極秘任務

 神宮かみのみや高校にも夏休みが訪れる。酷暑とも言える暑さの中、全校生徒を集め、体育館で終業式が執り行われた。

 終業式、終了後、「熱中症注意喚起」の会が開かれた。その会の最中に、複数人体調を崩したのを見るに、注意事項に猛暑での全校集会禁止の項目を付け加えるべきだと思う。

 何はともあれ、一学期は終了したわけなのだが、悲しいかな、授業が終わることにはならない。終業式が終わった日の午後から補習という名の授業が行われるのだから、先の集会はもはやハラスメントとしか言えない。

 まあ、三年間の授業カリキュラムで中高一貫校と渡り合うためには仕方ないことなのかもしれないが。


 授業終了後、俺は山岳部の部室へと向かった。

 俺はしばらく部室でボーッとしていた。おそらく今日は雄清も佐藤も来ないだろう。雄清は委員会があるし、まだ体調も本調子ではないはずだ(実際、集会中、途中退場している)。佐藤は昨日の山行で疲れがたまっているといって、来ないだろう。綿貫は昨日の様子から見るにしばらくはまともに歩くこともできなさそうだ。

「今日は一人か」

 一人だと、エンジンがかかるのに時間がかかる。猛暑の中でランニングをするという愚行に好んで臨むほど俺はマゾではない。

 いっそのこと、帰ってしまおうか、そんな考えが頭をよぎった頃、がらりと戸が開いた。

「こんにちは、深山さん」

綿貫である。足には包帯が巻いてある。部活はできそうもないのになぜ四階まで上がってくるのか。綿貫とはつくづく分からない女である。

「おう。足はどうだった」

「捻挫みたいです。骨に異状はありません。でもしばらく運動はお休みですね。

 叔父が感激しておりました。深山さんが私をおぶってくださったこと。

 私からも重ねてお礼申し上げます。本当にありがとうございました」

 綿貫は深々と頭を下げた。俺は照れくさくなって、

「もう礼はいい。こっちにその気はないのに、恩着せがましくしているみたいだ」

「でも、私の感謝の念はこれくらいでは表現しきれないですよ。また今度、家にいらして、お食事でもどうですか?」

「気が向いたらな」

「はい」

綿貫はにっこりと笑う。

 不思議だ。さっきまでだるくてなにもする気が起きなかったのに、今では走ろうかという気持ちになっている。

 元来一人でいることが多かったが、人間は社会的動物だという文句に漏れることなく、俺も人との交流を心底で欲しているのかもしれない。

「ところで深山さん」

「なんだ」

「二週間後の土日って空いていますか?」

 俺はスケジュールを思い浮かべた。平日は授業でつまっているが(夏休みなのに!)土日は特に予定はない。

「空いてるが」

「よかった。一緒に北岳にいきませんか?」

「はい?」

「ですから、北岳に」

「……あのな、捻挫した足でどうやって山に登るって言うんだよ」

「父は三日もすれば大分よくなるといっていましたし、二週間もあれば完治すると思います。今も包帯は巻いていますけど、歩く分には問題ないです」

 昨日は立つことすらままならなかった、少女の自己治癒力には呆れさえした。

 俺はため息をついて、尋ねる。

「で、それは部活なのか?」

「いえ、私的な小旅行です。北岳に行くと言っても、ほとんど登山はしません。例の石碑を見に行くだけですから」

「無理だ。何人も知らん人間がいるなかでの旅行なんて息苦しくてたまったもんじゃない」

「あのー、私と深山さんの二人だけで行こうと思っているんですけど」

「えっ」

俺は自分の耳がおかしくなったと思った。だが幻聴ではなさそうだ。

「だったらなおさら駄目だろう」

「どうしてですか?」

綿貫はキョトンとした顔をする。こいつには常識がないのか。恋人同士ですらない、いやそもそも高校生の男女が二人きりで旅行なんて道徳的によろしくない。周りに不純異性交遊と叫ばれること必至である。もちろん俺はそんな真似はゆめゆめしないが。

「あのな、お前の叔父さんが許すわけないだろ」

「えっと、その叔父が深山さんと一緒でなきゃ行ってはいけないと言うんです。あいにくその日は家のものが皆忙しくて、私に付き合える者がいないんです。でも私一人で行くのは駄目だと言うんですよ」

 なんて保護者だ。確かに女子高生一人を旅行に行かせたくない気持ちは分かるが、よりによって付き人に男子高校生を選ぶとは。場合によっては、というか、ほとんどの場合、より危険だろう。

 俺が何も言わないのを、承諾の印と受け取ったのか、綿貫は話を続けた。

「今日、このあと時間ありますか?家に来てほしいんです。旅行の件で叔父から話があるそうなので」

 当初の約束はすっかり頓挫してしまっている。俺はあくまで調査の極一部に手を貸すだけで、実際の調査は綿貫が行うはずだったのに。

 そう言って断ることもできるが、綿貫はたいそう悲しそうな顔をするだろう。それはなんか気が進まないな。

 全く俺はつくづくこいつに甘い。

 まああれだ、女の恨みは買うもんじゃないということだ。

「わかったよ」

「ありがとうございます」

そうしてまた破顔する。違うぞ、俺はこの顔が見たいから綿貫を手伝うんじゃない。

 だったらなんのためだ?という問いが頭に浮かんだが、答えは出なかった。

 

 昨日に続き、今日も綿貫邸を訪れることになるとは。そんな境遇を思って苦笑する。

 綿貫は、家の者が車で迎えに来るといったが、俺は歩く方がいいといった。学校の前で、お嬢様の家の車に俺が乗り込んだら、周りの奴にどう思われるか。

 それにしても、人生とは不可思議なものである。つい数ヵ月前までは、女子とは日常会話さえ、まともにしていなかったのに、今はこうして美少女といって差し支えない、綿貫さやかの隣を歩いている。

 人生塞翁が馬とはよくいったものだ。

 これが吉か凶かどちらなのかは判断しかねるが。

 しばらくぼーっと歩いていたのだが、気づくと、汗がつーと流れる綿貫のうなじを凝視していた。

 いかんと思い、視線をそらす。どうやら暑さで思考回路が馬鹿になっているらしい。綿貫の項を眺めたところで何かが起きるということはないのに。


 昨日と同じく、綿貫邸へは裏口より入った。見ると庭に立つ若いご婦人が庭木を眺めている。俺たちと同年代のように見える。

「綿貫、あの人は?」

指を指したら失礼だと思ったので、顎で示した。

「あれは私の従姉いとこです。ひとつ年上で、神宮かみのみや高校の二年生ですよ。大阪出身なんですけど、綿貫家の習わしで、高校は神宮に通うことになっているんです」

 俺の知らない世界だな。名家のお子さまは大変でいらっしゃる。

 だが、大病院の御令嬢なんだから、お嬢様学校にいけばよいのに、わざわざ公立高校に通うっていうのは謎だ。それは綿貫さやかもそうなんだが。

 ぼーっと、していた俺に綿貫が声をかける。

「行きましょう。外は暑いですから」

「ああ」

 

 家の中に入ると、綿貫の叔父である賢二さんが、出迎えてくれた。今日は和装をしている。

「暑い中、呼び出してすまなかった。車を出すくらいなんともなかったのに」

「いえいえ、山を歩くのに比べたらこれくらい」

「そうかね。まあ、あがってくれ。着流しで出迎えてすまないが」

「お気になさらず。今日は暑いですから。……さやかさんも和装はされるのですか?」

「うむ。興味があるかね?」

「あっいえ、興味というほどでは」

「さやか、振り袖を着て、深山くんに見せてやりなさい」

「はい」

綿貫はそういって、奥の方へと向かった。暑いのに悪いことをした。

 賢二さんと俺は応接間のような所に入った。すぐに家政婦さんがやって来て、お茶を置いてくれる。

 俺ははじめて見る家政婦さんに気をとられていたが、賢二さんが咳払いをして、話を始めた。

「昨日はさやかが本当に世話になった。暑いのに重いものを背負わせてしまってすまない」

「そんな。さやかさんはずいぶん軽かったですよ」

まさか、はい、重かったですとなんて言えるわけがない。

「そうかね、さすがは男の子だな。して、深山くん。今日呼びつけたのはさやかの旅行のお供をしてもらうということだったけど、返事は可ということで良かったかな」

「……はい」

「ありがとう。本来ならば、私の家の中で処理しなければならないことなんだが、君に迷惑をかけて本当に申し訳ない。重ねて礼を言う。旅費はすべて私が持つよ」

「恐縮です」

「それで、昨日のこととあわせて何かお礼がしたいんだが何か欲しいものはないかね」

「お礼だなんて、ただで旅行させてもらうだけで十分ですよ」

「いやいや、侍と呼ばれた時代からもう百年以上経つが、義理もたてられなくなったんじゃ、先祖に顔向けができない。二週間後でいいから何か考えておいてくれ。何でも用意する」

「はあ、わかりました」

 何でもか、さやかさんをくれといったらくれるのだろうか。……別段欲しくもないが。

「聞いてもいいですか?」

「なんだね」

「どうして僕を信用してくださるのですか。お嬢さんのお供にするほど」

「それはさやかが君を信頼しているからだ。さやかは、こういう家柄で育ったことも影響していると思うが、あれでいて引っ込み思案でなかなか人を信頼しないんだ。そんなさやかが山岳部や君の事を楽しそうに話す。だから信頼できると思ったんだ。それにこう見えても私は医者でね、人を見る目はあるつもりだよ。君は誠実そうだ」

「なるほど。でももし……いえ、何でもありません」

 俺が誠実な人間であるかどうか、自分で判断する材料は持たないが、俺が変な気を起こさないであろうことは確かに断言できることだ。起きもしないことについてごちゃごちゃ、考えるのはやめよう。綿貫の保護者が俺を信用するというのだから、それでいいではないか。


「失礼します」

綿貫が着付けを済ませ、部屋にやって来たようだ。俺は着物姿の綿貫を見るかと思うと幾分か緊張した。

 着ているものが違っているだけで、中身は俺の知る綿貫さやかであるのに。

 戸が静かに開かれ、正座をしている綿貫のお目見えとなった。

 綿貫は時代劇の登場人物や、あるいは旅館の仲居さんがするように音をたてずに、部屋の中へと入り、また静かに戸を閉める。俺はその洗練され、優雅な身のこなしにはっとした。

 髪を結い、赤を基調とする晴れ着に身を包んだ、綿貫を見て、端から見れば、さぞかし俺は間抜けな顔をしていたことだろう。幼馴染みをして朴念仁と言わしめる俺ではあるが、別に情趣を解さない訳ではない。美しいものは素直に美しいと感じる心は持っている。

 俺のこの目に写る、綿貫の着物姿は、俺が今まで見てきたどんなものよりも、美しいものであった。俺はそのときはじめて、見惚れるという言葉の意味を理解したのだ。

 あまりに俺が間抜けな顔をしていたのか、綿貫は俺の顔を見たとき、ふっと口元を緩めた。

 

 旅行の細かい日程は、後々に知らせるということであったので、俺は賢二さんに暇乞いをし、綿貫邸を去る。

 門まで、賢二さんに言いつけられた綿貫が俺を見送りに来た。

「いいんですか?夕食を召し上がっていかれなくて?」

「うん、また今度にする」

 綿貫は振り袖姿のままである。

 俺が軟派な男であれば、綿貫の着物姿を、「かわいいよ」とか、「似合っている」とかいって、誉めたであろうが、そんな気障な真似は、この深山太郎のするところのものではない。

「今回のことも、昨日のことも……」

「礼はいいっていったろ」

 綿貫が話し出そうとするのを遮り、俺はそう言った。

「そうでしたね、ではお気を付けてお帰りください」

 俺は返事をする代わりに、手をひらひらとさせて、名古屋駅の方へと向かった。


 夏の補習は、全員強制参加で、普段の授業と何ら変わりはない。授業がいつも通りならば、部活も然り。……だと思っていたんだが。


「文化祭です!」

 俺が部室で本を読んでいたところ、綿貫が部屋に入るなり、少し興奮したような声で言った。

 文化祭。うちの高校で九月の終わりに行われる、学校祭のことだとは予想がついたが、一応尋ねる。

「なんだいきなり。文化祭がどうした」

「神宮高校文化祭ですよ。私たちも山岳部として参加することになりました」

……俺たちは確か、運動部だったはずなんだが。綿貫はそんなことなど、意に介していないようである。

「知らなかった。登山というのは文化的行為だったのか。俺はてっきり、運動に近いと思っていたのだが」運動部に近いというより、むしろ、どんな運動部よりも体力的にはきついことをやっているとさえ思える。

 この皮肉が綿貫に通じるとは思わなかったが、言わずにはいられなかった。

 すると、一緒にいた雄清が代わりに答える。

「太郎の言いたいことはわかるよ。運動部が文化祭に出るのはおかしいって言いたいんだろう」

 言い方からすると、どうやら、雄清は事情を知っているようだ。

「おかしいじゃないか」

「まあ、そうかもしれないけど。先生に言われたんだよね、綿貫さん?」

「はい、そうなんです」

 俺にはこいつらが何をいっているのかさっぱりわからなかった。少し、イライラしながら、聞く。

「だから、俺たち山岳部が、文化祭で何をやるって言うんだよ」

「売るんです。文集を」

「そんなものどこにある」

 雄清が、やれやれと言いたげな顔で言った。

「今から書くに決まっているじゃないか」

 俺は説明を聞いてもなお、まだ訳がわからなかった。


 何度も、確認をし、ようやく理解したところでは、どうやら我々山岳部は、伝統的に文集を製作し、神宮高校文化祭に出品してきたらしい。顧問の飯沼先生が、その事を綿貫に伝え、綿貫はそれを承諾したわけだ。

 聞くところによると、文化祭という名を冠していても、参加団体は文化部に限られず、運動部も積極的に参加し、模擬店などを開くらしい。

 そこでわざわざ、文集製作を志すとは、大昔の山岳部には変人が多かったようだ。今もそうなのかもしれないが。

「面倒だな。断ればよかったのに」

「太郎も、伝統に逆らうことがより労力を要することだとわかるだろ」潰れかけの部活だったくせに、伝統だけは守りたいのか。飯沼先生も頑固である。

「分かってるよ。そのぐらいは。それで何を書くんだ」

「山についてです!」

 そこは山岳部らしくいくわけだな。

「山っていっても、なにかテーマがいるだろう。俺たちみたいな素人が書いた紀行文をのせるわけにもいくまいし」

「それは……」

 綿貫は言いよどむ。なにか具体的な案を持ち合わせていたわけではないらしい。まあ、綿貫一人で考えるべきことでもないんだが。

 俺も山岳部員の一人として、何かよい案はないかと、考えを巡らせていたところ、雄清が、思い付いたように言った。

「山岳信仰に絡めてやるのはどうかな?文化的だろう」

「山岳信仰?山をご神体として崇める、あれか?」

「そんな感じ」

 なんか、見るからに面倒くさそうだ。しかし、綿貫は言い考えだと思ったようである。

「それはよいですね!是非そうしましょう。それならば、伊吹山のこともかけますし、宗教的側面にあわせて、地理的なことも付け加えればよいものができそうです」

「そうだね。あと、今思い付いたんだけど、神様と言ったら、もうひとつ外せないことがあるよ」

「なんです」

 俺も雄清が何を言い出すのか分からなかった。

「うちの高校の名前についてさ」

 もはや、山はどこかへと消え去ってしまっている。それでも、綿貫は良いと思ったようだ。

「それは、いい考えですね。そのことについても書きましょう。山本さんがその部分を担当しますか?」

「いや、僕は別にアイデアがあるからね。これは太郎に譲るよ。どうせテーマ考えるのも億劫なんだろう」

 俺は雄清の言に、少々むっとしたが、自分でテーマを設定するのが面倒だというのは、当たっているので、その提案を承諾することにした。


 帰り道、途中まで綿貫と一緒だった。

「お前は何について書くんだ?部誌の記事」

「私は伊吹山の神様について書こうと思っています」俺はしまったなと思った。

「お前もか。うーん俺もそうしようかなと思っていたんだが、お前が書くなら別の山にする」

「ああ、そうでしたか。すみません」綿貫は大変申し訳なさそうに言った。

「いや、気にするな」別段こだわりがあるわけではないのだ。しいて魅力を挙げるとすれば、一度登っている山だから、勝手がわかっているということぐらいである。しかし綿貫はこんな提案をした。

「……あの、もしよろしかったら、一緒に書きませんか?」

「二人が同じ山について書いていたら、見栄えがしないだろう」

「では、二人で二つの山を一緒に書きましょうよ」

 全く訳の分からないことをいう。二度手間じゃないか。二つの山について調べるなんて。当然記事を書く以上、その山には登らないといけないのだから。

「いいよ。一人で書いたほうが絶対楽だ」

「えっ、でも」

「いいから。適当な山なんていくらでもあるだろ」

「……分かりました」

 ……なんで、そんな悲しそうな顔をするんだ。まるで俺が悪いみたいじゃないか。


 綿貫はそれから黙ってしまった。明らかに機嫌が悪い。怒っているのではなく、しょげていると言ったら適当だろう。

 綿貫は概して、淑やかなお嬢様でいた。基本的にはむきになることはないし、いつでも他人のことを考えていて、自分のことは後回しにしてしまうような女である。

 それがいいことかは判断しかねるが、人にわがままを言うような人間ではないことは、俺をはじめ、周りの人間の認めるところだろう。その綿貫が自分の提案を拒絶されて、不機嫌になっているのだ。

 しかし、俺はそのことに対して、不愉快には思わなかった。そう思っている自分に気が付いた。

 なぜなら、逆に言えば、今までの人生で、ずっと我慢し続けてきたであろう彼女がこの時になって、赤の他人である俺に、素の表情を見せているのである。逆説的かもしれないが、彼女がわがままに、言ってしまえば、子供っぽくふるまうようになったのは、彼女にとっては成長なのだ。

 こいつは言ったのだ。気の置けない友人が今までいたことはないと。おそらく喧嘩もしたことがないのだろう。少々骨が折れるが、友人である俺としては喧嘩の相手ぐらいしてやってもいいだろう。

「お前さ、何怒ってんだよ」綿貫に向かってそういった。

「別に……怒ってませんよ!」

 おお、思ったよりも感情的になっている。前言撤回だ。しょげているのではなく完全に怒っている。俺は綿貫が怒っているという事実そのものに単純に驚きを覚えた。

「怒っているじゃないか。拗ねてないで、言いたいことがあるのならばはっきり言えよ」

 そう言ったら、きっと睨まれた。どうやら俺と口を利きたくないらしい。

 というかそもそも、なんで綿貫は怒っているのだろうか。よく考えてみれば自分の提案が却下されたぐらいで、機嫌を悪くするのもおかしな話だ。普段の綿貫であればあり得ない話である。彼女は俺や雄清や佐藤との関係が密になったことで、友人にわがままを言えるくらいにまで成長したのだと俺は考えた。そのことはいいことだと思う。だが理由もなしに怒るというのはどうも腑に落ちない。要はなんで綿貫はそこまでこれにこだわるのかということだ。

 これはあれか、巷で聞く、女の扱いは難しいという例のあれか。理由もなしに彼女が不機嫌になっているのだとしたら、俺には打つ手がないじゃないか。

 ……

 …… 

 まったくもう。

「なあ、綿貫」

「なんですか!」うっ、なんだ、そのつっけんどんな態度は。

「やっぱり二人でやろうか、文集の記事書くの。一人で登るのは危ないからな。雄清達にもそうしてもらおう」よくよく考えれば、綿貫は部長なのだから、部長命令で、そういう風にすればいいのだが、いくら親しくなったとはいっても無理強いしないのが綿貫さやかという女なのだ。……怒りはするみたいだが。

 俺がそういったところ、綿貫は何も言わなかった。それどころか、すたすたと歩いて行ってしまった。

「おい、綿貫」いくら何でも無視はひどかろう。

 綿貫がくるりと踵を返す。

 満面の笑みだ。そしてまた、すたすたと歩いて行ってしまった。

 拗ねたり、おこったり、笑ったり、いろいろと忙しい女である。

  

 その日の晩、綿貫から電話がかかってきて、日中の無礼を詫びられた。

 狐につままれた気分になったが、笑って許すことにした。たぶん狐狸に化かされていたのは綿貫の方だったんだろう。 

 

 お盆の一週間前。学校の物理の授業にて。

「いいですか。これはφ(ファイ)と読むんです。分かりましたか山本君?」

「ふぁーい」

 しばしの沈黙の後、忍び笑いが聞こえる。物理教師は「さすが分かってらっしゃる」と嬉しそうに言っている。

 雄清は時たま、無駄なところで教師と完璧な連携を見せる。仕込んでいるのではないかと疑うほどに。

 友人である俺としては、勉学そのものに力を入れてほしいのだが。


 世の高校生は夏休みを謳歌しているだろうか。物理の授業を受けながら、教室の隅で俺はそんなことを考えていた。

 夏休みの前期補習はお盆の一週間前まで続き、神宮高校の生徒が、真なる意味で、休みを迎えるのは、終業式のずっとあとだった。つまり今日やっとだ。

 最後の授業が終わり、俺は早急に家に帰った。綿貫との小旅行の出発日は今日だ。着替えてから、あらかじめ詰めておいた、鞄をもって家を出た。

 綿貫とは名古屋駅で合流する。

 綿貫は白と黄緑色のワンピースに麦わらという、季節感あふれる格好をしていた。

 

 高校生が、それも男女二人が一泊二日の旅行。尋常ではない。なぜか知らぬが、この女、綿貫さやかは俺のことを心底、信頼していて、保護者であるこいつの叔父も、是非にと頼むので仕方なく同行する次第である。このようなスキャンダラスな行為は軟派とはかけ離れた存在であるところの俺が、本来であれば、決してするところのものではない。綿貫が主人であり、俺が従者なのだと考えなければ、まともではいられなかった。

 さすがに、というか、当たり前ではあるが、泊まる部屋は別である。そうでなかったら俺は廊下ででも寝ただろう。親しくないとは言わないが、家族ではない女と一緒の部屋に寝るなど、死んでもできない。

 誰かに、会うんじゃないかと、びくびくしている俺であったが、電車の席で隣に座る綿貫は至極楽しそうである。

「お前、楽しそうだな」

「はい。旅行って楽しくないですか?」うーむ。これは楽しみにいくような旅行じゃないはずなんだがな。「深山さん!見てください。牧場に牛さんがいっぱいいますよ」牛さんて……。

「そうだな」と適当に相槌を打っておく。以前の俺であれば、牧場に牛がいるのは当たり前だろうと皮肉を言っただろうが、俺とて、成長しているのである。はしゃぐ部活仲間をそっとしておくぐらいには。


 駅に着き、北岳の麓の旅館に向かう。受付での手続きは綿貫が済ませてくれた。

 綿貫から鍵を受け取り、荷物をもって部屋へと向かう。綿貫は隣の部屋だ。

 綿貫が戸を叩き、「深山さん、ごはんまでまだ時間があるので先にお風呂に入りましょう」と言った。どうせ、浴場は別なのだから、一緒に行く必要もないのだが、綿貫の言うままに、風呂へと向かう。

「ところで、お風呂ってどちらにあるのでしょうか?」俺が知るわけがない。

「フロントで聞こう」そうですねと綿貫は返す。

 二人で受付まで歩いて行った。

「すみません、お風呂場ってどちらにありますか?」と綿貫が言ったところ、

「館内にあるお風呂と、露天風呂とがあります。露天風呂は男女共用となっております。今日はお客様が少ないのでどちらもごゆっくりと、ご入浴していただけると思います」

「ですって、深山さん。どうします?」どうします、ではない。

「あのな、綿貫。お前には貞操観念ってもんがないのか?」

「どういうことですか」もちろん言葉の意味は知っているのだろうが、綿貫は俺の意図することがわからないというのである。

「俺とお前とで、混浴なんぞに行くべきじゃないって言っているんだよ」

「そうなんでしょうか?」

「そうなんです」お嬢様はちと、常識に欠ける節がある。なるほど一人じゃ旅に出せないわけだ。

「分かりました。……館内のお風呂にします。どちらですか?」


 仲居に教えてもらい、大浴場へと向かった。

「ではまたあとで。……四十分後でいいですか?」

「ん」

 風呂は結構広かった。言っていたとおり客は少なく、足を思いっきり延ばして湯船につかることが出来た。さすがに、坊ちゃんよろしく泳ぐような真似はしなかったが。 


 俺は少し早めに出たが、綿貫はきっかり四十分で出てきた。俺と同じく備え付けの浴衣を着ている。

「お待たせしました。行きましょうか」

 

 部屋へと戻る途中に、土産物屋のようなところがあることに気が付いた。来るときは風呂につくことで一所懸命になっていて気が付かなかったのだ。

「ここ売店ですね。いろいろなものが売ってあります」綿貫が言うように、土産だけではなく飲み物や酒のつまみなど、滞在中の客のための品物も置いてあった。

「深山さん、これなんですか?」綿貫の指差す先には、「高麗人参、マカ、ムイラプアマ」というポップ広告が付いた、栄養ドリンクが陳列してあった。商品名は「タイタン」。巨人神族の名を冠するとはさぞかし効き目があるのだろう。ムイラプアマっていうのはよくわからないが、マカと高麗人参とにどういう効果があるのかは何となく知っている。「深山さん、聞いていますか?」

 綿貫は本当に何も分かっていないのだろうか?栄養ドリンクの一種で、飲むと元気になる、と言って、適当にごまかしておいた。別に間違ったことは言っていないだろう。綿貫は「そうなんですか。こういうものもあるんですね」と妙に感心したようだった。

 

 部屋の前に来て、別れようとしたところ、綿貫が思い出したように、「お料理は私の部屋に運んでもらうことになっているので、部屋に来てください」と言った。

「分かった荷物を置いたら行くよ」


 その後、綿貫の部屋へと入って、しばらく話をした。

「あと十分くらいですね」

「そうか」

「ここはいいところですね」

「そうだな」

「深山さんは旅行したりするんですか」

「あんまり」

「私もです。私の家は皆忙しいので、なかなか旅行をするのは難しいですね。今日はこういう機会があって本当に良かったです」何が目的か忘れていないか、このお嬢様は。綿貫は続ける。

「旅というものはいいものですね。特に親しい人とするのは格別です」まあ、あまり親しくない人間と旅をするというのもおかしな話ではあるが。……綿貫が俺のことを親しい人間だとみなしているのは、少し照れ臭かった。

 そうこうしているうちに、仲居が料理を運んできた。  

 なかなか豪勢な料理だ。旦那様は何かお礼がしたいと言ってはいたが、このような良い旅館に泊めさせてくれた上で、ご馳走までいただくのだから、付き添いの対価としては十分すぎるように思えた。

 仲居がさがって、俺たちは料理を食べ始めた。

「うーん、美味」

「おいしいですね」

 主菜のすき焼きはさらなり、白米も普段食べているものとは全く違うもののように思えた。


 食事がひと段落したところで、綿貫がふとした感じで言った。

「なんだか、新婚旅行をしているみたいですね」俺は思わず飲んでいた水を吹き出すところだった。

「馬鹿言ってんじゃない。むせたじゃないか」

「すみません」まったく、この令嬢ときたら。


 食事に舌鼓を打った後、俺は部屋へと戻り、手持ち無沙汰にテレビをつけた。

 普段面白いと思わないテレビ番組に、旅先だからと言って、心動かされるわけもなく、つまらないのですぐに消した。まだ八時前だ。寝るには少し早い。本でも読もうかと、考えていたところ、綿貫が来て、「深山さん、入ってもいいですか?」と戸を叩いてから言った。承諾し、綿貫が部屋へと入ってくる。

「失礼します」

「何か用か?」

「何かしません?少し退屈です」綿貫も俺と同じ状態だったようだ。だが、

「二人で何かするといってもなあ」トランプもなければ、当然ゲーム機も持ち合わせていない。

「お散歩しましょうよ」まあいいか、どうせ暇だ。外は涼しいし。

「分かった」

 財布だけ袖に入れて、部屋を出た。


 真夏であるのに、北岳から降りてくる冷気によって外は少し寒いくらいにひんやりしていた。

「こっちは涼しいんですね」

「まあ、標高も高いしな」 

 無言でしばらく歩いてゆく。今日は新月なのだろうか。晴れてはいるがあたりは真っ暗だ。番頭さんに散歩に行くといったら、提灯型のライトを貸してくれたので、その明かりを頼りに歩いている。

 唐突に綿貫が口を開いた。「深山さんって、将来の夢とかありますか?」

「今のところはないな」

「そうですか」俺から振らないと悪い気がしたので、

「お前は医者か?」と言った。

「……そうですね。たぶんそうなるだろうと思います」言い切るところがまたすごいな。まあ、綿貫はこれで学年でもトップレベルの成績らしいから、おそらく医学部にも行けるんだろうが。だが、本当に驚いたのは次の発言だった。「もし、そうでなかったら、私が医師と結婚する限り何をやっても良いと言われていますが」 

「あの叔父さんが?」

「いえ、祖父です」

 言葉に詰まる。これが俺と綿貫との差だ。生きている世界が違うのだ。彼女のことをかわいそうと思うのも俺はしてはいけない気がした。そんな、ありふれた、単純な言葉で片付けてしまうことを、傲慢なことと思った。俺と綿貫とでは住む世界が違って、本来であれば俺など綿貫から見れば取るに足らない存在なのだ。かわいそう、などと彼女のことを同等に、いや下に見るような発言を俺がしていいはずがない。俺は彼ら一家の事情を何も知らないわけで、綿貫さやかという人間が背負っている重みを理解していない。そんな外野が彼女の家のことについて、意見を持つことは無礼千万である。出過ぎた行為である。

「深山さんどう思います?」

「どうって、ただ俺には想像できない世界だ」

「……私は、それが当たり前だと思って生きてきました。今もそうです。私は家のために生きなければなりません。私の終着点はそこなんです。

 だからこそ、私が生きる今の日々は、私にとってとても大事なものなんです。深山さんや瑠奈さんや山本さん、皆さんと楽しく送る高校生活の思い出は私にとってかけがえのない宝物です。私は今とても幸せですよ」

 綿貫はいずれ手放さなければならない今の生活をかみしめている。医師になること、結婚相手を制限されること。それは綿貫が心の底から望んでいることなのだろうか。 

 いや、違う。本当はもっと自由に生きたいと思っているはずなんだ。だから、俺にこんな話をするんだ。真意をおくびにも出さず、表面では何でもないように装ってはいるが、心底ではもがき、苦しんでいる。綿貫はそんな自分の気持ちに気づいてさえいないのかもしれない。

 俺には綿貫の気持ちがわかった。分かったからこそ、彼女に対し何を言っていいか分からなかった。下手な慰めをかけることが出来なかった。俺が黙っていたからか、

「すみません深山さん。こんな話つまらないですよね」と言った。

「構わん。俺にできるのは、話し相手ぐらいだからな」

 綿貫が普段言いたくても言えないことをここでぶちまけるのは、いいことだ。曲がりなりにも俺が彼女の友人であるならば、喜んで彼女の吐き出すものを受け止めよう。

 しばらく、聞こえてきたのは、闇夜に響く俺たちの足音と、虫の音だけだったが、綿貫が再び口を開いて、「いい考えが思いつきました」と言った。

「なんだ」と話を促すと、「深山さんがお医者さんになって、私をもらってください」という。いい加減、こいつの冗談にも慣れてきた。

「笑える」

「よろこんでもらえてよかったです」

 あるいは、本気で言っているのかもしれなかった。だがそれは、こいつが俺のことを好いているからではない。綿貫が迫りくる隷属の日々からの逃避手段として俺を利用するだけであって、別に俺でなければならない理由も必然性も存在しない。つまり、気心が知れたやつならば誰でも構わないのだ。

 従者はやる。話し相手にはなる。謎解きの手伝いはする。

 しかし、こいつの奴隷になる気は俺には毛頭ない。


 旅館に戻ってからは、眠気もやってきて、自分の部屋に入って、すぐに眠りに落ちてしまった。


自然と目が覚めた。六時である。朝食は旅館の食事処でとることになっているが、少し早いだろう。荷物の整理をして、時間を潰すことにした。

 それでも時間が余ったので、本を読んでいた。朝から読書、まるで高等遊民である。 

 七時前、そろそろいい時分だ。綿貫を呼びに行く。

 俺は綿貫の部屋の前に立って、「綿貫、朝だぞ、起きているか?」と戸を叩きながら言ったが、反応がなかった。お嬢様は案外朝寝坊なのかもしれない。普段俺は、誰かに何かを強制するような人間ではないし、まして、女子に対して、何かを強いることなんてしない。だが、二人で行動している以上、時間は守ってもらわないと困る。迷ったが無理矢理起こすことにした。

 鍵がかかっているだろうと思ったが、ノブが回った。

 不用心だなと思いながら、そっと、中の様子をうかがうと、ふすまが閉じている。やはりまだ寝ているのだろう。「綿貫、朝だ……」ガチャリと音がした。「ぞ……」横の洗面所に通じる扉から、綿貫が出てきたのである。浴衣は来ておらず、薄いパジャマのようなものを着ている。キャミソールにショートパンツ、というのか?俺はその露出の多さにどぎまぎする。

「あ、深山さんおはようございます。もしかして私のこと呼んでいましたか?すみません、シャワーを浴びていたので気が付きませんでした」綿貫はまったく怒る様子もなければ、恥じる様子もない。平然としている。だが俺はその肌が多く見えている服装をした綿貫を前にしてとても、平常ではいられなかった。

「それより、早く上に何か着ろよ」

「どうしてですか?」……こいつはもしかすると俺のことを男だと思っていないんじゃないのだろうか。

「他人に見せるような格好じゃないだろ」

「深山さんは他人じゃないですよ。旅の連れです。確かに人前に出られる格好ではないですが、旅の連れに見せられないというほどでもないですよね」

「いいから、早く着ろよ。俺が目のやり場に困るんだ」

「わかりましたよ、もう」綿貫さやかは危ない女。

 連れが、硬派であるこの俺でなければ、確実に毒牙にかかっていただろう。その点では、こいつの叔父の判断は正しかったといえる。選ばれた俺としては甚だ迷惑な話であるが。


 朝食を取ったのち、この旅の最重要事項である、高橋雅英の慰霊碑へと向かう。

 石碑は登山道から歩いて三十分ほどのやや開けたところにあるらしい。事故現場から、大分離れたところにあるように思えるが、高山での作業はなかなか難しいものがあるから、そういう都合があるのだろう。綿貫は昨日の軽装とは取って代わって、しっかりとした、登山用の服装をしていた。

 熊よけの鈴の音を聞いて、三十分。石碑のある場所までやってきた。

『慰霊碑 

 平成〇年北岳遭難事故被害者に寄せて 

 すべての岳人の哀悼の意と、二度とこのような事件が起きないよう徹頭徹尾努力する気概とをここに示す。故人の魂に安寧のあらんことを』

「綿貫……」綿貫は黙祷していた。俺も倣う。

 高橋雅英は死の直前どのような景色を見ていたのだろうか?俺と同い年の人間が自らザイルを切って死んだ。そんな最大の自己犠牲が果たして俺にできるだろうか。十六歳、夢も希望もあったはずだ。友は救えたとしても、さぞ無念だったに違いない。

  

 近くにトイレがあったので、綿貫は用を足しに行った。

 綿貫を待つ間、大きなザックを背負った若い男が通った。知らなくても挨拶をするのが山のルールである。その人は俺に声をかけてきた。

「大学生ですか?」

「いえ高校生です」

「だったら僕のほうが年上だな」その人はポツリと小さな声でつぶやく。それから、「随分軽装だけど、ピークに行くつもりかい?トレラン?」と俺の格好を見ながら言った。慰霊碑を見ることが目的であったので、俺は必要最低限の用具しか持ってきていなかった。

「いえ、今日はあの石碑を見に来ただけですから」と俺は答えた。

「……ふーん。物好きがいたもんだねえ……」

「かもしれませんね。あなたはテント泊ですか?すごい荷物ですけど」

「ああこれ。これね、上のロッジに運ぶ品だよ。バイトさ。小遣い稼ぎと登山が一度にできてええやろ」それはまた随分と健脚である。それから「僕も久々に来たから、彼に挨拶でもしておこうかな。花はないけれども」と言って、石碑の前で手を合わせた。

 しばらくして、「じゃあ僕は行くよ」と彼は言った。

「お気をつけて」

「君もね。単独行はいろいろ危険だからね。まあ、僕もなんだけど。お互い新聞には載らないことを祈るよ。慰霊碑は一つで十分だ。気を付けてかえりゃーよ」何となく西日本出身者の話し方をしていることには気が付いていたが、どうやら、尾張出身の人らしい。

「そうですね」連れがいることは、まあ、いうことでもないだろう。


 その後、特に問題が起こることもなく、旅館に戻った。今日宿泊し、明日、帰りの電車を途中下車して、鳳来寺山に行くことになっている(例の部誌のための調査登山だ)。俺は一泊だけして、今日の午後にでも行こうと思っていたのだが、綿貫の叔父さんが一日で二つも山に登るのは危ないと言って、スケジュールに余裕を持たせるように諭したのだ。娘を思いやるのと同然の気持ちなので、俺は素直に従うことにした。

 今後の日程の確認のため、俺は綿貫の部屋に行った。

 荷物を置いて立ち尽くしている綿貫。様子がおかしい。

「おい、大丈夫か」と声をかける。

「少し、頭痛がします」綿貫は左手で頭を押さえている。

 見ると、彼女の顔は赤くなっていた。日に焼けた感じではない。熱があるんじゃないかと、話しかけようとしたところ、綿貫は倒れた。

「おい、大丈夫か」さっきと同じ台詞だが、こんどはもっと切羽詰まった感じで言った。

 そっとかかえ起こす。体がとても熱い。それなのに発汗が見られない。

「くそっ、熱中症だ。ちょっと待ってろ」俺は走って、旅館の売店へと向かった。

 水を数本と、スポーツドリンクを買った。すぐに部屋に戻り、スポーツドリンクを綿貫に飲ませる。だがそれだけでは不十分だ。体の熱を効率よく逃がすためには、綿貫が来ている服を脱がせなければならない。きっちりとした登山の格好をしていることが仇となった。

 気絶している女の服を脱がせることなど、俺の信条に反する行為だ。だが俺がこいつの叔父に頼まれたのはこいつのお守りだ。そして何より、ためらうと命が危ない。俺の信条や綿貫の羞恥心よりまず、綿貫の命を守ることが先決である。 

 覚悟を決めてからの行動は早かった。

 綿貫のティーシャツとズボンを脱がせ、脇下に水を挟んだ。それから熱がうまく逃げるようにうちわで煽ってやった。綿貫がポシェットに消毒用のエタノールを入れていたことを思い出し、鞄の横に置いてあった、彼女のポシェットからエタノールを取り出して、タオルに染み込ませて、彼女の体を拭った。

 煽いでは、エタノールで拭く、というのを何回も何回も繰り返した。


「……深山さん」綿貫が目を覚ました。ずっとうちわで煽いでいたので、手が痛くなっている。

「よかった。目が覚めたか」

「私、どうして寝ているんですか?」

「熱中症で倒れたんだ。旅館の人に頼んで、医者を呼んで診てもらったから、大丈夫だ。安静にしてろってさ。これ飲め」そういって、俺はスポーツドリンクを飲ませた。

「この格好……、私が無意識に脱いだというわけではありませんよね。お医者さんが?」

「いや、すまん、俺が脱がせた。決して気絶しているのをいいことに……」と言ったところで、綿貫が遮るように、

「わかっています。熱を逃がすのに、これよりいい方法はないと思います。それに、深山さんは私にいたずらをするような人ではないことは知っていますから」と言った。綿貫が話の分かるやつでよかった。

「もう大丈夫か?」

「頭が少しガンガンします」

「そうか。まだ寝といたほうがよさそうだな」

「あの……深山さん」

「なんだ」

「お医者さんというのはどういう方でしたか?」ああ、と思った。綿貫は自分の下着姿を見られたことを気にしているのだ。

「安心しろ、女の人だったよ」そういうと綿貫はほっとした様子だった。いくら医者とはいえ男に下着を見られるのは気が進まないのだろう。現在進行形で俺は綿貫の下着を見てしまっているわけだが。やっぱりこいつは俺のことを男扱いしてないようだと思いながら、「俺がお前にやった処置を見て、褒めてくれたよ」と付け加えた。

「そうですか」

「学校の講習に出といてよかったな」俺は夏休み前に、部活動総会で熱中症対策の講習のことを思い出しながら言った。「服着たらどうだ」綿貫が気絶しているときはそれほど気にならなかったが、さすがに、いつまでも下着姿でいられると、意識してしまう。

「いえ、まだ火照っているので、しばらくこのままでいます。今更服を着ても、深山さんにはばっちり見られてしまっているわけだし」と俺のほうを見て、少し笑い、はにかみながら言う。

 別にまじまじ見てはいないんだが。

「じゃあ、俺はあっち行くから。何かあったら、呼べよ。内線使えるから」そういって、立ち上がりかけたところ、

「まってください」足首をつかまれた。「もう少し、そばにいてくれませんか」

「煽いでろってか?」そういうと、こくんと頷いた。「しょうがないな。お前のわがままに付き合うのも今日だけだぞ」

「深山さんいつも付き合ってくれるじゃないですか」

「そんだけしゃべられるなら、もう大丈夫だな。お大事に。バイバイ」

「待ってください。冗談です。嘘です。行かないでください」余計なことを言わなければいいのに。

 今日分かったことがある。俺か綿貫には(多分綿貫に)疫病神がついているらしいこと。

 

 しばらく休憩して綿貫の顔色も良くなってきたころ、昼下がり、昨日の仲居と女将が部屋に来た。

「お連れ様は大丈夫でしたか?」わざわざ確認しに来てくれたのか。

「はい。今は寝ていますが、熱も下がりました」

「ご無事で何よりです。それでお客様、お詫びしなければならないことがあります」

「なんですか」

「お客様は二泊される予定でしたよね」

「はい」

「それが当方の手違いで今日のお部屋が一部屋しか残されていないのです。大変申し訳ありません」と言って、仲居と女将がともに深々と頭を下げる。 

 そうか、部屋が一部屋しか空いていないのか。……はて困った。

 別段クレーマーになる気は毛頭ないのだが、旅館のミスで部屋が予約できてなかったのならば、対処してもらわないと困る。どうしたものか。「それで、解決策はあるんですか?」

「お連れ様と同じ部屋で泊っていただくわけにはいかないでしょうか?」

「いやぁ、俺達はプライベートで来ているわけじゃないんで、相部屋はちょっとというか、かなりまずいんですけど」それこそ、スキャンダルだ。こんな醜聞は許されまい。

「本日のお宿代は頂戴いたしません」

「連れのもですか?」

「もちろんでございます。こちらの粗相でお客様にご迷惑をおかけしますので」

「しかしなあ」金の問題ではないのだ。

 ガラリと戸が開いた。綿貫が服を着て出てきたのだ。

「深山さんどうされましたか?」

「ミスで部屋が一つしか取れてないらしい。俺とお前とで相部屋にすればロハにしてくれるらしいんだが」

「私は構いませんよ」

「しかし、お前の叔父が」

「叔父には私から話します。叔父は頭の固い人ではないですし、深山さんのことも信用していますから。それに、トラブルがあったのでは仕方ありません」

「うーん。……分かった。じゃあそれでお願いします。俺がここに移ればいいんですか?」

「いえ、当旅館で一番上等の部屋をご用意させていただきます」それはまた。たまたま残っていた部屋が、最上の部屋とはついているのか、いないのかよくわからない。怪我の功名とか、不幸中の幸いとか。

「深山さん、すぐに用意したほうがいいんじゃないですか。次のお客さんが来てしまいますよ」

「そーだな」

「ご協力、感謝申し上げます。この度はご迷惑をおかけして大変申し訳ございません」また深々とお辞儀をする。

「いえ、一番いいお部屋に只で泊めさせてもらうんです。文句は言いませんよ」

 その後、仲居と女将に案内され、その「上等」の部屋に行った。昨日泊った部屋の倍ぐらいの広さがあり、露天風呂が付いている。そして……

「ダブルじゃないか」

「ほんとですね。私右側がいいです」

「馬鹿言うな。俺は下で寝る。 

 仲居さん、別に布団を用意してもらえませんか?」

「かしこまりました」

 相部屋とはとんだハプニングだが、これだけ広ければ、綿貫が同室していることを意識せずに眠ることができるだろう。

 仲居は部屋の隅に布団を用意した後で、出て行った。

「今日はゆっくり休め。ぶり返すかもしれんからな。明日も動かにゃならんし」

「そうですね。よかったです。日程に余裕をもたせておいて」

「全くだ。明日の山はバスで山頂まで行けるらしいから、それを使おう」

「いいんですか?足で登らなくて?」

「気にするな。お前がぶっ倒れでもしたら、それこそ迷惑だからな」

「……そうですね。すみませんね。深山さんは命の恩人ですよ」大げさだな。「何かしてほしいことがあったら言って下さい。そうだ、お背中を流しましょうか?」

「まだ、頭の働きが鈍いようだな。寝とけ」

 少し綿貫はむくれたように見えたが、言うことに従った。


 三時ごろに綿貫はまた、起きだした。

「頭痛は治ったか?」

「おかげさまで」

 そうか、とつぶやいて、俺は読んでいた本に目を落とした。

「深山さん」綿貫が呼びかける。見るとすぐ近くに来ていた。なんだと応答したところ、「お風呂行きませんか?」と言った。

 俺は少し、思案して、「あんまりよくないんじゃないか。体あっためるの。また倒れでもしたらどうする。さすがに女湯には助けに行けないぞ」と返答した。

 すると、「弱りました。汗を流したいんですが」という。気持ちは分からないでもないが。綿貫は困った顔をしていたが、「そうだ、ここでいいじゃないですか」と明るく言った。俺はよくわからないというように肩をすくめてみせる。「露天風呂が付いているでしょう。深山さんも一緒に入ってくだされば安心です」

 ……どうやらこのお嬢様は昨日言ったことも、熱のせいで吹っ飛んだらしい。

「お前さ、俺がなんていうか分かっててそういうこと言っているだろ」

「どういうことです?」さすがにため息をつきたくなる。

「……もういい。とにかく俺は一緒には入らん。天変地異が起きても」

「でも、外で見ていてくれませんか?私が倒れたらすぐに助けられるように」

「いや、しかし」

「見ててくれないのなら、私の服を引っぺがして体にべたべた触ったこと留奈さんとかに言っちゃいますよ」

「おい」さっきと言っていることが矛盾していないか。

「うふふ」うふふ、じゃあない。ひとしきり笑ってこう付け足す。「曇りガラスなので大丈夫ですよ」大丈夫なのか?

 半ば強制的に風呂場の前まで連れていかれ、綿貫の入浴シーンを鑑賞するという奇妙な事態になった。磨りガラスがあるとはいえ、なかなか危ないぞ、これは。全裸の綿貫を風呂場から救出する事態にならないことを切に願う。そうなれば逆に俺の大事なものを失くしてしまいそうな気がする。

 俺がほとんど天井を仰いで待っていたのは言うまでもない。

 綿貫が風呂場から上がる段階になって俺も引き上げた。着替えはさすがに見ちゃいけない。

 だがしかし、そんな配慮を打ち砕くのが綿貫さやかである。

「深山さんあがりました」

「おう」そういって振り向くと、そこにはバスタオルを巻いた綿貫の姿があった。こいつは俺を試しているのか?

 俺が固まっていると、

「ああ、ちょうどいいサイズの浴衣がなかったんです。申し訳ないですけど……」

「分かった。受付にとりに行くよ」

「すみません」

 俺は思うのだった、あいつは俺のことをカピバラ的な小動物と考えているに違いないと。

 綿貫に浴衣を渡して、風呂に入る。「私も前で見てましょうか?」という綿貫の提言は当然の如く固辞して。

  

 俺が風呂から上がると、綿貫はどこかに行っていたらしく、ちょうど部屋に戻ってきた。手には旅館の紙袋を持っている。

「土産買ってきたのか」と聞くと、

「あっ、いえ。高麗ニンジンジュースです」と言って、昨日見た、例の「タイタン」を袋から取り出した。「えっ」

「えっ、だって飲んだら元気になるんですよね。だから明日に備えて飲んでおこうと思いまして」そういってから、綿貫は瓶の中身を飲み干してしまった。

「……」

「どうしました深山さん?」

「いや、なんでもない」変な媚薬が入っていないことを祈るばかりだ。

 

 その日の夕食は、海鮮料理だ。

「ただなのにこんなのもの食べさせてもらって、なんか悪いな」綿貫もそうですねと賛同する。

「もしかして個々のオーナーお前の家とか?」というと、

「まさか、違いますよ。でも父はよく使っていたみたいです」と答えた。

「叔父さんじゃなくて?」

「はい、亡くなった父です。赤石に登るときにはよく利用したそうですよ」

「もしかしたら、女将さんは親父さんのこと覚えているかもしれんな。だから只にしてくれたのかも」

「かもしれませんね」

「帰る時聞いてみたらどうだ」と言ったら、

「それはいいですね。聞くのが楽しみです」と綿貫は微笑んだ。

 食事を終えてからは他愛もない話をした。何を話したかはよく覚えていない。


 九時、早いがそろそろ寝るかと思ったころ、綿貫が「あの深山さん、私露天風呂に入りたいんですが」と話しかけてきた。

「さっき入ったじゃないか」

「あ、いえ。お部屋のではなくてですね、外にあるやつです。行きましょうよ」

「だめだ」

「駄目ですか?」

「だめ。もう九時を回っているし、俺はお前のお守りを頼まれたんだ。熱中症の看病はすれども風呂に一緒に入るなんて絶対しない」

「でもですよ、せっかく来たんですから、温泉に入るぐらいいいじゃないですか。もったいないですよ」

「そんな面白いもんでもないだろ」否、論点がずれている。「じゃなくて、俺とお前とで一緒にふろに入るのがまずいって言ってるんだ」

「深山さん私の体見たところで興奮なんてしないでしょう。紳士なんだから」こいつ、際どいことを言いやがる。どういう教育を受けたらこうなるんだ。

 綿貫の体に興奮?いやいや、俺はただの部活仲間で会って、こいつのことをそんな目で見たことは……。いや、それが問題なのではない。そういう事実を作ることが問題なのだ。このことが学校の連中にばれでもしたら、俺の人生詰みじゃないか。その前にこいつの叔父に殺されかねない。

「俺がどう思うかじゃなくて、お前の体が男に見られるか見られないかが問題なんだ。もっと自分を大事にしろよ」

「でも、深山さん、私の体、十分に見ているじゃないですか」ぐうの音も出ない。

「それは……成り行き上仕方なく」

「同じことです。私だけ見られるなんてずるいですよ。深山さんも見せてください」こいつは何を言っているんだ?

「男の体なんて見てもつまらんだろ」

「それを決めるのは私です。早く見せてくださいよ」

 明らかに綿貫の様子がおかしい。冗談にしては度を超している。熱中症で頭がおかしくなってしまったのだろうか。いや、そういえば。

 俺は舌打ちをしたい気分だった。絶対さっきの「タイタン」のせいだ。畜生、昨日の俺!余計なことを言いやがって。

 綿貫は酔っぱらっているようにも見える。タイタンの中にアルコールが入っていたのかもしれない。

 俺は幼子をあやすようにして「はいはい、もう寝なさい。ベッドはあそこだよ」と綿貫を寝床へと誘導しようとした。

「あーん、だめです。お風呂に行くまで私寝ませんよぉ」綿貫が変な声を出して、俺はどきりとした。

「……じゃあ、朝早く起きられたらな。……太陽のでる前に起きられたら行ってもいいぞ」

「了解でーす」綿貫はそういって、机に突っ伏した。

 たく、しょうがないな。そう呟いて、俺は綿貫をベッドに運ぶ。「いやん触らないでください」……。

 そっと寝かせる。静かにその場を離れようとしたのだが「まってくださいよー。お守りなら添い寝までしてくださいよー」そういって、袖をつかまれた。

「やなこった」

「意気地なしー。それでも男かあ」

 俺はさすがにカチンときた。自分で驚くくらいに、低く大きな声が出た。「いいかげんにしろ」

 綿貫はビクンとなって、俺のことを見た。正気に戻ったようだ。

「酔いは醒めたか?」

「……はい。すみません、いいすぎました」

「あんまり男をなめるな」

「はい、ごめんなさい」綿貫は至極反省した様子で、小さくそういった。

 綿貫を残し隣の部屋へと移動した。

 深くため息をつく。

 柄にもなく熱くなってしまった。怒鳴るほどのことでもなかった。俺は今までにないくらい強い自己嫌悪を感じながら床に就いた。


 翌朝、自然と目が覚めた。まだ外は薄暗い。妙なこともあるもんだと思ってふと横を見ると、綿貫が布団の脇で正座をしていた。俺が起きたのを確認して頭を下げてから、「本当に申し訳ありませんでした。昨晩はあのようなことを言ってしまい、深く反省しております」と言った。俺は寝ぼけた頭で綿貫が何に対して謝罪しているのか少し考えたが、すぐに昨日の晩に綿貫が酔っぱらって俺に絡んできたのを思い出した。

 俺も体を起こして綿貫を見て、「俺も怒鳴って悪かった」と言った。続けて「お前は薬を飲んでちょっとおかしくなっていただけなのに、子供みたいにかっとなってしまったよ。すまなかった」と俺も頭を下げた。

「いえ、私が悪いんです。深山さんが嫌がっているのにしつこくしたから。薬のせいにはできません。私の弱い意志のせいです。深山さんは幻滅したでしょう、私に」

「お互い悪いと思っているんだ。それでいいじゃないか」と言って、綿貫を見ると、目が潤んでいるのが見受けられた。「……幻滅なんてしないさ。ちょっとおふざけが度を越したくらいで」

「私は……はい。じゃあ許してくれるんですね」

「ああ」

「私のこと嫌いにならないでくださいね」

「……ああ。お前のことを嫌いになったことなんて一度もないさ」

 俺なんて存在はちっぽけなものだが、綿貫さやかにとっては山岳部の仲間は、生まれて初めてできた、仲間であり、かけがえのない友人なのだ。綿貫のそんな思いが彼女の言葉には込められていた。

 

 というわけで綿貫と仲直りして、帰り支度を済ませ、朝食を取ったのちに、チェックアウトをする。その時になって、綿貫の親父がここの常連だったことを思い出し、綿貫に確認はいいのかと告げた。

 綿貫はそうでしたと言って、女将に話を聞く。

 驚いたことに女将は綿貫の親父のことも覚えていたし、綿貫さやかが彼の息女であることも予想していたらしい。やはり、それもあって二日目の宿代を只にしてくれたのだろう。

「お父上様のことは残念に思います。惜しい人を亡くしました」と女将は言った。

「父のことを覚えていてくださってありがとうございます」

「大切なお客様ですから。ところでお兄様はお元気ですか?」

「兄のこともご存知なんですか?」

「お父上様がよく息子さんのことを楽しそうにおっしゃっていました」

「兄は今、行方不明なんです」

「……そうでしたか。そうとは知らず申し訳ありません」

「いえ、お気になさらず」

 女将は旅館を後にする俺たちが見えなくなるまで、玄関の外で俺達を見送っていた。


 帰りは予定通りに鳳来寺山へと向かった。寺の坊さんに話を聞いて、何枚か写真を撮ってから、名古屋へと戻った。

 綿貫を家へと送り届け、波乱万丈の小旅行は幕を閉じた。

 

 小旅行から、三日後、調べたことをまとめるために綿貫の家に行った。明日は雄清達の調査とも合わせて部誌のおおよその形を完成させる。

 綿貫邸に行くと、綿貫と彼女の叔母が俺を出迎えた。

「いらっしゃい深山さん。さやかの叔母の京子です。会うのは初めてですね」と叔母さんは言った。彼女はやはり、名家の人間らしく、品のある服装をしている。

「はい。はじめまして。深山太郎と言います。さやかさんにはいつもお世話になっております」

「あら。世話になっているのはさやかの方だと思っていたけど。この前の旅行の時も熱中症の看病をしてくださったんですってね。あなたがいなかったら本当に大変なことになっていましたわ」

「たいしたことはしていません」と俺は言った。あがるように言われたので、俺は靴を脱いで上がった。それから、叔父さんのほうは綿貫の祖父と話をしていて顔を合わせられないのだということを謝られた。俺は気にしないでくださいと言って、綿貫の部屋にお邪魔した。前にも捻挫をした綿貫を背負ってきたことがある。

 それから、綿貫と二人で鳳来寺山のことについてまとめをした。

 

「鳳来寺山のことはこのくらいにして、石碑のことですが」

「何かわかるとは最初からあまり期待していなかったが」というと、そうですよねと綿貫も相槌を打つ。「結局何もわからなかったな。あえて言うならあれに掘られていた文言を書いた奴は誰なんだろうという謎が浮上したが、これは石碑を建てたのが誰かという問題とほとんど変わらないな。お前が言っていたように、金をかけてやるんだから、高橋雅英相当、親しい奴だとは思うが」

「そうですね。それは石碑を建てた動機にもつながると思います」

「しかし、家族は知らない、中部山岳会も知らないと来た」綿貫も困ったものですと同意する。

 本当に今後の調査はどうすればいいのやら。

 お堅い話はやめにして、いつものように馬鹿話を綿貫と少ししてから、彼女と叔母に暇を告げ、玄関へと向かった。

 外に出ようとしたところ、応接間から、話し声が聞こえてきた。

「しかし父さん。さやかはまだ十五なんですよ」叔父さんの声だ。

「早いに越したことはない。変に期待させるものかわいそうだ」老人の声が聞こえる。おそらく綿貫の祖父の声なのだろう。

「本当にかわいそうと思うのならば、そんなことを押し付けはしません。さやかの自由意思に任せるのが筋です」

「そうはいってもお前、大海原はどうするんだ。他の人間に渡すのか?そんなことをすれば俺の親父に顔向けが出来んぞ。隆一が戻ってこないとすればさやかが継ぐしかないんだ」

「あの子に選択権はないんですか?」

 俺はその場をそっと離れた。


 跡取り問題か。つくづく、綿貫と俺の住んでいる世界の違いが思い知らされる。そんなことを思いながら、裏門を出たところ、二十代半ばぐらいの男が、綿貫邸の中をうかがっているのを見つけた。どう見ても怪しい。そう思い声をかける。

「何しているんですか」男は俺のことをまじまじと見て、

「あっ、君この家の人かな?」と俺に尋ねた。違うと答えると「そうか」と残念そうにつぶやく。

「あなたは誰なんですか」多少、語気を強めて言う。

「僕はN病院の医師だよ」何をしているのか俺が尋ねると「いや、それはもちろん綿貫さんにご挨拶に来たのさ。何せ医学界の大家だろ」要はゴマすりだ。こんなことをしたところで、綿貫の叔父が目をかけるとも思えないが。「それでね、いざ家の前に来てみると怖気づいちゃって。突然押しかけてよいものなのだろうかってね」そんなことはすぐにでも気づきそうなことなんだが、医者というのは案外馬鹿なのかもと思ったり。「ところで、君はこの家の人と親しいのかい?どういう関係?」

「お嬢さんと同級生なんです」

「あーなるほど。そういう感じか。僕ももっと早くに家にきとけばよかったな」

「どういうことですか?」

「ああ、ここの家の息子と大学で同期だったんだ。会ったことない?隆一っていうんだけど」

「……ないですよ」会えるわけがない。彼は失踪してしまったんだから。この男は知らないのだろうか。

「急に仕事ほっぽり出しちゃって、今何してんのかね。去年から、休職しているみたいだし」俺は何も言わないでいた。「今日のところは引き上げるか。君みたいに家の人に不審者だと思われたら損だし」

 そういって彼は帰って行った。


 

  


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