伊吹山山行
ついこの間、高校に入学したものだと思っていたのに、もう夏休み間近である。高校生活の九分の一を消費してしまった。外では蝉と蛙が大合唱をして、強い日差しが容赦なく降り注いでいる。
綿貫の宿題にそろそろけりを付けてもいい頃だ。
綿貫は昨日俺に見せるはずだったものを今日持ってくるという。綿貫が、それが雄清や、佐藤にもみられるのは気が進まないというので、あいつと以前に行った喫茶店に行くことにした。
校門で綿貫が来るのを待つ。
本当のところ俺は現地集合がよかった。綿貫と一緒に門から出たりなんてしたら周りの奴らに何を言われるか……。現地集合がいいと言ったのに綿貫は「どうしてですか」と。鈍いお嬢様だ。一緒に行く意味もないだろうと言うと、別々に行く意味もないと言われて、堂々巡り。言い争いをする気にもならなかったので、結局俺が折れた。将来、誰かと結婚するかなんて、全く予測はできないが、相手が誰であろうと俺はしりに敷かれるだろうなと思った。
そうこうしているうちに綿貫が歩いてやってきた。
「深山さんお待たせしました。暑いのにすみません」
「別に。……行くか」
「はい」
二人で喫茶店までの道を歩く。よく二人でいるから、周りの人間が俺たちの仲を誤解するのは不可避だ。つまり深山太郎と、綿貫さやかは付き合っているのだと思われても仕方ない。唯一無二の俺の友人、山本雄清は、俺の前では、綿貫とお似合いだとか、いつデートに誘うのだとか、非生産的な冗談しか言わないが、俺の本当の気持ちをよく知っていて、そういう勘違い連中に、俺と綿貫の仲がただの部活仲間であり、それ以上でもそれ以下でもないことを説明する分別を弁えている。それに対して佐藤のほうは全くひどい。嘘を言うわけじゃないのだが、何人かの(ゴシップ好きな)女子たちが、俺と綿貫の仲を聞いたときに以下のように答えたらしい。「あの深山がこっちゃんを?ないない絶対ない。あの朴念仁が誰かを好きになんてなれるわけないじゃない。あれはただの召使いよ」いや、言い方がおかしいだろう、まったく。
「深山さん、どうしたんですか?何が可笑しいんです?」
どうやら俺は笑っていたようだ。
「別に、思い出し笑いさ」
その時、傍から見たら、俺はただのでれ助だなと思い、唇をぎゅっと閉めた。
外にいるだけで汗は滝のように出てくる。一部の年配の人は最近の若者は適応能力が衰えているとのたまふ。確かに今ではどこに行っても冷房が効いている。しかし、日本の平均気温は二十年前より確実に上がっていると思う。猛暑日が当たり前なんてことがかつてあっただろうか。真夏日でさえ涼しいと感じてしまうのだから、適応能力の問題というより、産業活動の問題だと俺は思う。
暑い暑いと言っても無益なのは今も昔も変わらないが。
ぼんやりと考え事をしているうちに、かの喫茶店が見えてきた。店の中を見たところ、うちの高校の生徒はいなさそうだった。ほうっと、息を吐く。
この前のように俺たちは奥の席に座った。
例のごとく、ホットチャイを頼み、綿貫がカフェモカを注文した後、俺は佐藤の様子がどうだったかを綿貫に尋ねた。
「それで、どうだった。佐藤の様子は?今日会ったか?」
「はい、特に変わったところもなく、何も言われませんでしたよ」
「意外だな」
あの佐藤が昨日の大事件のことを綿貫に話さなかったなんて。
綿貫が言葉を続ける。
「それにしても深山さんすごいです。快刀乱麻って感じでした」
「やめてくれ、褒めても何も出んぞ」
「照れ屋さんですね」
「別に照れてない」
綿貫はうふふ、とさもおかしいという様子で笑う。そして目を細めて、
「いいですね、両想いって。羨ましいです」
「別にお前ならいろんな奴に好かれるだろう」
「そんなことないですよ」
「謙遜だな」
「本当にないですって」
そこまできっぱり否定されるとそうなのかと思えてくる。言ってみればお姫様だから、大抵の男には高嶺の花として映るのだろう。綿貫は頬を赤らめて話を続ける。
「実は好きな人がいるんですが、その人私のことをちっとも見てくれないんです」
俺は何だか居心地の悪さを覚えた。
「悪いが恋バナはよしてくれ。そういうのは佐藤とでもしてくれよ。俺はラブマスターには程遠い存在なんだから」
綿貫は一瞬唇を横にきゅっと閉めて、
「そうですね、すみません」
俺は咳ばらいをした。そして、
「で、話ってなんだ。兄貴のことで何が分かったんだ」
と俺は尋ねる。
「はい、今日お持ちしたのはこれです」
綿貫はそういうと、手垢にまみれた手帳を取り出した。
「兄の手帳です。付箋を貼ってあるところを見て下さい」
俺は言われた通り、付箋のあるところを開き、そこに書かれてあることを読んだ。記述された日は昨年の六月。
「お前の兄貴が家から出て行ったのはいつだったか?」
「昨年の八月六日です」
つまり、失踪の二か月前に書かれた記述だ。こうあった。
『俺は籠の中の鳥だ。生きながらも死んでいる。空に飛び立つことはもちろん、自由に空を仰ぐことさえできない。つながれたザイルがまだ見える気がする』
綿貫は尋ねる。
「どういう意味でしょうか?これを見ると昨年の六月に何かあったように思えます。雅英さんのことを思い出すような何かが」
「どうだろうな、いくら七年経ったとはいっても、親友が目の前で自分の命を守るためにザイルを切ったんだ。忘れることは容易でないだろう。時には思い出すのも当然だ」
「そうですか。では籠の中の鳥とはどういう意味なんでしょうか?」
「お前の兄貴が失踪するころ、研修医だったんだろう。心身ともに疲弊し、見ていた患者さんが死ぬような環境だ。感傷的になってこんな文を書いてもおかしくない。つらい時に昔のつらいことを思い出すなんてよくあることだろう。連想的に雅英のことを思い出したんだろう」
「そうなんですかね」
綿貫は納得しかねる様子である。
「私は何かあったんだと思えるんですよ」
「これだけじゃ何とも言えんな」
「そうですよね」
綿貫はしょんぼりとした様子になった。その時、店員が注文した品を持ってきた。
俺と綿貫がそれぞれの飲み物に口を付ける。
そうして一息付けてから、
「ここまでのことを整理したいんだが、まずお前の親父はお前が生まれてすぐに立山連峰の剣岳で遭難、現在も行方不明。八年前、高橋雅英と綿貫隆一は赤石山脈の北岳に中部山岳会と同行して、高橋雅英が滑落、自らザイルを切り死亡,遺体は後日発見された。そして去年の夏、隆一は『亡者を帰るべきところに帰す』というメモを残し失踪、現在行方不明。合ってるな?」
と俺は言った。綿貫が答える。
「はい、その通りです」
「現時点では隆一がどこに向かったのかも検討もつかない。剣岳かもしれないし、北岳かもしれないし、そもそも山に行っていないのかもしれない」
「それは考えていませんでした。登山道具一式を持って出かけたものですから山に行ったとばかり」
「まあ、あくまで山に行ったと断言できないってだけだ。だが、もし普通に散歩しに行ったのなら、家に帰って来ないのがおかしい。山で遭難したと考えるのが自然だろうな。剣岳に行ったと考えるのは父親の死から長い時間が経っていることから不自然だとお前は考えている」
「おっしゃる通りです」
「しかし、大学を卒業し、前期研修が終盤を迎えた時、自分のルーツである父親のことをもっと知りたいと思って父親が登った剣岳に登りに行ったという可能性は否定できない、と俺は言った」
「でも私はそれを否定しました。兄は何度か剣岳に行ってますので今更になってすることではない、といって」
「だな。それはそれとして、八年前に起きた事件を回顧して、雅英が死んだことに責任を感じ、北岳に行ったとお前は考えた。だが、今度は俺が疑問を持った。雅英の遺体は戻ってきている、そして七年たってなぜ今更?と」
「そうです。そこが問題です。深山さんは兄にとって雅英さんが父親ほど強い影響をもたらすものではないとお考えですよね」
「そういうことになるな」
「でも、実際は深山さんが考えているよりもっと強い影響を持つものだとしたら?」
「どういうことだ」
「兄にとって雅英さんは父親以上に影響をもたらすものだったということです。兄がよく言ってました。『ザイルでつながれた絆は家族のそれよりもずっと強いものなんだ』って。兄は山でザイルでつながった親友を失いました。その衝撃は私たちに計り知れないものです。そして兄はその後一度も北岳に行ってません。気持ちの整理がつかなかったからでしょう。深山さんは時間が経てば傷は癒えるものだと言いました。そうです、だからこそ、傷が癒えたからこそ、兄は北岳に行ったんじゃないでしょうか」
「なるほど、だが、『亡者』の説明にはなっていない」
「それは深山さんの考えを借りましょう。兄がしたかったのは遺体の回収ではなく、故人を偲ぶことだったとしたら?」
「よくわからんのだが」
「……深山さんは魂の存在を信じますか?」
「いや」
「兄が信じていたとしたら?兄がしに行ったのは、雅英さんの鎮魂、亡者として北岳を彷徨っている雅英さんの魂を取り戻すことだった、と考えられませんか?」
「俺はお前の兄貴のことを知らんが、医学科を卒業し医師になろうって人間が魂だ鎮魂だということを信じるとは思えんな。おまえ自身『兄貴は馬鹿じゃない』といっていたじゃないか」
「それは」
「だいいち、論拠がない。全部想像だ」
「それは、深山さんの考えだってそうでしょう」
うっ、それはそうだが。
「今のところ、私は雅英さんの魂の鎮魂に行って、何か事故があって家に戻って来られなくなったというのが妥当かな、と思います」
綿貫は答えが出なくて、焦って冷静な判断が出来なくなっているのかもしれないなと思った。
「どっちにしろ、まだ調査は続ける必要があるだろう。何か見つかったらまた教えてくれ」
「分かりました」
「戻るか」
「そうですね」
俺たちは喫茶店を後にした。
部室には雄清と佐藤がいた。見ると佐藤は少しむくれている。また雄清がいらんことを言ったのかもしれない。
「今日は走らないのか?」
雄清に尋ねる。
「こうも暑いと走る気にならないな。山は涼しくていいんだけどね」
「あっ」
綿貫が何かを思い出したのか声を上げた。
「すみません言い忘れていました。今週山です」
「えっ、そうなの?やった。どこ?」
「伊吹山です」
おー、校歌で何度も称えている山だ。滋賀と岐阜にまたがる山だ。そこそこ高い。残念ながらここからはビルの陰になり見えないのだが。
「山頂は涼しいかなあ。今の時節だと二十度前後ってところかな。うん、悪くない」
雄清は一人合点している。
のどが渇いたっと言って雄清は水を飲みに、綿貫は飯沼先生のところにしおりをもらいに行くって部室を出て行った。
佐藤と俺が部室に残された訳だが、特に話すことはない。佐藤も好んで話しかけては来ないだろうと思い、俺は文庫本を開いた。夏は汗で文庫本も湿って不快だ。
数行読んだところで、佐藤が俺に話しかけてきた。
「ねえ深山」
「なんだ」
「あんた制服とったの誰か分かっているんじゃない?」
俺はぎくりとした。
「そんなわけないだろう」
ああ、つい声が上ずってしまう。俺は表情で悟られないように窓のほうを向いた。
「深山、目をそらすな」
そういって、俺の顔を覗き込んでくる。
「なんなんだよ、急に。もう済んだことじゃないか」
「だって変よ。制服を捜しに行って帰るごろになって『もう戻ってきているんじゃないか』だなんて。あんたまさか共謀してたんじゃないでしょうね」
「馬鹿なこと言うな。昨日言ったように俺はお前の乳臭い制服なぞ興味なっ、いててててっ」
佐藤に腕を思いきりつねられた。
「痛いなもう。そんなに怒るなよ。……俺がお前の制服とって何になる」
「それはそうだけど。……あと気になることがあるのよ」
「なんだ」
「SNSの履歴が消されていたことよ」
「ただのいたずらだろ」
「それがおかしいのよ」
「何がだよ」
佐藤はそれには答えないで、
「ねえ深山、あんた友達を庇おうとしているんじゃないの?」
どうやら佐藤はいろいろ勘づいているらしい。だが、事の次第を話すわけにはいかない。
「何を言っているのかわからんな」
「……いい、普通はスマホには本人しか開けられないようにロックをかけるの。私の制服を取ったのはそのロックを外してしまうような人よ」
「それが何だっていうんだ」
「その暗証番号がある人の誕生日だったのよ。……ねえ深山本当に何も知らないの?」
「さあな、俺は何も知らんさ。で言っとくがな、俺の友達には他人の荷物を意味もなく物色するような奴はおらん」
「やっぱり何か知っているのね」
ここまで来たらもはや言い逃れはできない。が、雄清が何のために制服とスマホを盗ったかは言うわけにはいかなかった。
「……すまんが話せんのだ。だがこれだけは言っておこう。俺の友達は、雄清は誰かを傷つけるような奴じゃないんだ」
「そんなことはずっと前から知っていたわ」
「だから、すべて水に流して忘れてくれないか。あいつはお前のためを思ってこんなことをしたんだ」
「雄君にも何も話せないって言われたのよ」
「あいつがお前のことを大切に思っているからこそだ。頼む。雄清を信じてやってくれ」
「……わかった。このことは忘れる。どっちみち、あんたも雄君も教えてくれないんじゃ知りようがないし。でも後でアイスおごってよね。それならすんなり忘れられそうだわ」
「それは雄清に言えよ」
「黙ってた罰よ」
その時、雄清と綿貫の二人が戻ってきた。
「戻りました」
「ありがとう、こっちゃん」
「伊吹山のしおりです」
と言って、綿貫がみんなにしおりを配る。
今回は現地集合か。JRの近江長岡駅に朝8時に集合。
ほう、滋賀県のほうまで出るのか。岐阜側に登山道はないのか?ああ、
地形図を見ると伊吹山南側斜面は等高線が密に書かれている。所によっては崖登りをしなければならないのかもしれない。山に登り始めて日の浅い素人がそんなことをすればクライマーズハイを通り越して本当にハイな場所に召されてしまうだろう。
「綿貫さん、今日も金曜にミーティングでいいのかな?」
と雄清が尋ねる。
「あー、そうですね。先生に確認してきます」
「悪いね」
「いえ、私部長ですから」
そういうと、綿貫は出て行った。ご苦労なこって。
「健気だよな、あいつ」
俺はポツリとそう言う。
「何、急に?こっちゃんのこと好きになっちゃった?」
佐藤はすぐに軽口で返す。本当こいつはくだらんことしか言わんな。
俺は少々、むっとして返した。
「違う。はあ、お前はどうしてそう物事を短絡的にしか見られないんだ。かわいそうなやつだ」
「何よ!偉そうに」
「まあまあ。落ち着いてよ二人とも。……確かに綿貫さんはいい子だね」
と雄清が仲介に入ったところ、ムウと佐藤は膨れ面をする。はっは、嫉妬していやがる。
「なんかなあ、世間擦れしていなくて、あいつを見ていると、この世には確かに善人もいるんだなと思えてくる」
俺は言葉を続けた。
「何よ、私はずるがしこいって言いたいの?」
「賢くはないな」
「ひどいっ。そんなんだから彼女もできないのよ」
「できなくて結構。別に欲しくもない」
雄清が横やりをいれる。
「うーん、けんかするほど仲がいいというのはまさに逆説だな」
「「うるさい」」
俺と佐藤が同時にそう言う。すかさず、
「ほらっ!息ピッタリじゃないか」
と雄清があまりにもおどけた調子で言うので、俺も佐藤もなんだか笑えてきてしまった。
「そうそう、けんかしていてもいいことなんてないよ。どうせなら笑って過ごそうよ」
「そうね、こんな奴の相手しても馬鹿らしいわよね」
「おかしいな。俺が相手してやっているはずなんだが」
「バーカ」
そういった後、佐藤は笑う。俺も佐藤の行儀の悪い言葉に気を悪くすることもなく、笑いあっていた。あれ、なんだか楽しいな。
佐藤が幾分か落ち着いてから話を続ける。
「そうね、こっちゃんは確かに特別よね」
「だろう。ほらあんなこともあったじゃないか。佐藤の国語力について話した時」
「あー、あったね。あれは傑作だったよ」
と雄清が言ったところで、佐藤も思い出したようだ。
「もうやめてよ。済んだことでしょ」
このような話である。
部室で佐藤が話をしている。いつものような取るに足らないゴシップだ。山岳部一同が部室に会していた。
「それでさ、とうとうあの二人もよりを戻したわけ。やけぼっくりに火が付いたっていうの」
俺は文庫本を読みながら、佐藤の誤りを訂正した。
「それを言うならやけぼっくいだ。松ぼっくりじゃないんだから栗に火はつかんぞ」
「そうだったっけ?」
「そうだ。まったく、これくらいの言葉を正しく使えないとはかわいそうな奴だな」
「なっ、なによ。たまたまよ。ほら何か問題出してごらんなさいよ」
「そうだな……、じゃあ、腹に一物があるの意味は?」
「ちょっ、変なこと言わせないでよ」
「はあ?お前何言ってんだ。わからんのか?」
「わかるけど、わかるけどさ、そんなこと人前じゃ言えないわ」
こいつ絶対分かってないな。面白そうだから追求してみよう。
「答えてみろよ。国語の苦手な留奈さんよ」
「っ、わかったわよ。ええと、その」
佐藤はためらいながら至極小さな声で答えた。
「お腹の上に、ナニが乗っかってるってことよ」
……。雄清は爆笑している。
「お前何言ってんだよ。ナニってなんだよ」
「……マラよ」
ああ、どうやらこいつは一物をあれと勘違いしているらしい。雄清はもはや耐えられないといった表情である。抱腹絶倒とはこのこと。
「佐藤留奈、国語はしっかり勉強しましょう。人として信用されないぞ」
「なっ、何よ。ちゃんと答えたじゃない。あんな意地の悪い質問して!」
「何言ってんだよ。この変態が」
「変態はそっちでしょ!ねえ雄君」
そう言って佐藤は雄清に助けを求める。しかし雄清も今回ばかりは擁護しきれない。
「ごめん留奈、今回は留奈が悪いよ」
「えー」
すると、綿貫がおずおずと会話に参加してきた。
「あのう、まらって煩悩のことですよね」
さすが綿貫である。お嬢様は世俗に疎い。元の意味はそうなのかもしれない。
「まあ、ある意味、煩悩の本ではあるな」
「つまりなんのことですか」
「佐藤、お前詳しいだろう。説明してやれよ」
「馬鹿言ってんじゃないわよ」
「深山さん意地悪しないで教えてくださいよ」
……、むしろ俺のほうが困ってるんだが。
「そうだな、とりあえずお前は数年は触ることも見ることもないだろうな」
「そんなに貴重なものなんですか?」
「いや、世界の半分はそれでできているとも言える。普段は目に見えないんだ」
「そうなんですか。何だか妖精みたいですね」
そんな素敵なものでは決してないのだが。横を見ると、雄清は爆笑、佐藤は必死にこらえてはいるが、口元が笑っているのが見える。どうやらこの部室で汚れていないのは綿貫だけのようだ。
綿貫は
「どうして、お二人は笑っているんですか?」
と言って首を傾げるばかりである。
以上のようなことがあったのだ。
綿貫が部室に戻ってきた。
「戻りました。金曜にミーティングでいいそうですよ」
「ありがとう、綿貫さん」
「なんだが皆さん楽しそうですね。何かあったのですか?」
綿貫が俺達の様子を見て言った。
「深山がこっちゃんのこと褒めてたのよ」
「おい」
畜生、佐藤の奴、さっきからかったことの復讐をする気でいる。
「そうなんですか?なんだか照れますね」
形勢は不利だ。とっととずらかろう。
「俺は知らん。帰る」
俺は足早に部室を後にした。
佐藤が俺が帰ったのちに、綿貫に何を吹き込むか全く知りえない。思えば部室に残っていたほうがよかったかもしれなかったが、今となってはもう遅い。
その日、帰った後、何気なく、PCを起動させた。ネットニュースを眺めていると、山についての記事が出ていることに気が付いた。『遭難救助に協力、感謝状』気になったので開いてみた。記事の最後には感謝状を受け取っている人の写真が出ていた。人の顔を覚えるのは得意なほうだ。その人の顔に見覚えがあったのでどこで会ったのか考えたら、すぐに思い出すことが出来た。
「日和見荘の店主だ」
『中部山岳会会長、松下銀次さん(五三)は北岳で、足を怪我したほかの登山客を,近くの山小屋まで運び、救助隊を呼んだ。助けられた坂田洋一さん(三五)は命に別状はない。松下さんは単独で北岳に登っていた。松下さんは「登山家はみな助け合うものですから」と誇ることもなく、「感謝状をいただくことは、大変光栄です」と述べていた』
記事の内容もなかなか興味深いものではあったが、俺は「中部山岳会」という言葉に引っかかった。確か綿貫隆一と高橋雅英が北岳に登攀したときに随行したのも中部山岳会であったはずだ。俺は綿貫に渡されていた、今までの調査をまとめた資料を見た。
『兄は高橋雅英と中部山岳会の冬期登攀に参加。高橋雅英と兄とをつなぐザイルが切れ高橋雅英は滑落死』
中部山岳会。そこの会長が日和見荘の店主だったとは。
俺と綿貫が初めて日和見荘を訪れた時、店主つまり松下さんは『よくお父上が許されましたな』といったあれは単に危険なスポーツをすることに対してではなく、あいつの兄貴のことを知っていたからなのかもしれない。今会長なのだから、決してにわか会員ではないだろう。滑落事故が起きた時に会に所属していた可能性は高い。もしかしたら、北岳登攀に同行していたかもしれない。
「話を聞いてみるか」
出歩くのは好まない質だが、問題の先延ばしはもっと好かない。それにマットやザックなどまだそろえていない用具もある。遅かれ早かれ日和見荘には行かねばならないのだから、今日行ってもいいだろう。今四時半だ。急げば夕食には間に合う。
俺は身支度をして、家を出た。
夏の日は長い。まだ空は明るく、電車からは街を行く人が良く見えた。真夏の空の下だ。サラリーマン風の男性は、ハンカチを手にして汗をぬぐっている。こんなに暑いのに、スーツを着なければならないというのはたいそう不条理なことのように思えるが、これがこの国の風習である。いずれは俺も従わなければならないのだろう。
名古屋駅で電車を降り、日和見荘へと向かう。
「いらっしゃい」
店主、松下銀二さんは快活な様子で俺を迎えた。
「あのう、すみません」
俺は声をかける。
「何をお探しですか?」
「今日は聞きたいことがあってこちらに伺ったのです」
「何でしょうか」
「高橋雅英さんのことについてお尋ねしたいのです」
俺の言葉を聞いた、松下さんは顔を曇らせた。訳知り顔である。やはり、北岳冬期登攀に同行していたのだろう。
「君は誰だね」
「綿貫さんの知り合いです」
「もしかして、綿貫の御嬢さんと一緒に当店にお越しくださっていた人かな?」
「はい」
「すまないが、名前を覚えていない。お聞きしたかな」
「言ってないと思います。深山太郎といいます」
「して、深山君、いったい何を聞きたいというんだね。新聞社に話した以上のことは話せないと思うんだが。そのくらいのことは君も知っているんだろう」
「ちょっとした確認をしたいのです」
「答えられることなら答えるが、その前になぜあの事件のことを調べているのか教えてくれないか」
「さやかさんに頼まれているんです。さやかさんは彼女のお兄さんが失踪した原因があの事件と関係があるのではと睨んでいるんです」
「まってくれ、隆一君が失踪したって?」
「ご存じなかったですか?」
「ああ、ちなみにいつ頃?」
「去年の夏だそうです。綿貫家の主人の話を聞くに山に行ったそうなんですが」
松下さんは暗い顔で「そうか」といっただけで他に何も言わなかった。あまり驚いた様子はない。年を取ると人は滅多に驚かなくなるらしい。松下さんは話を変える。
「それで話とは何かな?」
「簡単な質問です。隆一さんと雅英さんは仲が良かったのですか」
「深山君、それは君、愚問だよ。逆に聞くが、君はさして好きでもない人間、信用できない人間に命を預けられるか?あるいは、命綱でつながった相手に特別な感情を抱かないということがあるか?ザイルでつながった絆は、家族のそれよりも強い。よく言われていることだ」
「そうですか。では、北岳に登る前、何か変わったことはありませんでしたか?」
「というと」
「例えば、二人が喧嘩していたとか」
「君、あれは事故だったんだぞ。それに雅英君は自分でザイルを切ったんだ。喧嘩してたからって何だっていうんだ」
「ええ、一応確認です。特に意味はありません。たださやかさんはお兄さんのことについてどんなことでも知りたがっていると思うんです。彼女の狭い意味での肉親は隆一さんだけですから」
なぜか、流暢に綿貫がしゃべりもしないことが口をついて出てくる。俺は少し軽薄な人間なのかもしれんなと自嘲する気分になった。
松下さんはしぶしぶ話し出した。
「喧嘩か。そういえば行きの電車で大声上げて喧嘩していたな」
「どんな内容でしたか」
「うろ覚えだが、『お前の家は今も昔も人殺しだ』と言っていたのは覚えている」
「雅英さんがですか?」
「ああ、あまりに衝撃的な言葉だったから覚えていたよ。あれは喧嘩というより、雅英君が一方的に騒いでいる感じだったな。隆一君は怒りもせずにそれをなだめている感じだった。すぐに雅英君も落ち着いたから、私もあまり気にしていなかったんだが。だから、関係ないだろう。滑落事故にはもちろん、隆一君の失踪についても」
「そうでしょうね。ありがとうございました。質問は以上です」
「この話が御嬢さんの調査の役に立つとも思えんがな」
「何が役に立つかは、調べているときはわからないものですよ」
「それは道理だが……。それで、今日は話だけなのかな?」
「あっ、いえ、マットとザックを買いに来たんです」
俺は必要な用具を購入したのち、家に帰った。
今日、あのような話を聞いたのには理由がある。高橋雅英の母親から話を聞いた時から、引っかかっていたことがあったのだ。いくら友達を救うためといっても自らの命をみすみす捨てるようなことができるのか、ということだ。高校一年生がそのような行動をとっさにできるのかと。俺は考えられる原因を思索した。高橋雅英は引きこもりがちで、どちらかというと、精神的に不安定なところがあった。それがザイルを切って自らの命を捨てるという行為につながっているのならば、事故の起きる前に何か予兆があったのではと思ったのだ。今日は興味深いことを聞けた。『お前の家は今も昔も人殺しだ』これの意味するところのものは大きいだろう。このことを綿貫に報告するのは少々気が重たいが、これは綿貫の調査だ。知らせないわけにはいかない。あいつは真実を知るためには多少痛い目にあってもいいという覚悟でいる。ならば俺がためらうべきではないだろう。明日になったら綿貫に伝えようと思い、俺は寝床についた。
俺は翌日、部室で綿貫と二人だけの時を見計らって、昨日知り得たことを綿貫に伝えた。
「高橋さんがそんなことを言っていたなんて」
「そうだな。俺も驚いた」
「どういう意味なのでしょうか」
「お前の家が人を死なせているということだろう」
「いえ、そうではなくてですね、そういうことを言った背景がわからないんです」
「そうだなあ。……昔というのがどのくらいか分からないが、お前の家が腰にチャンバラをぶら下げていた時のことを指すのならば、複数人、人を殺していてもおかしくないだろう。それが武士の仕事であるからな。それに対して今というのは、当然俺達が生きている時代の事だろう。そしてお前の家は病院経営をするに至っている。そこで人殺しとはどういうことか。医者というものはむしろ人を助ける仕事だ。だが、医術は、お前のほうがよく知っていると思うが、万能ではない。人は必ず死ぬ。病院で助けられない命も当然あるだろう。医者にしてみれば理不尽なことかもしれないが、死んだ患者にしてみれば、病院に殺されたと思われても仕方ないのかもしれない。……飽くまで推論に過ぎんが、高橋雅英は極、親しい人をお前の家の病院で亡くしている可能性がある」
綿貫はしばらく何も言わなかったがポツリと口を開いて言うには、
「……井上奏子さん」
「ん?なんだ」
「井上奏子さん。高橋さんの恋人だったようです。彼の日記に名前がよく出ていました。そして最後に出てきたのが『奏子はもう永遠に俺のもとには戻ってこない』北岳登攀の一か月前の記述だったと思います」
俺は綿貫の化け物並みの記憶力に舌を巻いた。綿貫の言う日記とは、高橋家で一度見せてもらったもののことだ。たった一度見た記述を綿貫は覚えていたのである。
「よくそんなこと覚えていたな」
「私、記憶力には自信があるんですよ。それに『永遠に』という言葉が引っかかっていたものですから」
「その井上奏子がお前の病院に入院していたかどうか調べられるか?」
「医者には守秘義務があるんですよ」
「病院のトップのお嬢さんが頼み込むんだ。教えてくれるんじゃないか」
「……悪いこと考えますね。……分かりました。叔母の甥も大海原で働いています。その人とは親しいので頼み込めば調べてくれるかもしれません」
「頼んだ」
さて、報告は済んだ。久々に運動をしなければ。明後日には山行が控えている。このなまった体で登るのは危険だ。明日はさすがに激しいトレーニングはできないし,今日走らなくては。
俺が部活を始める準備をしようと思ったところで、綿貫が話しかけてきた。
「あのう」
「なんだ」
「高橋さんが、兄に、大海原病院で亡くなった人のことを言ったからといって、兄の失踪に影響を与えるようなことになるのでしょうか?仮に井上さんが大海原で亡くなっていたとしても、免許すら持っていない兄が関知することではないですよね」
俺は、少し考えてから、こう綿貫に告げた。
「お前の疑問はもっともだ。だがこう考えてみてくれ。高橋は北岳で宙づりになったとき、すぐにザイルを切った。妙じゃないか?お前の兄貴がピッケルで体を固定していたのならば、高橋は壁をよじ登ることだってできたはずだ。なのにそうしなかった」
「でもそうすると二人とも助からなくなると判断して……」
「だが、弱冠十六の人間が、親友の命を助けるためといえど、すぐにその命綱を断ち切れるだろうか?ましてや、宙ぶらりんの状態で冷静な判断ができるか?俺は怪しいと思う。高橋雅英の母親も言っていただろう。雅英は引きこもりがちだったと。言い方は悪いかもしれないが、彼は打たれ弱い人間だった。事故当時、高橋の精神状態は非常に不安定だったんじゃないだろうか。だから、お前の兄貴に誹謗を言い、そして、自らの命をなげうつのをためらわなかったんだ。。雅英がザイルを切ったのは単に友人を助けるためじゃない。彼の不安定な精神状態があったが故の悲劇だったのさ。恋人の死、それだけで雅英が自暴自棄になるには十分だった」
「だったら私の兄は」
「お前の兄貴は悔いたんだ。高橋雅英を北岳に連れて行ったことに。友人の精神状態に気づくことが出来ず、結果として、友人は死んでしまった。自責の念が長年、お前の兄貴の中に渦巻いていたであろうことは想像に難くない」
「なるほど」
「だが、何が引き金となってお前の兄貴が家を出たかはまだわからんがな。それにあくまでこれも推論でしかない。とりあえず、井上奏子が大海原に入院していたかどうかだけ調べておいてくれ」
「はい」
「じゃあ俺は着替えるから」
「私も着替えますね」
綿貫は仕切りの向こうに行った。
伊吹山は低山ではあるが百名山の一つに数えられている。濃尾平野に面してはいるが、冬の積雪は多く、過去には十メートル以上も積もったこともあるそうだ。今では悲しいかな、地球温暖化の影響か、積雪は減り、かつてあったスキー場も閉鎖し、山の中腹には廃屋となったロッジがいくつも立ち並んでいる。
ところで観光地化している山にありがちなことなのだが、伊吹山には二つの登り方がある。一つ、自分の足で歩く、二つ、「車など」で登る。「車など」とはロープウェイ等も含む。「残念」なことに伊吹山ロープウェイは廃止されているが。
二の登山客にありがちなことなのだが、パツパツの、どう見ても運動向きではない服を着て、ヒールの高い靴を履いた人がいて、彼らの中には、しんどい顔をして登ってくる我々を奇異なものを見るかのような目で見てくる。「なぜわざわざそんなつらいことをしているのか、自動車を使えばよいではないか」と言わんばかりの目だ。というか、実際、言っている奴がいた。登山を何と心得るか!雄清あたりはそういうだろう。というか雄清の言だ。
だが俺は、一年前の俺は、あちら側の人間であったから、ただ「はあ、そうですか」としか反応できないと思う。その前に、車ですら山に来ようとも思わないだろう。
登山中は道すがら、小学生が一緒であった。正確には小学生の団体か。
聞くところによると、毎年全校を上げて、伊吹山に登るという行事を行うらしい。「全校をあげて」である。千人近くの児童たちがそろいの体操服に身を包み、山を登っている。小学校の先生もご苦労なこって。
それも相まって、百名山ということだからなのか、やけに人が多かった。山道は当然広い道ばかりではない。所々で渋滞が起こる。これは登山をしているというより、テーマパークのアトラクションに並んでいるといった感覚を覚えるな。
さすがに、スカートで登っている強者はいなかったが、明らかにピクニック感覚で来ているなという感じの人は多かった。飯沼先生曰くこういうのを「ミーハー」というらしい。低山と言えど、百名山であることには変わりはない。それに登ることで自己満足を得るには十分だろう。
名古屋で遊ぶのに飽きたから、ここにきているというような人もいるのだろうか?その、休日を何としてでもレジャーで潰したいという根性には感服すらする。強制的に登らされている小学生がいる一方で、そのような御仁がいるのだから、興味深いと言えば、興味深い。
わざわざ、その「ミーハー」集団に突っ込むことを選んだ顧問の考えは理解不能だが。
山頂はガスっていた。晴れていたのならば、琵琶湖が見えるそうだが、生憎見えない。名古屋方面も同様で、何も見えなかった。山の南東斜面、つまり名古屋側だが、かなりの急勾配で、上から覗き込むと目がくらんだ。ふちに立っているときにバランスを崩せば、たぶん帰ってくることはできないだろう。
正直なところ、山頂では登頂した達成感を静かに味わいたかったのだが、雰囲気がそれを許してくれなかった。というのもさっき言ったように、ハイヒールを履いた姉ちゃんがウロチョロしているようなところなのである。見ると少し下ったところに駐車場があった。
極めつけは、山頂の小屋で売られていた、ソフトクリームだ。ここは山頂ですよ!
さすがに、腹を下すのは嫌だったので、ソフトクリームを買うことはしなかった。
俺たち四人は固まって昼食をとった。
「拍子抜けしたわ」
佐藤が、おにぎりを頬張りながら、言った。
「何のことですか」
綿貫が佐藤に尋ねる。
「この人の多さよ」
「加えて皆、軽装と来ている。重装備をして登っている俺らが間抜けみたいだ」
「伊吹山はアクセスもしやすいし、何より有名だからね。百人一首にもあるよ。『かくとだに えやは伊吹の さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思いを』ってね」
「恋歌か」
「ご名答」
「なんで有名なんだ。たかが一三七七メートルだろう。立山や穂高、槍ヶ岳と並べる理由がわからん」
「百名山だね。富士山を挙げないひねくれっぷりはさすが太郎だ。いいよ、そういうところ好きだな」
「ほっとけ」
「でも太郎。いただけないよ」
「何がだ」
「その態度さ。その言い方だと、高い山のほうがいいってことになる。それなら標高順位と変わらないよ。深田久弥が『日本百名山』を書いたのが標高順位をはっきりさせるためだったと思うかい?和歌に詠まれるぐらい伊吹山は人々になじみの深い山だ。霊峰として神聖な場所でもある。加えて植生が豊かだ。太郎も見ただろう。草地が広がっているのを。天空のお花畑さながらだったろう。ここには見るべきものがたくさんある。だからこそ名山なんだ。数値だけ気にして山に登るなんて、無粋だねえ」
「だったら、おそらく、百名山だからここに集まっている連中も無風流じゃないか。ランキング好きな、つまらん奴らさ」
「いやあ、太郎、手厳しいな。でも、僕らも山の玄人というわけじゃないし、百名山を足掛かりにして山を好きになる人もいるだろうから、そんなに悪いことじゃないと思うよ」
すると近くにいた初老の男性が話しかけてきた。
「学生さんですか?なかなか興味深い話をしておられる」
「高校の部活で来ています」
綿貫が答えた。
「高校生かあ。若い人が山に興味を持つのはうれしいことです。そちらは先生ですかな?」
その男性は脇にいた、飯沼先生を見やる。先生はこちらを向き、
「はいそうです。年の差が三五歳以上ですから、ついていくのが大変ですよ」
といった。
「若い力には敵わんもんですな」
「全くですよ。もうちょっと手加減して欲しいんですが、こいつらは老人に厳しいんで」
「ははは、みんな先生には優しくしてやりなされ」
「はい」
雄清が苦笑いしながら答えた。男性は続ける。
「どちらから来たのですか?」
「名古屋からです。ご存知ですか?
「ええ知っていますよ。私も愛知出身ですので。皆さん優秀なわけですな」
まあそれはピンキリなのだが。
このように赤の他人と打ち解けるのも山のなせる技である。
山頂での小休止の後、下山を始める。下山は登るときほど時間はかからない。楽だ。なんて気を抜いているとけがをする、慎重に降りねば。
しかしながら、問題が続発した。
まず雄清。五合目あたりで急に気分が悪くなったと言って、脇の茂みに嘔吐した。食ったものがまずかったのかもしれない。山では気分が悪いからと言って救急車を呼ぶことはできない。幸いはいたら幾分か気分がよくなったようで、しばらくしてから歩き始めることが出来た。
次に佐藤。途中小休止をしようとして荷物を下ろしたところ、ザックが斜面を転げ落ちてしまった。これまた幸いなことに道に出て止まり、誰かに当たることもなかった。落石でも起これば大変なことになっていた。以後気を付けてほしい。
最後に綿貫。もう町が見えているというところまで下りてきたところで、どしんと大きな音がした。また佐藤が荷物を落としたのかと、思ってみると、綿貫が後ろですっころんでいる。
「大丈夫こっちゃん!」
「足を滑らせました」
「たてるか?」
綿貫が立とうとして、足に力を込めた時、顔をしかめてうめいた。
「右足をくじいたみたいです」
「まずいな」
ああ、平地に降りられれば、あとはどうにでもなる。だがここはまだ山なのだ。目の前に町が見えているとしても後の数百メートルを自分の足で歩かなければならない。
「誰かが、おぶるしかないな」
飯沼先生が恐ろしいことを言う。
「おい、誰か負ぶってやれ」
俺たち三人は顔を見合わす。
「雄清は……無理か」
「ごめんよ」
さっき、吐いている人間に人を背負って山をくだれと言うのは酷だ。
「佐藤は……」
「私、女の子よ」
「一応な」
間、髪を容れず裏拳が飛んでくる。
「先生は?」
「私?私が負ぶったら怪我人が増えるだけだぞ」
あーなるほど。魔女の一撃ならぬ、綿貫の一撃といったところか。
「じゃあ……俺しかいないじゃないか」
しようがない。日々の鍛錬の成果がこんなところで発揮されるとは。
「すまないが、雄清と佐藤、せめて荷物は持ってくれ」
雄清達に荷物を渡し、綿貫を背負う準備をする。お嬢様に触れるのは気が引けるが、仕方ない。
「少しの間我慢してくれ。すぐ下りられるから」
「すみません。私の方こそ。皆さんにご迷惑をおかけして」
足を踏ん張ったが、綿貫は思ったほど、重くなかった。……いや別に、太っているとかそういうことではなく、とても軽かったのだ。俺に筋力が付いたせいかもしれない。あと二百メートルぐらいなら大丈夫だろう。登山道の入り口はもう見えている。
女を背負えば当然あたるはずのものが当たっていることは、努めて考えないようにした。太ももに触れているだけで心は苦しいのに。全く、今日は厄日である。
大分、時間はかかったが、何とか下のバス停までたどりつけた。
「本当にすみません。重くなかったですか深山さん?」
「骨が折れるかと思った」
綿貫はカチンと凍ったようになった。
「うそ」
「ひどいです」
「わるいわるい」
綿貫がバスに乗るのにも肩を貸してやった。
近江長岡から列車に乗り、終点の岐阜へと向かう。
岐阜駅に到着しホームにて集合する。
「綿貫は家は名古屋駅の近くなんだよな?」
先生が綿貫に尋ねた。
「はい」
「一人で帰られるか?家に電話しようか?」
「いえ、大丈夫です。タクシー拾いますから」
「そうか。……えーと、今日はちょっとトラブルがありましたが、何とか戻ってこられたので良かったです。体調の悪い人は
言うや否や、飯沼先生は帰途に就く。
よし、俺も帰るかと、各停のホームへと向かおうとすると、
「ちょっと、深山、こっちゃんのことを見送りなさいよ」
「なぜに俺?お前が付いて行ってやれよ」
「こっちはこっちで要介護者がいるのよ」
見ると雄清の顔色はさっき見た時より悪くなり、蒼白となっている。
「あー」
「あの私大丈夫ですから」
そう言って綿貫はベンチから立ち上がろうとするが立てない。
「腫れているんじゃないか。ちょっと脱いでみろよ」
「……」
「靴だよ」
「あ、そっちですか」
じゃなきゃ、どっちだよ。
綿貫が靴を脱いでみると比べる間もなく、腫れているのがわかった。
「これはひどいな。改札までも歩いていけないんじゃないか」
「あんた、また負ぶってやんなさいよ」
「あの、それはさすがに恥ずかしいです」
右に同じ。さすがに都会のど真ん中でそんな醜態は晒せない。
「まあ、とりあえず、名古屋までついていってやる。肩貸すから、ほら」
「すみません」
俺たちは列車内の清掃が終わるのを待ち、また快速に乗った。雄清と佐藤は各停に乗り、家に向かう。
俺と綿貫が乗った列車は、俺の家の最寄り駅を止まることなく過ぎ、名古屋駅へと到着した。
四苦八苦しながら、綿貫を改札まで運ぶ。
俺は改札を出て、周りの様子を見た時、いやな予感がした。異様に人が多いのである。綿貫も異変に気付いたようで、
「どうしたんでしょうね」
「わからん」
俺はそういってから、近くにあった電光掲示板を見た。
ああ、
「最悪だ」
「どうしました?」
「JRの下りが止まっている」
「それって……深山さんが帰れないじゃないですか!」
「いや、私鉄を使えば何とかなると思うが、それよりも……ちょっとここで待っておいてくれ」
「はい」
俺はターミナルの外に出て、タクシー乗り場を見に行く。
思った通り、タクシー待ちで人がごった返している。身動きの取れない綿貫をそこに置いていくのはさすがの俺でもできない。
綿貫のところに戻る。
「どうしたんです?」
「タクシーが使えそうにない。たぶん一時間ぐらい待っても」
「私待ちます」
「片足でどうやって?」
「それは……」
「家の人はいないのか?」
「今日は緊急オペがあって、たぶんまだ駄目です。大手術だと叔父は言っていたので」
はあ、首を突っ込むなら、最後までということか。
「家まで連れて行くよ」
「そんな、深山さんに、ご迷惑をかけられません」
「いやそうしないと、俺が佐藤に何を言われるかわからん」
そう言って、ザックを前に回し、しゃがみ込む。
綿貫はいやいやといった様子で俺に負ぶさった。ターミナルから出て、綿貫の家がある上田へと向かう。
綿貫は顔を隠すようにしてうずめた。
「恥ずかしいです」
俺も同様である。
俺は歩きながら道行く人に念じた。頼むからこっちを見ないでくれ。決してバカップルなどではない。これは不可抗力なのだと。だが、道行く人はみな、あきれ顔で通り過ぎてゆくような気がする。自然と俺の歩は早まる。
人通りも幾分か少ないところまで出た。
「今日は厄日だな」
「本当にすみません」
「まあ気にするな。明日は我が身というだろう」
綿貫はそこで唐突に、妙な質問をしてきた。
「……深山さんって、女の子に告白されたことありますか?」
急になんだと俺は思ったが、
「嫌いですと告白されたことならあるぞ」
「冗談ですよね」
いや、本当なんだが。
「……ないんですか?」
「俺をいじめて楽しいか?」
「いえっ、そんなつもりは」
「じゃあなんでそんなこと聞くんだ」
「ただ気になったんです。深山さん優しいし、頭良いので、好きになった人もいるんじゃないかと」
「俺の経験則だが」
「なんです?」
「女は男に褒めるところがないと、優しいというんだ」
「そんなことないですよ」
「いやあるね。優しいにしても女は自分に特別優しい男を好きになるもんさ」
「考えすぎですよ、深山さん」
「どうだか」
「……きっといると思います。深山さんのこと好きになってくれる人」
「そいつは多分、かなりの変わり者だな」
綿貫はそのあと何も言わなかった。たぶん笑っているんじゃないだろうか。
しばらく歩いてから、再び綿貫は口を開いた。
「あの深山さん」
「なんだ」
真夏の名古屋のビル群の谷間、一人の少女を背負い、汗をだらだらと流しながら、俺は歩いている。口を開くのさえ、億劫に感じてしまうが、連れていくと言った以上、弱音を吐くわけにもいくまい。なんでもない風を装い、俺は応えた。
「実は兄と雅英さんに関して気になることが見つかったんです」
綿貫は神妙な声で言う。
ここで、兄貴の話とは、なんとも奇妙なタイミングで話し始めるものだ。
「唐突だな」
「二人きりになれたので」
「まあいい、話してみろ」
「はい。実は北岳に、高橋雅英さんを忍ぶ石碑が、最近になってたてられたそうです」
「ほう。それがどうした」
「誰が建てたか分からないんです」
「自治体じゃないのか?」
「問い合わせてみましたが、建てられていたことさえ、把握していませんでした」
自治体に無断で、しかも国立公園に石碑を建てられるとは、いかがなものかと俺は思った。問題の本質はそこではないが。
「じゃあ、中部山岳会は?」
「松下会長に訪ねましたが、ご存知なかったです」
なるほど、最近できたから、当事者以外は関知していないということか。だが、だとすると、
「お前はどうやって知ったんだ?」
「ブラウザを使って、ある人の登山日記を見た時に知りました」
ブラウザを使う、とはいかにも綿貫らしい言い方だなと思いながら、俺は続きを促した。
「それで、その日記を書いている人によると、今年の春に登ったときは石碑はなく、七月になって登ったときに見つけたそうです」
「つまり今年の晩春から初夏にかけて建てられたということか」
「ええ、そういうことですね。どうです、誰が建てたのか気になりませんか?」
「そうか?若い登山家の死を悼む人なんて珍しくないだろ」
「ですけど、石碑建てるのって結構お金かかると思いますよ。それに山道ですし」
それはそうだな。
綿貫の言い分はよくわかったのだが、脂汗をにじませながら歩いている俺の体力は、いい加減、限界に近づいてきている。
「というか綿貫よ」
「なんです」
「しゃべると疲れるんだが」
「あっ、すみません。静かにしておきます」
それきり、俺の耳に届くのは、都会の喧騒と登山靴で舗装路を踏む、鈍い音だけだった。
いつか来た、綿貫邸へは、裏口より、進入した。
裏の庭は、一般向けに公開されている表の庭園より家主の好みが反映されているようだ。種々の果実の木や、草花が植わってある。
裏口ではあるが、家の者は普段こちらを利用しているらしい。十分に広い、二つ目の玄関から建物の中に入った。
「どこにいけばいい?」
ザックを玄関においてから俺は綿貫に尋ねた。
「左に進んで突き当たりが私の部屋です。そこまでつれていってください」
「わかった」
俺はすんなりと靴を脱げたが、足を痛めている綿貫は脱ぐのに手間取った。
「大丈夫か?」
「なんとか」
ふたたび綿貫を背負い、言われたように綿貫の部屋へと運ぶ。
思えば、女子の部屋に入るのは、人生初のことである。いい匂いでもするのだろうかと、馬鹿なことを考えながら、綿貫を落とさないように慎重に戸を引いた。
「ここら辺でいいか?」
そう言って、腰を落として、膝をつき、綿貫を椅子に座らせた。
「ふう、やっとついた。全く、本当にお嬢様待遇だな」
「本当に、今日はご迷惑を」
「いやいや、冗談さ。明日は我が身、だろう」
「本当にありがとうございました。足がよかったら、お茶でも用意するんですけど」
「気にするな」
「せめて、余分にかかった電車代だけでも受け取ってください」
断る理由もなかったので、綿貫が差し出した硬貨を受け取った。
「足、叔父さんによく見てもらえよ」
「はい。深山さんも帰り道で熱中症にならないようによく気を付けてください」
「ああ、じゃあな」
「お疲れ様です」
綿貫は椅子に座りながら、深々と頭を下げていた。
名古屋駅に向かう道すがら、俺の手と背中には、綿貫の太ももと胸の感触がまだ残っていた。綿貫が気にしていない以上(あるいはそう見せかけていただけかもしれないが)、俺も気にするべきではないのだが、どうにもその感触はなかなかぬぐい去ることはできなかった。
ビルの窓には夕陽がキラキラと輝いていたが、辺りには、アスファルトさえ溶けてしまいそうな熱気がまだ漂っていた。
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