノールの声が響き、白銀の光に世界が包まれた。

 影は、悔しげな呻き声を上げながら、蒸発するように消えていく。

 身体を束縛していたものがなくなり身体がぐらりと倒れかけたところを、硬い胸に支えられた。

「大丈夫?」

 背を支えてくれた人の顔を見上げると、そこにいたのは、妄想彼氏だった。



「セイくん?」

ぼうっとした頭で、つい彼の名を呼んだ。

妄想彼氏は一瞬、驚いた顔で私を見た。

「……怪我はない?」

「あ、はい。ありがとうございます」

 私は、頷く。若干、首もとが閉められた感じが残っていて違和感はあるが、身体に傷はないようだ。

 感覚が戻ってくるにつれて、自分が男性の腕の中にいることに気が付く。

「ご、ごめんなさい」

 慌てて彼から身を離そうとしたら、膝に力が入らなくて、ガクンとさらに彼に向かって倒れ込んだ。

 妄想していたより、ずっと硬くて温かい彼の胸に、心臓が大きく跳ね上がる。

「……一回、座ろうか」

 彼は、私の身体をひょいっと抱き上げて、駅の切符売り場の前のベンチにおろした。

 もう、この時間は、電車はそんなに頻繁にこないから人の影はない。この駅は、夜になると無人駅になってしまうので、駅の窓口の向こうもカーテンが締まっている。

「コーヒー、飲む?」

「……ありがとうございます」

 すぐ前の自販機で買った、缶コーヒーをひとつ、ひょいっと、私に渡すと、彼は私の横に腰を下ろした。

「……先ほどのは、いったい?」

「影追いだ」

 ぼそり、と彼は呟く。

「うそ」

 私は、耳を疑った。

「まさか、それって、本来、闇に普通に生息している魔物で、たまーにヒトに使役されたりしちゃったりとか」

「知っているのか?」

 彼が目を丸くする。

「……えっと。知らないです。いや、そうなんじゃないかなー、なんてあの……」

 妄想のなかで、確かそんな設定にしていたけど、まさかのビンゴとか。

「……夢で、見たので」

 そういうと、彼は私をじっと見つめた。鋭い目だ。その鋭さに、息がつまりそうになる。

「予知夢か……あるかもしれないな。かなり霊力が高いから」

 彼はそう言って、自分の缶コーヒーのプルトックに手をかけて、口にする。

「今までに、こういった魔物に襲われるような体験をしたことは?」

「ないです」

「……だな……今まで影を感じたことはなかったし」

 彼はふうっと息をつきながら、首を振る。

「その夢はどんな夢だ?」

どんな、と問われても、困る。具体的に話すと、彼に妄想彼氏の話をしなければならなくなりそうだ。

 それは、イタイ。さすがに恥ずかしい。

「えっと、夢だと、私、満員電車の中で、さっきの『影追い』に殺されそうになったところを、あなたに助けられました……あの、ひょっとして、セイってお名前だったりします?」

 私はおそるおそる彼の横顔を見た。

「おしいな」

 彼は、そう言ってニヤリと笑った。

「俺の名前は、鬼頭誠治きとうせいじ。退魔士だ」

「退魔士、さん?」

 まさか本当に『退魔士』なんて職業の人がいるとは思わなかった。素直にそういうと、鬼頭は、そうだろうね、と言った。

「とりあえず、家まで送ろう。君は?」

「中島優樹菜です」

「優樹菜さん、か……」

 鬼頭は私の手を引いて立つのを助けてくれた。その手は、妄想していた手より、ずっと大きく温かくて、胸がドキリとする。

「毎日会っているから、はじめましても変だけど」

 くすり、と鬼頭は笑いながら、胸ポケットから名詞を取り出した。

「何かあったらコッチに連絡して。一度、アレに目をつけられるとたびたび狙われる可能性がある」

「たびたび?」

 そんな嬉しくない情報は、当然、私の『妄想』にはない。

 だって、襲われた後、助けてもらったら、真ん中いろいろすっとばして、付き合っていたはず。所詮、妄想だ。

 目元涼やかで、秀麗な好青年である鬼頭と、とてもそんなふうになれるとは思えない。

 とはいえ。化け物三昧の未来は、考えたくもない。

 妄想は妄想のまま、過ぎてほしかったな、と思わず呟いたのだった。






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