賢者と治療
先ほど森から家へと移動しながら、僕は彼女の状態について考えていた。
見知った道、この森はまるで僕の庭みたいなところだ。
目を瞑っていても帰れるほどだ。
だから、僕はその視線を前ではなく彼女に向け、改めて観察した。
彼女の体についた様々な外傷は一見派手だが、見た目ほど深くはない。
致命傷になるようなものは一つもなかった。
体の各所の小さな傷から細く血は流れてこそはいたものの、大量の出血はなかった。
あそこで倒れていた彼女の下に血だまりができていなかったのが、その証拠だ。
だから、彼女が倒れた原因はそこではないと考えていた。
おそらくは、その原因は極度の疲労と緊張だろう。
彼女の手足にできた細かい切傷は、この森の道なき道を踏破してきたことを物語っていた。
彼女の足裏の血豆が潰れて赤色が滲んでいるところから、相当の距離を移動してきたことも分かる。
極めつけに、目の下の隈は見たこともないほど濃く黒く、不眠不休でここまで来たことを示唆していた。
だから、僕は分かっていたのだ。
分かっていたのに。
迂闊だった、ここまでだとは思わなかった。
相当に衰弱しているだろうとは思ってはいたが。
ここまで酷い状態だとは思わなかった。
その疲労と緊張はこの小さな体に到底受け止めきれるものではなかったのだ。
彼女の脈の弱さから、状態の危うさを咄嗟に理解した僕は即座に身を翻す。
僕は慌てて、居間を挟んで寝室と相向かいの部屋へ、賢者の部屋へと向かう。
速度を緩めず、走ったまま今度はドアを右手で押し開ける。
そして目の前にある机、その机の上、右側にある小物入れに手を伸ばす。
小物入れは正方形で、正確に九分割され、そのそれぞれに引き出しが付いている。
僕は左下にある棚をひっつかむと、そのまま抜き出して丸ごと寝室に持って行った。
この棚の中の物を使うのもいつ以来か。
ベッドの横の物置台に棚をひとまず置くこととする。
中の物が壊れないように気を遣いながら、でも動作の俊敏さを損なわないように、その棚を置く。
そして中の物を一本、取り出す。
それは、注射器だった。
既に中には液体が満たされている。
その液体の中身、それは強壮効果のあるハト草を主材料として煎じ、その他もろもろをブレンドした薬だ。
いわゆる強心剤、だ。
この薬を使えば、心臓の鼓動を強く大きくし、血液の流れを良くすることができる。
彼女の弱まりつつある心臓の息を吹き返させることができるだろう。
ただし副作用として、健常者に使った場合、強い動悸や眩暈がする。
が、彼女の容体を考えれば、この薬の使用に問題はないだろう。
そこまで考えて、一つの思考漏れに気が付く。
訂正するために、正しい量を求めるために、頭の中で計算式を巡らせる。
間違えないように慎重に、だが時間をかけないように迅速に、計算を進めていく。
……、約1/3。
計算の答えは出た。
僕は注射器を上に向けると、中身を押し出した。
中の液体が、針の先から漏れ出て、地面へとポタポタ落ちる。
そして、適量だと思ったところで液体の排出を止める。
うん、いい感じだ。
彼女は子供だ。
そして、この薬の元々の使用者は大人だ。
ならば、この薬をそのままの量で用いることはできない。
それゆえの、彼女にとっての薬の適量を導くための計算だった。
準備はできた。
今度こそ、問題はない。
僕は、棚の中から小さい布を1枚出す。
それをこれから注射するところにサッ、と一撫で。
細い細い、まるで糸のような小さな彼女の血管を捉え、注射器を彼女の柔肌に刺していく。
うん、上手く入った。
ゆっくりと、彼女の体内へ薬を注入していく。
そして、注射器の中身が空になったのを確認すると、ゆっくりとその針を引き抜く。
これで、彼女の心臓は一時的にその機能を増幅するだろう。
だが、これで終わりではない。
そんなもの、対症的療法で急場しのぎに過ぎないのだ。
まだまだ、やるべきことは沢山ある。
彼女の容体の原因を根治してこそ、初めて喜べるのだ。
次に僕は、内心申し訳ないと思いながらも、彼女が身に纏っているボロ雑巾のような布切れ1枚を剥ぎ取る。
露わになった彼女の裸をより細部まで観察する。
前面から背面に至るまで、その外観全てを観察する。
……、やっぱりだ。
疑念が確信に変わる。
その布の下にも、大小さまざまな傷痕がある。
だが、先ほど下した結論同様、命を脅かすような傷は一つとしてなかった。
目に見えない、服の下の方が手酷いものが多いが。
それにその結果も、だいたい想像がついていた。
僕が知りたかったのは、裸にすることで初めて分かるもう一つの情報だ。
彼女の体は、場所によっては骨が浮き出ている。
肉付きが極端に悪い。
どのような生活を送ったら、人間はここまで痩せられるのか。
……、間違いない。
彼女は栄養失調だ。
極度の疲労と緊張と、そして何より栄養失調で、この子は死にかけているのだ。
そう診断を下した僕はこれ以上、彼女の裸を見る必要はないと思い、布団をかける。
この後にやらねばならぬ事を考えて、あえて何も着させない生まれたままの状態で。
そして、また
<
火属性の魔法は適性がないので苦手だが、この程度の初歩的なものなら問題なくこなせる。
体の芯まで冷え切った彼女を温める必要があると考えての行動だった。
そして、寝室を出て賢者の部屋へと向かう、……気持ちをグッと押さえて、キッチンへと足を運ぶ。
時間効率を考えるとこれがベストだ。
居間から直通のキッチンへと早歩きで行く。
キッチンに着いたら迷わずに、下の戸棚から木の桶を、引き出しから綺麗な布を出す。
木の桶を水道に置いて、お湯を出そうとする。
水道の丸いスイッチに
一つ目の
二つ目の
ジョボジョボと、木の桶の中に温水が満ちていく。
その中に、先ほど取り出した布も漬けておく。
僕がやると、どうしてもお湯というよりかはぬるま湯になってしまうのだが、今はこれで十分に事は足りる。
さて、木桶にぬるま湯を貯めている間に、必要なものを再度取りに行こう。
休む間もなく、僕は自室へと向かった。
再び用があるのは、小物入れだ。
九つあるスペースから必要なものを取り出していく。
左上の引き出しを抜き放ち、またも直接持っていく。
その右隣りと、更に右隣りの引き出しからは、木製容器のみをそれぞれ取り出す。
取り出した木製容器は、寸胴体型で円柱型のいかにも塗り薬入れといった形状。
それらを両手で抱えると、今度は寝室へ。
一旦、寝室の物置台にそれら全てを置くと、また再びキッチンへ。
あっちへ、こっちへ、動き回る。
ちょうど溢れかかった木の桶をサッと取り出し救出すると、水道のスイッチに
木桶を両手で持って、駆け足早に寝室へと舞い戻る。
水量が多かったためか、移動途中でバシャバシャと中身がいくらか零れる。
だけど、いちいちそんなことを気にしていられない。
些事を無視して、僕は彼女の元へ急ぐのだった。
寝室へと戻った僕は、彼女にかかっている布団を全て捲る。
これからの治療は、彼女の全身に行わなくてはいけない。
次にやるべきことは、栄養の補給と、傷の消毒と手当だ。
まずは、栄養の補給から手早く済ませよう。
そう思い、僕は先ほど自室から持ってきた引き出しから、またもや注射器を取り出す。
もちろん既に中身は充填済みだ。
カロリ草やビタ草、パク草などを混ぜた栄養剤だ。
注射器一本分で、おおよそ成人男性一日分の栄養分がある。
だが、これも今の彼女の状態を考えると、一日一本打ち込むのは考え物だ。
だから僕は、この注射も1/3の量を、朝・昼・晩と一日三回に分けて注射することにした。
取りあえずは、一回分。
先ほど強心剤を打ったのと同じ手順で、栄養剤も投与する。
これを続けていけば、数日のうちに栄養失調から回復するだろう。
本当は、彼女の口から直接食事を摂るのが一番良いのだが……。
彼女がいつ目を醒ますか分からない今、このような無意識化でも行使できる療法に頼らざるを得ないのが現状だ。
仕方がない。
さて、栄養補給は終わった。
次は、傷の消毒だ。
たとえ大きな傷はなくとも、傷は傷だ。
小さな傷口でも放っておけば、そこから菌が入り、感染症を起こしかねない。
これらの傷の手当ても僕にとっての急務だった。
注射器を引き出しに戻すと、今度は持ってきた木製容器の片割れをパカッと開ける。
その中身は黄色いクリーム状で、独特の匂いを放っていた。
アル草を煮詰めて作る塗り薬なのだが、消毒効果が極めて高くとても重宝するのだ。
……、だがその代わりに欠点として、大の大人でも泣き叫びたくなるほど染みるのだが、今の彼女には関係ないだろう。
前準備として、彼女の全身を拭くことにする。
正直なところ、治療として必要があるかといわれると、必要のない工程だ。
消毒だけなら、別に傷口に塗り薬を直接塗布すればよい。
だけれども、この少女のボロボロの姿を見ていると、なぜだか放っておけないのだ。
土と泥に塗れたこの姿を何とかしてあげたいとどうしても思うのだ。
それは僕にとっても初めての感情だった。
以前に、これに似た感情は抱いた記憶はある。
それは哀しみだ。
では、この胸に渦巻く感情は……?
あぁ、そうか……。
僕は、彼女の事を可哀想だと思っているんだ。
そうして、キッチンから持ってきた木桶の中の温水に漬かっていた布を取り出し、強く絞る。
彼女の肢体についた砂を土を泥を草を、丁寧にふき取っていく。
途中、布を温水に晒して綺麗にし、再び絞る。
それを彼女の体全てが元の色を取り戻すまで、繰り返す。
体全てを拭き取ったら、今度はそのくすんだ長い金色の髪を布で掬っていく。
この時に、布の絞りを緩くして、少しだけ多く水分を含むようにする。
それを彼女の髪全てが元の輝きを取り戻すまで、繰り返す。
彼女の全てを拭き終わると、木桶の中のお湯と布は黒に近い茶色に染まっていた。
その色は、まるで彼女が今まで受けた仕打ちを体現するかのようだった。
それほどまでに辛い状況に、彼女はいたのだ。
拭き終わって、改めてこの子の全身を見て思う。
やっぱり、まるで人形のようだ。
痩せ細ってこそいるものの。
その肌はまるで透き通るように白く。
その髪は光を反射するように輝いていて。
横になっている彼女は、とても近寄りがたい神聖な雰囲気、美しさを醸し出していて。
かと思えば、その美しい髪からピョンと出ている、その不思議な形の耳はとても可愛らしくて。
こんなにも造形の整っているものに命がある。
誰かの作り物ではないという事実が、何となく僕には信じられなかった。
前準備は終わった。
彼女の傷口に、指先で掬った黄色いクリームを優しく塗っていく。
部屋の中に、薬特有の臭いが充満する。
一つ、二つ、三つ、傷の数を数えてみながら塗り薬を伸ばしていく。
けれども、そのカウントが三十を超えたあたりで、その無意味さに気付き、止めた。
どれほどの傷があっただろうか。
その数は、軽く三桁に到達していた。
なにしろ、この一回でほぼ満タンだった消毒用の塗り薬が、半分ほど終わってしまうほどの傷の量だったのだ。
それに、丁寧にやっていたとはいえ塗り終わるのに、おおよそ三十分ほどかかったのだ。
……、強く唇を噛む。
三十分の間、手を動かす必要はあったが、先ほどまでのように頭を回転させる必要はなかった。
だから、僕は考えてしまったのだ。
どうしたらこんなにも多くの傷ができるのかと。
彼女の事を。
彼女が置かれていた環境を。
これも初めての感情だ……。
僕はどうしようもなく、苛立っていた。
消毒が終わり、次は傷の治癒に効く軟膏を塗布することにする。
余計な感情は、余計なミスを生み出す。
気持ちを切り替え、先ほどまでの感情を振り払い、事に当たる。
残りの片方の容器の中身がそれだ。
蓋を軽く捻り、開く。
その中身は先ほどの消毒薬と同じ、固体と液体の中間の物質。
だが、その色は鮮やかなグリーンだった。
アロロエ草の果肉部分をすり潰して作る特製の軟膏だ。
僕も、戦闘や魔法の訓練でヘマをした時に良くお世話になったものだ。
これを塗れば、彼女の傷に対しての医療的治療はおしまいだ。
消毒を済ませた彼女の体、そこに刻まれた傷たちを再び指で優しくなぞっていく。
傷口に触れた瞬間、クリーム状だった軟膏が液体へと変わり、彼女の傷口へと浸透していく。
彼女の傷口の全てに、その軟膏を染み込ませる。
彼女を見つけたのが夕方前のまだ明るい時間だったか。
軟膏を塗り終わり、全ての医療行為が終わる頃には、すっかり日が暮れていた。
一区切りがついたので、再び彼女の脈を計る。
まだ弱弱しいけれども、先ほどと比べたら確かに強くなっている。
とりあえずは、山場は越えたみたいだ。
あとは、栄養剤を適宜打っていけば問題ないだろう。
取りあえず、第一ラウンド終了だ。
僕は大きく鼻から息を吸って、大きく鼻から息を出す。
心と体を切り替えるための深呼吸だ。
これにて僕の医療的治療はおしまいだ。
お次は第二ラウンド。
魔法的治療だ。
彼女の裸体の上から再び温かい布団をかけなおす。
傷口の確認を都度行いたいので、もう少しだけ全裸でいてもらうことを申し訳なく思う。
ここまでよく頑張ったね。
ひとまずは、温かい布団に包まって、ゆっくりと体を休めてもらおう。
僕はベッドの縁に腰かける。
もちろん彼女の細い手足を踏まないように気を付けながらだ。
そうして、彼女の右手をとる。
左手で持ち上げて、右手で彼女の手の甲に
属性は、癒しを司る、生命を司る、水属性の
描いた
まるで、その光は深い海のようで。
その光が彼女を包み、その傷を癒していく。
僕が発動したのは、低位の回復魔法。
<
そうして、
彼女の手を握り込みながら、水の力を、癒しの力を送り込む。
とはいえ、魔法を使ったからと言って、彼女の傷が一瞬で治るわけではない。
僕と違って超高位の水属性魔導士ならば、このような軽傷の山、一瞬で治療できるのだろう。
トップクラスの水属性魔導士は、すなわち治療のスペシャリストだ。
彼らにかかれば、深い痕が残るような剣の切り傷や弓の直撃で体に空いた穴すらも、瞬時に塞いでしまうらしい。
ただし、死んでいなければ、という条件はつくが。
僕も実際に見たことはないが、そんな知識を思い出しながら、彼女のことを癒し続ける。
今だけは、自分に水属性の素養がないことを恨めしく思う。
ハッキリ言おう。
僕は魔法による治療が苦手だ。
だからこそ前半の治療で、ある程度は医療に頼った。
それは努力で埋まるようなものではなく、ある意味一種の才能、先天的なものが原因だ。
人は生まれながらに属性を持つ。
いや人に限らず、この世界に住む生物は全てそうだ。
生きている以上は必ず、「火」「水」「風」「土」のいずれかの「属性」を背負うことになる。
僕は「水」の「属性」に選ばれなかった。
それゆえに、行使できる水属性の魔法は小規模で効果も小さい。
だが、決して無駄ではない。
時間は確かにかかるが、彼女の傷を癒すことはできる。
何より、魔法を使っての治療は、外見にまで及ぶ。
医療による治療では痕が残るような傷でも、魔法による治療を用いればキレイサッパリ治るのだ。
僕はこの少女を、この痕をどうしても放っておけなかった。
少女は少女らしく、温かい場所で生きていてほしかった。
せめて、これからの人生は無垢なまま生きていてほしかった。
今まで味わった不幸の分、それに勝るような幸せを得て欲しかった。
だが、その為にはこの傷は邪魔だ。
医療的な治療だけでは駄目なのだ。
肉体的な傷は癒せても、精神的な疵が癒せない。
彼女の身に残る傷痕は、深いトラウマとなり、いつまでも彼女を苛むだろう。
この傷痕を見るたびに、彼女は過去に囚われ続けるのだろう。
この傷痕に触るたびに、彼女は幸せになれないと錯覚し続けるのだろう。
僕は、それがどうしても許せなかった。
だから、僕は癒すのだ。
彼女の傷と疵を---。
生憎と、体力と集中力と持久力には少しばかりの自信がある。
彼女が目覚めるのが先か、僕の魔法による治療が終わるのが先か。
それは分からないけれども、少なくとも彼女が目覚めるその時までは。
僕は、この魔法を止めるつもりはない。
そうして、僕の魔法は三日三晩に渡って行使され続けた。
夜がきて、朝がきて、昼がきて、夜が来て、朝がきて、昼がきて、夜がきた。
だがその間、彼女はただの一度も目覚めることはなかった---。
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