其ノ三
「………………」
「………………」
荷台の中の空気は、前日と比べると酷く重苦しいものになっていた。
朝目を覚ましてからこっち、エリザベスはオレと最低限の会話しかしない。
まぁ色々冷たく当たった所はあるし、最後は彼女からすれば意味の分からない事を言われたのだから、あんまり好印象ではないだろう。
話さない、とエリザベスがきめているのであれば、オレはそれでも構わない。サシャの指示は話さなくても出来るし、絶対という感じじゃなかったしな。
そもそもオレがここにいるのは、ご機嫌とりをする為じゃない。静かにしてくれているならば、それはそれで精神的負担も減るってもんだ。
……ただ、気まずそうに
「すまないなオヤジ。オレのお姫様は今日、あまり良い気分じゃないらしい」
――さらっとお姫様なんて呼んで良いのかと思われるかもしれないが、別に恋人や伴侶を姫というのは、別に不思議な事じゃない。
一番文句を言いそうなエリザベスは、オレから出来るだけ距離を取りたいのか荷台の端で外の景色を眺めてるんだから、聞こえるはずもない。
「いえいえ、年頃の娘さんの心変わりなんていうのは、よくある事です。きっとあっしら男には分からない事もあるんでしょうよ」
商人のオヤジは気分を悪くした風もなく、笑顔でこちらに答えてくれる。
最初から思っていたんだが、このオヤジは本当に善人を絵に描いたような男だ。
金銭面において結構な荒ようのこの国にあって、料金は適正、おまけにこっちの心配をしてくれるし、男女二人の旅人なんて、不可思議で厄介そうな相手を快く乗せてくれてる。
理想的な相手と言っても良いだろう。
……その分この優しそうな壮年の商人に裏の顔がある事も考えながら談笑しているオレは、汚れているのか、それとも用心深いだけなのか。
「あ〜、でもお客さん。そろそろ街に着くんですが、あんまりお嬢さんに外を見せないようにした方が良いかもしれませんぜ?」
「? それはどういう意味だい?」
オレの言葉に、オヤジは険しい顔をさらに険しくさせる。
「いえねぇ、次の町はもっと貧しい土地との中間地点で、食べ物探してやってくる浮浪者も多いんでさぁ。
それに、ここ最近役人と町民との間で、ちょっとゴタゴタがありましてね……今この国じゃ、一番治安が悪くて荒んでるんですよ。
女一人で出て行くって事は当然ないでしょうが、顔を見せるのもあんまり良い事じゃないかもしれません」
「……前の街で言っていた、反乱ってやつかい?」
その言葉に、オヤジは苦笑しながら「滅相もありません」と言う。
「何でもそこの役人が、貴族様の命令で水車の利用料を上げたんだとか。
その所為で町じゃパンを買うのにも難儀しているそうで、その事で連日抗議の集会やら何やら……何かと物騒でしてねぇ」
――この世界、まだ商品を安価で大量生産出来る世界ではない。
魔術の力を利用して動く機械のようなもの、
生活に影響を与える大型魔術機械など、大都市の中で共同利用出来るものが二つか三つ。街と呼ばれる場所でも、一つあれば良い方だ。
嗜好的な意味合いを抜かし、必要に迫られるものは、水と食べ物。
下水は整備されている場所も増えてきているが、上水道の整備はまだまだ時間がかかる。未だに遠い井戸に汲みに行くなんて話はよく聞くが、水流を操作する魔術具を街で管理すれば、それこそ話が早い。
食べ物は、何と言っても小麦粉の生産だ。世権会議加盟国の全てがと言って良いくらい、殆どの国の主食はパンであり、小麦は多くの国で生産している。
小麦粉は必須なんだが、今のスタンダードは風車や水車で作る方法、そして魔術具で生産する方法。
生きていく上で必要になってくるこの部分に――政府が税金をかけないわけがない。
水道を管理する役人、風車水車を管理する役人がおり、その下に職員がいるのが当たり前。
そして、公共施設を作った貴族には、税金の基本額に好きに上乗せが出来るこの国では、その価格は跳ね上がる。
浮浪者がいるのもその影響だろう。
どんなに畑を耕し、小麦や野菜を作ったところで、小麦は小麦粉に、パンになる事はない。
どこまで行っても金は付き纏い、食べ物が目の前にあっても、結局自分の腹に収まることはない。税金の替わりに徴収されるばかり。
人はパンのみにて生きるものではないが、パンを失えばもう死ぬしかない生き物なのだ。
そんな風に搾取され、他に稼ぐ当ても無い田舎では、生きてはいけない。だったら物乞いとして少しでも都会の近くの町に移った方が、まだ生きる目はある。
そう思って来た者も、多いだろう。
――そういうのは、この世界ではさして珍しくもない。世権会議加盟国では少ないというだけで、確実に存在する現実だ。
「だが、前王が貴族に税金上乗せの上限を設定しただろう? あれがあるなら、汚い上げ方は出来ないはずだが?」
「まぁ本来はそうなんですがね。王様が亡くなってから、貴族様を締め付けてくれるお人がいなくなりましたからねぇ。次の王様が下手な事をする前に荒稼ぎしておこうって腹なんでしょう」
上の重石が取れれば、蓋なんて簡単に外れちまうもんです。
皮肉げにそう言うオヤジに、オレは口を閉ざして頷いた。
――貴族は、オレやサシャが思っている以上に自由そのものだと言えるだろう。この国の建国当時の事を考えても、お国柄と言っても良い。
絶対王政よりも、この国の王制は盤石とは言えない。地方を治める貴族がいないと、王は権威を失う。そこに胡座をかいている貴族が多い。
貴族の意識改革が上手くいかなかったという証明だろう。
しかし同時に、王という存在がこの国でどれだけ重要かも分かる。
ようは要石なのだ。王という象徴であると同時に、貴族を纏める必要性がある。いくら意識改革が上手くいかなかったとはいえ、貴族の上に数百年立ち続ける王家の存在感は強い。
いなくなれば、このように弊害は起こる。
――そして、今この荷台に、その王座という責務から逃げ出している女がいる。
それを知ったら、この商人のオヤジはどんな顔をするだろうと想像すると、この国の人間でもない、どころか本当の意味でこの世界の人間ではないオレでも、憂鬱になってくる。
血にのし掛かる義務・責任。
そんなものから一番縁遠いはずのオレでも、その重要性は分かるつもりだ。
確かにエリザベス本人が招いた物ではない。血に左右されず、過去に縛られず、好きな男と一緒に逃げる。
ああ、なんて理想的な話なんだろう。もしこれが
……しかしそれは、自覚的にそれを行なっている時だけだ。
そうでない場合、それはもう――、
「……ああ、なるほど」
エリザベスにどう言えば良いのか、自分がエリザベスに向ける苛立ちの正体を見つけて、思わず口の中で零す。
オレは
だとすれば、なんて業が深いんだろう。今のオレに覚えがないのだから、きっと前の世界からの因縁なのだろうが、ならばなおさら、前の世界でのオレは、なんて酷い男だったんだろう。
あの世界だからこそ許される、――
「どうかなさったんですかいお客さん」
「ん――ああ、いや、何でもない。とにかく、女の一人歩きは危険だってのは分かったから」
横目でこちらを心配そうに見るオヤジに、オレは自分の内側にある感情を誤魔化す。今はとにかく、目の前の事に集中しなければと。
◇
醜い竜モドキが引く荷台が、今ゆっくりと止まった。
町に入った事は知っていた。距離を置き、荷台のガタゴトという不快な物音の中だったものの、断片的に話は聞こえてきたからだ。
――あの人は私の悪口を言っている。
確かな情報もないのに、エリザベスは御者をしている男と話しているトウヤと名乗った男を見ながら、そう確信していた。
思い返してみれば、会った時からそうだった。
貴族として接しない。それはエリザベスが望んだ事だったから別に良い。だが彼の態度は
昨日など、口を開けばお説教ばかり。最後などこちらに訳のわからない事を言って勝手に不機嫌になる。
あまりにも理不尽だ。
自分の味方が誰もいない、そんな宮殿から逃げ出したはずなのに。
エリザベスには、ここにも味方がいなかった。
「――やっぱり、私の味方はリチャードだけ」
リチャードは、エリザベスの事を否定しない。いつでも自分の言葉に笑顔で頷き、受け止めてくれる、優しい人だ。
自分の味方は、自分を守ってくれる人はリチャードだけ。
妄信的というにはあまりにも純粋な思い込みが、エリザベスの中で熱された蜂蜜のように粘り気増していく。
「――おい、エリザベス」
不愉快な声が、名前を呼ぶ。
その声に不快感を抱きながら顔を上げ、相変わらず苛つく笑みを浮かべている。
「……なに?」
「ああ、不機嫌な所申し訳ないが残念なお知らせだ。町に着いたは良いんだが……アンタはここでお留守番だ。オレとオヤジが用件を済ませるまで、此処にいて、外に出るな」
その言葉に、エリザベスの頭の中で怒りの炎が点火する。
「ふざけないで! どんな根拠で私に命令するの!? 貴方は私に雇われているんでしょう!?」
エリザベスの怒号に、トウヤは眉一つ動かさない。それが余計に、エリザベスの怒りを強くする。
「……まず第一に、オレは別にアンタに雇われている訳じゃない。
第二に、これはオレの我儘でも何でもない。オヤジに聞いた話通り、ここは前の街より治安が悪い。フラフラして貰っちゃ、アンタを守れないのさ」
「それを何とかするのが貴方の仕事ではないの!?」
「その通り。だが限界はある。
こっちは一人、おまけにただの人間。世間知らずのお嬢さんのことを気に掛け続けるのは、無理だ」
ああ言えばこう言う。
まるで風にはためく旗のように掴み所のないトウヤの言葉に、エリザベスの怒りこそ、限界に差し掛かっていた。
「――そう。なら、私のお金を置いていきなさい」
エリザベスの毅然とした言葉に、皮肉げな男の笑みが崩れる。
「……理由を教えて貰っても良いかな?」
「決まっているでしょう。貴方を信用していないからです」
金を持って逃げないという保証があるのか? このまま自分を置いていかないという根拠は?――どこかの違法な人買いに、自分を売りつけ無い理由があるのか?
それはあくまで理由の一端でしかない。
理由はもっと単純――、
彼が自分のお金を持っていたら、逃げるに逃げれないから。
相手が自分を嫌いならばそれで良い。こっちも嫌いだから。
だからここで縁を切って、一人でリチャードに会いに行けば良い。話に聞いている限り、ここから目的地である《ブリーゼ》までそう距離もない。
自分のお金さえあれば、新しい護衛を雇う事も、もっと乗り心地の良い馬車を探すのだって簡単だろう。
そうすれば、もう自分はこんな嫌な気持ちでいる必要性はない。
「――ああ、そうかい。分かったよ」
思った以上にすんなり頷いたトウヤは、肩に下げている鞄から小さな包みを取り出し
エリザベスに軽く投げる。
慌てて受け取ってみれば、金属か擦れる音。紐が緩んでいる口から見えるのは、間違いなく自分の金貨だった。
「荷台の中でなら好きにしていろ。自分の金貨を数えるなり、なんなりな。ただ、アンタに必要な買い物もあるから、その分はあとでキッチリ貰うからな」
トウヤはそれだけ言うと、大して表情を変えずに荷台を降りて行った。
既に商人の姿はない。どこに行ったかなど、興味は無い。
十数える。まだ周囲にいるかもしれない。
二十を数え終える。もしかしたら周囲で見張っているかもしれない。
そうしてゆっくりと一分ほど数えてから、荷台の扉代わりなっているボロ布を持ち上げ周囲を確認し、ゆっくりと外に出てきた。
二つ目の街よりも、ずっと寂れている場所だな、とエリザベスは思った。
家々は暗い色合いで、どこかしらに罅が入ったり、屋根が一部壊れていたり。無事な家を見つける方が大変そうだ。
住民の服がみすぼらしく見えるのも、どこか痩せすぎで、暗い表情を浮かべているように見えるのも、決して空が雲に覆われているからというだけではないだろう。
酷く陰鬱とした街だ。
しかし、だからこそ治安が悪いと言われても、首を傾げてしまう。
人からものを奪おうなどと言う人間がいるようにも、そんな気力があるようにも、エリザベスには見えなかったのだ。
きっとトウヤが、自分を従わせる為に大袈裟に言ったに違いない。
そう思って、エリザベスは恐る恐る町の中を歩き始める。
次の町はどんな場所なのだろう。屋敷から出て、城からも出て、一人で見る初めての市井。きっと自由で楽しいのだろうと思っていた世界は、想像以上に暗い。
何より、想像以上に持ち物が少ない。店は閑散としていて、どの商品も良いとは言えないのは、エリザベスの目が肥えている所為だろうか。
値札は何度も書き直されている跡が見える。それが高いのかどうなのかはエリザベスには分からなかったが、街行く人はそれに見向きもせず、絵本の中に登場する幽鬼のようにフラフラと歩いている。
町の角でボソボソと話をしている男達の目はギョロギョロとして、こちらを睨んでいるような気がして、思わず肩に下げた鞄を胸に抱きしめる。
土台も不確かな自信は、想像よりも陰鬱な市井の景色と、その中に自分が一人ぼっちだという事実で早くもぐらついていた。
足がすくむのを必死で振り払うように、早歩きで町の中を進む。
(まずは、足を探さなければ。馬車と馬、御者を雇える場所はどこなのかしら)
直ぐに雇って、この町を離れなければ、トウヤが怒って追ってくるかもしれない。
そんなまたも根拠のない不安を感じれば、足を自然に早まる。
しかしどこに行けば良いか分からないので、足取りは覚束ない。
誰かに聞こうにも、下を向き憂鬱そうに歩いていたり、ヒソヒソと話をしている間に割って入る事が出来ず、結局大通りから路地に入り、どんどん町の深いところまで入っていく。
ふと、家庭教師から聞いた〝街〟と〝町〟の違いを思い出す。
単純に人が住む場所を壁が取り囲んでいるかどうか、なのだそうだ。
壁があれば襲われても守る事が出来るが、無ければ逃げるしかない。安全度が低くあまり人が多いくないのだそうだ。だがそれでも住む人間は住むので、規模が大きい町もあると。
ここは正しくそうなのだろう、と思う。
道はどんどん入り組んで、建物は大通りのものよりもさらにみすぼらしくなっていく。鼻に感じていた町独特の匂いは、異臭悪臭の類に変わっていく。
こんなに嫌な匂いがするもの何か。少し鼻を押さえながら歩き続ける。
だが、エリザベスはさらに嫌なものを目にする事になる。
エリザベスが今までに見た事がない――しかし確実に世界に存在するソレを。
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