ダンディなおっさん机と女子高生
aoiaoi
第1話
俺は、とある高校の3年A組の机だ。
長年ここで働くうちに、俺も随分年季が入っちまった。乱暴なヤンキーに蹴られ、工作好きの男子に深い穴を開けられ、恋の花咲く女の子にこっそり誰かのイニシャルを掘られ……今やすっかりあちこち傷だらけだ。
ってことで、この3月でとうとう俺も退職することになった。
つまり、「廃棄処分」だ。
PCの帳簿に、パカパカ「廃棄」と打ち込むだけ……高校の事務員なんて、全くあっさりしていやがる。
まあ、そんなわけで、この教室とも間もなくお別れなわけだが。
置き土産、と言っちゃなんだが、俺がここで味わった、忘れられない経験の話をしようと思う。
ある机と、ある女の子の、恋の話を。
✳︎
今から3年ほど前のことだ。
彼は、俺より5年ほど先輩だった。
脚がすらりと長く、美しいヘーゼルブラウンをした、イケメンなおっさんである。
彼は、みんなから「平司さん」と呼ばれていた。「ヘーゼル」が日本風になった、ってとこかな。
傷の多さは、机にとっては勲章みたいなものだ。平司さんの身体にも、あちこちに傷があった。
あ、ちなみに、俺は将。机が低く、「ショート」と呼ばれていたのが、いつしか日本風になったやつだ。
他にも、机の高い彼女は「タカコ」、美しいマホガニー色をしたあっちの子は「真帆」、どこを取っても平凡な印象の彼は「ジミー」……こんな風に、俺たちもクラス内の机たちにあだ名をつけて呼び合い、仲間関係を作って過ごしているわけだ。
平司さんは、仕事熱心な俺たちのリーダーだった。
まだ初々しくどこか心細い高校生の腕や背、腰を、彼はいつでもしっかりと支えた。
机にだって、欲はある。幸か不幸か可愛い女子や見目麗しい男子に使われることになった日には、自分に当たる柔らかな胸やら引き締まった尻やらにすっかり気を取られて仕事になりゃしない青臭い連中もたくさんいるわけだ。
そんな若輩者を、時に優しく、時に厳しく叱咤激励するのも、彼の仕事の一つだった。
「はあ〜……。
今回の席替えで、私、三井くんに当たっちゃった……どうしよう。ずっと気になってたの、彼のこと。……もう舞い上がっちゃって、ちゃんと仕事できる自信ない……」
6月初旬の、月曜。
生徒も教師もみんな帰宅した後の、静かな夜の教室。
真帆が、はあっと悩ましいため息をついた。
その日の朝、この4月に3-Aに進級してきた生徒たちの初めての席替えが行われた。年に3回ほど行われる、生徒にも机たちにとってもドキドキハラハラのビッグイベントである。
この席替えで、三井隼人が真帆のところへ移動してくることになったようだ。
三井は、勉強も運動もバリッとこなす、誰もが認めるキラキラのイケメンだ。
——どうやら真帆は、あの王子様に相当熱を上げているらしい。
机が、人間に恋をする。
叶わないとはわかっていても、自分自身の心にブレーキをかけることなんてできやしない。ましてや、周囲がその想いを制限しようなんて、どだい無理なことだ。
見つめるだけで苦しくなるような相手に、明日から約3ヶ月間、毎日使われるのである。彼の身体のあちこちが触れ、彼の指にあちこちを触れられることになる。真帆が取り乱すのも無理はない。
「————ああ、そうなのか」
こういう時、いつもなら平司さんがすかさず何かしら心強いアドバイスをしてくれるはずなのに……今日は、彼はそうぽつりと呟いたきり、なぜか黙り込んだ。
「……大丈夫か?真帆」
俺はその当時、平司さんに続くNo.2のポジションだった。
彼のいつもと違う様子がなんとなく気になりつつ、俺は真帆にそう声をかけた。
「……もし、誰か私と交代してくれたら、有り難いんだけど……」
真帆は、弱々しい声でそう呟く。
俺は、次に自分に座る縦横ともにデカイ男子を思い起こした。
「んーー……俺は今回、相当重量級な小林が来るんだ。俺と交代しても、あの体重は真帆にはちょっと無理だろう」
「……あの……俺でよければ……」
その時、俺の斜め後ろで、自信なさげにそんな声がした。
振り返ると、ジミーがどこか恥ずかしげに俯きつつ、ちらりと俺を見た。
「俺……今回、花島さんだから。体も華奢だし物静かな子みたいだから、きっと真帆ちゃんも楽だと思う」
「え……いいの?ジミー」
ジミーの申し出に、真帆の顔がパッと輝いた。
「もちろん。
それに……真帆ちゃんの役に立てるなんて、おっ俺はむしろ嬉しいし……」
その綺麗な笑顔に背中を押されるように、ジミーは勇気を奮い起こしてそう呟いた。
「……ジミー…………」
二人の後ろに、ピンクに煌めく星とハートが舞い散った。
バカにしちゃいけない。机同士だって、恋をする。
「よし、そうと決まれば早速移動だ!みんな、協力してくれ!」
俺は、クラスの机たちに声をかける。
俺の掛け声で、ガタガタっと机たちの移動が始まった。そうして約10分後、無事に二人の場所の交代が完了した。
こんな風に、席替えの際にメンバーの間に発生する摩擦やストレスを調整するのも、リーダーの重要な仕事なのである。
そんなこんなで、今回の席替えも無事落ち着いたと思われた深夜。
不意に、自分を呼ぶ声に起こされた。
「———将……」
「ん……平司さん?
……どうしたんですか?」
眠い頭ながら、俺は昼間の平司さんのどこか物思いに沈んだ様子を思い出した。
「——お前にだけ、聞いて欲しいことがあるんだ」
平司さんは、いつになく思いつめた目で俺を見つめた。
✳︎
「——どうやら俺は、恋をしてしまったようだ。
4月から今まで俺を使ってくれていた、朝比奈さんに」
「…………え」
前置きも何もない平司さんの告白に、俺は呆気に取られた。
眠気も何も、一気にすっ飛んだ。
だって、驚くだろう。
人間に恋心を抱くなど無駄な労力でしかない……そのくらいの分別は充分につく年頃の、しかも誰よりもストイックな男の口から、そんな初々しい言葉が出るなんて。
「……恋、って……
確かに、朝比奈 凛さんって言えば、綺麗で頭も良くて、クラス内でも人気のある子ですけど……
また一体どうして……」
彼は、項垂れるように俯き、話し出した。
「4月、俺の席に着いた初日にな……彼女、俺の身体の傷を指でなぞって、小さく呟いたんだ。
『あなた、傷だらけだね』……と。
そう言って、優しく微笑んだ。
——その瞬間から、俺の気持ちはぐらぐらと揺れて……どうにも止めようがなかった」
「……それは、独り言とかではなく?
そんな風に机に話しかける人間なんて、いるんですか?」
「俺も、最初は信じられなかったよ。
でも……勘違いではなかった。
彼女は、それからも時々、俺に静かに話しかけるんだ。『あなたは偉いね』……と」
平司さんの言葉には、嘘も誇張もないようだった。
「なぜ俺を偉いと言うのか……その理由は、わからない。彼女は、それを話そうとはしない。
けれど——彼女が何かに耐えている空気は、痛いほど伝わって来るんだ」
いつも穏やかに微笑んで、まっすぐに前を向いているように見える彼女が——何か痛みを抱えている。
そして、平司さんだけに、それを微かに打ち明けている。
全くありえないような話だが……俺には、どうしてもそう思えた。
「俺は、彼女を守りたい。
彼女が、俺を支えにしているならば……俺は、彼女から離れたくない。
これまで、人間への恋心に振り回されるなと言い続けていた俺が、こんなことになるなんて——我ながら自分の身勝手ぶりが恥ずかしいが……
この気持ち、わかってくれるか——将」
俺は、苦しげな平司さんの顔をじっと見つめた。
「……わかります。
とてもよく。
それに——あなたは身勝手なんかじゃないですよ。
俺たちの日々の仕事を回すためには、恋なんてひたすら邪魔な感情です。俺たちみんな、そんなあなたの指導があったから、ここまでやってこられたんです。
でも……誰かを想う気持ちが溢れてしまうならば……決まりなんかよりも、その感情に従う方が大事なことだってある。
誰かを深く想う。その誰かを支え、側にいたいと願う。それ以上に大切なことなんて、この世にないじゃないですか」
「——そうだよな。
ありがとう、将」
俺の言葉に、彼はどこか救われたような微笑を浮かべた。
「それで、朝比奈さんの今度の席は……」
「窓際だ。タカコのところへ移動するはずだ」
「ならば……タカコとあなたの場所を、これから交代しましょう。タカコならば、今回の事情をきっと理解してくれます」
「——タカコには、俺からちゃんと事情を話すよ」
平司さんは静かにタカコを起こすと、他の机を起こさないように声を潜めながら、そしてどこか恥ずかしげに今回の事情を説明した。
「……分かったわ、平司さん。喜んで交代する。
でも……こんな風に秘密にしなくても、うちの仲間はみんな、あなたの恋を応援したいと思うはずよ。
だから、私たちの力が必要な時は、何でも相談して」
タカコは穏やかに平司さんに微笑んだ。
「ああ……ありがとう。
お前たち、みんなほんとにいい奴らだ。
だが……実は俺も、かなり恥ずかしくてな。
できれば、このことは内緒にしておいてくれないか」
いつもダンディな平司さんの照れたようにはにかむその微笑は、びっくりするほど可愛かった。
「あ、そうだ。俺、平司さんの隣に行きますよ。そうすれば、何かあった時にも手伝えるでしょう?
おいクロ、起きろ。俺とお前、交代だ。……先輩の希望は、素直に聞く約束だよな?」
俺は、深夜であることをいいことに、タカコの隣で爆睡中のクロにそう要求した。
「ふえええ、眠いっすよ将さん〜……なんすか夜中に……
交代?ええ別にいいっすけど……俺寝てますから、テキトーに身体運んでもらえます?ふああ、クソ眠い〜〜」
いつも居眠りばっかでとにかくねぼすけのこいつには、詳しく事情を説明せずとも済みそうだ。
移動は、音を立てたりして他の机に感づかれないよう、関係する4台だけでゆっくりと慎重に行われた。
それでも、朝日が昇る前には交代は完了し——俺たちはいつもと変わらぬ朝を迎えたのだった。
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