其ノ五






 ――狂気する民衆の声。

 ――貴族どころか味方である民政議会の人間からの軽蔑の視線。

 ――蚊帳の外に出来ると思っていた《勇者》からの思い掛けない攻撃。




 ――そもそも格下だと持っていた、自分より幾分か小さい少女からの反撃。




 どんなに修羅場を渡り歩いても、

 どんなに策謀の腕を熟練させたとしても、

 人間は未知のものにはただ恐怖と動揺を抱く事しか出来なくなるものだ。

それはランドルフ・オーレンも同じだった。


(どうすればいい、)


 頭の中にはそれしか浮かんでこない。

 頭の中を幾らひっくり返しても、この状況を打破するのは難しい。自分がエリザベス姫に行ったように、民衆の声とは下手な軍隊よりも強力な武器である。

 どこまでも攻撃的であり、見境というものが存在しない。理性的などという言葉はもはや、彼らの頭の中には入っていないのだ。

 彼らが思っていることこそ真実。

 そしてそれは、オーレンのコネクションを持っていても簡単に払拭出来るものでは無く、今はそれを許して貰えるような状況ではなかった。


(どうすれば、どうすれば、どうすれば――、)


 それでもオーレンの頭は必死にこの状況を打開すべく、既に熱暴走を起こしかけている思考を動かし続けようとする。

 考える事を止めない。それこそが状況を打開させる手段だと信じきって。


 ――そしてそんな思考の中に、魔が差すのだ。


 必死になればなるほど。

 混乱した思考の中で思考すればするほど。

 人間の頭は、あり得ない答えを導き出し、その答えが最善手のように思い込んでしまう﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅

 それを人は魔が差すというのだが……今回は、簡単に思考の迷路に陥ったからこそ生まれた異質な回答というだけではなかった。

 ほんの少しで崩れてしまうソレを、後押ししたダレカ﹅﹅﹅の存在が明確に存在した。


 それは一体誰だったのか。


 どうやってそんな事を成し遂げたのか。

 それはこの場にいる民衆も、貴族も、民政議会の人間も、官僚も、ギーヴも、司祭も、エリザベスも、《勇者》であるサシャも、そしてオーレン本人も、今の段階では分からない。

 張り詰めた糸を爪先で切り取ってしまうような。

 あるいは、怒り狂っている雄猪の尻に蜂が一刺しするように。

 感情と思考の濁流は見事に決壊し、オーレンの中では最善手の、そして他のどんな人間にとっては最悪手を選択する。




「――死ね、愚かな小娘」




 本来の彼であればその動きは緩慢であり、彼を止められる人間が、この壇上には大勢いる。

 サシャは勿論、《眷属》のフリをし続け空気になりつつある『七節擬スティック』の二人、そうではなくても警護の任を賜っている兵士達。

 しかし、状況は悪い方に流れていた。

 兵士達はもはや暴徒と化した民衆を抑えるので精一杯。

 そして、――これは誰が想像出来ただろう。

 まだまだ達者とは言い切れないとはいえ暗殺者アサシンを名乗る『七節擬』の二人も、《勇者》であるサシャも反応しきれないほど、




 彼が懐から短剣を抜く速度が、速かった事を




 まるで時がその流れを緩めるように、エリザベスには周囲の景色が遅く見えていた。

 煌めく刃、ギラギラと光るオーレンの目。遅れて聞こえてくるサシャや他の人間達の絶叫が、こんな状況であるにも関わらずつい可笑しく感じてしまった。

 ――不思議と、怖くはなかった。

 普段の自分であれば恐怖で腰を抜かしていたのかもしれない。惨めったらしく這いずって逃げていたのかもしれない。

 何せ自分は、あの非力だった浮浪者達にすら恐怖した。

 同種ではないが、恐怖する場面だというところでは、あの時も今も変わらないはずだ。

 なのに、エリザベスの中には恐怖がなかった。

 代わりに見えたのは、父と母の姿だった。

 いつも仲睦まじく見えた、自分の父と母。彼はこの国の王であり、彼女はそのただ一人の愛人で、しかも自分に本当の事を秘密にして大変面倒な遺産すら残していった、厄介な二人。

 ――なはずなのに、エリザベスの心の中にあるのは、感謝と、覚悟のようななにかだった。

 どんな状態だろうと、どんな状況が取り囲んでいようと。父は決して自分を亡き者にしようとは思わなかったし、不義の子であると分かっていながら、母はエリザベスを嫌わなかった。

 それだけでもう、嫌いになる理由はなくなる――自分を慈しんでくれた、ただそれだけで。


 そして同時に思った。


 そもそも、父と母が堂々と愛し合う事の出来なかった状況というのが、嫌だった。

 この国では誰も自由に生きられない。いつも誰かの利益が優先されて、その所為で誰かが割りを食う。皆自分ばかりが見えていて、足元の他人を平気で踏み台にしようとする。

 それは、良い事なんだろうか。

 ――良いわけがない。

 誰かの自由や幸せを踏み潰して良いものではない。

 例え身分に押し潰される事になろうとも。

 貧困に喘いでいようとも。

 自分の欲望が渇きを覚えたとしても。

 誰も、何人たりとも、




「私は、私の〝自由〟を損なう奴に、逃げたりなんかしない!!」










「よく言った! 我儘姫ェ!!」




 その声は唯一教会で歌われるどんな聖歌よりも神々しく耳朶を打った。







 人の群れは、一種の湖面に思えるような様相だった。

 きっと普段だったら、例えサシャから大我マナの供給を受けている今の状況で、しかも万全な状況だったとしても、やっぱり失速して、その人の波の中に落ちていただろう。

 そうだとしたら、相当格好悪い。

 でも、こういう場合、もはや傭兵としての技量やら戦闘能力、知識や経験なんてものをすっとばして結果を引っ張り出す事が出来るモノが、一つ存在する。

 それは戦場だったり、どんな場所でも見かける。

 限界を超える為の通過儀礼ジンクス

 それは、



「根性だぁああぁあぁああぁああぁあぁあ!!」





 最後の屋根の上から跳躍する。

 大砲でも食らったかのような後方の音はこの際無視して、その勢いで一直線にエリザベスの元へ滑空する。

 まるで視界はストップモーションのように緩やかだ。さっきまでは早送りのように素早く流れて言った景色は、ゆっくりと、だが確実に前に進み続ける。

 オーレンが腰に手を掛けるのを見た瞬間、オレの重力の法則に従って下に落ちていくのを感じた。


「――ッ!」


 あと一歩。

 あと一歩分だけ足りない。

 ここで落ちてしまえば、間に合わない。

 エリザベスあいつが死んだら、この国はきっと取り返しがつかないくらい混乱するだろうな。もう取り返しがつかない。

 それほど大きくない国とはいえ世権会議加盟国に混乱が起きれば、他の国にも波及して大惨事になる。多くの命が失われるかもしれない。もしかしたら、大規模な内乱に、



「――うるせぇ、」



 頭の中でゴチャゴチャ考えるオレ﹅﹅を黙らせる。

 そんな事じゃないんだ。

 そんな大それた物を守りたいわけじゃないんだ。

 国とか世界とか、そんなデカい炎の話なんてどうでも良いんだ。

 オレは――はただ、




 エリザベスという、一人の少女を。

 一つの小さな灯火を守りたいんだ。




「――と、――ど、――けぇええぇええぇええぇえぇぇえ!!」




 一瞬。ほんの一瞬。

 足の裏が虚空を蹴る﹅﹅

 大我を使用した力場形成。俺が本来のギフトのお陰で刃にしか付与されないそれは、純粋な力の足場になって、足りなかった一歩を補う。

 原理なんて分からない。

 何故出来たかなんて、今はどうでも良い。

 その立った一歩で、たった一人の少女を救えるならば、奇跡という名前をつけたって良い。


「私は、私の〝自由〟を損なう奴に、逃げたりなんかしない!!」


 少女の啖呵が耳に届く。

 いつの間に、我儘で箱入りなお姫様は、その気の強さを相手に向け事が出来るようになったのか。

 そんな状況じゃないのに、思わず破顔してしまう。




「――よく言った! 我儘姫ェ!!」




 その声に、エリザベスは視線を上げてくれる。

 その目を、今までにない強さを孕んだ目を見ただけで、自分には十分なほど十分だった。


「――『クロウ』」


 籠手ガントレットに込められていた力が変形する。

 庇う盾は、切り裂く爪へ。

 ただ人を守る。その本質は何も変わらないまま、状況に応じた姿に変質する。


「……おい、おっさん、」


 綺麗な姿のエリザベスと、狂人のようなオーレン。その間に割って入る程で着地したオレは、今まで見せた事もないとびっきりの、そして最も獰猛な笑みを浮かべて、五本の爪を凪いだ。


「グガァ!?」


 速さは常人のそれではなかったはずなのに、オーレンの力は想像したよりも弱く、手を傷つけられると同時に短剣はあっという間に吹き飛ばされる。

 その一瞬の間に、空いている手で拳を作り出す。

 このまま斬り殺したって文句を言われないが――ほら、あれだ、



「良い女に、んな物騒なもん向けてんじゃねぇ!!」




 折角のエリザベスの晴れ舞台に、水を差すわけにはいかないだろう?


「ブゴホォ?!」


 傷の痛みと唐突に入ってきたオレに混乱したのか、反応はやたら鈍かった。オレの拳はまるで絵に描いたようにオーレンの鳩尾に吸い込まれた。

 一瞬の静寂のタイムラグ。

 それが終わってしまえば、オーレンは何も言わず、その場に崩れ落ちるようにして倒れた。


「――ハァ、危なかったぁ!」


 止まっていた息が吐き出されれば、思わず口に登っちまったのは安堵の溜息。

 いや、マジでギリギリ。時間的にも距離的にも体力的にも。

 こっちが反則チート技使ってるからって、下手をすれば何十人何百人の暗殺者に追われて鬼ごっこした後、人間の身体能力じゃあり得ない距離をジャンプして、雑魚とはいえ敵を倒す。

 任務の時は無茶振りが常だったが、今回は総合点的に色々無茶どころか無理があった。


「――あ、危なかったじゃないわよ!」


 そんな風に一仕事終えた達成感を味わっていたら、後頭部に衝撃が走る。まぁ大した痛みじゃないが、思わず「イテッ」と声を上げてしまった。

 振り返ってみれば、綺麗な儀礼用の服を着ているエリザベスが立っていた。

 涙目で、手を震わせながら。


「貴方あれだけ『私を守る』って言っておいて、こんなギリギリに来るなんてどういうつもり!? 時間稼いだり、皆を扇動したり、あのオーレンに怒鳴ったり、剰え短剣を向けられたり……。

 危なかったはこっちの台詞よ、バカ!」


 殴られた(おそらく平手打ちかチョップ)頭を撫りながら、思わず自分でも分かるぐらい完璧な苦笑いを浮かべる。


「いやぁ、思ったより敵の数が多かったんだって。でもほら、ちゃんと間に合っただろう?」

「それは結果論でしょう!? もし私がここで、さ、さ、刺されれでもしたらどうするつもりだったの!?」

「そこら辺も考えてたって――ほら、サシャは治癒魔導も心得があるから」

「刺される前提で物を考えないでよお馬鹿!!」


 ――さっきまでの真面目シリアスな雰囲気は何処へやら。

 民衆は姫にこんだけフレンドリーに話す俺の存在に驚いているし、貴族や官僚達も何がなんやらと最早考える事を放棄している者も多い。

 サシャとギーヴに至っては『やれやれ彼奴らは……』と言わんばかりに眉間に指の腹を押し付けている。

 流石のオレだって空気は読んでいるつもりなんだが……安堵感から来るこの感覚は自分でも止めようがない。

 ――勿論、締めはきっちりお任せするけどな。


「さぁて文句の言い合いが済んだ所で……まだアンタには仕事があるだろう?

 お背中はお任せを。この場の総括をお願いできますか――女王陛下﹅﹅﹅﹅


 たった一言。

 それだけで、一瞬惚けるように口を開けたエリザベスの表情は、キュッと引き締まった。

 高慢は鳴りを潜め、

 その感情を原動に変え、

 箱入りは外に飛び出し、

 一人の少女は、あっという間に為政者に姿を変える。




 さてさて脇役オレ達の出番はここまで。

 ここからは主役女王様の大団円だ。







 ――その空気は、冬の凍てつく空気よりもなお澄みきり、しかし夏のどこか心地良く感じる夏の清々しさを伴っていたと、後世の歴史書には記される。

 シルヴァリア王国の数少ない女王。

 その中でも最も賞賛される女王である彼女のこの言葉は、後世に残り続ける。



「さっき言った通り、私はこの国が嫌い。

 自分本位で他人の幸せと自由を搾取する、この国が嫌い。誰もが幸せになりたいはずなのに、努力しても努力しても、逃げても逃げても、それが手に入らないこの国が嫌い」



 嘗て、ここまで自分の国を貶した為政者はそうはいないだろう。

 歴史を鑑みても、彼女一人であろう。

 たった一人の、病んでしまった国から誰もが目を背けていたはずなのに――まだ成人したばかりの少女が、それを指摘しているのだから。



「嫌いよ、何もかも嫌い――だから決めたの。私は嫌いなこの国をぶっ壊す」



 それは宣言であり盟約。

 誰もがそれを見守り、手伝う権利と義務を持つ、魔術も魔導も抗えぬ言葉。

 誰もが欲しながらも、誰もがあり得ないと否定し続けた言葉を、彼女は誇り高いその声で発布するのだ。



「ぶっ壊して、私が新しく作り直す。

 平民も貴族も、乞食も農民も商人も職人も、兵士も騎士も、枢密院も民政議会も、そして王族私達も、全員が自由と幸せを掴み取れる国を作るわ。

 ……簡単じゃ、ないでしょう。きっと皆を血反吐を吐く事になる。何かを失う人間もいっぱいいるかもしれない、もしかしたら信じられないって人もいるんじゃないかしら。

 ――でも、やるわ。一人でもやってみせる」



 ――良いのか。

 ――そんな国になっても良いのか。

 ――そんな国になって、誇って、良いのか。

 それは簡単な言葉で表すならば“希望”だった。

 今まで欲望と不満でしか表す事の出来なかった希望を、自分達よりずっと小さな四肢しか持たぬ少女が宣言している。

 現実ではあり得ないものが現実に顕現しているからこそ、彼らは、あるいは彼女らは、純粋真な意味での希望を胸に抱いた。

 一つ、二つ。

 小さな灯火は、その場にいる心の中に火を灯していく。

 灯は大きくなり、この広場を飲み込む大火に成長していく。

 そこにはもはや、貴族や平民などという垣根は存在しない。その明るく暖かく、真っ直ぐな力に全員が見せられる。

 これぞまさに、カリスマ。

 戦乱の時代、嘗て王家が持っていたであろう人を導く力だった。



「――賛同するなら、踏み鳴らしなさい」



 その言葉に、一人が足を踏みならした。

 ただ足を持ち上げ下げるだけの行為に、思いが乗り、一つの音が生み出される



「そんな国にしたいなら、私に賛同するならば、踏み鳴らしなさいっ」



 音は増えていく。

 一つは二つに。

 二つには四つに。

 四つは八つに。

 壇上を見上げる平民。それを押しとどめていた筈の兵士。王という存在を懐疑の目で見ていた貴族や官僚達ですら。

 その巨きな畝りに、いち早く馳せ参じようと足を鳴らす。



「この足音はこの国の足音。

 この足音は長き道の初まりの一歩。

 この足音は前進の証。止まり、駄々をこね、消費するだけしか能がなく、味方内に於いても小さき国と罵られていたであろう国が変わる音ッ!」



 既に足音は、足音とは言い表せられない音に変わる。

 遠くに在る大河に波紋を呼び、山にいる動物達はその鳴動に動揺する。

 大地を揺るがす地震のように。その形を組み替える巨大な歯車のように。

 激しく激しく、鳴動し、反響しする。




「エリザベス・ショコラディエ・シルヴァリアは宣言する!

 ここに生まれた新たな女王は、誰もが笑顔を手に入られる、自由を誰にも奪わせない国を創ると!!」




 上がった歓声は、まるで赤子の産声であったという。

 この時代から、世権会議ないではそう大きい国ではなかったシルヴァリア王国は、この大陸の大陸史に名を連ねる程偉大な王国に成長していく。

 勿論、それはずっと先の事。

 結局変革はエリザベスの代では成されず、その次の代、またその次の代と重ねる事になる。

 しかし、確かにこの瞬間歴史が動き、変わったのだ。

 将来『真なる女王プリマ・クイーン』と謳われる事となるエリザベス・ショコラディエ・シルヴァリアという女性と、新たな王国史は。

 この瞬間、確かに、始まったのだった。





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