賢者と運命
寝室のベッド脇の小机には、手のつけられていない兎の形にカットされた林檎。
ちょうど、僕が今朝に少女の為に用意したものが、そっくりそのままの姿で残っていた。
ただ、その場に置いてあった果物ナイフと少女だけが、その姿をくらましていた。
なぜナイフが消えたのか。
なぜ少女が消えたのか。
その理由は分からない。
何か、僕に落ち度があったのだろうか。
知らない間に少女の事を傷つけていたのだろうか。
少女がいなくなった理由は、見当もつかない。
だが目の前で起きている現実が、事実が、酷く、僕を不安にさせる。
いや、大事なことは少女が消えた理由を求める事ではない。
少女がどこに行ったか、だ。
今の彼女は動けるようになったとはいえ、まだまだ安静にしてないといけない状態だ。
むやみやたらに外を動き回って、いい体調ではない。
それに、この森は決して危険ではないが、とてつもなく広い上に複雑なのだ。
知らない者がむやみやたらに動き回ると、最悪の場合はどこにも出ることが叶わずに、永遠にこの森の中を彷徨うことになる。
義務を果たさなければ。
助けてしまった者の、運命に干渉してしまった者の、義務を。
慌てて外に飛び出した僕は、小屋から十歩ほどの場所でその勢いを殺す。
先ほども言ったが、この森は広い。
とてつもなく広い。
その広さは、身体強化の<
常識的に考えて、この広い賢者の森から1人の少女を探し出すなど不可能に近いだろう。
砂漠の中から、1粒の宝石を探し出すようなものだ。
だが、その理屈は、道理は、常識は、前提は、常人のものだ。
僕は違う。
僕は賢者だ。
賢者には賢者の、理屈、道理、常識、前提がある。
だからこそ、「賢者」などという大層な呼び名をもらっているのだ。
あまりこの力は使いたくはないのだが、今はそんな事を言っている場合ではない。
僕は再び、「運命」と向き合う覚悟を決める。
立ち止まった僕は、朝日を浴びて煌めく「それ」を。
「眼鏡」を。
「邪眼殺し」を外す。
僕の目から、金色の光が漏れ出るのを感じる。
その目は、本来の機能として視覚情報を僕の脳に与えつつ、同時に異なる情報を、常人が決して得ることができない情報も並行して脳に入力する。
それは「線」だ。
無数に枝分かれした「線」が僕の頭の中で構築されていく。
1本の「線」は、現在という時間から地続きになり、既にその「行動」の「選択」で確定された事象の情報、その連続。
「線」から分岐して生まれた「線」は、分岐点である時間軸において異なる「行動」の「選択」をした場合に確定する事象の情報、その連続。
1つ1つの「線」が、「選択」した「行動」によって、どのような「結果」が生まれるのかを教えて、否、見せてくれる。
無数の「可能性」が、「未来」が、僕の頭の中に流れ込んでくる。
いや、正確にはそうではない。
僕が見ているのは、「可能性」でも「未来」でもない。
僕が見ているのは、「運命」だ。
「運命」とは絶対不変の「概念」だ。
「運命」の中では、「可能」か「不可能」かなど、「結果」など全て決まっている。
「可能性」とは、将来における「実現性」を定義したものだ。
ゆえに僕が見ているのは「可能性」ではない。
「運命」の中では、「行動」の「選択」によって得られる「結果」など全て決まっている。
「未来」とは、「生物」の「選択」によって拓かれていく可変のものだ。
だが、「生物」が辿ることができる「未来」は常に1つだけだ。
ゆえに僕が見ているのは「未来」ではない。
「可能性」をも「未来」をも超えた絶対的概念を。
「生物」が辿る全ての「選択」と「行動」に対する「結果」を。
「運命」を、僕は見ている。
「人生」が、無数に枝分かれする「線」の集まり、その中のたった一本のことを指し。
「人生」が、限りなく無限のように見える有限の可能性の中から、掴み取ったたった一本の「線」に他ならず。
「人生」が、自身の「行動」と「選択」の積み重ねに他ならないならば。
「人生」が、生きとし生ける一分一秒、全ての瞬間において、自分が何をすべきかを「選択」する。
「人生」が、自分自身の心に問いかけながら、最善だと思うべきことを「行動」する。
「心との対話」、「行動の選択」、その積み重ねこそが「人生」だというのならば。
その全てを司り、纏めた樹系図の事は、「運命」と呼ぶより他にないのではないのだろうか。
もちろん、これらの「運命」を見ることは、人の身には過ぎたる行為だ。
1つの「線」を、「運命の糸」を辿るだけでも脳に尋常ではない負担がかかる。
当たり前だ、常人には見る事はおろか、認知する事すら叶わない領域に足を踏み入れるのだ。
そのために払う代償としては、むしろ少なすぎるくらいだ。
だから今の僕には、見えているこの「線」を全て辿るなんて事は到底できない。
それに、魔法を使うのに詠唱や術式の構築などの準備が必要なように、「線」を見る事、辿る事にも時間がかかるのだ。
例えて言うなら、「行動」と「選択」が伴う任意の未来を脳内で映像として処理するイメージだ。
「線」を見るというのは「認識」すなわち「読み込み」だ。
どんなに優秀な機器を用いたとしても、映像を再生するためには情報を読み込む為の時間が必要となる。
逆を言えば、処理する情報の量が多ければ多いほど。
すなわち、辿ろうとする「線」の長さが長ければ長いほど、「線」を見るのに、「認識」するのに時間がかかるわけだ。
「線」を辿るというのは「理解」すなわち「再生」だ。
どれだけ高密度な情報がそこに存在していたとしても、それを「理解」できなければ意味がない。
映像媒体の中にどれだけ凄い情報が入っていたとしても、それを映像として出力できなければ、その中身を1つも理解する事ができないように。
そのために、知りたい「線」に、見たい「線」に、意識を向けてその「線」の中の「結果」を「理解」するのだ。
つまり、脳内で未来の映像を「再生」することにほぼ等しい。
その「線」で、「選択」と「行動」によって、生まれるであろう将来的な「結果」を、脳内で何倍もの速度で圧縮して「再生」するのだ。
「線」の「認識」と「理解」といった段階を踏むことで。
脳内で「線」を映像化して「読み込み」と「再生」を行うことで。
ようやく僕はその「線」の、「運命」の内容を知ることができるのだ。
無論、そのプロセスをこなせばこなすほど、現実世界での時間もそれに比例して経過していく。
実際に現実世界で起こる出来事を追体験するのにかかる時間に比べれば、ほんの微々たるものだが。
ごく短時間の「線」を1本、2本見る程度なら、ほんの一瞬で済んでしまう程度だが。
また、「線」の認識範囲という問題もある。
今の僕が見る事ができる「線」は、その「線」の中で僕が直接「事象」に介入するものだけだ。
簡単に言えば、僕が見る事ができる「線」の中には、何らかの形で僕という存在が直接出ていないといけないのだ。
更に、「線」の観測範囲にも精度というものがある。
「行動」の「選択」をどのくらいの頻度でおこなうか。
より正確には、どの程度まで「行動」を「選択」したかと取るかだ。
つまりは、「運命」という「線」をどこまで細かく見ていくか、ということだ。
僕が意識を集中させれば、集中させるほどに、「線」をより細かい分岐まで観測できる。
例えば、意識を限界まで集中させれば一秒間隔ごとの「線」の分岐が見えるし、逆に散漫とした意識で「線」を見ようとすれば、「線」の分岐の観測が数時間単位などになってしまう。
虫眼鏡を用いた観察のイメージ、というと分かりやすいだろうか。
より細かく観察したい「線」には、意識を向け、すなわち虫眼鏡を近づけピントを合わせ、その「線」の周りの分岐を事細かに観察する。
逆に、意識が集中しきれないと、「線」に向けた虫眼鏡のピントが合わず、漠然とした「線」とその分岐しか見えない。
そうして、この「運命」を見る力を、「賢者」としての力を、僕は消えた少女の捜索に用いる。
文字通り、「少女」の「運命」と向き合い始める。
頭の中に展開された無数の「線」の中から、僕がこれから行う「行動」によって辿るであろう一本の「線」を見つける。
少女の事と、自身の身にかかる負担を考えると、あまり長くは時間をかけていられない。
複数の線を同時に見ていくのではなく、一つの線を長く見ていくこととする。
確実に少女の居場所が、あるいはその手がかりが得られそうな「線」を見ていく。
その「線」とは。
「僕が、この森でずっと少女を探したらどうなるか」
この「選択」と「行動」を行った「結果」の「線」だ。
この「線」を脳内で辿っていく。
脳内で再生されるのは、森の中をまるで疾風のような速さで駆け抜けていく僕の姿。
その速度から、おそらく<
「憩いの湖」、「四季の花畑」、「秘密の入り江」、「千本桜」、「対峙の空洞」
この森の中にある、比較的大きなスポットを中心に。
小屋の周囲の道と通じている場所を中心に、森の中を次々と探していく。
……、だが少女の姿はどこにも見つからないようだ。
そして、陽が沈み、夕方になるであろう頃。
あの場所で、「零樹」の前で、少女の姿を見つける。
あまりにも衝撃的な光景。
だけれども、あまりにも幻想的な光景。
夕闇の中、零樹の中で仰向けに倒れている少女。
その少女の顔はとても安らかで。
まるで全ての苦痛から解放されたかのように晴れ晴れとしていて。
思わず、彼女が眠っているだけなのではないか。
穏やかな夢を見ているだけなのではないか。
そんな錯覚に囚われる。
だが、少女の周りの大地は赤黒く染まっている。
……、血だ。
その土は、血は乾ききっていて。
いったいどれだけの時間、少女はこの場所で独りぼっちだったのだろうか。
その喉には、果物ナイフが奥深くまでしっかりと刺さっていた。
少女の今にも折れてしまいそうな細腕のどこにそんな力があったのだろうか。
あるいは、どれほどの覚悟でもってナイフを自身の喉に突き立てたのだろうか。
その光景が、あまりにも切なくて。
その光景が、あまりにも残酷で。
その光景が、あまりにも美しくて。
僕は、脳裏に焼き付いたこの光景を、生涯忘れられそうになかった。
だが、その映像を見たのは一瞬だった。
その光景を認識した瞬間、「眼鏡」をかけた僕は駆けだしていた。
「線」を見ていた影響か、頭がひどく痛む。
脳の中に無理やり手を突っ込まれて、中身をかき混ぜられたかのような違和感と鋭い痛みに苛まれる。
だが、そんなことに構っていられない。
走りながら、一瞬で
常人には、目で捉えることすらできない速さで
<
頼む、間に合ってくれ---!!
僕は、「零樹」に向かって一直線に走り出した。
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