綿貫の兄

 テスト週間中は雄清の言うように、部活動は原則禁止となる。山岳部も当然、例外ではなく、ホームルーム後、部員は家へと直行する。

 勉強が好きと言う輩は確かに存在する。実際に目にしたこともある。しかしこの世には勉強が嫌いな人間の方が圧倒的に多い。教科書と黒板とを交互に、にらめっこするより、漫画や文庫本やテレビ、そして端末を眺めていた方が楽、むしろ楽しいのは異論ないだろう。

 俺はというと、大多数の人間と同じように勉強なんか好きではない。やらないで済むのならやらないでいて一向に構わない。しかし、この文明社会、学歴主義国家(幾分かましになったとは言えど)に住まう以上勉学に励まざるを得ない。学校の教師は進んで言いたがらないようだが、この国ではいい大学、つまり偏差値の高い大学に行った奴が、後々いい思いをするような仕組みになっている。教育者は言う、大学名、偏差値に囚われるな、と。そうはいっても、弱冠十五歳の我々に人生の方向を定めろと?……無理がある。今は目の前のにんじんを追いかけるしかない。いい大学に行けば人生得だ。それでいいじゃないか。

 俺とて学歴主義なんてくだらないとは思う。人間の評価が肩書きで決まる。そんな馬鹿げたことがあるか。しかし、この国ではそれがまかり通る。エントリーシートに東大と書いてあって落とすような企業がどれだけあろうか。

 学歴主義は富国強兵の産物だ。つまり、古代の遺物。しかし、学歴主義にも意義はある。難しい大学の名を背負うには、それ相応の努力を要する。個人間のIQの差は確かにある。しかしそれだけで受かるほど大学受験は甘くない。必要なのは努力だ。企業が大学名で就活生を評価するのを、その大学に入るに要した努力を評価しているものと考えれば、学歴主義は全否定されるほどのものでもない。

 そんな感じだから文句を垂れるよりも、素直に勉強するのが楽なわけだ。そういうわけで授業で学んだことの復習もかねて、今日から二週間俺は机にかじりつく。

 

 二週間後、考査最終日。出来はさておき、テスト週間から解放された神高生の放課後、曇天だというのに今までにないほど活気に満ち、校舎にも、高らかに笑い声が響いていた。

 俺も部室に向かい、心なしか軽い足取りでいた。テストとはつくづく恐ろしいものだ。この俺に部活に行くのを楽しいと思わせるとは(本を読むだけなのだから、それほど心躍るものではないはずなんだがな)。

綿貫が先に来ていた。

「深山さん、こんにちは」

「おっす」

 俺は荷を下ろす。綿貫は心なしか楽しそうだ。テストが終わったからだろうか。そんなことを考えていると、

「第一回の山行が決まったようです」

そこで俺が入った部活が山岳部であることを思い出す。部室はもはや、たむろ場となっていたからすっかり忘れてしまっていた。

「ほう、どこだ」

多分知らん山だが一応聞く。

「岐阜県の池田山というところだそうです」

「どのくらいの大きさだ」

「九二四メートルですね。これしおりです。一人一部ずつあるので、持って行ってください」

そのしおりには、当日必要なものと、経路、部員および顧問、学校長の連絡先、簡単な山の説明と、地形図が描かれていた。おそらく顧問が用意したものだろう。

「それで、飯沼先生が山に備えて鍛えておけとおっしゃてました」

鍛える。俺は端からそのつもりで山岳部に入ったのだが、すっかりこのぬるま湯に慣れてしまって、いざやれと言われると……。

「走りこむのか?」

「ええ、もちろん」

「絶対?」

「だめですよ深山さん。ちゃんと鍛えておかないと。たとえ低山であっても体力のない人が山に登るのは危険です」

肉親を山でなくしているこいつの言葉には重みがあった。

「うーん、わかったよ」「私も一緒に走りましょうか?一人で駄目でも二人なら頑張れると思いますよ」

俺と綿貫とが並んでランニング。……いや駄目だろ周りの視線が気になって余計息が上がりそうだ。

「いや一人で走られるよ」

「そうですか」

それはそれとして。今日は体育があったから運動着はあるが、着替える場所をどうしようか。よもやここで二人で着替えるわけにはいくまい。綿貫をここに残していくのは構わないが、外から丸見えである。滅多に人は来ないが、お嬢様を覗きの危険にさらす訳にもいくまい。

俺は別にみられてもよかったので、

「ここはカーテンがないから、お前は更衣室に行け。俺はここで着替える」

「そうですね。ではまたあとで」


 俺は手早く着替え終わると、校舎外へ出た。綿貫は先に外に出ていて、

「本当に一人で大丈夫ですか?」

完全に俺のことをガキ扱いである。

 

学校のグラウンドの周りには卒業生の寄付によって設置された、トレーニングコースというものがある。土の上を走るように膝への負担が少なくかつ、雨でぬれてもはしることが出来る、ランニング用の通路だ。俺は軽いストレッチをした後、ゆっくりと走り出す。一周は一キロメートル、今日は三周もすればよいだろう。

 ちんたら走っていると、いろんな部活が追い抜いてゆく。ご苦労なこって。一周し終える頃、黒髪が横から俺を追い抜いた。いやに長い髪だなと思っていると、よく見れば綿貫である。いつもは垂らしている黒髪を、後頭部のあたりで結んでいたのでわからなかった。Tシャツに短パン、そのパンツの下には、タイツのようなものをはいている。

 ちんたら走っているので、それほど息はあがらない。しかし二周してから、足のくるぶしのあたりが痛くなってきた。だから、はじめに考えていた通り三周でいいなとぼんやり考えながら足を運んでいると、またしても綿貫が颯爽と俺を追い抜いて行った。実はすでに二回抜かれていたので、綿貫とはもう二周、差がついている。よく走るなあと暢気に考える俺ではあったが、綿貫に抜かれ悔しいと思う訳でもなく、結局最後までちんたら走って終わった。俺が止まったところで、綿貫も足を止めていた。

「深山さん、まだ走りますか?」

「いや、よしとくよ」

俺は昇降口の方へ踏み出そうとしたのだが、

「では、深山さんトレーニングルームに行きましょうか?」

……なんだそれは?

 我らが神宮高校には、トレーニングルームなるものがある。自らの肉体を傷つけんと願うものが集う部屋だ。

「あー、あんな苦しそうな顔をして重たいものを上げたり下ろしたりしている。彼らはいったい何がしたいんだ。トレーニングルーム改めドSルームにした方が良くないか」

綿貫はくすりと笑い、

「何言っているんですか深山さん」

と言う。

 いつまでもぐだぐだ言ったって仕方ないので、渋々筋トレを始める。バタフライという機械が目についた。なんだ、これをやれば蝶になって空でも飛べるのかとふざけたことを考えたが、どうということはない。胸筋を鍛える機械だ。説明を読み、早速やってみる。何㎏がよいか考えていると、綿貫がこちらを見ているのに気がついた。俺は別に張らなくてもよい見栄を張り、25㎏からやることにした。息を吐きながら、一気に持ち上げる、はずだったのだが、重りはピクリとも動かない。どんなに力を込めても顔が赤くなるばかり。力を緩め、ふと、綿貫の方を見ると、綿貫は笑っていた。畜生と悔しい気持ちになったが、上がらないものはいくらやっても上がらない。仕方がないので、10㎏からやることにした。

十分後、俺は情けない気持ちになりながらトレーニングルームのベンチに座っていた。十キログラムの重りをあげることは出来たが、十回も行かないうちに腕が上がらなくなった。中学時代運動をしていなかったから、ここまでみじめな状態に成り下がったのだろう。

 綿貫はと言うと、ウェイトトレーニングには取り組まずに、ストレッチをしている。制服を着ているときには気づかなかったが、綿貫は結構胸が大きい。女体に詳しいことなんて決してない

が、カップはDぐらいだろうかと、しょうもないことが頭に浮かぶ。

 いやいかん、体ばかりでなく頭も参ってしまったようだ。

 すると、綿貫はそれまで俺がじっと綿貫のことを見ていたことに気づいたようで、

「何見ているんですか、深山さん?」

君の胸はDくらいかと尋ねたら、さすがに張り手が飛んでくるかもしれない。とっさに、

「いや、筋トレはしないのかと思って」

言い繕った。

綿貫は少し恥ずかしがるように、

「あまり、女の子がやるのはよくないかなと思って。その、……体形のこととか」

そうか、ムキムキ怪力女より、むっちりのほうがいいもんな、と危うく言いそうになる。これは普通にセクハラだ。今日は本当に頭の調子がおかしい。ジョギングなんて、なれないことをするからだ。

 だが同時に、こいつも一人の女なのだと思う。もちろんすべてが、異性によく見られたいという気持ちからくる考えではないとは思うが、そういう思惑も少しはあるのだろう。つまりいくらお嬢様で、楚々とした立ち振る舞いが板についた綿貫も、思春期の女の子で、男子からよく見られたいという気持ちがあるということだ。

 それはそれとして、この場にいると、俺はどんな爆弾発言をするかわからない。だが、生憎動ける状態ではない。男に邪な考えが浮かぶのは、女のせいでもあると言えば、反論の矢が、千でも万でも飛んできそうだが、美人がぴったりとしたスポーツウェアを着て、目の前で体の線が強く現れるようなストレッチをしていれば、変な考えが浮かんでしまうのも仕方ないんじゃないかと俺は思う。

 俺は邪念を振り払うように頭を振り、目を閉じた。修行僧は大変だな。外面如菩薩云々とは言いえて妙と独り言つ。

 

 「深山さん、深山さん、大丈夫ですか」

綿貫の声がどこからか聞こえ、気づくと俺の目の前には綿貫の顔があった。

 「うんえあ?」

俺は間抜けな声を出し起き上がり、危うく綿貫とキスするところだった。俺はさっと体をのけぞらせ、背を壁につけた。

 どうやら、俺は眠ってしまっていたらしい。というか、顔が近いぞ綿貫よ。綿貫は気にする様子はなく、

「お疲れのようですね、今日は終わりにしましょうか」

「ん」


 部室に戻り、着替える。

 頭がガンガンする。しばらく休んでから帰ろう。そう思って、椅子に座ってぼーっとしていると、がらりと扉が開き、綿貫が入ってきた。運動した後だというのに、綿貫はいい匂いがした。ああ、これも邪念か、慎むべき、慎むべき。

「深山さん大丈夫ですか?心配だから見に来ました」

「何とか」

 俺はその時まずいものを見てしまった。どうしよう。言うべきだろうか、いや、言わなければならない。佐藤がいれば佐藤に頼むのだが、生憎今日は俺と綿貫の二人だけだ。いいか、深山太郎、あくまでさりげなく、なんとでもない様子で言うんだぞ。絶対笑うなよ。

 俺は覚悟を決めた。

「綿貫」

「はい?」

「開いてるぞ、前のファスナー」

「あっ、あっ」

 綿貫は顔を真っ赤にして、向こうを向いた。こればかりはなかなかうまくやれんな。綿貫は何も言わない。気まずい。こういう時は気にしていないそぶりを見せるのが一番だと思う。とはい言っても、口下手な俺にこの沈黙を破る、話のネタはすぐに思いつかない。うーん、あっそうだ。

「そういえば、綿貫って、山についてはそれほど詳しくないって言っていたが、実際のところどうなんだ。今まで登ったことはないのか?」

服を整えたようでこちらを向いて綿貫は言った。

「私の父があまりそういうのが好きでなかったので登ったことはないんです」

こいつのいう父とは、賢二さんのことだろう。物心つく前から育ててもらっている人だ。育ての親である叔父の賢二さんのことを父というのは何らおかしいことではない。だが、こいつが、俺がこいつの家のことについて知っていることがより立ち入ったものであるということを知らないことが、なんだか気持ち悪かった。元来隠し事は好まない質だ。

「そうなのか、俺もお前も今度の山が処女登山というわけか」

「そういうことですね。ところで元気は出ましたか」

「うん」

「帰りましょうか」

「ああ」

 

 俺たち二人は部室を出て校門へと向かう。

「何かのどが渇いたな。何か飲んでいこうかな」

「喫茶店ですか」

「え、あーうん」

本当はコンビニで買おうと思ったのだが、つい見栄を張ってしまった。

「私も行っていいですか」

 そう来るか。

 俺は例のごとく、キラキラした眼で見つめられて断り切れなかった。まあいいさ。さっさと飲んで帰ろう。

「あのー、実は行きたかったお店があるんです。そこでもいいですか?すぐ近くですよ」

近くならいいや。

「任せた」

 

 綿貫に連れられて、2,3分歩き、洒落た感じの店に入った。見たことがない。おそらくチェーンやフランチャイズではないのだろう。神高生はいなさそうだ。よかった。

「何名様ですか?」

「二人です」

店員にはカップルに見えるだろう。まあ、致し方ない。

「奥の席はいいですか」

綿貫が店員に尋ねる。

「お好きな席に座ってください」

 その問答を聞いて、俺はある考えが頭に浮かんだ。俺がここに来たのは綿貫が誘導したからだ。そもそもなぜ綿貫は俺を部室に迎えに来たのだろうか。まさか、今日俺が綿貫の胸を見ていたことに気づき、そのことを種に俺をゆする気じゃないか。もしかしたら、奥の席には大海原が雇ったどう見ても堅気ではない用心棒が座っていて、「うちのお嬢に何さらしてくれとんじゃ。どう落とし前付けてくれるんかてめえ」みたいな展開になって俺は小指を詰めることになるんじゃないか。それでも十分嫌だが、明日には名古屋港に沈められてしまっているかもしれない。いや、大事なところを潰されるとかか?

 と一巡ふざけたことを考える。別段本気でそんなことを思うわけでない。そもそも俺を痛めつけるならばわざわざ人目のある所には連れて行かないはずだ。この喫茶店で俺が危害を加えられることはその点から言ってまずないわけだ。ここが大海原の関係者の店でなければだが。まあそれはレアケースだ。

 ふとした疑問を尋ねる。

「綿貫、なんで奥がいいんだ」

「深山さんがそっちのほうがいいかなって。あまり知り合いに見られるのはお好きじゃないでしょう」

なかなか、気が利くお嬢さんである。それから深刻そうな顔をして、こう続けた。

「それに、人気のない所で少し話したいことがあるんです」

 俺は今度こそ、陰嚢が縮み上がる思いがした。まさか、レアケースのほうだったか?やばい、俺の子種が危うい。 

 俺は席についてからも少しビクビクしていたのだが、グラサンをかけた怖い兄ちゃんが出てくることもなければ、綿貫が俺を糾弾する様子も見られなかったので、安堵のため息をついた。

 店員が注文を取りに来て、俺はホットチャイ(運動したあとではあるが、俺はカフェインをとるとき、アイスで頼まないようにしている)を、綿貫はフラペチーノ?を注文した。

「ここのお店、今年の春からできたそうですよ。先輩に教えてもらったんです」

「そうか」

綿貫は大病院の息女だ。家同士の付き合いをしている人間はたくさんいるだろうし、うちの高校にそういう人間がいてもおかしくない。その先輩というのは大方そういう類いの人だろう。何せ綿貫は山岳部員で、部活で先輩と交流することはないからだ。

「深山さん」

「なんだ」

「なんだかデートしてるみたいですね」

「ばっ馬鹿なこと言うんじゃない」

俺は思わず、口に含んでいたお冷やを噴き出すところだった。

「うふふ」

全く、うふふ、じゃない。

 綿貫は女子高生らしくセーラー服に身を包んでいる。それに対し、俺は学ランを来ている。まあ確かに端から見れば高校生カップルがデートしているようにしか見えないのかもしれないが、俺も綿貫も互いに恋愛感情を抱いていないのだから、これをデートと呼ぶのは道理ではない。

 俺は綿貫が話があるといっていたのを思いだし、

「それより、なんだ、話って?」

「ああ、そうでした。実は深山さんに頼みたいことがあるんです」

「頼み事か。簡単なことなら手伝ってもいいが込み入っているのは嫌だぞ」

「どちらかというと込み入ってますね」

「じゃあパス、他を当たってくれ」

「そんな、話だけでも聞いてください」

綿貫はそう言い、じっと俺のことを見つめる。ああ、やめてくれ、その目は。まるで俺が悪者みたいじゃないか。…………はあ、まったく。

「分かったよ。話を聞くだけだぞ」

綿貫はにっこりと笑い、

「はい、ありがとうございます」

俺はこいつに完全に振り回されているな、と思ったが、深山太郎とはそういう人間なのだ。結局のところ。

「話は、私の家族のことについてです。実は深山さんがこの前会った私の父は本当の父親ではないのです。

どうかしましたか深山さん?」

「いや実は、その事は知っていたんだ。お前のおじさんに聞いたからな」

「そうでしたか。兄のことも?」

「ああ」

「でしたら、話は早いです」

「まさか、兄貴探すの手伝えなんて言うんじゃないだろうな」

「ええ、言いませんよ。ただ、兄がなぜ失踪したのかを考えてほしいんです」

「はあ?」

ああ、しくじった。つい、過剰に反応してしまった。

「いや、すまん。……どういうことだよ。お前の兄貴は親父を探しに行ったんじゃないのか」

そうだ。賢二さんは確かにそう言っていた。しかし綿貫は、

「それが本当のこととは私には思えないのです。私には何か他に原因があるように思えます。これを見てください。兄が家を出るときに残したメモです」

『亡者を帰るべき所に帰す』

メモにはそう記されてあった。

「亡者って言うのは、お前の親父のことだろ。親父の遺骸を名古屋に持って帰る。そういう意味じゃないのか」

「私には不自然に感じられてなりません。遭難してから何年もたっている人を、たった一人で見つけることは容易なことではありません。兄は馬鹿ではありません。何をどうすべきか、いつも分かっているように見えました。そんな兄が、はっきり言って、そんな愚行に臨むとは到底思えないのです」

「お前の考えはもっともだ。だが俺ができることはない。何をどう調べたってお前の兄貴が失踪した理由なんてわかりっこないよ。特に俺は部外者なんだからな」

「そんなことやってみなければ分からないじゃないですか。深山さんは留奈さんの八十万円の件をそれは見事に解決したではないですか。深山さんは気づいてないのかもしれませんけど、深山さんにはそういう能力があるんです。どうか助けてください。お願いです」

「気が進まん。何で俺が、お前たち家族の立ち入った問題に関わらなければならないんだ。大体、お前が欲しいのは第三者の客観的な意見だろう」

「はい」

「だったら別に俺でなくともお前のことを手伝ってくれる奴ならいるだろう。ほら、佐藤とか」

「一人、信頼できる人に頼んでみましたが、断られてしまいました。あれは時効だって。留奈さんは……大切な友達です。ですが深山さん、あなたは自分の家族が三人亡くなっているとして、その事を誰彼構わず話せますか」

頭をガンと殴られたかのように思えた。俺が綿貫に対してした仕打ちに気づいて。

 そこで、店員がホットチャイとフラペチーノとを持ってきた。店員は商品を置いた後去って行く。俺はホットチャイに一口つけてから、

「……いや、すまなかった。お前の気持ちも考えずに」

これは非常にプライベートな問題だ。綿貫がこの話を俺にしようと決意するのさえ勇気が要っただろう。それなのに俺はそれを無下に扱おうとした。人の気持ちを踏みにじるのは、俺の生活信条から遠く離れている。綿貫は続ける。

「深山さんのおっしゃったように、私が、調べたことから組み上げた仮説を、深山さんに聞いてもらって、論理的におかしなところがないか判断してもらう。深山さんのお手を煩わせるようなことは、できる限り無いように計らいます。深山さんはわたしの話を聞いてくれるだけでいいんです。どうか力を貸してください」

「……分かったよ。話ならいくらでも聞いてやる。……そしてもし調査に手間取るようなら、少し位は手伝ってやる。ただ、それだけだ。俺が先陣切って何かするということはないからな」 

「重々承知しています。どうかよろしくお願いします。調査の方向としては、この亡者というのが本当に父であっているのかどうかをまず調べていきたいと思います。兄の心情を探る調査になるので、手探りで、すべて論理的に結論を導き出せるとは思えませんが、取っ掛かりはつかめると思います」

「もしお前の兄貴の周りで親父さんとお袋さん以外に亡くなっている人がいたらその人の事について調べるといいかもな」

「そうですね」

「帰るべき場所って言うのは亡者の家か墓だろうか」

「おそらくそうかと思いますが、そうと決めつけず、色眼鏡で見ないようにしたいですね」

「そうだな」

調査はかなり難航することだろう。解決の糸口すら掴めないで終わってしまうかもしれない。だが大事なのは結論を出す事ではない。そもそも答えの確かめようがないのだから。この場合重要なのは、綿貫が調査に望むことそのものだ。納得する答えが出るのがいいのは言うまでもないが、綿貫が調査に奮闘して、過去に区切りをつけることが出来れば最低限目的は達せられたと言えるだろう。

 俺は残りのホットチャイをぐいと飲み干した。シナモンの香りが口いっぱいに広がる。まあ、あれだ。要は気長に相談相手をすればいいわけだ。ちょろいもんさ。

 だんだんと夏に近づきつつある今日この頃、大きな宿題を抱えた目の前の少女はほっとした様子でフラペチーノに舌鼓を打っていた。

 

 「深山さん、もっと私のことをちゃんと見てください」

綿貫は何をいっているのだろうか。人のことをじろじろ見たら失礼ではないか。

「あなたが見ているのは、物事の表面であって、人の内面にはまったく向けられていません。人のことを理解しようとすらしない。そちらの方がよっぽど失礼ではありませんか」

驚いた。いつから綿貫は俺の心が読めるようになったのだろうか。というか、さっきから妙に眩しいぞ。

 意識が浮上し、気づいたら俺はベッドの上だった。

「変な夢だな」


 今日は、はじめての山行、池田山登山である。いつもより、早く起き、朝食の用意をする。用意と言っても、ご飯をよそい、納豆を出し、味噌汁を温めるだけの簡便なものだが。

 腹ごしらえをした後、家を出る準備をする。

 準備を整え、駅へと向かう。もう晩春といってもよい時節だが、日の出ていない早朝は少し肌寒い。自転車に乗って、ひんやりとした風を切り、駅前へと到着した。電車に乗り、集合場所である岐阜の大垣駅へと向かう。

 車窓から外の様子を眺める。朝日が出てきた。今日は快晴といってよいだろう。雲はほとんど見られない。まさに登山日和ではないか。

 電車を降り、階段を上がる。大垣駅の改札の前が集合場所であったがまだ誰もいないようだ。集合時間まで三十分ほどある。本を読んで待つことにしよう。

 

 小説に熱中していたところ、前に誰かが立った。見ると綿貫である。the 山ガールという格好でいる。綿貫は心なしか清々しい顔をしているが、昨日のことが関係しているのかもしれない。

「深山さん、おはようございます」

「おっす」

「今日も本を読んでいらっしゃるのですね」

「時間の浪費は罪に等しいからな」

時計を見ると、先ほどから十五分程経っていた。

「ほかの連中はまだ来ていないようだな」

「そうですね」

綿貫はそう言いながら改札の方を見やる。すると綿貫が、

「あっ来ましたよ。飯沼先生と、留奈さんと山本さんも一緒のようですね」

俺も改札の方を見る。確かに三人とも来ている。飯沼先生は昨日のミーティングで初めて顔を合わせたのだが、今日は昨日のくたびれた様子とは違って、心なしか、活力に満ち満ちているように見えた。よっぽど山が好きなんだろうなと思った。

「飯沼先生、おはようございます」

綿貫が挨拶をしたので、俺も続く。雄清と佐藤には軽く手を挙げる。全員が集合したところで、飯沼先生が話を始めた。

「皆さんそろっていますね。えっと、今日は昨日も言ったように、岐阜県池田町の池田山というところに登ります。これからローカル鉄道に乗り換えます。あっトイレはいいですか」

「だいじょうぶです」

「よさそうですね、じゃあ、予定より早いですが、行きましょうか」

 俺たちはエスカレーターを降り、一度駅舎を出てから、JRに併設されている第三セクターの鉄道のホームへと向かった。

 ホームで電車を待つ間、簡単な確認があった。

「ここの電車に乗って揺られて、七時四十五分に向こうにつきます。そこから登山口まで歩いて登るわけですけど、今回は初回ということで軽めの山を選びました。ペースに気を付ければバテることはないと思います。順調にいけば一時過ぎには降りられるでしょう。もしね、迷子になったら電話してください。山でも電波届くんですよ。んっどうした深山?」

「いや、俺電話機持ってないんですよ」

「あっ先生、私もです」

「えっそうなの?これは驚いたな。ガラパゴスどころじゃないぞ。今時の高校生が携帯電話を持っていないとは。……まあいいです。前の人のお尻を見て歩けば迷子にはならないでしょう。怪我だけはしないように気をつけて登りましょう」

佐藤が俺のことを見ている。なんだ?ああ、

「安心しろ。俺はお前の汚いけつを見て登る気はないから」

がんっ。思いっきり足を踏まれた。

「……暴力反対」

「うるさいあんたが悪い」


 待っていると二両編成のワンマン車がホームにとまった。

「がら空きだね」

雄清が面白そうに言う。

「まあ、土曜の朝だからな」

俺はとりあえず妥当なことをいう。

「それにしても、ほかの客がゼロっていうのも少しおかしくないかい」

すかさず雄清は、答える。

「それもそうだな」

でもまあローカル線なんてこんなものなんだろう。

「いいじゃない、神高山岳部専有車よ。貸し切りよ、貸し切り」

佐藤はいたってポジティブだ。

「俺はそんなことより経営状態が気になるな」

つぶれやしないか、この路線?

「ローカル鉄道はどこも厳しいんじゃない。お客って言っても地元の人は車があるだろうし、山奥に入り込むのなんて登山者かサイクリストくらいでしょ」

「こういう路線はいつも廃線の危機にあるんだろうね」

こりゃまた手厳しい意見を。すると綿貫は、

「そうなんですか、こんなにかわいい電車なのに」

確かにこのレトロな車体は趣を感じられるものではあるが、……女子という生き物は、なんでもかわいくしたがる。そうか、かわいければ存在価値は抜群か。今日も日本は平和です。


 乗り込むこと五分、扉が閉まり、電車は動き出した。

 車窓からは養老山地のなだらかな稜線が見えた。山の緑が目に優しい。山の麓に広がるのは田んぼと民家。ノスタルジックとはこういうことを言うのだろうか。のどかな日本の田園風景。詰め込み教育を全否定するわけではないが、日本人には子供の頃から、こういう、綺麗な景色を見て、心を休めるという時間がもっと必要だと思う。

近くの席で、雄清と佐藤とが話をしている。佐藤が雄清に着ている服(おそらく新調した)を見せながら、

「ねえどう、今日の格好」

「うん、よく似合ってるよ」

完全に棒読み。いや、雄清、その言い方は適当すぎだろう。

「そう?」

「うん、いかにもベテランの登山家って感じがする」

そのコメントはどうなんだ?

「なに、おばさんぽいって言いたいわけ」

ほれ見ろ、佐藤に火がついたじゃないか。

「そんなまさか、むしろおじさんでしょ」

俺は思わず噴き出した。

「なによ、深山、あんた笑ってんじゃ無いわよ」

おお、こわ。て言うか俺に当たんなよ。煽ってんのは雄清だろうが、まったく。

 俺はとばっちりを避けるため、席を離れた。まったく、夫婦漫才をやるのは勝手だが、俺には火の粉を振りかけないでほしい。


 ぼーっと、窓の外を眺めていると、綿貫がよってきた。

「お隣いいですか」

「ああ」

綿貫はちょこんと座る。

 うーん、こいつにはパーソナルスペースという概念が存在しないのか。俺はさりげなく、綿貫から体を少し遠ざける。綿貫はまったく気にしている様子はない。佐藤と雄清の方を見ながら、

「あのお二人、仲がいいですよね。留奈さんは山本さんのことが好きなんですね」

「今さら気づいたのか」

「ええ。でも、前々からそうなのではないかと思っていました」

「佐藤は完全に雄清にぞっこんだな。あんな、男のどこがいいのか俺にはわからんのだがな」

「もしかして、嫉妬されてますか?」

「そんな馬鹿な」

「では佐藤さんのことどう思っているんですか」

「俺があいつをか?うーん、かわいい方だとは思うが、あいつに恋愛感情を抱いたことは未だかつてないな。何せ、あいつは俺への当たりが強いからな」

「それは深山さんが留奈さんにひどいこと言うからでしょう」

「そうか?」

「ええ。深山さんは以前、人の感情を逆撫でするようなことはしたくないと言っていましたが、留奈さんに対してはそれを実践しているようには思えません。なぜですか?」

「うーん、それは気の置けない相手だからかもしれんな。あいつは俺に本気で怒っているわけじゃないし、俺の言うことも冗談とわかっている。俺も気を使うことなく冗談を言える。なんやかんやいって結局のところ長く一緒にいるから、何を言えば本当にあいつが怒るのかというのは感覚で分かってるつもりだ。俺とあいつとの仲が険悪に見えたかもしれないが心配しなくていいぞ」

「そうですか。それが幼馴染みというものなんですかね」

「かもな」

「いいですね。気の置けない相手ですか。私もそんな人が身近にいればいいんですけど」

……ここで何も言わないでいるほど、俺の血は冷たくない。

「いるだろう。そんな奴は周りに。佐藤や、雄清や、……俺だって、お前が笑いたいときには一緒に笑い、辛いときには支える。部活仲間ってそういうもんだろう」

ああ、なんか俺すごく、くさいこと言ってるな。

「そうですね。すみません、失言でした。私も皆さんのことは大好きです」

……綿貫がいい子でよかった。俺の照れくさい気持ちはそれでも拭えなかったが。


俺達は池野駅で降りた。ここから登山口まで歩くこと四十分ほどだという。

静かな町だ。道すがら誰ともすれ違わない。住民がまだ寝ているのか、それとももう家を出て、どこかに出掛けているのかはわからないが、ひたすらに静かだ。トンビがぴーひょろろーと鳴いているのがよく聞こえるばかりである。橋を渡ったところ、公園として整備された雰囲気のところに出た。俺はそこに植わっている木を見て、

「これ桜だな。ソメイヨシノとは違うけど」

俺がそう言うと、飯沼先生が地理教諭らしく、解説を始める。

「おお、深山よく分かったな。ここは桜の名所でな、霞間ヶ谷かまがたにって言うんだ。春の桜の時期には、辺り一面が桜の花で飾られ、遠くから見ると桜色に霧がかっているように見えたことから、霞の間の谷って書いて霞間ヶ谷って呼ぶようになったらしい。ここの桜はソメイヨシノだけでなく、山桜と江戸彼岸と枝垂れ桜もあったかな。桜の時期に来るとそれは見事だぞ。酒が進んでしょうがない」

酒のせいで、桜の記憶はだいぶぼんやりしたものだろうとは思うが。すると佐藤が、

「でもなんであんたわかったの、これが桜で、ソメイヨシノと違うものって。花の時期ならまだしも」

「昔,宿題で調べたことがあるんだよ」

「そんな宿題今までにあったっけ、雄くん?」

「いやないね」

俺たち三人はずっと同じ学校だった。佐藤と雄清とがともにやってなくて、俺だけがやったような宿題と言ったら、どういうものかは限られてくるが、

「けど、太郎だけがやったのだとしたら、自由研究じゃないの?」

そうそう。

「正解」

「ほら」

「なるほど」

すると綿貫が、佐藤に

「桜をテーマにするなんて深山さん、風流ですね」

ふふん。そうだろう。しかし佐藤は、小さな声で、

「こっちゃん、あんま褒めちゃダメよ。こいつすぐ図にのるから」

「そうですか?深山さんてすごく謙虚だと思うんですけど」

「こっちゃんに褒められると図に乗るの!」

おい、聞こえてるぞ。何、ほら吹き込んでんだよ。

「そうでしたか」

綿貫が不思議そうな顔をして見てくる。……ああもう。


桜の林を抜け、ついに登山口に着いた。

「ここから登山道です。ばてないようにペースに気を付けて登りましょう。怪我だけは絶対しないように。万が一怪我したら大ごとになるからね。じゃあ、先頭は男子で、体力のあるほうが。その後ろに女子二人がついて、男子、私という順で」

元帰宅部の俺より、雄清の方が体力があるのは明らかだ。

「雄清、先頭は任せた」

「了解」

雄清、綿貫、佐藤、俺、先生の順に登り始めた。


 一行はひたすら森の中を歩く。はじめ、息があがり苦しくなるのは平地を走るのと同じである。しかし、また、同様に、いくらか経つと息が楽になった。萌える葉の色は目に優しく、森のにおい、土のにおいを、胸いっぱいに吸い込む。山を無心に登っていると、心が洗われるような気がした。ああ、登山ってこんなに気持ちの良いものだったのか。足を動かすのが楽しい。

 

 と、爽快な気分で登っていられたのは最初の三十分だけであった。だんだんとまた息があがり、苦しくなってくる。三十分おきには、休憩をはさんだのだが、自分の足がどんどん重たくなってゆくことが、はっきりと分かった。景色は綺麗だ。だがそれを愛でる余裕が俺にはなかった。こんなに苦しいのは俺だけなのだろうか。見ると雄清は飄々と登っている。綿貫も特に辛そうではなく、生き生きとしている。そんな、二人の様子を見て、俺は情けない気持ちになった。ああ、体力がないとはなんと悲しいことか。

 だがいまにもぶっ倒れそうな顔をしている佐藤を見て、安心した。飯沼先生も汗だくで、はあはあぜえぜえ言っている。そうだ、俺がやわなんじゃなくて、前の二人がおかしいんだ。ちょうどその時、飯沼先生が息も絶え絶えに、

「山本、ちょっと、ペースを、緩めてくれ」

雄清が振り返る。後ろの三人がバテバテなのを見て、ああしまったとでも言いたげな顔をして、

「あー、すみません。ペース落とします。……一旦休憩しましょうか?」

「そうしてくれ」

一行は立ち止まり、休憩をとることになった。飯沼先生がザックをおろし、タオルで顔の汗を拭きとる。そうして、絞り出すように、

「山本と、綿貫はすごいな。このぶんなら、夏に行く高山も大丈夫そうだ。だが、私含め、後ろの三人はちょっと頑張らないといけないな」

佐藤が先生に尋ねる。

「先生は最後に登ったのいつですか?」

「今年卒業した卒業生の子と去年の夏に登ったのが最後かな。すっかり運動不足だよ」

とは言うが、定年間近の社会教諭が、バリバリ現役の高校生のペースについてこられるのは正直に言って、すごいと思う。さすが、伊達に山登りをしていない。飯沼先生は息を整えてから、

「あとは、金華山の高さもありません。予定より大分早く着きそうですね。じゃあもうひと踏ん張り頑張りましょうか」


 それから、俺たちはまた登り始めた。先生の言ったように直ぐに山頂が見えてきた。あと高さで見たら百ほどか?ゴールが見えてくると、なんだか元気が出てきた。もう少しだ、もう少しでこの苦悶も終了する。

 

先頭の雄清が声を上げる。

「はい、到着」

佐藤が、吐き出すように、

「あー、やっと着いた」

綿貫はまだまだ元気である。

「展望台登ってみましょうよ」

俺たちは展望台に上がる。先生も一緒だ。

「ああ、いい景色だな。ツインタワー見える?」

「うーん、どうだろ、あっ、木曽川沿いのタワーは見えるよ」

「ほんとだ。名古屋の方まではちょっとかすんでるな」

すると先生が、

「景色見たら、お昼食べてね。十一時半になったら出発するから」

「はーい」

 俺は展望台を降りて、下の椅子のあるところで、昼食をとる。綿貫と佐藤は、上で、写真を撮っている。まあ、何はともあれ初登頂は済んだ。下りは登りより、絶対に楽だろう。

 斜面を上って吹き付ける風が心地よい。ああ、これぞまさに森林浴。流した汗と共に、汚れた、精神もどこかに行ったような気がする。俺はあれほどしんどかった山登りをもうすでにもう一度したいと思っていた。

 山岳部に入部した理由は、極めて消極的なものではあったが、俺の選択は間違ってなかったようだ。


 想像通り、下りはかなり楽だった。あっという間に登山口に着き、予定より一本早い電車に乗ることができた。その日の夜はいつになく寝付きが良く天井を見た覚えがないほどであった。

 

 登頂してから、初めての部活、俺は部室にて着替えを済ませていた。まだ次の登山の予定は聞いていないが、俺は登山を楽しみたいという気持ちを抱くようになった。そのために、しっかりと体力をつけ、次の山行に備えようと思ったのだ。一昨日山に登ったわけだが、昨日は筋肉痛で寝床から起き上がるのに難儀した。しかも目覚めたのは昼前である。一つの山に登って消費されるカロリーは莫大なものだろう。毎日のトレーニングに加え、定期的な山行によって、三年後に高校を卒業するころには、屈強な深山太郎になっているかもしれない。

 コンコンと戸がたたかれ、綿貫が部室に入ってきた。

「深山さん、こんにちは。今日も走るみたいですね」

「ああ、お前も走るか?」

「そうですね、そうします。では着替えてきますね」

ふと思うことがあったので、部室を出ていこうとする綿貫に声をかけた。

「わざわざ、四階まで上がって来なくても、端から、更衣室に行けばよくないか?」

「どうしてですか?」

いや、どうしてって、

「二度手間じゃないか」

「そんなに手間ではないですよ。それに私たち部活仲間なんですから、顔を合わせて挨拶ぐらいしないと、寂しいじゃないですか」

「いや全然」

「私が寂しいんです。深山さん言ったじゃないですか。私たちは気の置けない友達だって。友達に会いたいと思ったらおかしいですか」

ほう、俺に会いたいとは、物好きなもんで。

「まあ、お前が手間じゃないっていうなら俺は構わないが。なんせ、ここは俺占有の部室ではないからな」

「はい。というか、いい考えが思いつきました」

「なんだ」

「ここで一緒に着替えればいいんです」

「はい?」

今なんと?

「ですから、部室で一緒に着替えればいいんです。深山さん後ろ向いててください」

「いやいやいや、待て待て。お前何言ってるんだ。お前には羞恥心とか貞操観念ってもんがないのか」

すると突然、綿貫がうふふふと笑い出す。

「冗談ですよ、深山さん。慌てすぎですよ。顔が真っ赤です」

はあ、できればそういう冗談はやめてほしい。いや待てよ。

「いいんじゃないかその考え」

「えっ、いや、ですから冗談ですって」

「この部屋で、一緒に着替えるんだろう。山岳部員が山岳部の部室で着替える。合理的じゃないか」

「あの、深山さん聞いてますか?冗談だったんですけど。もしかして怒ってます?」

「いや、怒ってないって。別に着替えているところを見ようってんじゃない。部屋を間仕切りで二分して、分けて使おうって言っているんだ。入り口から見て手前を男子、奥を女子って風に。下の更衣室は混むだろう。だからそれでいいなら、そっちの方がいいかなと思ったんだが」

「ああ、なるほど。いい考えですね。賛成です。では早速飯沼先生に相談して、使える間仕切りがないか聞きに行きましょうか」

「いってらっしゃい」

「深山さんも行くんですよ」

……余計な提案したかもな。よく考えれば間仕切りって四階まで運ぶのすごく大変じゃないか。

 綿貫は俺の服の袖をつかみ部室から引っ張り出した。今となっては使える間仕切りがないことを祈るばかりである。


 結局、使用可能な間仕切りはあった。俺と更衣室で着替えを済ませた綿貫との二人で、一階の器具庫から四階の山岳部部室まで間仕切りを運ぶことになったのである。こんなときに限って、雄清は委員会でいないし、佐藤は筋肉痛が収まるまで休養ときている。俺とてまだ全快ではない。そうは言うものの、お嬢様に重たいものを持たせるわけにもいくまい。階段で間仕切りを持って運ぶとき、俺が下になった。間仕切りの形状を考えると力のモーメントのつりあいを考えるまでもなく、ほとんどの力が俺にかかることが分かる。綿貫のする働きは板が倒れないようにバランスをとる程度だ。全身筋肉痛に苛まれる山行明けの体には酷な仕事であった。


 間仕切りを運び終え、俺は部室で喘いでいた。すでに汗だくだ。腕をあげることもままならない。

「深山さんお疲れさまでした。すみません私が変な冗談を言ったばかりに」

「いや、部屋をしきる考えを出したのは俺だ。言い出しっぺが逃げるわけにもいくまい」

「そうですか。本当にありがとうございました。ほとんど深山さんが持ってたでしょう。私全然重たくなかったですもん」

「いやいや、箸より重たいもの持ったことないお前に、下をやらせるわけにはいかんだろう」

「もう、馬鹿にしてますよね?」

「ばれた?」

綿貫がふっとやわらかく笑う。

「今日は部活やめにするよ。ちょっと疲れた」

「そうですか。私も一人でやってもしょうがないのであがりますね」

 そんなわけで仕切った部室を早速使うことになった。間仕切りの向こうから人の息づかいと、布の擦れる音がするというのは妙なものだ。

 ……断じて変なことを考えているわけではない。いや、ほんとに。

 

 着替え終わった綿貫が、間仕切りの向こうから出てくる。

「帰りましょうか」

「ああ」

 校庭には、野球部、陸上部、サッカー部の活気に満ちた声が響き渡り、校舎のあちこちから、ブラスバンド部やら、アカペラ部やら軽音部やらの賑やかな演奏と歌声が聞こえてくる。これが、わが神宮高校の日常的な風景である。尾張で一二を争う、偏差値を誇りながらも、ほとんどの生徒は部活動に意欲的に取り組んでいる。校訓が質実剛健であると聞いたとき、なんとも理想主義な学校であろうかと煙に巻かれた気持ちになったが、どうやら勉強ばかりしている御仁が優秀であるとも限らないらしい。データを取るのは難しそうだが、部活動に対する意欲の度合いと、学習の成績とでは一般に考えられているより正の相関が強いのではないだろうか。まあ、要するに優秀な人間は精力、好奇心が旺盛で何事もそつなくこなしてしまうという事だろう。ぼんやりとそんな事を考えていると、一、二歩離れた所を歩いていた綿貫が俺を呼び止めた。

「深山さん」

「なんだ」

「大変申し上げにくい事なのですが……」

「言ってみろ」

「兄に関する調査の事で手伝ってほしい事があるんです。もちろん深山さんにしてもらうのが、私の立てた仮説を客観的に検証してもらう、という当初の約束を忘れたわけではありません。こんなことを頼むのは約束を反故にするようなことだと重々承知しております。ただ、私一人の力では処理しがたい事柄なんです」

「とりあえず、どんなことか言ってみろ」

「ここじゃなんですから、この前の喫茶店にでも行きましょうか」

「長い話なのか?」

「いえ、すぐにすみます」

「だったらここで話してくれないか」

「……わかりました。実は父と母の他に、兄の周りで亡くなっている人がいたのです」

「誰だ?」

「兄と同い年で、同じ山岳部だった高橋雅英さんです」

「病気か?」

「いいえ、山岳事故です。北岳の登攀中とうはんちゅうに亡くなりました。これは部活ではなかったんですけど」

「その人がメモにかかれていた『亡者』である可能性はあるのか?」

「事故当時、雅英さんとアンザイレンしていたのが私の兄だったんです」

言うべき言葉が見つからなかった。

 こいつの兄貴の綿貫隆一は、事故に責任を感じていたのだろうか。その可能性は十分にある。命綱で繋がっていた相棒だけが死に、自分は生き残った。精神的に病んでもおかしくない。昨年その思いが抑え難いものになり、家から飛び出してしまった。そんなことはあり得る話だ。

「私は高橋さんのお家に伺って話を聞きたいのですが、深山さんについてきてほしいんです」

「話を聞いてどうする。高橋家は息子を死に追いやった山と、同伴者をよくは思っていないだろう。もしかしたら行っても怒鳴り付けられて、門前払いに遭うだけかもしれない」

「では深山さんはこの問題を避けて真相にたどり着けると思いますか?」

「……無理だろうな」

「そうでしょう。他に方法はないんです。ですから、お願いです、私と一緒に高橋さんのお宅に行ってくれませんか」

「しかしなあ」

「お願いです。私だと見落としてしまう大事なことがあるかもしれません。深山さんがいれば解決に大きく近づけるかもしれません。力を貸してください。深山さんがいないと駄目なんです」

……はあ、俺はつくづくこいつに甘いな。

「分かった。今回だけだぞ」

「はい、ありがとうございます。明日の放課後でよろしいですか」

「ああ」

「よろしくお願いします。では」

「ん」

綿貫は自転車にまたがり、帰途につく。

 気づけば入学当初の望みであった「平穏な高校生活」がすっかり立ち消えているのに気づき、俺は一人、苦笑いをした。


翌日の放課後、綿貫と約束したように、俺たち二人は高橋家へと向かうべく、電車の駅へと向かっていた。今日はさすがに俺も綿貫も軽い調子ではいられない。なぜなら、高橋家の人々の古傷をほじくり返すようなことをしに行くのだから。

 いやに湿度の高い、尾張の初夏。梅雨前線が今どのあたりにいるかは分からないが、もうそろそろ梅雨入りしてもおかしくないだろう。沖縄あたりはすでに梅雨に入っているかもしれない。

 帰宅ラッシュ前の列車の中は閑散としている。なんとなくほのぼのとした雰囲気を感じる。俺がぼんやりとそのようなことを考えていると、

「今日は、高橋雅英さんのお母様がお話をしてくださるそうです」

「電話で連絡したのか?」

「ええ、突然押し掛けるわけにもいきませんから」

それもそうか。

 俺たちは電車を降り、駅舎から出た。すると綿貫が地図を広げ(綿貫はスマートフォン端末など持ち合わせていない。俺もだが)高橋家までの道順を模索する。赤い丸が付けられているところが目的地なのだろう。一分ほど地図を眺めてから、会得したかのように歩き始める、のだが、十メートルほど歩いてから停止してしまった。地図をくるくると回しては首をかしげている。お嬢様は地図を読むのが苦手と見た。一人で見知らぬ土地を歩いたことなどほとんどないのだろう。なるほど、俺を引き連れたがった理由がなんとなくわかったぞ。それから何十秒かうなっていたが、とうとう諦めたらしく、苦笑いしてこちらを見る。

「深山さん」

「わかったよ。貸してみろ」

俺は綿貫から地図を受け取り、太陽の方角を確認して地図上の北を実際の北に合わせてから一分ほど眺め、歩き始めた。地図の読み取りなんてもんは方角さえあってれば大抵困らないもんさ。

 それから、十分ほど歩き高橋家の表札の前に立っていた。道路が直角に整備された街であったから、ほとんど迷うことがなかった。綿貫に地図を渡す。

「深山さん、すごいですね。このあたりに来たのは初めてでしょう」

「そうだが、地図を読むのは慣れでもあるからな。お前も何度か、地図をもって、知らない街を歩く経験をしたらすぐにできるようになるだろう」

「なるほど。でも意外でした」

「何がだ」

「深山さんってあまり出歩くのお好きじゃないと思ってたんですが」

ああ、そういえばそんなことを話した気もする。そういわれるとそうだな。俺は知らない土地を歩き回る経験が豊富なわけではない。その点は綿貫と条件が同じであるはずなのだが、なぜ俺は地図を読むのに苦労しないのであろうか。俺の能力が秀でているとは思えない。とすると、綿貫が単に地図を読むのが苦手であるということになる。女は地図を読むのが苦手だという話を聞いたことがある。綿貫に関して言えばその都市伝説まがいの説は成り立っているが、その説を実証する強力な論拠にはならんな。

「そうだな、まあ個人差もあるだろう。とりあえず方角だけは確認してから歩き出したほうがいいぞ」

「そうですね。頑張ってみます」

「それはそれとして、ドアホン押さなくていいのか?今日の目的は単なる散歩じゃなかったろう」

「はい、そうでした」

綿貫は前に出て一呼吸を置いてから、ドアホンを押す。

「はーい」

女性の声が聞こえる。

「綿貫さやかです」

「おまちください」

しばらくしてから、ドアが開き、初老の女性が出てきた。50を過ぎたぐらいの年齢だろう。おそらく高橋雅英の母親かと思われる。

「お初にお目にかかります。綿貫さやかと申します」

「深山太郎です」

「高橋郁子です。遠いところをわざわざどうも。どうぞおあがりください」

俺たちは家へと足を踏み入れた。


 客間へと通され、俺も綿貫も遠慮したのだが、郁子さんはお茶菓子を出すと言って、台所へと向かった。その間に綿貫に話しかける。

「なあ、どんな話を聞くんだよ」

「雅英さんが亡くなったのは兄が高校一年生のときです。その時私はまだ小学校の低学年でした。私は当時のことをあまり覚えていません。覚えているのはたくさんの人が家に出入りしていたことくらいです。事故の後、私がもう少し成長してからは兄も叔父も叔母も誰も事故のことについては触れませんでした。私は事故のことについて詳しく話を聞きたいのです。もちろん叔父には尋ねました。ですが、叔父が話してくれたのは記事的記録だけだったんです。私がせっついても叔父は口を閉ざすばかりで、私が知りたいことは知れませんでした。雅英さんのお母様から当時のことを聞き出すのは最善の方法とは言えませんが、こうするより仕方ないのです」

「そうか。……高橋雅英の遺骸はまだ見つかってないんだよな」

「いいえ。事故が起きてから数日後には見つかったそうですよ」

えっ。じゃあなんで今日ここに来たんだ。雅英の遺骸が見つかっているのならば綿貫隆一のいった「亡者を帰るべきところに帰す」という言葉にそぐわないじゃないか、と言おうと思ったところ、郁子さんが客間に戻ってきたので、綿貫に話し損ねた。しくじった昨日の段階で確認しておくべきだった。今更引き返すわけにはいかない。重たい話を甘んじて受け入れるしかない。

「お待たせしました」

郁子さんはお盆にお茶とお茶菓子を載せている。

「お気遣い痛み入ります。急に押し掛けたのは私どもですのに」

「いいえ、遠慮なさらず。綿貫さんの娘さんをおもてなししなかったら私が主人に叱られますので」

「ありがたく頂戴します」

俺は綿貫家と高橋家の間柄がどういうものか気になったが尋ねるのは何だかためらわれた。大海原病院は大病院だ。ご主人に叱られると郁子さんはいった。もしかしたら患者として昔、世話になったのかもしれない。

「では改めて自己紹介しましょうか。雅英の母の高橋郁子です」

「綿貫隆一の妹の綿貫さやかです。それとこちらは私と同じ山岳部に所属している、」

綿貫が挨拶せよと言いたげに見てくる。

「深山太郎です。今日は付き添いで来ましたので僕のことは気にしないでください」

「ご丁寧にどうも。……そうあなたたち山岳部なのね。神宮高校?」

「はいその通りです」

「じゃあ息子の後輩にあたるね。それで今日は息子のことについての話を聞きに来たのよね」

「はい。私が知っているのは雅英さんが登攀中に滑落したことだけで、細かい経緯を存じ上げていないのです。息子さんのことを話すのがつらいということは承知しております。ただ、兄を失った私にできるのは兄の過去を知ることだけなんです。兄の大親友であった雅英さんのことを知らないで兄のことを知れるとは思えません。もちろん無理に聞き出すことはしません。郁子さんがどうしても話したくないとおっしゃるのならば今日はすぐにお暇します」

「あなたのお兄さんのことは聞いております。私も随分と心を痛めております。あなたのお兄さんや私の息子のように将来を担う若者が山で命を落とすなんて、悲しくてなりません。私もあなたのお兄さんが発見されることを願っております」

「はい、ありがとうございます」

「それと、私が話したくないならとおっしゃりましたけど、もし、私があなたに話をしたくなかったのだとしたら、今日あなたがここに来ることも承知しなかったでしょう。つらいわけではありません。ただもっと恐ろしいのは雅英のことを世間が忘れてしまうことなんです。死んだ息子のことを今やだれも口にしない。主人が死に、私が死に、娘が死んだら誰もあの子のことを思い出すことはなくなるでしょう。そうなったら息子はもう一度死ぬことになるのです。私はたまらなくそれが悲しい。ここであなたに話をすれば、わずかではありますが、息子はこの世の人の心に長く生きることが出来るのです。私が話すのはそのためです。ですからしっかりと私の話を、息子の人生の話を聞いてください」

「はい、承知しました。しっかりとお聞きします」

 郁子さんは一呼吸置いてから、彼女の息子についての話を始めた。

「私の息子が山を始めたのは高校に入学してからでした。そうです、さやかさんのお兄さんに出会ってからです。山について話すあの子は本当に楽しそうな顔をしていました。ですが私は内心、心配で心配でたまりませんでした。少しでも足を滑らせれば命の危険があるような場所に息子は行っていたわけですから。しかし息子から山登りという楽しみを、高校で出会った大切な親友、あなたのお兄さんを奪うことはあまりに忍びなかったのです。ですから私はやきもきしながら息子の帰りを待つよりほかありませんでた。

 入学してから半年以上が経ち、私の心配も幾分か薄れていきました。息子は山でかすり傷一つ作りませんでしたから。

 それが悲劇の始まりだったのかもしれません。

 息子は冬山に行くと言いました。南アルプス、北岳です。さすがに私は心配になりました。冬山は勝手が違います。十分な経験を積んだ人間でさえ時には命を落とすこともあるのです。私はなかなか首を縦には振りませんでした。

 しかし息子は諦めませんでした。説得に説得を重ね。北岳登攀の前に十分な雪山講習と実地訓練を積みかつ熟練者の同伴を条件に北岳に入ることの了承を私と主人から取り付けたのです。ちょうどそのころ息子は家に籠りがちでしたから、山であっても外に出ることはいいことだと私たちは思ったのです。

 あなたのお兄さん、隆一さんも同行して、熟練者を加えた一行はついに北岳へと入ったのです。

 ここからは隆一さんに聞いた話です。

 山頂間近、その日は天気もあれることなく快晴だったそうです。メンバーの誰もが体調は万全で登頂は滞りなく達成されるものだと皆が確信していました。

 事故はそんなときにおこったのです。

 息子は足を滑らせました。同時にアンザイレンしていた隆一さんもバランスを崩し、二人は数メートル斜面を滑りました。隆一さんは冷静でした。手に持っていた、ピッケルで滑落停止をきちんと行い、崖下に落ちることを阻止したのです。息子は、滑落停止を試みたのかもしれませんが、体勢によっては滑落停止は練習通りに行うのが難しいそうです。おまけに息子はパニックになっていたでしょうから。

 滑落はやみました。ですが息子は宙づりになったそうです。息子はそこで正気に戻ったのでしょうか。数メートルと言えどもインストラクターの方が二人を救出するのには時間がかかります。隆一さんは華奢な方ではありません。そこら辺の高校球児より立派な体躯をしているでしょう。ですが不安定な雪山斜面で二人分の体重を支えることは容易なことではありません。息子もそのことはすぐにわかったでしょう。このままでは二人とも死んでしまうと。息子が判断を下すまで二分とかからなかったでしょう。息子は隆一さんとつなげたそのザイルを自ら断ち切ったのです。これが八年前におこった事故の全容です」

 郁子さんは最後のほうは涙を流しながら話していた。綿貫もその大きな瞳に涙をため眼を赤くしながら話を聞いていた。

「お話しいただきありがとうございました。つらいことを思い出させてしまってすみません。兄は雅英さんのことを一日でも思わなかったことはなかったでしょう。兄は時々遠くを見ているような表情をしていました。私は今日の話を聞いてわかりました。兄が見ていたのは心の中に刻まれた雅英さんの魂だったのだと。私は兄のことで今日の今日まで分かっていなかった重大なことを知れました。重ねてお礼申し上げます」

「いいのよ。私のほうこそ後ろめたい気持ちでいたから」

「どういうことですか?」

「……息子が死に、帰ってきたのは、隆一さんだけ。どうして息子だけが帰ってこないの?私は隆一さんに詰め寄ったわ。でも隆一さんは静かに頭を深々と下げ、私に謝ったの。雅英君を連れ戻さなくて申し訳ございませんでした、って。しばらくはあなたのお兄さんを恨んだ。でも気づいたのよ、隆一さんは何も悪いことをしていないって。むしろ、何にも興味を示さず、無感動だった息子の人生に光を与えてくれた。そんな隆一さんを恨むのはお門違い。いい年したおばさんが三十以上年の離れた男の子に八つ当たりしてるのよ。さすがに恥ずかしくなった。でも隆一さんに会うことはそれきりなく、今となっては彼に謝ることもできない。今日妹さんであるあなたが来たらこのことも洗いざらい話そうと思ったの。隆一さんのせめてもの餞になるようにね」

「お気になさらないでください。息子さんを亡くしたら誰だってそうなります」

「そういってくれるとありがたいわ」

 そこで、ガチャリと玄関のドアが開いた。

「あら、雅美が帰ってきたみたい。ご挨拶させるわね。私の長女よ。あなたたちの一つ上の学年ね。雅美、お客様よ。挨拶なさい」

高橋雅美が客間へと入ってきた。来ているのは私学の制服であろう。

「こちら綿貫さやかさんと深山太郎さん、隆一の後輩にあたる子たちよ。神宮高校の山岳部ですって」

「こんにちわ」

雅美さんが挨拶をし俺達は揃って挨拶を返す。

「こんにちわ」

 そこで綿貫が郁子さんのほうに対面して、

「では私たちはそろそろお暇します」

 すると郁子さんは、

「そう。でも帰る前に雅英の部屋を見て行ってくださいな。あなたのお兄さんの写真とかもあるわよ」

「よろしいんですか」

「ええ。雅美、お兄ちゃんの部屋を案内してあげて」

「いいけど」

雅美さんは俺たちのほうに向き合って、

「ついてきて」

 といった。

 三人は二階へと上がる。雅英の部屋は二回の一番奥の部屋だった。

「どうぞ、ここがお兄ちゃんの部屋」

「失礼します」

 高橋雅英の部屋はずいぶんとさっぱりした部屋であった。彼自身が几帳面だったのか、それとも家族が死後に片付けたのかはわからないが。

「あれは何です?」

綿貫はベッドの上に飾られていた写真を指差していた。山の写真である。山頂はずいぶんと急峻だ。日本の山なのだろうか。

「ああ、あれ。あなたたちほんとに山岳部なの?山登る日本人はみんなあの山が大好きだと思っていたんだけど。あれは北アルプスの槍ヶ岳よ。お兄ちゃんの好きだった山」

「そうですか」

「こっちはお兄ちゃんが部活でとってきた写真」

 綿貫は雅美さんからアルバムを受け取り、眺め始める。

 俺は部屋に置いてあるものを観察した。山の写真に、山岳小説、ザックにザイル、ピッケル、登山靴といった登山道具が整然と飾られていた。

 その時すすり泣くような音が聞こえた。綿貫がアルバムを見ながら泣いている。

「ごめんなさい。雅英さんと楽しそうに写真に写っている兄の顔を見たら急に涙が出てきて」

そういって、ハンカチを取り出し、目頭を押さえる。

「高校に入って山を始めたお兄ちゃんはそれは生き生きとしていたわ。でも私にはわかんないよ。お兄ちゃんたちやあなたたちが山に登る理由が。私やお母さんを悲しませてまでどうして山に行かなければならないの?山馬鹿もいいとこよ」

と雅美さんが言った。俺も綿貫も何も言い返すことはできなかった。

 綿貫はお手洗いを借りても良いかと言って、部屋から出て行った。

 高橋雅美が俺のほうを見る。

「で、あなたたちどういう関係?ただの部活仲間ならこんなところまでついてこないよね」

「俺は……召使いみたいなもんですよ」

「あっそう。なるほどね。ああいう家に生まれるといろいろ大変よね」

雅美さんは綿貫の家がどういう家か知っているらしい。

「ちなみに、どういうご関係なんですか。綿貫家と高橋家は」

「お兄ちゃんと隆一さんが仲が良かった、ってだけじゃないのよね」

「というと」

「私の家はこう見えても昔、武家だったの。綿貫家とは血縁関係もあるわ。ご存知のように立場は向こうが圧倒的に高いけど。うちは足軽に毛が生えたようなもんだったから。私なんかは侍とか家柄とかこの平成の世には無用の長物だと思ってるんだけど、お父さんやお爺さん、親戚のおじさんは結構気にしているみたい。由緒正しい家の人とでないと結婚してはいかんぞって。ほんと馬鹿じゃないのって思ってるんだけどね。成人したらこんな家飛び出してやるって思ってる」

「そうでしたか」

「でもそういうのは綿貫さんのほうがもっと厳しいのよね。……あなた救い出してあげたら?あの子を宮殿の中から」

「僕は無理ですよ。魔法の絨毯も、ジンのランプも持ち合わせていませんから」

「ふーん。ディズニーすきなの?」

「無駄な知識が多いだけです」

原典はディズニーではなく千一夜物語なんだが。


 帰り道、俺と綿貫は静かに道を歩いていた。

 俺は綿貫隆一の写真を見忘れていたことに気づいたが、いまさらどうしようもない。すんなりと諦めた。

 綿貫が急に話し出す。

「兄は、雅英さんを死なせてしまったことを悔いて山へと向かったのでしょうか。親友の死、それだけで、失踪するには十分だと思います」

 俺は答えるのをためらった。ここで綿貫に賛同すればおそらく綿貫の調査は完結するのだろう。そうなれば俺が手を煩わせることもこれで終いとなる。だが俺はそれが事の真相でないことを何となく感じていた。高校入学前、いや一か月前の俺なら、「そうだ」、といってこの話を終わらせてしまっていただろう。どっちみちこのまま調査を続けて真相らしきものにたどり着けたとしてもそれはあくまで仮説であり、真なるか否かは確かめようがない。そもそも結論が出せずに終わってしまうかもしれない。綿貫がこれで納得しているのならば真実でないとしてもいいじゃないかと以前の俺なら思ったはずだ。

 だが俺にはそれが出来なかった。口を開く。

「これは答えではない」

「どうしてですか」

「一つ、高橋雅英の遺骸はすでに家族のもと、帰るべき場所に帰ってきている。これは『亡者を帰るべきところに帰す』というお前の兄貴のメモにそぐわない。二つ、仮に親友の死に思い悩んで家を飛び出したとして、なぜ死後七年も経過した後だったのか?この空いた時間は何だ。普通人間が負った傷は時間がたてば癒えていくものだ。郁子さんもそうだったろう。傷が幾分か癒えたからお前に話をすることを承諾し、綿貫隆一にあたったことを反省したんだ。雅英の死がお前の兄貴の失踪に影響を与えたかもしれないがこれは間接的な原因でしかない。去年の夏になって隆一の心を強く揺さぶる何かがあったはずだ」

 綿貫は俺の話を聞いて、少し考えるような表情をしてから、

「なるほど、確かに深山さんのいう通りです。雅英さんは兄の友人ではありましたが、死後七年になって兄の心を突き動かしたと考えるのは道理ではないですね。

 でもどうしましょうか。また振り出しです」

綿貫は肩を落として残念がる。

「まあ、そう気落ちするな。どんな調査も無駄にはならないさ。おまえだって兄貴のこと知れてよかっただろ」

「……そうですね。ありがとうございます。これからまた頑張ります」

 やれやれ、まだこいつのお守りはやらなきゃいけないようだな。

「ところで深山さん」

「なんだ」

「雅美さんと何話していたんですか?随分楽しそうでしたけど」

「ああ、ちょっと軽い冗談を言ってただけだ」

綿貫さやかがおいえに縛られて生活するのがかわいそうだ、という話をしてたなんて本人に言えるわけがない。

「そうですか。でも珍しいですね。深山さんよく人見知りするのに」

「まあそうだな」

 駅に着く。綿貫は逆方向の電車である。

「今日はありがとうございました」

「ん」

「また学校で会いましょうね」

「あいよ」

 会いましょう、か。まるでデート終えた後の別れみたいだな。

 夕日に照らされた高架を歩く綿貫の後ろ姿を見て、俺はそんなことを思っていた。

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