EP6-7 深夜の特訓

 その日の夜――繊細な肌触りの掛け布団に包まって静かな寝息を立てるアヤメの隣で、ホノカはふと目を覚ました。別段何かに気を取られた訳でもなかったが、彼女はなんとなくそのままベッドを抜け出すと、微かなさざ波の音に惹かれてバルコニーへと出た。

 夕方まで水平線の上を泳いでいた雲は星々に吸い込まれるようにして消え、今は艶めいた夜空に大きな満月が浮かんでいる。海風は穏やかで、昼の酷暑は忘れてくれと言わんばかりの涼夜である。


「………………」


 ホノカは暫くの間、瞳を閉じてその自然の気遣いに身を委ねる。そして再び目を開いた時、群青色の浜辺の真ん中辺りで何かがチカリと瞬くのを見た。


(何かしら――?)


 月明かりの下に彼女が目を凝らすと、浜辺には小さな石碑の様な物とその傍で動く人影が一つ。そこはこの合宿の期間中、学園ネストが訓練場として使っているプライベートビーチである。


(あの服……うちのジャージ? こんな時間に誰が――?)


 振り返って部屋の中にある時計を見ると、時刻は2時を少し回ったところであった。そしてホノカがもう一度浜辺に目をやると、再びその人影から放たれる光。

 それが誰であるかというところまでは判別が付かなかったものの、彼女は気になってその人間の許へ行ってみることにした。



 ***



(あれは――!)


 ホノカが向かった先、そこにいたのはマナトであった。


(あのバカ、こんな時間に何してんのよ……)


 彼は昼間にクロエから出された課題をクリアする為、今だ特訓を続けていたのである。同じく課題を与えられたシキは夕方前には何かヒントを得たらしく「先帰るわ」と言って立ち去り、ヒロはと云えば早々に「無理だろこんなの」と言って諦めて帰ってしまった。しかし投げ出すことも解決することも出来ないマナトは、独りこの浜辺に残っていた。

 ホノカがギュッギュと小麦粉を踏むような音で砂浜を歩いて行くが、マナトの意識は闘志とともにただ目の前の岩壁にだけ向けられており、彼女の存在には全く気付いていないようであった。そしてその彼の両手は血塗れで、対する壁にも彼の拳の血がベッタリと付着して赤黒いとなっていた。


「!? ――アンタ何やってんのよっ!?」


 余りにも痛々しいマナトの両手を見て、ホノカは悲鳴に近い声で呼び掛けた。するとマナトが振り返り、驚いた様子で彼女の顔を見た。


「お前……こんなとこで何してんだ?」


「バカ! それは私が訊いてんの! 何よその手、ボロボロじゃない!」


 話している間にもマナトの指を伝って滴り落ちる血が、細やかな砂に次々と吸い込まれていく。


「ヒドい怪我……。なんでそんな無茶してんのよ、アンタほんとにバカなんじゃないの……」


「っち……、別にいい――」


「良くないわよ!」


 マナトの言葉を遮ったホノカの瞳の中で月明かりが微かに揺らめいているのを見て、マナトはそれ以上反論するのを辞めた。


「…………」


 黙りこくる彼に、ホノカは「ちょっと待ってなさい」と言い残し走ってホテルへと戻ると、すぐに救急医療セットを抱えて戻ってきた。


「手当てしてあげるから、そこ座って」


 ホノカにそう言われて、不満そうに近くの小さな岩の上にマナトが腰を下ろすと、ホノカは彼の手を水で洗い流してから治療用のスプレーを吹きかけて、せっせと包帯を巻き始めた。


「…………」と、マナトは無言でその様子を見つめる。


「…………何してたの、こんな時間まで」とホノカ。


 彼女の声は呟くような小さなものであったが、断続的な波音しか無い深夜の砂浜では充分な大きさであった。


「課題だよ。白峰先生からのな。――岩壁アレを素手でブッ壊せってよ」


「は? そんなの無理に決まってるじゃない。大体アンタの殊能って反射でしょ? 硬くて動かない物をどうやって壊すのよ」


「まあ俺も最初はそう思ったよ。でも無理じゃねえっぽいぜ? ユウも『姉さんは不可能なことを要求したりしない』って言ってたしな」


「だからって――何もこんなになるまで……」


「いや、もう少しでコツを掴めそうなんだ」


 そう言って見つめるマナトの視線の先――立ちはだかる頑強な壁の所々には、到底素手で付けられたとは思えぬ、鉄槌を正面から打ち付けたような形跡があった。


「何でそんなに頑張るの? アンタいつも適当なのに」


「それは――」と一瞬だけ逡巡を見せてから、マナトは力強く言う。


「あいつに勝つためだ」


「あいつって――まさか、お義兄様のこと?」


「ああ。俺はクレトあいつを倒すために学園ネストに入ったんだ」


 入学式の日、ホノカとマナトとの残念な邂逅の後に、彼が神堂クレトに喧嘩を売って返り討ちにあったという話を、ホノカは校内の噂で聞いていた。しかし正直彼女には、何故マナトがそこまでクレトを目の敵にするのかが理解出来なかった。


「なんでそんなにお義兄様に拘るの? 確かにあの人は少し人を見下すようなところがあるけど……」


劣等感そういうのじゃねえよ。ただ俺はオフクロが……」


「――お母さん?」


「いや、この話はヤメだ。聞いて面白いモンでもねえし」


「…………」


 ホノカが包帯を巻き終えるとマナトはすっくと立ち上がって彼女に微笑んだ。


「サンキュー、朱宮」


 月に照らされたその笑顔が余りにも純粋きれいで、それを見たホノカの心臓は突き上げられるように高鳴った。


「バっ……べ、別にいいわよ。……ただ見てらんなかっただけ、だし、その――」


 俯いて口ごもる彼女の頭に、マナトは包帯でグルグル巻きになった手を優しく置いた。


「助かったよ。おやすみ」


 そうしてマナトがホテルではなく再び岩壁の方へと歩き出すのを見て、ホノカが急いで声を掛ける。


「ちょっとアンタ、まだやる気?!」


「ああ。あと少しでできそうだからな」


 その後ろ姿に強い意志を感じ取ったホノカは、諦めにも似た溜め息を吐いてから言った。


「分かったわよ、じゃあ私も付き合ってあげる。その手じゃ薬も満足に塗れないでしょ?」


「お前……。ああ、助かるよ。――でもこの時間の外出は禁止なんだぜ?」


 振り返って悪びれた様子も無く言うマナトに、「そんなの今更じゃない」と笑って返すホノカ。

 ――互いに気付かぬ淡い恋心を持った二人の特訓は、やがて射し込む陽の光によって終わりを告げたのであった。

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