其ノ二






「――ジイジ!!」

 〝影〟の触手は、脈動する。

 まるで木の根のように翁の緑色の血を飲み込んでいき、その度に胸の宝玉はその緑を深くしていく。そのスピードは速く、


「チッ!!」


オレがその触手をきった瞬間には、既に半分ほど吸われている様にも見えた。


『■■■■! ■■■! ■■■! ■■■! ■■■! ■■■! ■■■! 

 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■!!』


 言葉は分からない。どういう内容で、どういう意図があって〝影〟が声を発しているのかは分からない。

 だが、これだけは分かった。




 笑っている。

 嗤っている。

 哂っている。

 嘲笑わらっている。




 歓喜するように、蔑むように、祝福するように、呪詛を吐くように。

 笑っていた。


「ッ――!!」


 その笑い声の不気味さと、笑われたと感じて自然と湧き上がる声に、オレは《竜尾》を振るう。

 先程までの〝影〟では回避しきれない攻撃。その横っ腹を真一文字に切る為に振るわれた攻撃。

 ――それは舞踏を奏でるように、避けられた。


「クッ!」


 先程よりも明らかに動きが良くなっている。それを承知で、オレは何度も剣を振るった。

 〝影〟は理性的に、そして巧みに、険の切っ先を避け、ステップを踏む。

 そこには攻撃を回避する意図だけではなく、こちらをからかい、挑発する意図すら混じっていると感じるほど、軽やかで、余裕がある。

 ――手加減を止めたというのもあるのだろうが、それ以上にナニカが違う。


『――■■■! ■■■! ■■■! ■■■! ■■■! ■■■! ■■■!』


 笑う。

 嗤う。

 哂う。

 嘲笑う。


「――うるせぇ、ナニがおかしいっつうんだテメェは!!」


 怒鳴りつける。

 何に笑っているか、なんてどうでもいい。この状況で笑っている時点で充分悪辣だ。

 悪辣で――何より腹が立つ。

 今まで獣性だけで行動していた〝影〟は反応しなかった。

 だが、今の〝影〟は、その穴しか空いていないような無機質な顔で、




 ニタァと、厭らしい笑みを浮かべた。




「――テメェ、」


 一瞬、怒りで我を忘れて剣を振るいそうになる。

 冷静にと心掛けていたはずの頭が、沸騰する。

 しかし、




『『――んぃうwg:おjm――xみううぇおq――ぃうgw;mx――』』




 異界の言葉が森全体に広がる。

 大量の蟲が這い回るような、嫌悪感を逆なでする声。


「――呪師の、声、」


 この中で唯一その声を聞いたことがあるサシャが、小さく呟く。

 呪師。

 大鬼族オーガを誑かし、

 樹ノ精霊ドリアードを攫い、

 樹人族エント達を傷付け、

 そして今の悲惨な状況を生み出した、恐らく今回の事件の根幹を握る男。


『――――――――』


 その声に耳を澄ませていた〝影〟は、その細い足からは想像も出来ない勢いで、その場から跳躍する。ふわりとその端を風で靡かせ、相変わらず不気味な笑みを浮かべながら、暗い森の中に消えていった。


「――チッ、」


 舌打ちをする。

 追おうか。

 少しだけそんな気持ちが湧き上がったが、今は翁の方が大事だった。《竜尾》を鞘に収め、足早に仰向けに倒れている翁の傍に駆け寄る。




 ◇




「ジイジ、ジイジ、ジイジ!」

『大丈夫、大丈夫じゃ。大事無い、大事無い』


 泣き縋るウーラチカの頭を、大きなその手が撫でる。

 この光景を見ていたどんな人間にも分かる――大事どころではない。

 致命傷だと。

 薪にされる木のように枯れている肌。その胸に空いた大穴からは緑色の血が、既に水溜まりを作り出してしまう程溢れている。


「……悪い。油断した」

『ホホホ、何を、仰っている、《眷属》殿。

 貴方は、私の、息子を護ってくださっておった、それだけで、重畳ですじゃ』


 無力感に歯噛みしているトウヤに、翁は優しい笑みを向ける。

 確かに油断はしていたのだろうが、それでもトウヤがあの状況で尽力してくれた事を翁は分かっている。分かっているからこそ、優しい笑みでそれを許す。

 何より、自分の命よりも大事なものを護ってくれたのだ。これ以上に良い事などあり得ない。


「……いいえ、まだです」


 錫杖を横に置き、服が汚れる事も気にせず、傷を手で塞いでいるサシャは呟く。


「私が譲り受けている大我マナを使えば――、」


 大我は生命の源。サシャが得ている膨大なそれを利用する治癒魔導は、死の淵に立たされる程の傷だったとしても治癒する事が出来る。


『止めなされ――もう、手遅れです』


 サシャを止めるように、手を翳す。

 その手からは――いや、翁の体からは。小さな芽がゆっくりと生えていた。少しずつ少しずつ大きくなる、芽を。


 樹人族は、死した後〝木〟になる。


 比喩表現でもなんでもない。彼らは死ぬ時にその木のような体から芽を出し、自身の生命力を使ってその木の生長に尽力する。自身を苗床に木を育てる、と言えば口は悪いが、ようは自分を木に変じる。

 その木は他の木よりもずっと雄大で生命力溢れる木になり、千年経ったのちその木から樹ノ精霊が生まれる可能性もある。

 死して自然に取り込まれる樹人族。

 それは翁とて、例外ではなかった。


『この状態になれば、樹人族は木になるのみ。その運命から、逃れようとも思わず――そして、逃れられるものでも、ない』

「――駄目よ、そんなの」


 翁の手を、サシャが握る。

 血で汚れても気にしない。その身を寄せる。


「駄目よ、そんなの絶対、だって、――翁の夢は、まだ何も叶っていないじゃない!」


 ウーラチカむすこの未来を見る。

 ウーラチカむすこの道行に先を見守る。

 その夢を捨て、死に向かって歩いていく。それはかなり辛い事で、きっと今感じている苦痛の何十倍も辛い事で、それを許せるサシャではなかった。

 その紅い目からは、ぽろぽろと涙がこぼれる。


「まだ、私何も出来ていない。貴方に何もしていない! なのに、こんなの」

『もうしていただきましたとも、《勇者》殿』


 サシャの慟哭を、翁の柔らかな言葉が包む。




『《勇者》殿は――ここに来てくださったではないですか』




 自治区と言う特殊な環境。

 樹人族という扱いに困る存在。

 この世界でも少数種族に数えられる樹人族を好き好んで救おうという人間はいなかった。厄介事を抱え込んでいるならばなおさら、首を突っ込もうとは思わないだろう。

 それもまた、人間社会から自らを隔離し、自然の中で生きる事を選んだ樹人族の業である。本人達もそれを重々承知していた。


 だから、何も言わなかった。

 救いを求めなかった。


 翁や他の樹人族たちは、自分達が大事に育てたウーラチカと、加護を頂き信仰にも近い尊敬の念を抱いている精霊達だけを思い、自分達は最終的に滅んでも良いとさえ思っていた。

 そんな中、《勇者》は訪れた。

 今の森には、残念ながら《勇者》に出会った事がある者はいない。何せ初代は千年昔、さすがにその時代を生きた樹人族は息を引き取って森の一部になったし、幸いここ千年森は平和だったから。


 懐疑的だった者もいる。


 所詮は別種族。《勇者》であったとしても、心から樹人族を理解しようとは思わないはずだと。

だが蓋を開けてみれば――とても好感の持てる人物だと察する事が出来た。

 生きている時が長いと人間を見る目も養われてくる。九百年という長い時を過ごしてきた翁からすれば、サシャは紛う事無き《勇者》だった。

 時間は、さほどかけてはいない。

 そんな短い時で知ったような口を叩くな、と思うかもしれない。

 しかし人間を見る時に時間の長さを気にするのは、視野の狭い人間がする事だ。例えひと時話しただけでもその者を心から信頼する事はある。

 《勇者》サシャ、そしてその一ノ《眷属》トウヤは――そういう意味で、とても好感が持てる人間だと思える。


『《勇者》殿、最後の頼みです……ウーラチカを、どうかよろしくお願いいたします』


 血が出ているのも気にせず、翁はもう一度頭を下げる。

 涙を止める事は出来ない。悲しみは消えない。

 それでも翁の覚悟と安堵を見て、サシャは涙を拭いながら頷く。


「分かりました……任せてください」

『ありがとう……あぁ、《勇者》殿はやはり、お優しいお方だ』


 サシャの頭を、翁の手が優しく撫でる。

 人間のなど彼からすればボールのように小さく、力加減をするのが億劫なはずなのに。まるで割れやすい玉にでも触れてくれているような柔らかい手付きに、サシャはさらに涙を零す。


「……なんで、なんで皆諦める。おかしい、おかしいよ!」


 ずっと傷口を押さえ続けているウーラチカは、叫んだ。

 血は止まることを知らず、ウーラチカの手を、服を、顔を汚す。それでもウーラチカは止めない。必死で老人の命が零れるのを止めようとする。


「死んじゃいやだ、いやだ、死んじゃいやだジイジ! 生きて、ちゃんと生きて、傷治る、絶対、」

『……ウーラチカ、』


「大丈夫、この森薬草いっぱいある、きっと傷治る、大丈夫、大丈夫だから、諦めちゃ、やだっ」

『ウーラチカや、』


「死ぬの、駄目、おれウー、まだ教えてもらってない事、沢山、ある、まだ、駄目、死ぬ、ダメ!」

『ワシの可愛い息子や、』


「ウー絶対治す、ジイジ死なないようにウー、頑張るから、




 ジイジ、置いてちゃやだ!!」






『――こうならなかったとしても、ワシはお前より先に逝くぞ』




「――っ」


 顔を上げる。

 翁の顔は、いつも通り慈愛に満ちたものだったが――その言葉は、達観した賢人のものだった。


『ワシはもう、お前が死ぬのを見れない。森に生きていたお前には分かるだろう。

 遅かれ早かれ、死は誰にでも訪れる。それを回避する事は、あってはならん』


 ここでもし無事だったところで、ウーラチカよりも翁は先に死ぬ。千年の時を生きる樹人族であっても、ウーラチカがそれより短い寿命を持つ精闇族ダークエルフ半種デミだったとしても。

 どうあっても、揺るがない。

 死は、回避してはいけない。


『ウーラチカ。我が愛しい息子よ……逝かないでくれと言ってくれるお前の言葉は嬉しいものだ。だが、それでもワシは、もう無理じゃ、』

「でも、だけど、」

『でもも、だけどもない。

 ――ああ、ウーラチカ。もっと顔を見せておくれ』


 ウーラチカの顔に手を添える。

 精悍な若者に育ったものだ。

 最初に会った時はまるで小さな小さな種のようだった。最初から歩行を覚えている樹人族と違い、森の中では這って動く事も難しく、ほうっておけば直ぐ死にそうだった小さな種子だった。

 そんな子が今では自分達を守って戦い、立派な若者に成長する。他種族の子とは、これだけ早く成長するものなのかと日々驚かされる。

 しかし、ああ――相変わらず、泣き虫な子だ。

 手に掛かる温かい水に触れながら、翁の顔は緩まる。


『ああ、ウーラチカ。良い子だ。お前は良い子だ。きっとワシがおらんでも、この森を出て行っても、きっと上手くやっていける。お前は本当に、良い子に育ってくれた。

 ……最後の教えじゃ、息子よ。




 ワシに、囚われるな』




 死した人間に、過去に、既に起こった事に囚われる。

 人間の良い部分でもあり、悪い部分だ。歴史に学ぶ事は良い事だが、過去を見つめ過ぎて現在いまから目を逸らす事の、なんと愚かしい事か。


「――いやだ、じいじ、じいじ……」

『きっとお前には良い未来が待っている。あぁ、きっと素晴らしいものが待っている。それを追いかけなさい、それを大事にしなさい。




 ああ、ウーラチカ――明けの明星ウーラチカ




 古い精闇族の言葉で名づけた、我が可愛い息子。

 我らの明星。

 我らに小さく差した光の呼び声。




『どうかその姿が、人に希望を授けますように』




 ――それが最後の言葉になった。

 息を引き取り、直ぐに変化は始まった。芽はその成長速度を速め、どんどん大きくなっていく。

 芽は苗に。

 苗は若木に。

 若木は大木に。

 横に枝葉を広げ、幹の根元にいる人を護り庇うように広がり。

 翁の倍も大きな大樹となった。

 ――誰も、言葉を出せない。

 ただ涙と、嗚咽。悲しみの音だけを響かせて、池の畔に生えた大樹を見つめ続けていた。







 森の暗闇で、呪師は小さな声で呪文を呟き続ける。

 古より伝わる禁呪精霊縛りの呪法。その呪文を唱える事によって、呪師は〝影〟の動きを束縛し、己が命令に従える権利を得る。

 〝影〟はその形を崩し、本当に影そのもののように細く長く解け、呪師の手に握られている古ぼけたランタンに吸い込まれていく。

 《精霊縛り》の呪文を書き記されたそれは〝影〟を閉じ込めておくのには丁度良い〝器〟になった。


『フゥ――如何でしたかな大将殿、シュマリ殿。我が研究成果の具合をご覧になって』


 ランタンの蓋を閉めて流石の呪師も安堵したのだろう。小さなな溜息と一緒に、後ろに立っていた豪奢な鎧を来た大将と、どこか暗い表情を浮かべているシュマリに声をかけた。

 大将はその言葉に、満足げに鼻を鳴らす。


『時間をかけた甲斐があったな。あの厄介な精闇族の小僧と、《勇者》の《眷属》。二人を纏めて相手にしても問題なしとはな。

 しかもあの制約を受けた状態――尚且つ、不完全だったという点も含めるとなお良い』


 目的を達するまで、誰も殺してはならぬ。

 呪師は最初からそう〝影〟に命令を下していた。力を安定させ、自分の支配下においているとはいえ、 〝影〟にはもう一つ必要なものがあったからだ。

 樹人族の血。

 自然の中に生きた純粋な小我オド

 それを取り込ませれば存在を安定させると同時に、知恵も膂力も、そして能力も全て強化する事が可能。

 だからこそ、樹人族の集落を今夜急襲したのだ。

 結果は、大成功だった。


『いつから本格的に使う事が出来る?』


 大将の急かすような言葉に、呪師は気色の悪い笑みを浮かべながら顎に手を当てる。


『そうですなぁ。取り込んだ所でまだ体に馴染んでおりますまい。〝核〟を検査する必要性もありますし……万全を期すならば、今から三日頂けますかな?』

『……それほどか?』

『ええ。何せ一歩間違えば、某だけではなく大将殿の命も危ぶまれます。万全を期す事こそ最上かと』

『……分かった。貴様の好きにする良い』

『ありがたきお言葉』


 慇懃な礼をすると、呪師はランタンを大事そうに抱えながら歩き始める。


『それでは、私めはこれから工房に篭りまする。何かあれば、ご一報を』


 そう言って、大将とシュマリが瞬きをしている暇もなく、暗闇の中に消えていった。


『――フンッ、卑しい悪魔系デモンズ種族め。まぁ、使えるものを創って来たのだから、良しとしよう』


 吐き捨てるように、忌々しく言う。

 そもそも悪魔などの手を借りずとも、大将には国を取る算段があった。いくら敗戦の影響で傷を負い疲れていたとしても大鬼族。

 どんな場所、どんな状況でも戦いに勝てる算段はあった。

 だが、呪師の言葉を借りるならば〝万全を期す〟というのは非常に大事な事だ。

 並みの達人を超える目障りな精闇族の青年。

 そして文字通り一騎当千の働きが出来るという《眷族》。

 その両者を制限された状況の中で圧倒した〝戦力〟は魅力的だ。


『……父上。本当に良いのですか?』


 シュマリは声を潜めて、自分の父親に問う。


『あれ程禍々しいものを、私は見た事が御座いません。しかも、あれは精霊を生きたまま﹅﹅﹅﹅﹅精霊を核にして創られたモノ。いつ我らにその憎悪と呪い、災いが降り注ぐか、解りますまい』

『……シュマリよ。お前は我が息子でありながら少々守りに入りがちだ。臆病者と謗られても仕方が無いぞ』


 シュマリの言葉に、大将は眉を顰める……だが、すぐにそれも破顔した。


『なに、いざとなれば奴を殺し奪えば良いだけ。あの化け物も核を破壊すれば死に至ると言う。邪魔になれば殺せば良い』

『――そう、ですか』


 シュマリの言葉は相変わらず重い。

 殺せば良い。

 自分の父は、そんな酷い事をなんて簡単に言うのだろう。

 確かに大鬼族は戦いの権化。戦いに生き戦いに死に、人を殺す事をそう高い生涯だと思わない傾向がある。

 しかし良心が無いかと言えば、それも嘘だ。

 精霊を犠牲にして異形の怪物を作り、罪も無く戦う事も出来ない樹人族を虫か何かのように殺す。

 そこに正義は無い。

 しかし、そうでもしないと何も出来ない現実が、シュマリの心の重りをまた一つ増やす。


『フンッ、真面目な奴よ。まぁ良い、帰って寝よう。明日から支度を始めねばなるまい。

 ――喜べシュマリ。お前を王の息子に出来るぞ』

『……はい、父上』


 本当にこれで良いのか。

 他にやり方は無いのか。

 もっと、誰も犠牲にしない、誰も殺さない選択肢はないのか。

 心の中で何度も自問自答しながらも……シュマリの心の中に、答えは出なかった。





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