が〜るず びぃ あんびしゃす

みらい

第1話 気付きの瞬間

Pipipi…

枕元でスマホのアラームが鳴る。

持ち上がらない瞼を擦り、意識を覚醒させ体を伸ばす。窓の外に咲いた桜の木は丁度満開を迎えていた。

起きたての重たい体でトーストとコーヒーを用意し、昔とある人から預かったNIRVANAのアルバムを流し朝食を食べる。そんな一部分だけ騒がしい朝が社会人5年目、楠木雫くすのき しずく26歳の日課である。

外の空気を取り込もうと窓を開けると心地の良い春風が部屋に流れ込んでくる。すると春風と共に一輪の小さな桜の花も一緒に舞い込んできた。可愛らしいその桜の花を掌に乗せ見つめていると、ギュッと胸を締め付けられる感覚に襲われた。


「会いたいな…」


無意識に零れた言葉は、桜吹雪と共に儚く窓の外へと消えていった。


-♡-


楠木雫16歳は大変遺憾ながら、この世の中に大きな不満を抱くようになっていた。

4ヶ月前のクリスマスイブ。入学当初から憧れていたサッカー部のエースで先輩の笹原ささはらに、雫はロマンチックな告白をされた。そして、冬から春へと交際を経て、抱かせてくれないという理由だけで一方的に別れを告げられてしまった。

交際中だろうとお構いなしに女を抱き散らかしていた笹原は先日HIVに感染している事が発覚。学校では彼に抱かれた女子たちが数名大騒動を起こしている。


そんな中で元カノだった雫は、無事貞操を守り抜いた事で、不安の種を植え込まれずに済んでいた。身持ちが硬い雫は何度も迫る笹原の男前な顔を叩いては引っ掻いて、そんな事を繰り返している内に「抱けねー女なんて意味ねーよ」と恋人関係を解消されてしまった。


嫌いだった訳ではない。むしろ好きだった。校内No.1の爽やかイケメンと謳われる笹原から選ばれた事が誇らしかった。釣り合うとは到底思えない自分を選んでくれた笹原に見合う女になろうと自分磨きにも励んだ。笹原を大切にしようと思った。ただ雫の中で性行為は現実味を帯びない未知の領域であり、何より彼とは正しい順序を踏んだ純情な性行為を望んでいた。

けれど彼は、順序も純情もかなぐり捨てた結果HIVに感染しており、現在は家から出てこない始末。当時の自分なら彼と困難を分け合いたいと思っただろう。同じ苦しみを味わいたいと思っただろう。けれど、その資格を雫は剥奪されているし、彼への感情も今では自分を捨てた理不尽な男というレッテルが何本もの釘で打ち付けられている。


男はこりごりだ。雫は笹原に心を開いてもらいたかったのに、笹原は雫に股を開いてもらいたかっただけなのだ。出会った当初は人の気持ちを尊重するとても紳士的な男だった。けれど化けの皮はすぐに剥がれ落ち、そんな嘘で塗り固められた男という生き物に対し、雫は潔癖になってしまっていた。

別れた途端雫の耳には多くの噂が流れ込んできた。学校の外ではナンパ三昧。好みの子には優しさを振り撒き、少しでも隙きを見せた子はその日の内にテイクアウト。校内No.1爽やかイケメンとして君臨していた彼の正体はとんだスケコマシ野郎だったのだ。



元カレのHIV騒動が冷めやらぬ学校で無事平穏に学園生活を送れているのは、幸か不幸か。

今日も雫はクラスメイトの白樺梨里しらかば りりと穏やかにお昼ご飯を食べている。


今日も母の作ってくれた茶色ベースなお弁当を口に運び、おふくろの味を味わいながら咀嚼する。冷凍食品のハンバーグも母がレンジでチンすればおふくろの味になるのだろう。


雫のお弁当とは対象的に、正面に座る梨里のお弁当は、今日も挑戦的で色彩に溢れたキャラクター弁当だ。どうやら梨里の母の趣味らしい。梨里も特に恥ずかしいと不満を抱いてるわけでもなく、満足そうに桜でんぶが振りかけられた米を大きく開いた口に運んでいた。ちなみに今日のキャラ弁はエースをねらえ!だ。


白樺梨里との出会いは入学式。雫の隣に座っており、校長先生のありがたい言葉をイビキ混じりの爆睡で受け流すという、初日から奔放過ぎるスタートを切っていた。

亜麻色の長い髪に、異国の血が混じっているような丹精な顔立ちで、入学早々1年生全体の注目の的だった。しかし、喋りだすと独特な感性とマイペースさで周りを困惑させ、しかも、お昼ご飯は昭和全開のキャラクター弁当を食べている。そのせいで梨里は不思議系美少女と、学園の有名人として名を馳せる事になってしまった。しかし雫にはその梨里の性格がゼンマイが噛み合うようにハマったようで、2年になった今でも共に行動する仲が続いている。


「梨里のキャラ弁って時代錯誤が凄いよね」


「ほう?ほのハニメほかほく匕ビングでなはれてうし、はたしがはい近の流行りにふといからもくはからないんはよね〜」

(そう?このアニメとかよくリビングで流れてるし、あたしが最近の流行りに疎いからよく分からないんだよね〜)←訳


飲み込んでから答えればいいのに、口の中が見えないよう手で口元を隠し、梨里はもごもごとした口調で可笑しそうに答える。

笑顔のとき、目元が三日月のような形になる梨里の表情が雫は同性ながらとても可愛らしいと感じていた。


「昨日はベルサイユのばら、一昨日はアタックNo.1。かなりチョイスが渋くない?」


「よく覚えてんね?確かに古そうなアニメがローテーションしてるよね〜。今どきこんな目キラキラしてないもん」


お弁当をゴクリと飲み込み呑気にそんな事を口にする梨里に、気にする所はそこなのか?と雫は苦笑する。

キャラの身体を箸で裂き口に運ぶ光景はとてもシュールで、けれどマイペースな梨里にはそんな時代錯誤のキャラ弁がとても似合っていた。


すると、梨里はふっと思い出したかのように箸を止め話題を変えてきた。


「そういえば成実なるみは陰性だったらしいよ〜」


梨里が何を言い出したのか雫が理解するまで10秒程かかり、はっ!と思い当たる。そして衝撃を受けた。


「え?成実も先輩に抱かれてたの?」


「みたいだね〜。発覚した時トイレでワンワン泣いてるの他の女子が慰めてたよ」

ワンワンと犬のモノマネを楽しそうにしながら梨里は話しているが、雫は開いた口が塞がらなくなっていた。HIVも雫との交際前か交際中か何処でもらってきたのか検討もつかない。


「んで、昨日学校休んで検査しに行ってたみたい。あっ、でも抱かれてるのかなり前らしいから雫の時期とは被ってないよ?ノープロノープロー」


ヘラヘラそんな風に言われても、雫からすると、そんな身近な女子ですら餌食にしてしまう節操なしと交際していた事実に鳥肌が立つ。笹原は現在高校3年生だが、風の噂によると、彼はその歳で既に100人の女を抱いていると耳にしている。今ので101人だ。本当か嘘かは関係なく、そんな噂が立つ時点で幻滅するし、別れるまでそんな噂を一切耳にしていなかった自分のアンテナの悪さにもゲンナリした。


深い溜息をついていると、開いていた窓から強めの風が吹き込んできた。校庭脇に並ぶ桜は残り僅かになりながらも風にゆらゆら揺られながら力強く咲いている。すると、目の前に座る少女の長い髪が風で乱され、前髪は視界を隠し、とても鬱陶しそうになっていた。しかし、そんな事気にするまいと言うように、目に掛かった髪を豪快に掻き上げ親指を立てる。


「春なんだぜ?命短し恋せよ乙女」


そう言い放ち、また梨里はお弁当に手を付ける。ドキっとした。かわいい。それが雫の脳裏に真っ先に浮かんだ言葉だった。



雫が笹原に恋心を抱いた日から、別れた日まで、梨里はずっと雫の相談相手になってくれていた。

笹原に別れを告げられた夜、雫はどうしようもなく溢れた悲しみの衝動から、無意識に梨里へと電話をかけていた。その日の夜は黒い空に黒い雨雲が覆い被さる、不安を掻き立てる夜だった。


『梨里…』


『こんな時間に珍しい。どったの?』


『うっ…うっ…わっ私、もゔいらないっで…抱げない女なんて意味ないって……うぁぁぁぁぁ』


『…………』


『何で何で…抱がぜであげながっだんだろおぅっうっ』


『…………』


『まだずきだよぉぉお。まだ一緒にいだがったよぉぉぉ』


『うん…』


梨里はうんうんと相槌をうちながら静かに雫の話を聞いてくれた。その「うん」という声は不思議と雫を安心させ、そして切なくもさせた。電話の向こうからは車の通り過ぎる音が聞こえる。梨里の声や呼吸も少し乱れている気がした。深夜12時を回っているというのに彼女は外にいるのかもしれない。


愛する人に捨てられたからなのか。自分がまた1人になってしまったからなのか。確かな理由など分からぬまま、とにかく涙が止まらなかった。涙を流す毎に、雫の笹原への思いは本物だった事を突きつけられる。


小刻みに何かが窓を叩く音が聞こえた。

窓の外では雨が降り出しており、水滴が伝い流れる窓に映る自分を見つめ、何て酷い顔だろうと落胆した。


電話を始めて30分程が経った頃、電話越しに息遣いの荒い声で『外に出てきて』と言われた。

電話で話していて、次第に彼女の息遣いが荒くなっている気はしていた。まさかと思いながら、雫はカーディガンを羽織り玄関へ向う。

ドアを開くと、そこには未だに電話で繋がっている梨里がびしょ濡れになりながら立っていた。電話越しの声と、直の声が『「来ちゃった」』と雫の耳をくすぐる。


その後、梨里は雫を無言で抱きしめ、雫の涙を肩でずっと受け止めてくれた。雨で濡れた肩に雫の涙が溶け込む。梨里は何かを言うわけではない。けれど雫にはそれで充分だった。それが堪らなく嬉しく、愛しく、次第に悲しみ以外の涙も溢れてきた。気持ちも落ち着きだし、雫は自分の肩を貸し続けてくれる少女の顔をチラッと覗き見る。そこには同じ高校生とは思えないぐらい穏やかで優しく微笑んだ梨里の顔があった。


あの日のことを思い出すと少しだけ恥ずかしくもあるが、雫にとって支えとなる夜にもなっていた。


先日の思い出に浸っていると、ふと梨里の髪に桃色の何かが付いている事に気が付いた。外から飛んできたのか梨里の髪にまるまる一輪の桜の花が乗っかっている。それを取ってあげようと反射的に体が動くが、すぐに理性がブレーキをかける。

その桜を取ってしまうのは勿体無い。まるで髪飾りのようで、髪に桜を飾った梨里は見惚れるほど綺麗だと雫は思った。

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