少女と涙

 その木を見た私はふとこう思ってしまった。

 まるで私みたいだな、と。


 人でもなくエルフでもない「異様」な生き物。

 枯れているのにとても小さい「異様」な木。

 どちらも、仲間外れの「異様」なものじゃないか、と。

 この木の存在は歪で、私の存在も歪。

 この木に未来はなくて、私にも未来はない。

 ならば一緒だ。

 私にはきっとお似合いの木だ。

 お似合いのだ。

 何処でも良かった私に、最後の場所を決めるに足る理由が与えられたのだった。


 だから私は思うのだ。

 ここがいいや、と---。









 その木の前に立った私は手にしたナイフをギュっと強く握る。

 今まで右手だけで握っていたナイフに、包み込むように左手も添える。

 両手で持ったナイフを少しずつ少しずつ、持ち上げていく。

 腰から腹へ、腹から胸へ、胸から首へ、徐々に徐々に持ち上げていく。

 そして、そのナイフの高さが喉元まで達したとき、上昇がピタリと止まる。

 停止したナイフ、その刃の先は本来向けられるべき方向とで。

 それが私の出した最後の選択。

 だった。 


 ゆっくりとゆっくりとナイフの切っ先を喉元に近づける。

 自分の手がゆっくりと自分に近づくのを、瞳を逸らさず凝視する。

 あんなにも素晴らしい選択に思えたのに、いざ行動に移すとなぜか手はブルブルと震えてしまう。

 けど、ナイフの動きは止まらない。


 チクッ、と鋭い痛みが走る。

 喉元に違和感と何か生温かい液体が伝う感覚。

 自分の喉元を見ることはできないけれど、その刃の先端がついに「私」を捉えたことが分かる。

 だけれども、それだけだった。

 それ以上は刃を進めることができなかった。


 痛みが怖いわけではない、死ぬのが怖いわけではない。

 じゃあ、「なぜ」この手は動きを止めるのか。

 呼吸は乱れ、頭の中は「なぜ」で覆いつくされる。

 動きを止めた理由を模索する。

 そして脳裏に走る記憶。

 思い出される想い出。 

 

 今朝、夢見たもの、家族で過ごした煌めく時間。

 昨日、食べたもの、人生で初めての温かいスープとパン。

 昨日、見たもの、あのひとの優しい笑顔。

 昨日、受け取ったもの、への無償の厚意。

 昨日、知ってしまったもの、の幸福。


 やっぱりだ。

 最後の最後に、私は幸福によって不幸になる。

 ありえたかもしれない可能性。

 私が幸せになる可能性。

 最後の最後になって、どうしても私はそれを振り払うことができないのだ。

 どうしても、その可能性にが残るのだ。

 ……、本当に私は、どうしようもなく、だ。




 ならば思い出せ。

 地獄を思い出せ。

 私があそこで受けた仕打ちを。

 私があそこで受けた扱いを。

 「死」より不幸な「生」があることを。

 「人」でもなく「エルフ」でもないものに居場所などないことを。


 拳で殴られた。

 鞭で打たれた。

 葉巻で灼かれた。

 重労働で血反吐を吐いた。

 空腹で気が狂いそうになった。

 寒さで皮膚が裂けた。

 暑さで倒れた。 


 ほらね、やっぱりそうじゃないか。

 私に、ハーフエルフに、幸せなんてないじゃないか。

 昨日の出来事は、今朝の夢は、だ。

 私は人間じゃない、ハーフエルフだ。

 なら、昨日あの幸せを受け取ったのは私じゃない、文字通りの別「人」だ。

 だから忘れろ。


 そして思い出せ。

 私にとっての最善は、止まっている時を動かすことだと。

 これ以上の不幸を重ねない為に、その命を絶つことだと。

 








 どれほどの時間がナイフを喉元に突き付けたまま過ぎただろうか。

 私が自身の手を睨みつけながら、どれほどの時間が過ぎただろうか。

 そう思うほどに長い時間、私は


 大丈夫、昨日からの幸福は全部忘れた。

 大丈夫、今までの不幸は全部思い出した。

 幸福の代わりに、ありったけの不幸を、エネルギーとして心に注ぎ込んだ。

 今度こそ、私は最後までその刃を突き通せる。


 でも、一度固まってしまった心を再び動かすには、なにか強い切っ掛けが必要で。

 私はまた、その為のを探していた。

 そのを待っていた。

 を断ち切る何かを---。



  

 やはり、少女にはその日、神の慈悲が与えられていたのかもしれない。

 そう思わせるほど、完璧なタイミング。

 彼女が欲していた切っ掛けが唐突に空から舞い降りてくる。

 瞬間、木々の緑のカーテンから光が漏れ出る。

 天井の隙間から不意に覗かせる光が彼女の視界を白く染める。




 日の光の直撃を受けた私は、反射的に目を瞑る。

 そして同時に思う。

 今だ!!

 と。 

 そして、ありったけの力をナイフに込めて、私は、私の人生を終わらせようとする。


 力を入れると同時か、それより先か。

 その時、不意に強い風が森を揺さぶる。

 でも、そんなことはもはやどうでもよいことだ。


 確かに、今度こそ、ナイフにありったけの力が伝わった。

 手に残る「何か」をナイフが切り裂く感触。

 不思議と痛みはなかった。

 あぁ、ようやく終わったのだ。  


 ……、おかしい。

 何かおかしい。

 確かにありったけの力はナイフに込めたし、ナイフで「何か」を裂いた。

 思いのほか痛みはなかったが、死んだのだからそれも当たり前か。

 なのに感じるこの違和感は何なのだろう。

 そして、その答えに辿り着く。


 ……、無いのだ。

 ナイフをがまるで無いのだ。 

 あるべき感覚の喪失に私は、自身のした行動にも気づかずに、


 私は驚愕した。

 自分が死んでないことにか、いや違う。

 その状況に、目の前の光景にこそ、驚愕したのだ。


 あの人が目の前にいた。

 目の前のあの人が、私のナイフを右手で


 もちろん彼の右手を覆うものは何もない、素手だ。

 その手からはポタポタと血が溢れ、ナイフと地面を濡らしていた。

 よく見ると、その手は震えている。

 だが、それは恐怖からくる震えではなく、ナイフを強く握りしめているが故の力の振動だと、すぐに見て取れた。  


 私は咄嗟にナイフから両手を放し、後ずさる。

 彼は自由になった右手をゆっくりと降ろし、体と平行になったところで、ナイフを掴んでいたその手を開いた。

 ナイフは重力のままに地面に落下するが、足元の草がクッションとなり、落ちた時に音はならない。


 なんで? という思いが私の中に芽生える。

 なんでここにいるの?

 なんで私を生かそうとするの?

 なんで? なんで? なんで?


 いや、答えは分かっていたのだ。

 なんでここにいるか、その理由は考えても良く分からない。

 だが、私をなんで助けてくれたか、その理由は分かる。

 ハーフエルフとして染め上げた思考が、少しだけ昨日までの自分に、人間として扱われた自分に巻き戻る。

 それは……、その理由は……。

 私がだから。

 

 本当にそうだろうか?

 何か違う気がする。

 ……、いや確かに違う。

 たとえ人間同士でも、自分が傷ついてまで目の前の人を果たして助けるだろうか?

 そうしてまた考えて、さっきとは違う結論に至る。


 あぁ……、そうか。

 答えが分かった---。

 彼がとてもだからだ。






 そしてその結論に至った後に、私の胸の奥から込み上げてくる強い感情。

 それは「罪悪感」だった。


 こんなにも優しい人が、私みたいなハーフエルフのせいで。

 生きるにも半端、死ぬことすら自分でできない。

 そんなどうしようもないハーフエルフのせいで、こんなにも心優しい人が傷ついてしまった。

 私に生まれて初めての幸せを教えてくれた心優しい人が傷ついてしまった。

 その事実が、私の胸を強く強く締め付ける。


 その辛さに耐えきれなくなった私は、ナイフが落ちた後すぐに彼の元に駆け寄る。

 膝をつき、彼の右手と目線を同じ高さにする。

 今なお、その血が地面に垂れ続けている右手。

 そして、その傷ついた右手を、私は両の手で優しく包み込んだ。


 私は無力だ。

 こんな時にどうしていいか分からない。

 でも、体が勝手に動いていた。

 私の心がそうすべきだと告げていた。

 傷を癒すことはできないけど、せめて、せめて……。

 そう願いながら、私は彼の手を優しく握ったのだ。

  

 その手はとても温かくて。

 彼の手から流れ出る血が、私の手を伝い流れていく。

 普段なら怖いはずの血が、痛さと暴力の象徴であるはずの血が、何故か今は全然怖くなくて。

 流れていくその血にすら、温かさを感じて。

 そうして彼の手を握っていると、先ほどまであった罪悪感とはまた違う感情が湧き出てきた。




 私はとても歪なハーフエルフだ。

 いや、ハーフエルフだからきっと心まで歪なのだろう。




 こんなにも優しい人が私の為に傷ついた、それを心苦しく思う自分がいる。

 それは紛れもない私自身の本心だ。

 だけど、それと同じくらいに私は、私なんかの為に血を流してくれる人がいるという事実が嬉しくて仕方がないのだ。


 君はこの世界に生きていていいんだよ。


 そうこの人に言われている気がして。

 その事実にどうしようもなく、救われている自分もまたいるのだ。

 それがたとえ、勘違いからくるものであっても。


 それは、私が初めて人に触れた体温、私が初めて知った人の温もりだった。






 そうして彼の温もりを直接感じた後、私は顔をあげることにする。

 今まで見れなかった彼の顔を直に見ることにする。

 首の布の上、帽子の下、近くで良く見ないと分からない彼の表情。

 私は、隠されているその表情を見るために視線をあげる。

 その顔に浮かんでいた感情は……、「怒り」だった。


 その顔を見た私は、思わず怯んでしまった怯えてしまった。

 それほどまでに、強い怒りの感情を彼は放っていた。

 最初は、私なんかを助けたことで自分が傷ついたことに苛立っていたのかと思った。

 でも、そうではない事にすぐに気が付く。


 私は彼を見ているが、彼は私を見ていない。

 私の視線は上を向いていて、彼の顔を捉えている。

 しかし、彼の視線はどこまでも真っすぐに、どこか遠くを見据えていた。

 その怒りは、私ではないもっと何か大きなものに向けられているみたいだった。


 でも、こんなにも優しい人がどうしたらこんな顔をするのか。

 どうしたら、こんなにも怒りを露わにするのか。

 怒りの「理由」と「対象」については、私にはさっぱり見当がつかなかった。





 

 突如、両手で握っていた彼の右手に力が宿る。

 私の両手を軽く握り返してくる。

 突然、彼の方から返された挙動に、私はビクッと体を震わせてしまう。

 体の震えから一拍おいて、私は彼が傷ついた手を動かすことを心配して、「不安な表情」を顔に出してしまう。

 

 私の体の震えが、握りあった手と手を通じて、彼に伝わったらしい。

 先ほどまで遠くを見ていた彼の視線が不意に下がる。

 彼の視線と私の視線がぶつかり合う。

 その瞬間、彼はハッと我に返り、その表情を怒りから困惑に変えた。

 困惑というよりも、後悔という方が正しいかもしれない。


 彼は優しい人だ、だから私の表情を見て、察した。

 一つの結論に達した。

 そして後悔したのだろう。

 自分の場を弁えない怒りが、目の前の少女の顔を曇らせた、と。

 不安にさせてしまった、と。

 そのような思いを、彼の苦悩と優しさを、私は表情の変化から感じ取る。

 先ほどの私の「不安な表情」を、彼は自分のせいであると、そう思ったみたいだった。


 分かっていた。

 私なんかと関われば、その優しさゆえにこの人は絶対に傷つくと。

 だから、全部独りで終わらせようと思ったのに。

 だから、気づかれずに独りでいなくなろうと思ったのに。

 それなのに、私が一番、いや二番目に避けたかったことが目の前で起こっている。

 だから、私は否定する。


 そんなことない!!

 あなたのせいじゃない!!

 あなたは一つも悪くない!!

 全部!!

 全部!!

 私のせいなの!!

 そういった思いを込めて、私はブンブンと首を横に振ることで意思表示する。


 きっと今の私はひどい顔をしているのだろう。

 先ほどまでの不安な表情とは、比べるまでもないほどに。

 この人の事を考えると、心が悲しくて仕方がない。

 私が半端ものだったから、彼の優しさを踏みにじってしまった。

 私が半端ものだったから、彼を苦しめてしまった。

 心が痛む。

 殴られるよりも、打たれるよりも、灼かれるよりも。

 もっともっとずっとずっと心が痛む。

 知らなかった。


 人から優しさを向けられたことなんて今までなかったから。

 知らなかった。

 人の優しさを踏みにじるのが、こんなにも辛く苦しいなんて。

 知らなかった。

   

 少しでも、彼の罪悪感が晴れてくれれば、そう思い、ただひたすらに首を振る。

 必死だった。

 

 だから私は

 


 彼は屈んで私と目線を合わせ、空いている左手を私の方にゆっくりと伸ばしてきていたのだ。 

 

 彼の左手がブンブンと揺れ動く私の頬にゆっくりと添えられる。

 彼の左手が頬に触れた瞬間にドキリと私の心臓が飛び跳ねる。

 ピタリと首の往復運動が停止する。

 あの人の顔を至近距離で真正面から見つめる。

 あの人の顔に浮かぶのは、あの時と同じだった。


 彼の微笑みを直視した私は、動くことができない。

 その笑顔に、私の視線は釘付けになってしまった。

 彼の笑顔を見ているだけで、私の心はポカポカと温かくなる。

 ある意味、一種の放心状態だった。


 そのまま彼の手は、頬をすり抜け、乱れた私の髪を直そうとする。

 体の右側に散らばった長い金髪を掬うようにしてひとまとめにする。

 彼はそのまま私の髪の、ちょうど

 そして、ように纏めた髪を体の背面に流していく。

 私の体の右側に乱雑にうねっていた髪は綺麗さっぱり所定の位置へと、その姿を潜めた。 


 だが、それは私にとって考え得る限りだった。

 彼に勝手に髪を触られたことに嫌悪感を抱いたわけではない。

 むしろ彼の繊細な指使いは、私の髪を労わっていることがありありと伝わってきた。

 それがとてもこそばゆかった。

 それがとても嬉しかった。

 だから決して彼に触られたことが嫌だったわけではない。

 問題点はそこではなく、「結果」ではなく「過程」だ。


 「髪を直した」という「結果」ではなく。

 「髪をかき分けた」という「過程」だ。 


 その「過程」で、彼は絶対に目にしたはずなのだ。

 私が絶対に彼に気付いてほしくなかった事実を。

 私のを。

 を。


 彼の笑顔を見てポワポワとした気持ちの私は、のものも遅れてしまったのだ。


 髪を後ろに流すために、彼の左手が私の右耳に触れた時にようやく気付く。

 本当はもっと早くに彼の左手を振り払うべきだったのだ。

 だが、私の両手はまだ彼の傷ついた右手に添えられている。

 包み込むように握っている。


 彼が私の耳に気付いた、ということに気付いた私は咄嗟に---。

 両の手をぎゅっと強く握ると---。

 目を瞑った。




 怖い。

 怖い。

 怖い。

 ハーフエルフだと気づいた彼は私に対して何をするだろうか?


 殴るだろうか?

 蹴るだろうか?

 それとも、地面に落ちたナイフを私に向けてくるだろうか?


 暴力を振るわれるのは別に構わない。

 そういった理不尽には慣れている。

 元より、私は「死」を望んだ身だ。

 この胸にナイフを突き立てられたとしても、文句はない。

 むしろ、私の事を代わりに殺してくれてありがとう、とお礼を言う自信さえある。

 だから、実のところのだ。


 私が本当に怖いのは暴力なんかじゃなくて……。

 それは……。


 彼の顔が、先ほどの怒りが、憎しみが、私に向けられることだった。

 彼に無視されることだった。

 彼に侮蔑の言葉を吐き捨てられることだった。


 今までの彼の優しさが全て偽りだった。

 ハーフエルフに幸せなどないと証明されてしまうことだった。

 最後に縋りつきたい希望を砕かれ、現実を突きつけられることだった。


 何よりも、何よりも。

 が私にはどうしようもなく

 だから、私は咄嗟に目を瞑ってしまったのだ。


 




 ……、彼の手が私に触れる感覚。

 体の左側にある今なお、くちゃくちゃの髪たち。

 それに触れられる感覚。


 ……、あぁそうか。

 この髪の毛を思いっきり、今度は引っ張られるのか。

 そう確信した私は、瞑った目により一層力を入れて、ギュっと強く結ぶ。

 これから来るはずの衝撃に備えて。


 だが、いつまで経っても、身を襲うはずの衝撃はこなくて。

 それどころか、先ほどと同じようなこそばゆさが全身を走って。

 そうして、彼の左手が私の左耳に優しく触れたのを確かに感じた。

 彼の手から解き放たれた長い髪の毛は、重力のままに私の背中を滑り落ちていく。

 瞳を閉じていても、その光景が目に浮かぶ。

 私の長い髪は、彼によって綺麗に整えられた。


 ……、なぜ?

 ……、何もしてこない?

 ……、恐る恐る勇気を出してギュっと閉じていた目を開く。

 

 先ほどと同じ、がそこにはあった。


 彼は開かれた私の顔をみると、ニッコリとより一層、その微笑みを強めた。


 大丈夫だよ、大丈夫だから。


 その笑顔はそういう風に私に語り掛けているようだった。 

 そうして、彼はその左手を私の頭の上に乗せると、優しく優しくなでなでしてくるのだった。


 彼のその笑顔は、その手は、確かにというくれていた。 






 どうでも良かったのだ。

 いや、関係なかったのだ。

 彼にとってハーフエルフであったかどうかなんて、初めから関係なかったのだ。

 きっとそう、人間であったかどうかも、彼には関係なかったのだ。


 彼はを助けてくれたのだ。

 彼はに温かいパンとスープをくれたのだ。

 彼はに微笑んでくれたのだ。

 彼はを生かそうとしてくれたのだ。

 

 その時、私は、ハーフエルフわたしとして扱ってくれる存在に初めて出会ったのだ--。 
















 その時、私がどんな顔をしていたのか分からない。


 感情の波が、私の心から溢れて止まらない。

 いままで抑えられていた気持ちが心の奥底から湧き出てくる。

 心に留めておけない感情は「雫」となって私の瞳から零れ落ちる。

 最初はポロポロと粒だった。

 粒はやがて線となり頬を伝い、そして線は川となり私の心を洗い流した。

 そうして抑えきれない気持ちはとめどなく私の瞳から溢れ返っていった。

 なんだかそれがとても恥ずかしくて、両の手で必死に拭うのだけれども、あとからあとから「雫」が出てきて止まらない。

 

 そんな私を慰めるように、頭の上に置かれた手は優しく円をえがいて動く。

 それがとても心地よくて。

 私という存在に優しくしてくれる人が、触れてくれる人がいる、ということが嬉しくて嬉しくて仕方がなくて。

 そうしてまた、私の瞳から流れる液体は止まるどころか、ますますその勢いを増すのだ。


 



 

 人間は辛い時や悲しい時に涙が出る、なんて言うけれども、そんなのはただの嘘っぱちだと私は思う。

 あの地獄でどれだけの責め苦にあっても、私は決して涙をこぼすことはなかった。

 不幸、辛さ、悲しさ、そういう思いがあっても、それが心から溢れ出ることは決してなかった。

  

 嬉しい時や幸せな時にも涙が出るなんて話も聞くけれども、そちらはもはやまるで想像もつかない。

 だって、私には人生でたった一度足りとも、幸せだと、嬉しいなどとのだから。


 だから、「泣く」という行為が、「涙」というものがどういうものなのか、いまいち実感が湧かなかった。

 そして、これからも「泣く」ことを、「涙」を知らないまま、生きて死ぬのだろう。

 そう、思っていたのに---。









 その日、私は生まれて初めての「涙」を流した---。  

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る