EP10-6 失ったもの
「世界を護る――規制官……? 本当に……ヴィランではないのか?」
リアムが屈したまま尋ねると、クロエは「ああ」と一言。そして彼の手を離してやった。
「お前のことは以前からマークしていた。PA170を超える転移者など前代未聞だからな。だがお前がこの世界のプロタゴニストの一人であることや、お前の人間性を加味して我々は手を出さずにいたんだ」
「人間性――……」
「しかしどうやら見込み違いだったようだ。理性とともにクオリアニューロンのたがが外れたお前のエントロピーは、恐らくあのまま放っておけば
「連れ戻す――だと? 私を……何処へ?」
痛々しく折れた拳側の手首を抑えながら、リアムは徐に立ち上がった。
「源世界、そう呼んでいる。我々が所属し、そして本来の人間としてのお前が在るべき世界だ」
「本来の私が在るべき……しかし私は全てを失ったんだ。私にはもう何も無い――」
自分は全てを婚約者のサラへと捧げた。その彼女が居ないなら、そして正義すらも失ったのなら、もう自分という存在には価値も居場所も無い――リアムはそう考えていた。
しかしクロエはそんな彼に、一層強い口調で言葉を突き立てるのであった。
「甘ったれるな。本当にお前が全てを失った人間ならば、私の拳に耐えられるはずがない」
「しかし――」
「黙れ」と、一喝。
「…………」
「お前の事情は理解している。……最愛の人間を失った上に過ちをも冒した。それがお前のアイデンティティを打ち壊したのだろう。だが本当に全てが消えたと思っているなら間違いだ」
「何が――君に、私の何が解るというんだ……」
俯いて呟くリアムに、人類の希望の星――スーパーヒーローの影などどこにも見当たらなかった。そこにいる彼はただ一個の人間でしかなかった。
「解るとも。お前が絶望と哀しみの中に在り、己への失望に打ちひしがれているのがな。だからお前は全てを失ってはいない」
「? …………」
「お前が失ったものの中に『失った哀しみ』は無かっただろう? その哀しみの根源は『愛』だ。故にお前は愛を失っていない。そしてお前が『自分に失望』するのは、お前の中にまだ『正義』が残っている証拠だ」
「……私の中に――?」
「そうだ。その愛や正義は、言い換えればお前自身の意志だ。意志を失っていないからこそ、お前はアルテントロピーが使える」
「アルテントロピー……? 何のことだ?」
「人が世界に対する答えを導き出す為の、意志の光だよ。そしてお前が持つその光は、この世界の誰よりも強く輝いている。だがもしお前が
「…………」
「それと一つ教えてやる。死というのは情報の一時隔離に過ぎない。故にお前の婚約者の情報は消滅した訳ではない。その内また、どこかの世界で蘇るだろう。無論全くの別人としてではあるが、根幹を成す
「サラが……また――」
クロエの台詞が真実であるならば、本当に彼が失ったものというのは決して多くはない。それを彼女は明言した。
「お前が失ったものがあるとすれば、それは人としての『強さ』だ。だがそれは取り戻すことができる。この私とともに来ればな」
クロエはそう言って、少しずつ翳りが消えつつある瞳のリアムに手を差し伸べた。
***
――2276年2月。
源世界/旧アラスカ州南東部の森――
2メートル程ある繭の様な乳白色ゲル状の塊――コクーンと呼ばれる睡眠装置の中で、リアムは徐に目を覚ました。すぐさま上体を起こすと、彫像の様に均整の取れた彼の逞しい肉体にベットリとコクーンのゲルが付着している。意識のおぼめく彼の目に映るのは、今しがた見ていた過去の夢とは異なる、平和以外に何も無い穏やかな朝の森であった。
昨夜の静寂を濡らした雨露のお陰で、普段より増した草木の馨香がリアムを優しく包んだ。彼の頬に朝露が垂れると、傍で主の様子を心配そうに窺っていた銀毛の狼が、そっとそれを舐めた――どうやらサラとの別れのくだりで相当にうなされていたようである。
「……おはよう、ウィリー。――大丈夫、いつもの
そう微笑んでから、木漏れ陽に毛を輝かせる
リアムが離れると、付着していた乳白色のゲルが全裸の彼の身体を這うように薄く伸び、膜と成って覆った。そして首から下を完全に包み込むと、間もなく黒みを帯びて雄々しいボディラインにピッタリとフィットした、ウェットスーツの様に変化した。――このスーツは元素デバイスで構成される『ウェアラブル・スキン』という、源世界では一般的な衣服の類である。
服を得たリアムがコクーンを「もう必要ないな」と感じると、残った
リアムはウィリーを連れて、森の中を散策する。穏やかな朝陽と心地良い風にざわめく森は、鳥や動物や虫の生命で溢れていた。見た目上では人工物など一切存在せず、この森においてはリアムだけが明らかな異端者であったものの、動物達は彼の姿に驚くことも、敵視する様子も無かった。
やがて少し木々が開けた場所にある小川に辿り着くと、リアムは水を手で掬い、一口それを飲んでから顔を洗った。濡れた顔で一層風を感じると、せせらぎに耳を澄まして雲を眺める――。
しばらくそうしている内に、いつの間にか姿を消していたウィリーが兎を咥えて戻ってきた。リアムの前にそれを置くと、低い声で一声吠える。その声が朝食をせがむものであると理解したリアムは、近くの草木に混ざって生えているブルーベリーを大雑把にもいで、息絶えた兎の上に添えた。
そしてこめかみに指を当てOLSを起動すると、青みを増した瞳で周囲の森に目をやった。樹木の中にはいくつか青い枠を伴って表示されているものがあり、リアムはそれに近付くと徐に手を伸ばす。すると木は先程のコクーンと同じ様に砂となってから、40センチ程の四角い白の箱に変化した。
蓋も取っ手も無いのっぺりとしたその箱に、彼が指だけを突っ込んで握るとその部分が動きに応じて取っ手となる。殆ど重さを感じさせない箱を、食材の前で舌を出して待つウィリーの前に置いてから、彼は兎とベリーを箱に直接突っ込んだ――。そして数秒もすると箱の上部が開いて、中から焼き立てのパンと、ブルーベリーのソースがかかった兎肉のローストが誕生した。――これが彼らの今日の朝食であった。
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